同衾と疑似兄と
月の終わりのことである。
早餐が終わると蘭児は隆善に呼ばれた。隆善は卓の上に布袋を幾つか置くと言った。
「月末だから給料をやるよ。寧に聞いたら、お前にもくれてやれという話だった」
「給料?」
蘭児は当初、聞き間違いではないかと思った。丁は給金をもらえない……というのは言えないにしても、衣食住が十分に与えられているのに、さらに給料までもらえるとは思わなかった。命の保障はないにしても、信じられない高待遇である。なんなんだここは。やはり天国なのか。
「つっても現物支給で今月は古米だ。宮にいる人間全員でも食べきれねえ食材は、月の終わりに全部分配している。捨てるわけにはいかねえし、畑の肥料にするのは勿体なすぎるからな」
隆善は、ほいっと袋を渡した。蘭児は小分けにされた升十杯分の米をもらった。思わずぎゅっと袋を握りしめる。嬉しかった。生まれて初めてもらった給料である。働いて報酬が貰えるなんて。女の自分が、男と同等の給料を貰えるなんてこれ以上の喜びがあるだろうか。
しかし、米である。村にいた頃なら狂喜乱舞して大事に少しずつ食べただろうが、今の彼女にとってはいささか持て余すものだった。
御膳番であるゆえに、毎日皇太子と同じものを食べているし、飲んでいる。どれも至高の味だ。余った御膳も賄いでたっぷり食べられるのに、御膳房には常に麦の饅頭、野菜のくずや火腿の切れ端、古くなった調味料を入れて作った
蘭児も仕事の合間に、おやつとして塩の効いた乾酪や干し葡萄や胡桃などをつまんだ。今は完全に空腹とは無縁の生活である。この恵まれきった状況で米をもらっても、あえて炊いて食べようとは思わない。
どうしたものかと思い、素直に隆善に聞いた。
「ありがとう、でもこれ……どうしたらいいんだろう」
「金に換えればいいだろうが。金は持っていた方がいいぜ。ここでも何かと必要だからな」
「どうやって換金するの?」
「裏門だ。搬入出のために毎朝門が開くだろ。外には小銭を稼ぎたい貧民が山ほどいる。兵士たちの休憩や交代時間を狙って、門越しにやつらを使って金に換えるんだよ」
円華宮は毎日、上九ツ刻になると御膳房に近い西側の裏門が開く。兵士たちの合図で鉄門が開くと、雑役夫たちが宮内で出たごみを乗せた荷車を門の傍まで引いていく。門の外には廃棄物の処理人たちが待機していて、荷車ごとごみを受け取る。
門前には、みすぼらしい身なりをした都の貧民や物乞いが大勢詰めかけている。彼らは出てきた荷車にわっと群がる。ごみの中から残飯や布切れ、売れそうながらくたなどを漁って持っていくのだ。都の人々は円華宮が廃嫡殿下と呼ばれる皇太子の住まう場所であること、中は高価な食材や物品であふれていることを知っている。ごみであってもおこぼれに預かろうとする。
処理人たちが大声で怒鳴り、貧民を殴りつける。大人たちが争う間に、子供たちが車上のごみを引っ掴んで掠めていく。毎日繰り広げられる騒動は、宮に住まう者たちにもよく聞こえた。
隆善は言った。
「お前、宮の外に知り合いはいないのか」
「いないこともないけど」
蘭児は雷の顔を思い浮かべた。彼はまだ都にいるのだろうか。
「貧民に米を渡したらかっぱらわれる。信用できるやつを呼んできてもらって、そいつに託した方が確実だ」
「なるほど」
蘭児はなぜ裏門の近くに貧民や物乞いがたむろしているのか理解した。彼らはごみ回収のついでに、宮の中の人間の用事を請け負って生活しているのだ。
「兵士にも金を握らせりゃ、見て見ぬふりをしてくれる。門は開かないが、独り言に関しては放置してくれる」
「独り言? なんで?」
と問うと隆善はにやりと笑った。
「お前が門の傍にいってたまたま独り言を言う。外をたまたま通りがかった、どっかの知らないやつも独り言を言う。塀を挟んで、お互い勝手に独り言を言っている分には問題ねえって寸法さ。兵士の交代時間は上八ツ刻、下五ツ刻から半刻半だ」
そういう抜け道があるのかと蘭児は感心した。
その日の夕方、下五ツ刻になると、蘭児は裏門へ行った。兵士たちが交代でいなくなると、茂みに隠れるようにして進み、分厚い鉄門に近づいた。
門の隙間を覗くと、外にぼろをまとった子供たちが数人見えた。蘭児は軽く手招きした。薄汚れた七、八歳くらいの少年がさっと寄ってきた。蘭児は声を顰めて尋ねた。
「頼みがあるんだけど。あんたの名前は?」
「ない。コレとかソレとか呼ばれている」
少年は無邪気に答えた。蘭児は考えた。コレやソレでは他の子供たちと区別できない。
「じゃあ、
「世甫、雷だね。うん、わかったよ。姉ちゃん」
蘭児はちょっとびっくりしながら、間違いをただした。
「私は男だよ。呼ぶなら兄ちゃん」
「うん、兄ちゃん」
小蘭は頷くと、早速駆けだしていった。蘭児は少し不安になった。先入観のない子供からすると、自分は男のなりをしていても女に見えるらしい。
翌日の同時刻に蘭児は米の袋を持って、門の傍に近づいた。隙間から小蘭の姿が見えた。
彼は近くの小路に潜んでいたらしき雷を連れてきた。蘭児は小蘭に、竹の皮で包んだ一握り分の米を渡した。
雷は辺りを見回すと塀に背中を預けるようにして座った。声を顰めて言った。
「蘭児、良かった。無事だったんだな。どうなったか心配していた」
「私も。またおじさんに会えて良かった」
「お前が李家の若さまに買われたと聞いて、李家のお屋敷に行ったんだよ。使用人に聞いたら、なぜか廃嫡殿下が住まう円華宮に入ったまま戻ってきてないと言われてな。ここは女人禁制だろ。大丈夫なのか」
「うん、色々あって今はここで男として暮らしている。今のところはバレてない……と思う」
「ならいいんだが、気をつけろよ」
雷は懐を探った。
「お前に渡すもんがある。李家の若さまがお前を買っただろ。俺は組合に依頼されて、お前の家に代金を届けに行ったんだ。お前の親父は、確かに銀貨二百八十枚を受け取った。これが領収書だ」
雷は細く折った紙を、門の隙間から差し入れた。丁妓は国の専売で役所仕事であるため、金銭の授受や管理はしっかりしている。蘭児は紙を開いた。寧から字を習い始めたが、内容はまだよくわからなかった。
紙の最後には薄墨で父の手形が押してあった。父は字が書けず署名ができない。だから手形で代用している。蘭児は安堵した。これで家族にはまとまった現金が入り、冬を越すことができる。幼い弟妹も飢えずにすむ。自分は売られた甲斐があった。
「お前の家族にも丁のことは説明したんだがな、よくわかってないようだった。とりあえず女郎になったわけじゃないことは力説しておいた」
「ありがとう」
蘭児は雷の配慮に感謝した。女郎にならずに済んだのだから、家の恥とはならない。もし丁の年季が明けたら村に帰れるのかもしれない。
「李家の若さまは、なんでかお前の代金を全額支払っちまったらしいな。言ったろ、組合に払うのは手数料とお前の代金の半分だけでいいんだよ。残りの半分はお前に直接支払われるんだから。世甫が呆れていたぜ。若さまはどんだけ世間知らずなんだってな」
「きっと今まで丁なんて関わったこともなければ、見たこともなかったんだよ。この宮の人たちは、旦那さまのことを李公子って呼んでいるもの」
「公子? 皇族じゃねえか。とんでもねえな。そりゃ廃嫡殿下の宮にも出入りできるわけだ」
蘭児は本来の用を思い出した。門の隙間に米の袋を押し込むようにして雷に渡した。
「お願いがあるの。これを売って換金して欲しい。一割はおじさんの取り分にしていいから」
「それは構わねえが、米じゃねえか。お前こんなものどうしたんだ。まさか盗んだんじゃないよな」
「そんなことしたら打ち首だよ。給料でもらったの。ここでは、ご飯は三食食べられておやつもあるから米は必要ない。でもお金は持っていた方がいいみたい」
「三食あっておやつに給料まで貰えるのか。さすが皇族が住まうところは違うな。俺も働きたいくらいだ」
「うん……毎日ご飯がお腹いっぱい食べられて本当に幸せ。殴られたりもしないし」
それに加えて、今の蘭児にはほのかなときめきもあった。
雷には言えないが、この宮の主のことである。内院で正鵠を見かけるたびに、どこへ行くのか何をしているのかと思う。食事の給仕をするたびに、彼の反応が気にかかる。こちらからは何も言いだせないが、彼が穏やかに、そして凛然と暮らしているとそれだけで喜びを感じる。
うっすらと頬を染めた蘭児を見て雷は言った。
「なんというか……お前、変わったな。垢ぬけたっていうか」
「そう?」
「いい職場に勤めて、身綺麗にしているからっていうのもあるだろうが」
雷は内心感嘆すらしていた。久しぶりに会った蘭児が、これほどにきれいな女であったとは思わなかった。
最初に会った時は、父親に殴られて腫れたひどい顔をしていた。あまりに痛々しくて、ろくに目も合わせなかったのだが……今の彼女は違う。驚くほどに血色がよくなり、白い肌にも
鳶色の瞳は清らに美しく、どこか抑制された憂いを含んでほのかな色香がある。もちろんそんな気はないし口にも出さないが、今の蘭児が妓になったらかなりの値がついたのではないだろうか。
もしや傷が治りきらないうちから、李子鳴は蘭児が持つ美質を見抜いたのだろうか。見抜いたからこそ、彼女を買ったのか。雷は唸るように言った。
「いや、なんつうか……李家の若さまはすごいな。審美眼があるというか」
蘭児は周囲を見渡した。そろそろ兵士たちが戻ってくるかもしれない。
「おじさんはどこに連絡すれば会える?」
「市場の人身貨物運送組合だ。俺も組合に入ったんだよ。安くない手数料を取られるが、仕事にはあぶれない。大抵は都にいるから、そこに人を寄こせばいい。呼ばれたらここへ来る。物や金もその時に受け渡す」
「わかった。また連絡する」
蘭児はそろそろと立ち上がった。雷は信用できる。これで外部と連絡がとれるし、金や宮の外の物品も手に入る。
蘭児の清廉な美に気がついたのは、李子鳴や雷だけではなかった。当然宮の中にいる人間も、彼女の容姿には注目していた。予期せぬ災いが忍び寄ってきた。
夜、蘭児は北の住居房でまどろんでいた。
夜更けにギイと扉が開く音がした。寧が戻ってきたのだろうと彼女は思った。卓上の灯りはついたままで、部屋は薄明るい。
「兄さん?」
寧を呼び、寝返りを打った。戸口の方を見た瞬間、彼女は口を塞がれた。何者かが圧し掛かってくる。寧ではない男だった。蘭児は無我夢中で叫んだ。
しかし、声にならない。蘭児は足をばたつかせた。掛け布団を蹴った。
「へへ、おとなしくしてろ」
圧し掛かってきたのは把田だった。把田が蘭児を押さえつけ、その身体をまさぐろうとしている。
「……っ!」
恐怖が躍った。蘭児は必死に彼を押しのけようとした。両手で何度も彼の腹や背中を打ったが、びくともしない。
把田は左手で蘭児の口を塞ぎながら、右手で襟元をくつろげようとした。武骨な手が蘭児の鎖骨に触れ、下に降りようとする。蘭児はうんうん唸りながら、全力でもがいた。
「やめておけ」
不意によく知った声がした。
把田がびくっとし、手を離した。戸口に寧が立っていた。
「兄さん」
蘭児は叫んだ。
飛び起きて把田を押しのけると、寝台から転げるように降りた。寧の傍へ逃げると彼の背後に隠れた。
把田は寧を見ると薄笑いを浮かべた。
「寧、いいだろ? 弟をちょっと貸してくれよ。朝までには返す」
「やめておけ」
と寧は再度言った。氷のように冷たい声だった。
「こいつは李公子の想い者だ」
「え……」
把田の顔に恐怖が浮かんだ。蘭児もぎょっとした。寧は真面目な顔をしたまま腕を組んだ。
「あの方の気性は知っているだろう。こいつに手を出したらどうなるかわからんぞ。首を刎ねられるか、殴り殺されるか。あるいは男根を切られて、南の雑居房へ放り込まれるかもしれんな」
把田は明らかに動揺し、目を泳がせた。
「そんな……おかしいだろ。こいつが李家の御曹司のものなら、なんでここにいるんだよ」
「さあな。痴情のもつれかなんかだろう。とにかく、李公子は弟にまだご執心だし、いつでも会いに来ることができる。だからやめておけ」
把田は悔しそうに顔を歪めた。寧の後ろにいる蘭児を睨みながら、部屋を出ていった。
寧は何事もなかったように部屋に入った。
蘭児も続いて入り、戸をしっかり閉めた。心臓がバクバク脈打っている。動悸、息切れもする。著しい恐怖と混乱の渦中にあった。男として生きているのに、男に襲われるとは思わなかった。男と偽っても無事でいられないなら、一体どうしたらいいのだろう。
棒のように立ち尽くす蘭児を見て、寧は言った。
「さっきのは出まかせだ。お前が李公子の寵童だなんて思っちゃいない。そういうことにしておけば、安全だと思っただけだ。あの方の破天荒ぶりは有名だからな。うまく利用すれば抑止力になる」
「うん、でもまさか男に襲われるとは思わなかった」
蘭児は本音を吐露した。
「女がいないんだから仕方がない。若いやつ、見目のいいやつ、身分の低いやつが狙われる。使えるものはなんでも使うさ。俺はまっぴらごめんだが」
寧の声には、性的搾取へのあからさまな嫌悪があった。
「ただ、そういう衝動はわからんでもない。溜まるとどうにも辛い。そういう作りだからな」
と擁護するようなことも言った。蘭児には、男の生理が理解できない。まだ身体の震えが止まらない。寧が助けてくれなかったらと思うとゾッとする。
寧は着替えを取りにきただけだった。衣類を持つとそのまま内院に戻ろうとした。
蘭児は慌てた。今ここで一人になるのは嫌だった。
寧がいなくなったのを見計らって、また把田が戻ってきたらどうするのか。なんとか引き留めようと呼びかけた。
「兄さん、行かないで」
「どうした」
寧が振り向いた。
「今夜はここにいて。一緒に寝て欲しい」
蘭児は自分に言い聞かせた。寧は大丈夫だ。信用できる。寧は蘭児が雑役夫以下の丁であることを知っている。さらに自分の部屋に住まわせている。その気があればとっくにどうにかできたし、蘭児に抗うすべはなかった。
「今は誰かと一緒にいたい」
「それは構わんが……」
寧もひどく怯えている蘭児に気づいた。
蘭児は寝台に戻ると、布団の中に潜り込んだ。寧は服を脱ぐと、肌着一枚に着替えた。寝床に入ってくる。二人で並んで横になると自然と肩から下が密着した。
「狭いな」
天井を見ながら寧がぼやいた。
「……ごめん」
そのまま二人は無言でいたが、しばらくすると寧が言った。
「お前は寝る時までそんなに着込んで疲れないのか」
「うん、寒いから」
と蘭児は答えた。それは本当である。女であることを隠すために昼も夜も関係なく重ね着しているが、単純に寒さをしのぐためでもあった。極度の寒がりなのである。
蘭児は寧と密着して気づいた。男の体温は、女のそれよりも高いことを。寧は温かかった。だから肌着一枚でも眠れるのだ。
村で暮らしていた時、蘭児は毎晩双子の弟妹と同じ布団で寝ていた。二人を両脇に置いて眠ったが、弟の方が温かかっただろうかと思った。今は血の繋がらない兄と一緒に寝ている。兄だからこんなにも温かいのだろうか。
寧が尋ねた。
「そんなに恐ろしかったのか」
「うん」
襲われる恐怖は、男には到底理解できまいと思った。
寧が蘭児の右手を握った。手のひらも温かかった。
「お前は近侍だ。少なくとも下の身分のやつらにどうこうされることはない。そのための階級であり秩序だ」
「うん」
「それでも困ったら俺を呼べ。始末して埋めておく」
「……うん」
蘭児はじんわりと伝わってくる熱にホッとした。手を握り返した。
「安心しろ」
と寧は言った。蘭児は安心した。
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