珂家襲来
蘭児が円華宮で暮らし始めて数日が経過した。彼女は、毎日粛々と御膳番としての務めを果たした。食事時以外に内院に入ることは許されなかった。内院に常駐、もしくは自由に出入りできるのは寧と段先生だけだった。この二人は、殿下が円華宮に移った時から仕える古参だった。
五日目以降になると、進膳時に寧が侍ることはなくなった。蘭児一人で大丈夫と判断したようだった。
進膳を繰り返すうちに、蘭児は料理人たちが殿下を敬愛する理由がわかった。殿下は、華餐で出てくる料理にはすべて口をつける。蘭児が小皿にとったものを実にきれいに食べる。料理人にとって、一生懸命作った料理が手つかずで戻ってくることほどがっかりすることはない。少量であっても、作ったものを必ず食べてくれるというのは大いに励みになるらしかった。
蘭児は給仕をしながら、注意深く殿下の表情を見守った。いつも無表情、無感動な面持ちだが、必ず時間通りに進膳房へ来るし、出てくるものに好悪は見せず、ひと皿ひと皿に向き合って味わって食べている。皇太子なのだから食べものに好き嫌いがあってもいいし、好きなところに運ばせて食べてもいいと思うのだが、一切そういう素振りは見せない。しきたりを遵守する。勝手をして使用人たちを振り回さない。蘭児は、殿下は至って真面目で誠実な人だと思った。声が出せないからこそ、彼の凛然とした所作は際立った。
食事以外の生活も非常に規則正しかった。夜明けと共に起きる。身支度を終えると進膳房で早餐をとり薬湯を飲む。朝食後に段先生の診察を受ける。午後に入ると、進膳房で午餐をとり薬湯を飲む。その後は一刻ほど昼寝をする。夜は居室で間食を少しつまみ、薬湯を飲む。風呂に入る。昼寝も風呂も殿下の健康促進のため、つまり治療の一環だった。殿下は時々右半身が痺れ、手足が思うように動かせなくなることがあった。その時は段先生が呼ばれて入念に按摩した。下十ツ刻(午後十時)頃には寝所に入って就寝する。この繰り返しである。
蘭児は、食事時以外は大抵御膳房で過ごした。いつ殿下が飲食を所望しても動けるように待機した。自然と料理人たちと話すことが増えた。彼らと話すうちに、蘭児にもこの宮の運営の仕組みや人員構成がわかってきた。
円華宮には皇太子、その身の回りの世話をする近侍、料理人、医師の他に日常の雑務を行う雑役夫が数十人いる。もちろん全員が男である。
雑役夫はその多くが老人で、紺色の麻の制服を着ている。顔は柔和でのっぺりしている者が多く、髭はなく、妙に声が高かった。彼らの業務は近侍以上に細分化されていた。水汲み、風呂焚き、各部屋の火ともし、物品や食事の運搬、内院以外の部屋の掃除、洗濯、ごみ回収、厠の糞尿の汲み取りなどありとあらゆる雑用をこなした。
護衛という名目で邸内に兵士がいるが、宮城から派遣された者で、珂太后および太后の実家である珂家の私兵だった。彼らは殿下を守るためではなく、幽閉し続けるための見張りだった。常に邸内を巡回して回り、円華宮から逃げ出そうとする者がいれば容赦なく斬り捨てた。
宮に住まう者向けの理髪師や仕立師、靴や家具などを作る職人、庭園を管理する庭師や鯉師などの専門職もいた。彼らはなんらかの罪を犯した罪人で、入牢する代わりに宮に送られてくる。庭師や鯉師などは寧の立ち合いのもと、決められた日時に内院に入って樹木や池の手入れをした。雑役夫と罪人は、南の正門近くの雑居房で寝起きしており宮殿に通ってくる。もしくは宮殿外の作業場で仕事をしている。
蘭児は当初、御膳房で皿洗いをしようとした。御膳番の手が空いた時は、水仕事をするものと思ったのである。ところが、隆善に「お前の仕事じゃねえ」とこっぴどく叱られた。調理補助も申し出たが断られた。それは料理人の仕事であって、近侍がやることではなかった。
御膳房の水汲みや皿洗いなどの水回り、食器の管理は雑役夫が行う。
朝から晩までよく出入りしているが、寧は蘭児に「雑役夫とは関わらず口も利いてはいけない」と釘をさした。寧は用事がなければ、料理人たちとも口を利かない。
料理人たちも雑役夫とは口を利かない。いてもいなくても気にせず、空気か何かのような扱いだった。宮の中にも明確な階級があり、住み分けが徹底されていた。同じ階級の者以外とは基本的には関わらずに暮らしている。
蘭児は、宮の内情を知れば知るほど近侍になれた幸運を噛みしめた。寧の部屋を使っているため、夜は一人で眠ることができる。これが雑居の大部屋だったら、あっという間に女だとバレてしまっただろう。丁は、雑役夫よりもさらに下の身分だ。もし丁であることが知られたらタダでは済まないだろうし、隆善たちは蘭児に騙されたと思うだろう。
ある日の朝、鍋の味見をしながら隆善が言った。
「ありゃ宦官なんだ。タマをとったタマなし野郎さ」
雑役夫のことである。
「そうなんだ」
と蘭児は小壺に調味料を詰めながら答えた。世の中には刑罰だか仕事だかで去勢される男がいるとは知っていたが、辺境の村に暮らしていて宦官に会うことはまずない。宮に入って、初めて遭遇した人種だった。
「皇帝陛下の後宮で働く雑用係だ。天子さまに気に入られりゃ富豪になるのも夢じゃねえらしいが、大半は年をくったらクビになって追い出されちまう。金や身寄りがなきゃ野垂れ死にさ。そういうどうにもならねえやつらがここに送り込まれてくる。大抵は後宮でやっていた仕事と同じことをしているな。器番なんかは、器の用途や価値がわからなきゃできないしな」
隣で大蒜を刻みながら迅が笑った。
「働けなくて死に体のやつもいるよな。病気持ちは段先生が診てやっているが。ったく、ここはでかい寺だか慈善院みたいなもんだよ。役立たずでも置いてくださる殿下の慈悲深さは菩薩さま並みだ。仕える俺たちは髪のある坊主だ」
「肉も魚も食えるし酒も飲める生臭坊主だな」
とさらに平が相槌を打った。
「つったって、俺らだってあいつらとたいして変わりはねえんだけどよ」
と隆善は自嘲気味に笑った。
料理人の身分も低かった。毎日食事を作っているにも関わらず、彼らは一度も皇族への拝謁を許されなかった。円華宮の料理人たちの中で、殿下を直接見たことがあるのは隆善だけである。それも、在りし日に宮城内を進む皇太子の行列を何度か拝んだだけである。
御膳房の料理人は、その殆どが世襲だった。その家独自の調理法や秘伝を持ち、大黎皇家に代々仕えてきた。隆善の祖父は皇太子の祖父にあたる光憲帝に仕えた。祖父は大黎各地から食材を集め様々な料理を考案し、皇帝の舌を大いに楽しませた。光憲帝は大変な美食家で、希少な食材や調理法にも個人的に興味を持っていたらしい。一度だけ妃を伴って、御膳房に足を運んだことがあった。そこで祖父は皇帝に拝謁する栄誉を賜った。
隆善は十歳で皇帝の御膳房へ見習いとして入った。研鑽を積み、十二年後に皇太子の御膳房へ異動した。毎日懸命に料理を作り、腕を磨いた。九年後に皇太子が廃嫡され御膳房が解散になった時、腕が良かった彼は新帝の御膳房へ行くこともできた。民間へ出て、自分の店を開く手もあった。しかし彼は皇太子への厚い忠誠心から、自ら志願して円華宮に入ったのだった。妻子がいたが宮から出られない以上、家族を捨てる形になった。まさに頭を丸めない出家である。
御膳房に三十年以上勤め、皇太子に仕える者の中では最古参だった。なので、誰にでも気安い口を叩く。寧も彼をないがしろにはできなかった。
「じいさんがよお、午餐の盛りつけをしていたら、先々帝陛下とお妃の安基公主さまが御膳房に入ってこられてよう。じいさんは皇帝陛下のご威容に目が潰れそうになった。慌てて平伏したが、直々にご下問までいただいてよう……安基公主さまはじいさんの作った点心をお褒めくださった。料理人冥利に尽きるつうのはこのことだ。じいさんはもう死んでもいいと思ったらしい」
隆善はまるで自分が体験したかのように感激に打ち震えながら、祖父が受けた名誉を滔々と語った。
迅と平は、またかという風に目配せしあっている。隆善の自慢話は耳にタコができるほど聞かされて、もう飽き飽きしているのだった。
隆善の話は適当に聞き流しながら、迅は不思議そうに言った。
「蘭児、お前は殿下にお目見えできる身分なのに、俺たちとも話をするよな。兄貴とはずいぶん違う」
「そうかな」
蘭児は曖昧に笑った。
「こいつの母親は婢で、こいつも都の貧民窟で育ったらしいぞ」
と平が言った。蘭児の素性については、宮内にも噂が広まっていた。寧が考えた嘘の設定に、勝手に尾ひれがついていた。
御膳番以外の手伝いは断られたため、暇な時間ができた。特に殿下が午睡に入る時間帯は何もすることがない。そうすると段先生に呼ばれた。
午睡の時間は段先生にとっては休憩時間であったが、先生は休むことなく雑役夫らが住まう南の雑居房に往診にいっていた。そこにいる病人らを診察し、治療していた。本来は殿下だけを診ていればいいはずなのに、先生は円華宮に住まう者全員の医師をしていた。金や礼品は受け取らない。完全に慈善事業である。
薬が足りないので、畑で大葉、赤紫蘇、丁香(グローブ)、花椒(山椒)、鬱金、生姜、大蒜などを栽培していた。食用ではなく、往診時に処方する漢方薬を作るためのものである。畑で採れる薬草を煎じて、雑居房に住まう病人たちに飲ませていた。
ある日、段先生は言った。
「殿下ほど、医者にとってよい患者はおらん。普通は病気が長引けば長引くほど、不安や恐怖から医者を責めたり暴れたりするもんじゃが、殿下は毛ほどもその素振りがない。実に根気よく、医者の指示どおりの生活を送ってくださる」
蘭児は鉢に乾燥させた薬草を入れて、すりこぎ棒で擦っていた。手を動かしながら言った。
「私も殿下はご病気と聞いて、もっと重いものを想像していました。てっきり普段は寝たきりで、食事は口まで運んで食べさせて、下の世話もするものと」
実際に見る殿下は声こそ出せないものの、意識は至って明瞭である。夜と午睡の時間以外は起きているようだし、杖を使って一人で移動もする。食事も自分で食べる。病気ではあるのだろうが、全然手がかからなさそう……というのが正直な感想だった。
「以前はそうじゃったよ。毒を盛られてからしばらくは生死の境を彷徨ったし、半年ほどは寝たきりじゃった。高熱や痙攣が続いて、正直わしももうだめかと思うたこともある。じゃが、あの方は驚異的な精神力をお持ちでの。実に根気よく治療を続け、努力して自力で歩けるまでに回復したのじゃ。元々お身体は頑健であったし、若かったのも功を奏した」
「では治療を続ければ、殿下のお身体はもっとよくなりますか。いずれは杖を使わずに歩けるようになりますか」
蘭児は期待したが、段先生は残念そうに首を振った。
「いや、無理じゃろう。人体というのは、基本的に一度壊された組織は二度と元には戻らん。手足や臓器は特にな。殿下の半身は強力な神経毒に侵されてしもうた。鳥兜か貝毒か水仙かわからんが、少量でも摂取すれば短時間で呼吸を止める恐ろしい毒じゃ。殿下の右目は毒による高熱で潰された。視力が戻ることはないし、右足もだめじゃろうな。一生引きずって歩かねばならん。お辛いことじゃ」
「お声も……でしょうか」
「それはなんとも言えんな。専門の医師にかかって治療すれば、なんとかなるかもしれん。南黎には腕のよい鍼灸師が、東の宋には名医がいると聞くしの。何にせよ、ここから出られないのであれば意味はないが」
「そうでした」
蘭児は落胆した。
「まったく大変だったわい。殿下は治そうと必死に努力されておるのに、邪魔する輩もおったしの。ようやく起き上がれるようになったと思ったら、今度は李公子が押しかけてきて怒り狂って暴れおるし。歩けない殿下を引きずり出して殴る蹴る。部屋中の物を投げて壊す。もはや気狂いの仕業じゃ。地獄絵図でしかなかったわい」
「え、旦那さ……李家の若さまが?」
「今でもやってくるがな。だいぶ丸くなった方じゃな」
「あれで? 丸くなった?」
蘭児は自分が連れてこられた日の修羅場を思い出し、信じられない気持ちでいっぱいになった。
「わしはせっかく命拾いした殿下が、今度は李公子に殴り殺されるのかと思うたぞ。この宮に来て一年くらいは、殿下も寧も生傷が絶えんかった。傷が治る頃になるとまたやってきて暴れる」
「……ひどすぎる」
蘭児は想像だけで激しい怒りを覚えた。今よりももっと重症で、片目が失明し半身が麻痺した病人に暴力を振るうなんておよそ人のすることではない。鬼畜の所業だ。元々子鳴のことは嫌いだが、ますます嫌いになった。置き去りにされたとはいえ、彼と離れられたことは良かったのかもしれないとすら思った。
「誰も殿下を助けなかったんですか」
段先生は蘭児を見ると、呆れたように言った。
「助ける? 誰が殿下を助けるんじゃ? 下働きの者たちは内院には入れんし、兵士たちは珂家の尖兵じゃ。珂家としては、放置して殴り殺されてくれた方が都合がよいわい。李公子が来ると、わしは凶行が終わるまで隠れておるしかなかった。止めに入ってもしわしが死んだら、殿下を治せる者がおらなくなるからの」
蘭児は気が滅入った。皇太子なのに、この国で二番目に偉い方なのに、散々に暴力を振るわれて……どんなに辛かったことだろう。
さてと、と言いながら段先生は口に白布を巻いた。薬湯の入った鍋と治療器具一式を持つと言った。
「わしは往診に行ってくる。おぬしは来てはならんぞ。感染症の者もおるでな。殿下にうつしたら一大事じゃ」
段先生は医務室を出ていった。蘭児は物思いに耽りながら、午睡の時間が終わるまで薬を作り続けた。
あくる日、蘭児はいつものように午餐の御膳番を務めていた。
羹は白菜豆と鶏肉の湯が出た。淡白ながらも滋味のある湯である。毒見を終え、陶磁の椀に半分ほど入れて出すと、殿下は椀を見つめた。左の手のひらを上にして、軽く上げて見せた。何かの合図だろうかと蘭児は手を注視した。殿下は再度同じ仕草をした。
それから殿下は、自分の口を指差した。蘭児は彼の口元を見た。ゆっくりと「
〈もっと〉
蘭児は推察した。殿下は湯をもっとご所望なのだと。
「あ、はい。ただいま」
蘭児は鍋から湯をすくうと椀に入れた。殿下が初めて自分に意志を伝えてきた。もしかしたら、他にも希望があるかもしれない。蘭児は聞いた。
「葱はお入れしますか」
殿下は左手の人差し指で食卓を一回打った。蘭児は彼の唇を見た。「
「生姜はいかがでしょう」
殿下は左手の人差し指で食卓を二回打った。唇は「
殿下の前に椀を置くと、彼は食べ始めた。湯を食べ終えると、湯の鍋に左手を向け、自分の方へ円を描くように動かした。これは唇を見なくてもわかった。
「おかわりですね」
蘭児は再度、鍋から湯をよそった。葱も忘れず入れた。殿下は無表情のまま二杯目もたいらげた。
主菜になると、あひるの紹興酒煮が出た。ぶつ切りにした皮つきのあひる肉を軽く炙って、紹興酒と醤油、生姜で煮込み、八角で味をつけたものである。殿下はあひるの煮込みを見ると、先ほどと同じように左の手のひらを上げた。蘭児は小皿に多めによそった。
蘭児はその後に出てくる料理にも量や、薬味、調味料の有無を聞いてみた。殿下は逐一手を使って答えてくれた。今までは蘭児が出したものをそのまま食べていたが、やはり彼にも沢山食べたいものやそうでもないもの、好みの味つけがあるようだった。
指文字とでもいうのか、手指を使った伝達方法も覚えた。手のひらを上にして動かす仕草は「多く」、手の甲を上にして下げると「少なく」、指を一回打つのは「はい」二回打つのは「いいえ」、何かに手を向けて自分の側に円を描いて返すのは「もう一度」という意味だった。
簡単なやりとりではあるが、蘭児は殿下と意志疎通ができて嬉しかった。薬味、調味料に毒を入れられる場合もあるだろう。次回からは毒見する際も、すべて殿下好みの味つけにしようと思った。
菓子と果物を出し、蘭児は茶を淹れ直そうとした。午餐も無事に終わりかけたその時だった。
バタバタと複数の足音がした。こちらに向かってくる。蘭児は気づいた。これは寧のものでも段先生のものでもない。初めて聞く足音だ。食事どきに来客があるとも聞いていない。内院に何者かが入ってきている。殿下も気づいたのか顔を上げ、持っていた匙を置いた。
蘭児は急いで立ち上がると食卓を回り込み、殿下の隣に立った。
官服を着、冠をかぶった中年の男と下僕らしき男の二人がやってくるのが見えた。男たちは中庭側の扉を開けるとずかずかと進膳房に入ってきた。官服の男はたたんだ書類のようなものを捧げ持ち、下僕は筆箱のようなものを抱えている。
官服の男が、殿下を見てにやりと笑った。
「殿下、
景叙は紙を広げて見せた。びっしりと文字が書かれている。蘭児には内容はわからない。
「ご進膳中のところ恐縮ですが、今日こそはこれにご署名をいただきたく」
蘭児は横目で殿下を見た。殿下は身体から力を抜いてだらりと手を下げ、呆けた顔と虚ろな目をしていた。うつけの振りをしている。ということは、これは招かざる客だ。いや、客じゃない。単なる侵入者だ。蘭児は殿下を隠すようにして前に立った。勇気を出して言った。
「突然なんでしょうか。こちらは何も聞いていません。殿下は……署名なんてできません。筆もお持ちになれませんし、何もおわかりにはなりません」
「黙れ、下郎。貴様に用はない。下がれ」
景叙は目を見開いて一喝した。
蘭児は引き下がらなかった。彼らは殿下に毒を盛ったという珂家の者であり、明らかに怪しい男たちである。刺客かもしれないと思うと恐ろしくて足がすくむ。が、腹に力を込めた。自分は殿下の御膳番だ。どうしてこの状況で殿下一人を残して出ていけるものか。
蘭児は毅然と言った。
「お帰りください。殿下に無礼はおやめください」
景叙たちが、じりじりと近づいてくる。近寄らせてはならない。蘭児は食卓を見た。大鉢の影に、さめた龍眼茶が入った茶壺があった。彼女は咄嗟に茶壺を掴むと、殿下の膝の上に中身をぶちまけた。衣が濡れ、床に茶が広がった。
蘭児は声を張り上げた。
「ああ、殿下。そんな粗相を」
景叙たちが怯んだ。床にじわじわと広がっていく水を見て顔をしかめた。蘭児は尚も叫んだ。
「殿下、いけません。こちらは厠ではございません。奥へ戻って、お着換えなさいませんと」
蘭児は茶をこぼして殿下の失禁を装った。そのまま殿下を立ち上がらせようとした。とにかく彼をこの部屋から連れ出さなくてはいけない。奥へ逃がさないといけない。
殿下は蘭児に引き起こされる形で立った。蘭児だけに見えるように唇が動いた。
〈寧〉
寧を呼べと言っている。もちろん蘭児はそうするつもりでいる。寧に聞こえるように大声を出している。内院にいるはずだ。早く応えて欲しい。
「殿下、奥にまいりましょう。私につかまってください」
殿下が蘭児の肩を掴んだ。蘭児は背中に腕を回して殿下を支えた。背を向けて歩き出した直後に、景叙の声が聞こえた。
「構わん、やれ」
景叙と下僕が突進してきた。蘭児が振り向いた途端、火花が散った。頬を思いきり張られた。跳ね飛ばされて思いきり床に転がった。すぐに身を起こしたが、頭を打ったのか視界が白くぼんやりとかすむ。
「早くしろ、押さえろ」
景叙の焦る声がする。
蘭児は痛みを堪えて、なんとか立ち上がった。近くで食器が割れるような音がした。
殿下は男たちに引きずられるようにして、部屋の中央まで移動していた。バタバタと暴れて必死に抵抗しているが袖を引っ張られ、立ち上がることができない。
景叙が殿下にのしかかり、右腕を押さえつけた。下僕が筆箱の中から朱墨汁の壺を出して床にぶちまけた。殿下の右手のひらを朱墨汁に押しつけた。
「殿下」
蘭児は叫んだ。考える前に身体が動いた。食卓から胡椒が入った小壺をとると、中身を景叙の顔めがけて投げつけた。
「うあああああ」
目に胡椒が入った珂景叙は絶叫した。蘭児は辺りを見回した。自分一人では男二人には勝てない。何か武器になるものを探した。食卓に立てかけてあった白檀の杖をとった。迷っている暇はない。珂景叙の頭めがけて思いきり振り下ろした。肉を打つ鈍い音がした。手ごたえがあった。彼はどうとその場に突っ伏した。
下僕は書面を広げ、朱墨汁で濡れた殿下の右手を押しつけようとしていた。蘭児は無我夢中でその男に飛び掛かり、突き飛ばした。その勢いで外に飛び出すと声の限りに叫んだ。
「兄さん、助けて」
何度か叫ぶと、回廊の先から寧が走ってくるのが見えた。手に黒の短剣を握っている。蘭児は再び部屋に飛び込んだ。尚も下僕が掴みかかってくるのを、殿下は必死に躱していた。
蘭児は二人の間に割って入った。殿下を後ろ手で庇うようにしてずりずりと後ずさった。下僕の腕を弾いた。振り払った。
寧が飛び込んできた。躊躇いはなかった。抜き払った短剣を、男の背中に一気に突き立てた。男は目を剥いて倒れた。あっけなく、声さえあげずに床に伸びて絶命した。
男が動かなくなると、蘭児は殿下に振り返った。
「殿下、ご無事ですか。お怪我は?」
殿下は朱墨汁で汚れた右手を見せた。指先が震えている。痺れが出ていたが、他に怪我はなさそうだった。
「申し訳ありません、お召し物を汚してしまって」
殿下は気にするなとでも言うように、首を横に振った。蘭児の一連の行動に呆気にとられているように見えた。
寧が男から短剣を引き抜いた。
「殿下、奥へ戻りましょう。蘭児、手を貸せ」
二人で殿下を立ち上がらせようとしたその時だった。
入り口の方から、深く玲瓏な声が響いた。
「おや、痴呆が進んで、もはや廃人同然であると伺っていましたが……」
いつの間に内院に入って来たのか、中庭側の戸口に男が立っていた。黒の官服を着、赤い珊瑚の首掛け数珠を三重に巻いている。四角く三方に布垂れがある帽子をかぶっていた。宦官のいで立ちだった。見るからに若く、色白で頬がふっくらしている。切れ長の目が殿下をじっと見た。
「意識は明瞭のご様子ですね、殿下」
男はつつっと、音もなく部屋に入ってきた。床に落ちた書面をじっと見た。
「なるほど、改名の儀を狙ったのですか」と呟いた。
男は殿下に向かって、優雅に膝を曲げると拱手した。
「申し遅れました、私めは
食器が散乱し、男たちが転がる荒れた室内をゆっくりと見回した。
「ご進膳中に、とんだ失礼があったようで」
太監とは宦官の長である。長とするにはあまりに若いが、珂一族の権勢ゆえだろうか。
殿下は胡乱げに叡文を見た。叡文は殿下が正気であることに気づいている。うつけの振りをしても無駄だと判断したようだった。
寧が警戒心も露わに言った。
「珂太監、この者たちはなんですか。殿下にひどい狼藉を働こうとした。あなたの命で来たのでは」
短剣を握り直している。場合によっては叡文も殺さなくてはならないと覚悟している。
叡文はあっさりと言った。
「違いますよ。むしろ私は景叙らが先走ったと聞いて追いかけてきたのです。止めねばならぬ、場合によっては始末せねばならぬと思っておりましたが、どうやらそちらで一人は誅殺された模様。殿下に狼藉とは万死に値する罪、当然の結果ですが」
自身も珂家の人間でありながら、まるで他人事のように言った。転がった景叙を眺め下ろし、謎めいた微笑を浮かべた。
「残る一人もこちらで処理しておきましょう」
寧と蘭児は顔を見合わせた。どこまでが本当のことなのか、叡文がどこまで本気なのかもわからない。後宮を司る太監であるなら太后の側近で間違いないが、敵意はなさそうだ。かといって好意も感じられない。まるで風のように掴みどころのない男である。
とりあえず寧は殿下を奥の部屋に連れていき、段先生を呼んだ。
殿下が奥に消えると、叡文は内院に雑役夫を数名引き入れ、昏倒した珂景叙とその従僕の死体を回収していった。
珂景叙もその従僕も、殿下に狼藉を働いたものの武器らしきものは持っていなかった。叡文は当初の予定通り、南の雑居房に老いた宦官たちを数名届けると、何事もなかったかのように颯爽と帰っていった。蘭児は一人残って荒れた進膳房を片付けた。
寧が戻ってきた。
彼は床に落ちたままの書面を拾って読んだ。読み終わると細かく破り捨てた。蘭児を連れて中庭に出た。
太陽は西に傾き、とっぷりと日が暮れようとしている。寧は蘭児に向き直ると言った。
「お前には言っていなかったが、今日やってきたやつらは殿下の政敵だ。尚書官の珂景叙とその手下だ。以前から殿下に改名を迫っていたが、これまでは俺が追い返していた。今日は先触れすら出さずに侵入してきたところをみると、珂家もなりふり構わなくなってきたな」
「殿下に改名を迫る……どういうこと?」
蘭児が尋ねると、寧は庭に落ちていた木の枝を拾った。
「お前、字を覚える気はあるか? いや、覚えろ。近侍なら読み書きは必須だ」
「うん、覚える」
蘭児は頷いた。字が読めれば、先ほどの書面の内容もわかっただろう。状況を理解し、迅速かつ的確に動けたかもしれない。必要なら読み書きでもなんでも覚える覚悟だった。
寧はしゃがみ、庭に撒かれた砂地の上に「正鵠」と書いた。
「これは殿下の
蘭児は殿下の御名を凝視し、文字の形を記憶した。寧は正の字を棒で指した。
「殿下の御名の『正』は皇太子をあらわす字だ。皇帝および皇太子の名にしか使われない字で尊字という。ところが、今は殿下以外にも名前に正の字を持つ方がいる。殿下の異母弟であり、珂太后が産んだ
寧は地面に「正鷲」とも書いた。蘭児はハッとした。
「通常ならありえないことだよね。兄弟で正の字を持つ方が二人いるなんて。殿下が皇太子なのに」
「そうだ。今上帝は御年十一歳で珂家の傀儡だ。実際にこの国を支配しているのは珂太后と珂家だ。だがやつらの勢力も盤石じゃない。偽の廃嫡令を出して殿下を廃嫡したが、東遼公ら殿下の三人の叔父君は認めなかった。公らは殿下こそが正統な嫡子で皇帝に即位すべきとして、裁判を起こして珂家と係争している。裁判は珂家にとって不利なもののようだ。だから、殿下に改名を迫って正の字を外させようとする」
「正の字が外れたら、殿下は皇太子じゃなくなるの?」
「そういうわけでもないが、改名すると自らの意志で皇位継承権を放棄したと見なされる可能性がある。裁判において不利になる。それくらい正の字には絶大な力がある。やつらは改名の宣誓書を持ってきて、殿下に無理矢理手形を押させようとした。痴呆が進んで署名はできないと言い逃れてきたからな。手形を根拠とするつもりだったんだろうが……失敗した」
「私はてっきり刺客かなんかだと……。生きた心地がしなかった」
そこで寧はまじまじと蘭児を見た。
「お前は本当によくやった」
蘭児は目が合うと、恥ずかしそうに俯いた。寧に直球で褒められるとどうにも照れくさい。
「俺が行くまでよく一人で持ちこたえた。あいつらが殿下の手形を押した宣誓書を持って逃げたら面倒なことになっていた」
「そんなたいしたことじゃない」
何もすごいことはしていない、職務をまっとうしただけだと蘭児は思う。御膳番をやれと言われれば毒見をするし、殿下を守るのが務めというなら、彼を襲う輩はなんとかして排除する。この宮からは出られないのだ。下手をうって仕事を失うわけにはいかない。毒を飲んだら死ぬかもしれないが、クビになっても死活問題だ。
寧は蘭児の横顔を見、少し迷うような素振りをした。
「実はお前のことも、今までは信用していなかった。太后が送り込んだ間者ではないかと疑っていた。殿下を害する恐れがあるなら、念を入れて殺そうかとも思った」
蘭児は寧が放っていた殺気を思い出した。あれは脅しではなかったのだ。
「なぜ殺さなかったの」
「殿下がお前のことは、とりあえず近くに置いて様子を見た方がいいとおっしゃった。お前の来訪は唐突かつ不可解なものだった。李公子は殿下を憎んでいる。嫌がらせもしてくるだろう。しかし、珂家に抱き込まれてお前をここに送りこむとは考えにくい。あの方は短絡的で幼稚にすぎる御仁だが、それなりの信念と矜持はお持ちだ」
寧は褒めているのかけなしているのか、よくわからないことを言った。
蘭児は複雑な気分になった。自分がここへ来たのは李子鳴の気まぐれでしかなく、政争とはまったく無関係だ。子鳴は蘭児を男だと信じて連れてきて、蘭児は女人禁制の宮に置き去りにされたから男として生きている。全部行き当たりばったりで凌いでいるだけである。寧は蘭児に様々な可能性を考えて、神経をすり減らしたようだ。
蘭児は寧が少し気の毒になった。
「よくわからないけど、旦那さまを信用している部分はあるんだ」
「まあな。それにお前は丁だ。李公子の持ち物だ。他人の牛馬を勝手に殺したら、持ち主には慰謝料として購入額の二倍の金を払わなくてはならない。丁の場合は五倍だ。そう法で決まっている」
蘭児はざっと計算した。自分の価値は五年で銀貨二八〇枚程度、五倍となると千四百枚……大金である。
「私を殺しちゃったら、慰謝料が払えないから?」
いいや、と寧は醒めた目をした。
「慰謝料の支払いや金額がどうこうじゃない。お前を殺せば形の上だけでも李公子に詫びをいれなくてはいけない……と考えたら、胸がムカついてしょうがなかった。ムカつくどころじゃない、はらわたが煮えくり返る。李公子に頭を下げるのが嫌すぎて、お前を殺すことは諦めた」
蘭児は呆れた。確かに子鳴の言動は幼稚だが、寧も負けず劣らず子供っぽいところがあると思った。
「兄さんは、よっぽど旦那さまのことが嫌いなんだね」
「お前は好きなのか」
「嫌い」
蘭児は即答した。寧は苦笑した。
「気が合うじゃないか」
「兄弟だもの」
蘭児は前を向いたまま、当然のように言った。
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