四、成り上がり太后 -珂栖遠-

廃嫡令裁判



 宮城では、玉座の間で御前会議が開かれていた。

 今上帝である順宗の後ろには垂簾が下がり、裏に皇帝の生母である珂太后が座している。皇帝が幼いため、簾政れんせいが敷かれていた。十一歳になる順宗は、退屈なのか玉座でうとうとし船を漕いでいる。順宗の一段下に丞相の珂道元が立って場を睥睨している。

 御前に向かって、左右に五つずつ椅子が並べられ十人の男が座していた。いずれも大黎の大貴族である有氏十家の当主である。

 現在は、西夷氏、鄭氏、劉氏、呂氏、元氏、頼氏、烈氏、藍氏、安氏、夏氏が御前会議に臨んでいる。この十の氏族は大黎建国の際に臣従した豪族や領土拡大に貢献した武将などを祖としており、公の次に位が高い「候」の称号を持っている。そのため十候じゅうこうとも呼ばれる。十家という数は決まっており、増えも減りもしないが氏族が入れ替わることがある。南黎を建国した高氏も元は有氏十家の一つだった。十候はいずれも高い官職に就き、各部門を統率していた。

 政は皇帝と十候の合議制であり、皇帝の意向が尊重されるもののその力は絶対とは言い難い。紛糾する議題は、最終的に十候による多数決で決まることも多い。

 皇帝を中心とした黎一族、大貴族で各氏族の長である有氏十家、中小貴族、科挙で選抜された官僚が加わるという政治構造が、大黎の統治をより複雑なものにしていた。

 有氏十家も特定の家が突出しているわけではなく、勢力は拮抗している。すべての家が代々の皇帝に一族の娘を嫁がせており姻戚関係にある。皇帝はこの有氏十家を統制し、絶妙な舵取りをして力の均衡を保つ必要があった。


 十候の後ろには、三人の書記官や他の高官らが控えている。書記官は会議の内容を速記してゆく。

 主要な議題を審議した後、西夷家の当主である西夷せい同羅どうらは、今思い出したとでもいう風にさりげなく口火を切った。

「ところで、呂法相。廃嫡令裁判はどうなりましたかな。 東遼公殿下らが提訴して、早十年近くになりますか。上法院でもそろそろ結審されるかと思っておりますが」

 法務長官である呂家の当主・りょてつは、丞相の道元の方をちらりと見ながら答えた。

「そうですな、結審は間近でございましょう。法官からは先帝が発令された廃嫡令状、その二度目の筆跡鑑定が終わったとの報告を受けております」

「……だそうですよ、珂丞相。いよいよ廃嫡令裁判も佳境。もし東遼公殿下らが勝訴されたあかつきには、貴家としてはどうされるおつもりか。もちろん幽閉している皇太子殿下は解放なさるのでしょうな」

 同羅は道元に向かって意地悪く笑った。

 他の候もつられたように忍び笑いを漏らした。道元はむうと唸り、顔を赤くしながら言った。

「西夷候……幽閉とは人聞きの悪い。当家としては先帝が廃嫡された元皇太子殿下を手厚く保護し、円華宮にて療養いただいている次第です。殿下に支給される皇族費もそのままですし、護衛も下僕も逐次充当しております。殿下は病篤いながらも、何の不足もない生活を送っておられます」

 そこで珂道元は救いを求めるように垂簾に振り返った。

「太后さま、そうでございますよね」

 垂簾の内から、珂太后のなめらかな声がした。

「ええ、私は正鵠の継母です。正鵠とは、鄭皇后さまが身罷られてから先帝陛下がお定めになった母子の縁。大事な息子を粗略に扱うわけがありません」

 同羅は垂簾の方を見やった。玉座で寝ている皇帝はただの傀儡で何の力もない。外祖父である珂道元も、丞相の位を得たとはいえ俗物である。だが、垂簾の向こう側にいるたおやかな影、珂太后はそうではない。栖遠すおん、彼女は……手強い。この十年で同羅は当初は侮っていた珂太后への評価を変えざるを得なかった。

 同羅は言った。

「先帝が廃嫡された、ねえ……。それが本当かどうかが肝要ですがね。いやはや、判決の日が楽しみですな」

 同羅は一堂に向かって、御前会議の解散を宣言した。十候らは眠りこけている皇帝に向かって礼をし、玉座の間を出ていった。


 十候らが退出すると、珂太后こと栖遠と順宗は奥の間へ移った。起こされた順宗は庭園に出て、女官らと無邪気に遊んでいる。

 部屋には栖遠、道元、道元の嫡子で栖遠の兄である状犀じょうせいのみとなった。状犀は丞相の副官で、三人いる丞相補の一人に任じられている。先ほどの御前会議にも臨んでいたが発言権はなかった。

 珂家の者だけになると、道元は声を荒げた。

「おのれ、十候めらが。わしは丞相だぞ。馬鹿にしおって」

 丞相は文官の最高位である。であるにも関わらず、十候が道元を敬うことはなかった。むしろ、影では成り上がり者めと嘲笑し、ないがしろにする。道元はそれが悔しくてたまらない。前任の劉丞相は、自身も含めた十候をうまくまとめあげていた。なぜ自分はうまくいかないのか。道元は理由をこう考えている。珂家が有氏十家ではなく、候の称号を持たないからだと。

「おまけに廃嫡令裁判のことを持ち出しおって。書記に記録されてしまうではないか」

 御前会議で話されたことは、書記官によってすべて記録される。都合の悪いことはもみ消すが、それには時間や手間、金がかかる。

 状犀も深刻な顔をして言った。

「父上、裁判の件は由々しき事態。判決が出る前になんとかした方がよいのでは」

「それよ」

 と道元は顔を凶悪に歪ませた。

 廃嫡令裁判は、東遼公・黎次徳れいじとくが同腹の弟二人と連名で提訴した前代未聞の皇統裁判である。

 東遼公は、黎家の主たる皇帝への忠義心あふれる人物で先帝の信頼も厚かった。彼は先帝が手塩にかけて育てた皇太子・正鵠を理由もなく廃嫡するはずがないことを知っていた。公は皇太子の暗殺未遂事件および先帝の崩御、新帝の即位を知ると、中央における珂家の専横を止めるべく動き出した。

 当初、東遼公は「皇太子に毒を持ったのは新太后であり、珂家は反逆罪で断罪されるべし」との主張を行った。正鵠とその妻である崔妃は、珂皇后から下賜されたと思われる茶を飲んで倒れたからである。崔妃は腹の子と共に亡くなり、正鵠は重体となった。ところが、現場の状況を調べるうちに、茶が原因であるとは言い難い部分が出てきた。

 現場で茶葉を毒見した御膳番はなんともなかった。崔夫人は、珂麗麗が崔妃の前で茶葉を食べてみせたこと、二人が茶を喫したときは何も問題がなかったことを証言した。毒は茶壺の内側に塗られたか、白湯に混入されたと思われたが、どちらも騒ぎの渦中で紛失した。

 明らかに珂家が毒を盛ったと思われるものの、決定的な証拠はなく、下手人もわからなかった。結局、東遼公は暗殺未遂で珂家を断罪することを諦め、廃嫡令を無効として正鵠こそが皇帝に即位するべきという主張に切り替えた。

 廃嫡令を偽物とする根拠はあった。

 まず、令状にある皇帝の筆跡が異なっていた。それまで皇帝が直筆で出した勅令は山ほどあり、筆跡の鑑定は容易だった。さらに廃嫡令状には皇位を証明する玉璽ぎょくじが押されていなかった。押印がないのは、正鵠が毒を盛られ重体となった時に、彼の師である燕学監ら文官五人がいち早く政変を察知して玉璽を持ち出し、東遼公がいる東部の都・開都かいとへ逃げたからだった。

 燕学監は逃げる際に、玉璽を作れる職人全員を連れてゆき、玉璽の製図も持ち出した。珂家は仕方なく新帝・順宗の即位後に新たな玉璽を作ったが、代々受け継がれてきた皇帝の玉璽を持たずに皇位の正統性を主張するのは難しかった。

 さらに、東遼公は提訴すると同時に宣言した。裁判に応じないのであれば、東北西の三公で兵を結集して都に攻めのぼると。

 東部、北部、西部には各十五万の地方軍が、都には約三十万の中央軍が常駐している。珂家からすると、東部だけを相手するならともかく、北部と西部の軍兵までが押し寄せてくるのは非常に困る。三正面作戦となったら、苦しい戦いになるのは火を見るより明らかだった。

 有氏十家は各家が数万の私兵を擁しているが、一連の騒動に兵は動かさず静観を決め込んだ。わずか一歳の赤子であった正鷲の即位は認めたが、珂家の味方とはならなかった。珂道元は裁判に応じざるを得なかった。


 廃嫡令裁判が始まった。皇太子の叔父たちが皇統を巡って提訴するというのも初めてなら、争う相手が新帝・順宗というのも初めてであり、法官たちは大いに悩み惑った。審議は難航した。

 双方にとって、裁判は時間稼ぎという面もあった。

 東遼公らも中央から珂家を排除したいのはやまやまだが、当の皇太子・正鵠は重体であり、長くは持たないだろうという見解があった。逆に生き延びて回復する可能性があるなら、できるだけ裁判を引き延ばして療養の時間を稼ぎたい。裁判が決裂して、中央と武力衝突するのであれば、それまでに兵力を増強しておきたかった。

 一方、正鵠に毒を盛った張本人である珂道元は考えた。重体の皇太子は逃げられないよう閉じ込めておき、弱って死ぬのを待てばいいと。正鵠が死亡すれば、皇后の子である正鷲の皇位継承は問題にならないし、東遼公らも異論は唱えられない。道元は幽閉した正鵠の死をひたすら願った。

 しかし、正鵠は死ななかった。円華宮へ移したときは寝たきりだったにも関わらず、細々と命脈を保ち続けた。意識を戻し、毒の後遺症で不自由な身体になっても、一年、二年としぶとく生き続けた。業を煮やした珂家は、再び彼の暗殺を企んだ。毒を盛ったり、刺客を送ったりしたがいずれも失敗した。

 大黎の裁判制度は一院制で、民間はほぼ即決裁判である。一日から数日で判決が出て、即時刑が執行される。ただし原告・被告が貴人、士大夫以上になる場合は、上法院、下法院の二院制となる。下法院で判決が出ても、不服なら上法院へ上告することができる。

 新帝(珂家)は、四年前に下法院で敗訴した。先帝が出した廃嫡令は無効と判断されたのである。廃嫡令が出る前に差し戻されたわけだから、先帝亡き今、皇太子の正鵠が皇帝になる権利を有している。道元は手を尽くして上告したものの、上法院で敗訴したらもう後がなかった。

 正鵠が円華宮から出てきて皇帝に即位すれば、自身に毒を盛り、妃と腹の子を殺めた珂家を許しはしない。珂家は間違いなく族滅の道を辿る。

 道元は苦しそうに息を吐いた。

「なんとかして裁判には勝たなくてはならない。景叙はどうした。あれを円華宮へ向かわせたのだろう?」

「それが……向かったことは確かですし、円華宮からも出たようなのですが、こちらに戻ってこないのです」

「なんだと」

「もしや皇太子の手形を取り損ねて、遁走したのやもしれません」

「おのれ、どいつもこいつも役に立たん。こうなってはやはり早急に皇太子を弑し奉るしか……」

 そこで父と兄の会話を聞いていた栖遠が口を開いた。

「お父さまもお兄さまも心配はご無用です。正鵠は精神薄弱と痴呆が進んで今や生ける屍。たとえ我らが裁判に負け、正鵠が勝訴したとしても廃人に皇帝は務まりません。仮に即位できたとしても、政務不可能として正鷲に譲位させればいいだけのことです」

 道元は即座に反論した。

「そんなにうまくいくものか。皇太子の後見になるであろう東遼公は、我らを目の敵にしておる。勝訴すればここぞとばかりに潰しにくるだろう。わしは恐ろしいのだ。あれが、皇太子が生きていると思うだけで、枕を高くして眠れん。ここは後顧の憂いなく殺しておいた方がよい」

 栖遠は道元を横目で見、嫣然と微笑んだ。

「お父さまは何事も流血で解決しようとなさる。殺生ばかりに走られては、いずれ仏罰がくだりますよ」

「族滅よりはましだ。政争に敗れた者の末路は知っておろう。わしもお前も陛下も殺されるのだぞ」

「そんなことにはなりません。私が命を賭してお父さまと珂家をお守りいたします。……娘ですもの、当然の務めです」

 栖遠は道元の目をじっと見つめた。天女のような神々しさを放ち、花がこぼれるがごときの微笑を浮かべている。陶酔を越えて、いっそ畏怖すら抱かせる圧倒的な美貌である。

 道元は息を呑んだ。彼はこれまで、金にあかせて散々女色を貪ってきた。屋敷に多くの妻妾を囲い、若く美しい婢が入るたびに当然の権利として手をつけている。それでも満足はできなかった。もっともっと美しい女が欲しかったし、我がものにしたかった。一人でも多くの女を侍らせて交わることが、男に生まれた最上の役得であると信じている。

 と同時に、彼は達観もしていた。およそこの世に栖遠ほど美しい女はいないだろうと。栖遠は女として完璧である。傾国の美女と謳われた殷の妲己、西周の褒姒、唐の楊貴妃でさえもこれには適うまいと思った。

 道元は打ち震えるほどに娘に見惚れた。そして、にんまりと好色な笑みを浮かべた。

「ああ、太后さま……あなたさまはなんと親孝行な娘であることか。かくなる上は、皇太子に関するもっと内密のご相談がしたく。ここは奥で、父娘膝を突き合わせて語り合いましょうぞ」

 道元は栖遠の手をとった。栖遠は微笑を絶やさないまま、無礼にならぬようするりと手を抜いた。

「嫌ですわ、お父さま。こんな年増と何を語らうことがありましょう。どうぞ私なぞは捨て置いて、若い妾にお構いくださいな」

 栖遠は優雅に立ち上がった。父と兄に礼を尽くすと、部屋を出た。廊下に控えていた女官たちがしずしずとつき従う。

 歩きながら彼女は思った。何年経っても、父からの秋波は気色が悪く嫌気がさす。まったくもって汚らわしい。早く手を洗ってしまいたい、と。


 栖遠は後宮へ戻った。探せば人が見つかるという程度で閑散としている。

 先帝の死後、太后となった栖遠は主を失った女の園を解散することにした。嬪以上の上位の妃や先帝の子を一人でも産んだ女官はさすがに無理だが、その他の妃や下位の女官たちには暇乞いをする権利を与えた。後宮のみならず宮城を出て、第二の人生を送ることを許した。

 女たちの中には先帝に貞節を誓って出家する者もいたが、大半は宮城を出て実家に戻った。結婚した者も多いようである。そのため後宮に侍る女官の数は大幅に減った。

 女官が減った分、経費が浮いて国庫の支出は減った。後宮の各部屋が空くと、栖遠はここを自身が押し進める政策のために活用し始めた。

 側近の珂叡文が恭しく出迎えた。叡文は珂家の出身であり、若いが目端がきく。栖遠はこれを特に取り立てて太監としたのだった。

 栖遠は人を払うと、叡文を傍に呼んで尋ねた。

「太監、お前は先日、南の円庭に散歩に出たな。かの地の白鳥はいかがであった」

 叡文は神妙な面持ちで答えた。

「白鳥でございますか。実は短い時間ではございましたが拝謁が叶いました。今もかの鳥の翼は傷ついており、鳴き声も聞こえませんでしたが……意識は至って正常とお見受けしました」

 叡文はさらに栖遠に近づくと、耳元に囁いた。

「進膳房の皿数は多くございました。どうやら華餐も召し上がれるようです」

「そうか、食べられるのか」

 栖遠は無表情ながら、感慨深げに呟いた。

「円庭に運び込まれる食材もつつがなく消費されているようです。中の者が横領して食べている可能性もありますが、どうやら御膳房も機能している様子」

「わかった。とはいえ、あれが重篤であることには変わりない。お前はたまたま、あれの調子が格別によいときを目撃しただけであろう。あれは死に体だ。よいな」

「承知いたしました」

 叡文は頭を下げ拱手した。少しして、思い出したように顔を上げた。

「太后さま。他に気になることも」

「なんだ」

「状犀さまが円庭に送り込んだ影のことですが、この状況です。近いうちに動き出すやもしれません」

「影の素性はわかっておるのか」

「はい、外の家族を質にとりましょうか」

「内の宦官は動かせるな?」

「もちろんでございます」

 栖遠は膝の上で手を組んだ。

 ここは悩ましいところだが、父たちも切羽詰まって焦っている。ことが起きる前に先手を打った方がいいだろう。しばし逡巡したあと、彼女は厳かに言った。

「質に取ったうえで、内で釘を刺せ」

「御意」

 叡文は再度拱手すると、さっと衣を翻して部屋を出ていった。

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