天国幽閉



 蘭児が隆善の指導を終え、恐ろしく長い一日を終えたのは深夜の日をまたぐ頃だった。朝一番に子鳴に買われ、都を連れ回され、円華宮に入り、廃嫡殿下なる貴人に会わされたものの主人の子鳴に置き去りにされた。急遽、寧の弟ということになって宮を回り、料理長の隆善に託された。怒涛の一日だった。

 疲労困憊で北の住居房へ戻ると扉の前には火が焚かれ、室内の手燭にも灯りが点されていた。蘭児は着の身着のまま寝台に潜り込んだ。まぶたが重くて眼球に貼りつきそうだ。以依が届けてくれたのか、新品の寝具が寝台の脇に積んであったがそれを敷いている間も惜しかった。横になると目を閉じ、泥のように眠ってしまった。

 深夜、人がいるような気配がして目を開けた。卓上の灯りはついたままで、火に照らされた室内の壁に黒く細い影が揺れている。誰かが寝台の傍まで来た。横になった蘭児に影がさしかかる。

「……兄さん?」

 寝ぼけながら蘭児は声を発した。寧が戻ってきたのだと思った。影はその場で少しじっとしていたが、やがて部屋を出ていった。遠ざかる足音と共に、蘭児も深い眠りに落ちた。

 と思った瞬間、頭が割れそうなほどの胴間声が響いた。

「おい、起きろや小僧。朝だぞ」

 蘭児は飛び起きた。声がした方を見ると、窓の外に隆善が立っていた。

「明日からは来ねえからな。日の出前にてめえで起きろよ」

 蘭児の顔を見ると、隆善は大股で去っていった。

 仕事は夜明け前から始まる。空は墨を撒いたように黒々としている。蘭児は急いで身支度すると部屋を飛び出し、御膳房へ駆けていった。

 御膳房では、料理人たちが総手で早餐の支度をしていた。

 皇族には一日二回、華餐と呼ばれる正式な食事が供される。上六ツ刻(午前六時)ごろから始まる早餐、下二ツ刻(午後二時)ごろから始まる午餐である。その他の時間は、皇族が所望したときに間食という軽食を出す。

 底冷えする朝だったが、御膳房は暖かかった。湿った熱気が充満している。ここは、二十四時間いかなるときも対応できるように火を絶やさない。料理人たちは昼勤、夜勤の二交代で常に御膳房に詰めている。高価な食材や器、陶器類を置いているため、常に人がいるようにしている。

 賄い用の鍋には、常に湯が沸いている。蘭児は白湯を飲んで喉を潤すと、御膳房に隣接する器部屋に入った。四方の括りつけの棚に何十という小皿や染付大皿、器、椀、酒器、茶器、調味料を入れる小壺、金の王龍おうりゅう鳳凰ほうおう麒麟きりん霊亀れいき四瑞しずいが彫られた重箱、金物類、布巾などが整理されて並んでいる。

 蘭児は昨日隆善に教わったとおりに、食器類の準備を始めた。銀盆を乾いた布で磨き、清潔な木綿の布を敷き、象牙の箸を一膳、縞黒檀しまこくだんの箸を三膳、予備の銀の菜箸を三膳、れんげや大小の匙といった食卓用の金物を並べた。

 料理人が顔を覗かせて言った。

「おい、薬味ができたぞ」

「はい」

 蘭児は木の盆に、薬味用の小皿や小壺を乗せて調理部屋に戻った。まな板の上に刻んだばかりの葱や、すりたての生姜、大蒜にんにくが並んでいる。蘭児は小壺に塩、胡椒、沙糖、醤油、酢、ごま油などを詰めた。小皿に薬味の葱、生姜、大蒜を盛る。器部屋から薬味用の銀盆を持ってきて、小壺や薬味皿を慎重に並べた。壺や皿の配置もすべて決まっている。

 準備が終わると、食器を乗せた銀盆を持って内院へ入った。寧が待っていた。彼は蘭児が持つ盆を確認すると、進膳房という皇族が食事をするための部屋へ連れて行った。

 中庭の池のほとりにはしきみや沙羅双樹、紅葉などが植えられており、進膳房からはそれらが一望できた。庭に面した扉を開け放てば、美しい庭園を眺めながら食事ができる。華餐はこの部屋で供する。

 進膳房へ入ると、正面に長方形の大きな黒壇の食卓と背もたれのある椅子が置かれていた。机に向かって左手に黒壇の低い平台がある。

 蘭児は食卓の上に食器の盆を置いた。殿下が使う食器と予備のものを分ける。予備は平台に置く。寧が逐一、配膳の作法を教えた。蘭児は言われた通りにきっちりと配膳した。寧はひととおり教えると部屋を出ていった。蘭児は御膳房と内院を何度も往復し、薬味の盆や白湯の入った鉄瓶、水の入った瓶、手洗い用の桶などを運び込んだ。

 警邏鍾が上六ツ刻を告げて少しした頃、進善房に殿下が入ってきた。黒絹の長袍に、毛織の上衣を羽織っている。顔周りともみあげ以外の後ろ髪を上下にわけ、上の部分を輪結びにしていた。顔がすっきりして見えた。

 杖を使い、不自由な右足を引きずりながら一歩一歩進む。蘭児は食卓を回り込んで椅子を引いた。殿下が着席した。寧も入ってきて、殿下の左隣に立った。

「殿下、本日から蘭児が御膳番を務めます」

 蘭児は食卓の正面に立った。殿下は寧から聞いたのだろう、うつけの振りはしていない。無表情のまま蘭児を見た。

 蘭児は、何度見てもきれいな顔だなと思った。右半面は一見するとおどろおどろしいが、皮膚が赤く見えるだけで慣れるとなんてことはない。むしろ、左半面の美質をより引き立てているような気さえした。

「どうした、始めろ」

 寧の鋭い声が飛ぶ。蘭児は作法通り膝を屈めて拱手した。しきたり通りに挨拶をした。

「幸多くいらせられます正嫡の君、未来の天子さま、我らの偉大な香宮殿下。下臣が、おはやう始まる華餐の御膳番を務めさせていただきます」

 午餐の場合は、「おはやう始まる」が「陽だまりうつろう」になる。蘭児は御膳房へ行き、前菜の盛り合わせの大皿を持った。殿下に出す皿は銀の深い盆に入れられ必ず蓋がしてある。進善房へ戻ると、平台へ置き、蓋を開けた。

 中には六つの小皿が入っていた。煮卵、くらげと鶏肉と胡瓜きゅうりの酢醤油あえ、牛と羊と山羊の乳で作った三種類の乾酪かんらく(チーズ)、蕪と大根の香のものが乗っている。乾酪は早餐に必ず出る。どれも初めて見る料理だった。食材もかろうじて、卵や鶏肉、野菜がわかるくらいである。

 蘭児は作法通り、平台の前で中腰になり、毒見用の小皿に素早く前菜を取り分けた。毒見の順番は上の皿から始め、右回りでこなす。

 煮卵を割ると口に運ぶ。一口食べてみて彼女は驚いた。恐ろしくうまい。煮卵は鳥ガラの汁で茹で、塩と醤油と沙糖で味付けされている、白身はぷりぷりと弾力があり、中の黄身は半熟濃厚でとろりとしている。なんだ、これは。何をどうしたらこんな味になるのかさっぱりわからないが、とにかくうまい。こんなおいしい卵は生まれて初めて食べた。

 蘭児は雷に打たれたような衝撃を受けながら、鶏肉とくらげの酢醤油あえも口に入れた。こりこりしたくらげと鶏肉のしっとりとした歯ごたえが楽しく、酢醤油と胡麻が味を引き締める。乾酪は、牛の乾酪には塩と蓮の実、羊の乾酪には干し葡萄、山羊の乾酪にはなつめ、クコの実をくだいたものが入っていた。全部味を変えてある。一見すると固そうに見えたが、口に入れると柔らかくなめらかにとけた。木の実や干し葡萄の食感、甘酸っぱさが実に乾酪に合う。蕪と大根の香のものは賽の目状に切られて見た目も美しく、赤紫蘇と酢でさっぱりとしている。紫蘇の爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。蘭児は思わず口を手で押さえた。

「どうした?」

 寧の問いかけに、蘭児は感動に震えながら答えた。

「おいしいです」

 なんとも形容しがたい微妙な空気が流れた。

「……お前は何を言っている」

 寧の声が険を帯びた。

「あっ、申し訳ありません。大事ございません」

 蘭児は慌てて言った。箸と皿を置くと大皿を食卓に運び、前菜の皿を殿下の前に並べた。配置も決まっており、毒見した順番どおりに右から置いてゆく。

 殿下は皿を眺め、手を横に振った。すべて所望されている。蘭児は菜箸で皿に六種類の前菜をとって盛りつけ、殿下の前に置いた。殿下は象牙の箸を取ると、ゆっくりと口に運び始めた。

 蘭児は、次に龍眼りゅうがん茶を淹れた。木の椀に干した龍眼となつめ、クコの実を入れる。白湯を注ぎ、塩を少量入れる。それも一口飲んで毒見した。塩の効いた白湯に龍眼やなつめのほのかな甘みと香りが広がる。

「大事ございません」

 今度はしっかり言えた。

 陶磁器の茶碗に改めて茶を淹れ、殿下の左上に置くと、次の料理を取りに行く。

 御膳房の炭焼きのかまどには土鍋が用意されていた。小葱や火腿、卵焼きを細切りにしたものを盛った小皿と、専用の椀やれんげが銀盆に置いてあった。蘭児は火傷しないように注意しながら主食の土鍋を銀盆に乗せ、進膳房へ戻った。土鍋を開けると、熱々の米の粥だった。

 蘭児は息を呑んだ。米は南部でしかとれない高級品で、村では一年に一回、正月にだけ食べられる代物だった。粥は、水と塩と干した帆立の貝柱を入れて炊かれていた。蘭児は恐る恐る木の椀に粥を一口分入れ、小皿の葱や火腿を散らした。匙を使って口を運ぶと、柔らかくねっとりとした米粒が舌の上で躍る。続いて貝柱の滋味がふんわりと広がる。うまい。

「大事ございません」

 おいしさのあまり声が掠れた。

 土鍋を食卓へ持っていき、一度殿下に中身を見せる。殿下は特に何も指し示さなかった。蘭児は椀に粥を半分ほど盛り、付属する小皿のものを少しずつ散らして出した。

 次は羹だった。きくらげと豆腐と卵の湯が出た。干した海草と小海老を煮出し、塩、大蒜、生姜、酢で味をつけ、片栗粉でとろみをつけている。蘭児は喜んで湯をすすった。うまい。

 さらに主菜が続く。沢蟹を油で揚げたものを卵でとじた餡かけ、鴨肉の燻製と白菜の蒸し煮、香辛料に漬けた羊肉の串焼き、虹鱒にじますの酒蒸し、空心菜くうしんさいと砂肝の大蒜炒め、豚肉、筍、椎茸、香菜が入った水餃子が出た。どれも恐ろしくうまい。蘭児は夢でも見ているかのような心地になった。

 毒見のたびに「大事ございません」と言ったが、彼女にとってはすべての料理が一大事だった。なぜ自分が取り乱さずに給仕できるのか不思議なくらいだった。

 大鉢に入った水餃子を食卓へ運ぶ。小皿に酢を入れて出した。椀に餃子を二個ほど入れて、殿下の前に置いた。

 カシャンと音がした。蘭児がハッとして見ると殿下が箸を取り落としていた。右手の指が微細に震えている。殿下は、左手で痙攣する右手を押さえた。しばらくすると震えは収まった。蘭児は床に落ちた箸を拾い、替えの箸を用意した。

 殿下はじっと右手を見つめたが、やがて諦めたように手を引っ込めた。右手に麻痺が出たようだった。

 彼は左手で、蘭児から箸を受け取った。今度は左手を使って食事をしようとしている。蘭児は咄嗟に水餃子の皿と酢の入った小皿を持つと左側へ移動させた。作法とは違うが、左側に置いた方が食べやすいだろうと考えた。大丈夫かと伺うように寧を見ると、彼は黙って頷いた。それでいいと言っている。

 殿下は、利き腕ではない左手で食事を再開した。慣れないのか、箸でうまく餃子がつかめない。蘭児はれんげを左側に置いた。殿下はれんげに持ち替えて餃子をすくった。蘭児は酢の入った小壺をとり、小匙でれんげに直接酢をたらした。殿下はそれを慎重に口に運んだ。蘭児はホッとした。

 主菜が終わると、菓子と果物が出た。小豆の餡と牛酪ぎゅうらく(バター)の入った焼きたての胡餅(月餅)と葡萄、梨、あんず柘榴ざくろの盛り合わせが用意されていた。蘭児はこれらも毒見した。

 焼きたての胡餅は香ばしくさっくりとした食感で、たっぷり入った餡の甘さが口いっぱいに広がる。蘭児は頬が緩むのを感じ、慌てて引き締めた。果物類も、村で食べるものとは明らかに違った。とても甘く瑞々しい。殿下には、国じゅうから取り寄せてさらに厳選された一級品のみが供されている。

 殿下は胡餅を一つと葡萄を少し食べた。彼は、蘭児が皿にとったものをすべて食べた。蘭児は再度龍眼茶を淹れて、殿下に出した。

「医務室へ行け」と寧が言った。蘭児は医務室へ行き、段先生から薬湯の入った茶壺を受け取った。段先生も夜明けと同時に起床しているようだった。仕事だからというよりは老人の習性かもしれない。

 進膳房へ戻ると、薬湯も毒見した。……これはすこぶるまずかった。蘭児はうっとえづきそうになった。鼻が曲がりそうなほど臭い。苦くて吐き出しそうになるのを堪える。薬湯も殿下に出した。殿下は上品な手つきで薬湯を飲んだが、やはりまずいらしく少し顔を顰めた。それでも、白湯と龍眼茶を交えつつ全部飲んだ。それで早餐は終わりだった。

 豪華すぎる朝食が終わると殿下は立ち上がり、部屋を出ていった。寧が付き従う。

 二人の姿が完全に消えるのを待って、蘭児は残り物が入った料理の皿や食器を御膳房へせっせと運んだ。料理人たちは蘭児から皿や鍋を受け取ると、残った料理を粗末な木皿や端の欠けたどんぶりなどに移し替えた。それらをすべて外へ運んだ。

 隆善が入り口から顔を覗かせた。

「おう、お前が生きて戻ったということは大丈夫だな。メシにすっぞ」

 蘭児は呼ばれるままに外へ出た。御膳房の入り口の脇には巨大な木製の長机と長椅子が置かれていた。机の上には早餐用に作った料理が大皿に盛られ、所せましと並んでいた。

 めいめいに木の椀と箸が配られる。料理人十数名と蘭児が腰かける。上座なのか、長机の短辺に隆善が腰をおろした。

「じゃあ、朝メシをいただくとすっか。皇太子殿下のご健康を祈願して乾杯」

「乾杯」

 とみなも叫んだ。とはいっても酒は禁止らしく、白湯か龍眼の出がらしで淹れた薄い茶を飲んでいる。

 食事が始まった。蘭児は信じられない思いでいた。毒見のひと口だけでもめくるめく至福のひと時だったのに、まさかそれと同じものが賄いで食べられるとは思わなかった。蘭児は羊肉の串焼きを椀にとると、思いきりかぶりついた。香辛料が染みた肉から、濃い肉汁があふれる。うまい。肉の形が揃ってなかったり、少し焦げていたりするが、味はまったく同じである。それなりの数を作り、その中で一番出来がいいものだけが殿下の御膳に乗るのだ。

 きくらげと豆腐と卵の湯もすすった。うまい。水餃子もとった。酢もつけず、煮汁ごと飲むように食べた。具だけでじゅうぶん味がする。うまい。

 蘭児は賄いを食べるほどに恥ずかしくなった。この繊細かつ奥深い味に比べたら、自分が作っていた粟や稗の粥や川魚を焼いたものなんて料理のうちに入らない。寧は蘭児の料理の腕に何の期待もしてなかっただろうが、料理人の見習いにされなくて本当に良かったと思った。

 みな大皿から思い思いのものを取って好きに食べている。調味料や薬味の小壺も回ってくる。どれも好きなだけ使い、味変を楽しめる。早餐のために用意した調味料や薬味は賄いで全部使い切ってしまう。食材の傷みを防ぐため、毒の混入を防ぐためでもある。午餐は、午餐用にすべて新しいものを用意する。

「どうだ、蘭児。うめえだろ」

 隆善が言った。

「うん、とってもおいしい。ありえないくらいおいしい」

 蘭児は言葉を尽くして感嘆した。どれも殿下のために作った料理の残り物であり、残飯といえば残飯である。

 しかし殿下は、蘭児が毒見し取りわけた小皿のものしか食べなかった。料理が乗った皿に直接箸をつけたわけではないし、そもそも選ばれず御膳に乗らなかったものも多い。手つかずの新品といえば新品だ。器こそ粗末だが、蘭児は今まぎれもなく、皇族しか食することができない豪華な宮廷料理を味わっているのだった。

「あったりめえだ。殿下に変なもの出してみろ、今頃首と胴体が離れて都の辻に晒されてらあ」

 と言いつつも、隆善自身は料理にがっつくことはなく、ひと口ずつ慎重に味わっていた。そして時々声を荒げた。

「おい、じん。てめえ、湯に入れるごま油が多いじゃねえか。ちゃんと計ってんのか。味がもたついてんだろ」

「すんません」

 蘭児の隣に座った迅が、食べながら平謝りする。

へい、大根はきちんと真四角の賽の目切りにしろつってんだよ。形をきっちり揃えろ。一分もずれんじゃねえ」

「すみません、気をつけます」

 平と呼ばれた男も謝る。

 蘭児には何もかもおいしく思えたが、隆善の鍛えられた繊細な舌は違う感想を持つらしい。残り物を食べることによって、料理の品評やダメ出しも兼ねている。

 蘭児は素朴な疑問を口にした。

「隆善、御膳房の料理人になると、こんな豪華な料理が食べられるの?」

「あ? そんなわけねえだろ。俺たちに許されるのは、料理を出す前の味見くらいだ。皇族方、それも皇太子殿下と同じ食事なんてしたら一発で打ち首だ」

「じゃあなんで食べてるの」

 蘭児はびっくりして箸を取り落としそうになった。これは盗み食い、窃盗なのではないかと思うと背筋が凍る。

「そりゃあ、殿下が慈悲深くお優しい方だからだ。殿下はご自分のために作られた食事の残りは、みなで食べてもいいとおっしゃったんだ。もちろんこの宮だけの話だぜ。華餐も間食もだ。だから俺もお前も食えている。あ~ちくしょう。自分で作っておいてなんだが本当にうめえなあ。食材の質が段違いだからな」

 迅も言った。

「知ってるか。御膳は、究極の薬膳なんだ。身体によい食材のみを使い、身体によい料理しか出さねえんだよ。おかげでここへ来てからは、風邪一つ引きゃしねえ。この宮で一番健康なのは、間違いなく俺たちだな」

 途中から厨房へ戻っていた料理人が、湯気をたてる大きな鉄鍋を持って出てきた。

「おーい、焼き飯ができたぞ」

 と言い、大皿にざあっと焼き飯をあけた。米、火腿、卵、葱を豚の脂で炒め、早餐で出した湯の残り汁を入れ、余った薬味で適当に味つけしたものだった。蘭児は仰天した。

「賄いで米も食べられるの?」

「米は米でも、古米なんだよ」

 隆善が言った。

「炊いても固くなるし風味が落ちるから、殿下のためには使えねえ。冷や飯に油を吸わせて炒めて誤魔化すんだよ。味は悪くないが、御膳にはとても出せない下品な代物さ」

「そうなんだ……」

 蘭児は焼き飯も食べてみた。米は脂を吸ってパラパラとし、適度に汁を吸って旨味もある。口の中でさっくりとほぐれた。うまい。何がいけないのかさっぱりわからない。そもそも、自分の貧しい舌では新米と古米の味の区別もつかない……。

 正月は年に一回だからご馳走の米が食べられるのに、ここでは賄いで米が出るという。もう毎日が正月みたいなものじゃないかと思えば、嬉しいを通り越して空恐ろしい心地がした。

 温めなおした胡餅と果物の残りも出てきた。蘭児はそれらもちびちびとよく味わって食べた。毒見をした際にもっと食べたいなと思ったものを、全部味わうことができた。

 腹がくちくなってくる。こんなに腹いっぱい食べたのはいつぶりだろう。ほんの数日前まで飢えに苦しんで水ばかり飲んでいたのが嘘みたいだった。

 隣の迅が、腹を叩きながら言った。

「は~食った食った。本当にここは天国だぜ。これで煙草が吸えて、女がいれば言うことないんだが」

 料理人たちは勤務後に酒を飲むことができたが、煙草は禁じられていた。料理に匂いが移ることを隆善が嫌ったのと、煙が殿下の身体に障るということで段先生が止めたのだった。

「ここは天国なの?」

 蘭児は迅に尋ねた。

 まだ入ったばかりでよくわからないが、少なくとも隆善を始めとした料理人たちに悲観の色はない。毒を食らう可能性はあっても、命の危険を冒してまで宮の外に出たいとは思ってないようだ。段先生のように、若い自分に憐れみの視線も投げてこない。

 迅はあっけらかんと答えた。

「ああ、そうだ。今どき、三食腹いっぱい食える勤め口なんてどこにあるよ。ここでも金があれば大抵のものは手に入るしな。女は無理だが、どうせ外へ出れたって嫁は貰えねえんだ。めぼしいのは上のお歴々がかっさらっていっちまうし、妓女なんて高くて買えねえ。ならここにいた方がいい」

 確かに、と蘭児は思った。女云々はともかく、賄いで米や菓子や果物が出てくる時点で、ここは当たりも当たりの大当たりすぎる職場ではないのか。


 賑やかな食事が終わると、夜勤の数人は御膳房に隣接する雑居房へ引き上げた。料理人たちは大部屋で寝起きし、共同生活を送っていた。

 昼勤の面々は最低限の片付けをすると、すぐに午餐の仕込みを始めた。早餐は前菜六品、主食一品、羹一品、主菜六品だが、午餐は前菜十二品、主食二品、羹二品、主菜十二品と倍の品数になる。午餐こそが本番であり、料理の腕の見せどころだった。

 隆善は近侍のための朝食も作った。皇太子よりは下がるが、そこそこいい食材を使う。食事は各自の部屋に届けられる。寧は内院に持ち込んで仕事の合間に食べているようだった。

 隆善は「おめえは御膳番だし、メシをいちいち作って届けるのも面倒くせえから、俺たちと食うか勝手に持ってけ」と言った。蘭児はそうすることにした。

 午後になり、午餐の時間が近づくと早餐と同じように進膳房に入って支度した。配膳の際、蘭児は象牙の箸を正面に横にして置いた。利き腕側に縦に置く作法と異なるが、これならどちらの手を使っても取りやすい。右手に痺れが出て動かなくなったら、左手で食べればいい。寧は蘭児の独断に何も言わなかった。

 午餐の時間になると殿下が進膳房へ現れた。品数は増えたが手順は変わらず、蘭児は配膳や給仕をそつなくこなした。殿下はほぼひと口分や一切れずつではあったが、どの料理にも口をつけた。蘭児は、午餐は毒見だけでお腹がいっぱいになってしまった。午餐が終わると、寧は進膳房を閉めた。

 夜は日が暮れてから一刻(二時間)ほどすると、間食を運ぶことになっていた。特に殿下から所望があるわけではないので、この間食を仮の夕食としている。

 軽食であり、銀盆に具のない汁、肉や野菜、漬物、餡などが入った点心、火腿、干し果物などの乾物、甘い粥、乾酪、蜂蜜をかけた凝結乳ぎょうけつにゅう(ヨーグルト)、菓子など食べやすいものを盛る。

 間食は進膳房ではなく、殿下の在所へ届けることになっていた。蘭児は銀盆を持って内院を歩いて回り、居間で彼を見つけた。籐を編んだ安楽椅子に腰かけて書を読んでいる。蘭児は傍へ行き、円卓に間食を置いた。小皿に入れて手早く毒見をした。茶を淹れて出し、医務室へ薬湯を取りに行った。

 内院では他の近侍も見かけた。把田は衣類や寝具など汚れものを回収していたし、亮は誰もいない部屋を掃除して回っていた。彼らが殿下のいる部屋に入ってくることはなかった。寧に入室および接触を禁じられているようだった。

 殿下は間食を少しつまんだ。薬湯も届け、殿下が飲み終わると蘭児はそれらを下げた。これで御膳番の仕事は終わりだった。


 御膳房に食器をすべて下げてから外に出ると、寧が待っていた。彼は時々御膳房へもやってきて、進膳房以外での蘭児の仕事ぶりも見ていた。

「よくやった」

 と寧は開口一番に言った。

「殿下も、お前の仕事ぶりは問題ないとおっしゃっている。明日以降も御膳番を務めるように」

 蘭児は驚き、そして困惑した。これまでは家事でも農作業でも、何をしても褒められたことはなかった。できて当然だったし、できなければ容赦なく叩かれた。御膳番の仕事は忙しいものではないし、運ぶのは食器や鍋、料理だ。それも一人分だから軽い。重労働でもなんでもない。果たして、自分が褒められるに値することをしたのだろうかと思った。

 寧は寧で、蘭児の働きぶりには感心しきりだった。まったく期待していなかったが、これまでいた御膳番の中でも一番優秀かもしれないとさえ思った。

 まず抜群に記憶力がいい。一度教えたことを忘れない。宮廷の細かいしきたりや御膳の作法も、絵で写し取ったように完璧に覚えて実践できる。目がとてもよく、現場をよく見ている。細かいことに気がつき、意欲的に動く。小回りがきく。初めてなのに右手に麻痺が出た殿下を慮って、食べやすいように配膳を工夫してみせた。粗探しをしようにも、粗相といえば早餐でなぜか「おいしいです」と料理の感想を述べたことくらいだった。

 寧はしごく真面目な顔で言った。

「お前は無知文盲ではあるが、地頭はすこぶるよいようだ。真面目に勉強したら、郷試くらいは通るんじゃないか」

 蘭児は目を丸くした。郷試とは科挙の三回ある最初の難関試験である。科挙を受けるなんて考えたこともなかった。そもそも女は受験できないと言おうとして、慌てて言葉を呑み込んだ。危ない。

「どうした。ぽかんとして」

「いや、ちょっとびっくりして。そんなこと言われたのは初めてだから」

「初めて? お前はここに来る前も、それなりに働いていたんだろう」

 寧は、蘭児は雑役や使い走り等で働いていたと思っている。家事や育児をしていたとは考えない。それは女の仕事である。少なくとも女がいる世界では。

「……うん、でも褒められたことはなかった」

「随分と了見の狭いやつらのところにいたんだな」

 寧は呆れたように言った。

 二人はなんとなく北の住居房へ向かって歩き出した。

 蘭児は周囲に誰も人がいないのを確認し、気になっていたことを尋ねることにした。

「兄さん、殿下は……耳は聞こえているよね」

「ああ」

 寧もさすがにそこはあっさり認めた。

「お声を発することはできない? わざと唖の振りをされている?」

 寧は沈黙した。蘭児は寧が言葉を発してくれるのを辛抱強く待った。寧は迷った挙句、重い口を開いた。

「……出すことはできる。だが掠れたりしゃがれたりで聞き取ることが難しい。無理をすると喉を傷める。段先生は喉の神経が麻痺しているのが原因と言っている」

「なぜそんなお身体になったの?」

「毒の後遺症だ」

「毒?」

 寧はさらに声を顰めた。

「十年ほど前になるが、殿下は毒を盛られた。俺は現場にいなかったから、仔細わかりかねるところもあるが」

「誰が毒を盛ったの?」

「珂太后とその一味だ。状況的にもそうだし、殿下が死んで一番得をするのは彼らだからな」

「でも殿下は亡くならなかった」

「そうだ、死の淵を彷徨われたが命はとりとめた。太后たちは暗殺が失敗したと知ると、偽の廃嫡令を出して殿下の廃嫡を宣言した。のみならず病床にあった殿下を無理矢理円華宮へ移して幽閉した。俺や段先生ともどもな」

「廃嫡したんでしょ。幽閉する必要はないのでは」

「それには複雑な事情がある。殿下を生かさず殺さず閉じ込めておくしかない事情だ」

 今の寧なら色々話してくれそうだ。蘭児は質問を変えることにした。

「この宮が女人禁制なのはどうして?」

「殿下の心をお騒がせせず療養に専念していただく……ということになっているが、まあ嫌がらせだろうな」

「嫌がらせで女人禁制なんだ」

 もっと大層な理由があると思っていた蘭児は拍子抜けした。

「俺は行ったことがないからよくわからんが」

 と寧はいったん言葉を切り、少し困ったように言った。

「この世は、女色に耽るほど愉しいことはないらしい。女色は快楽の真骨頂であり、花街や後宮などは煩悩の坩堝と聞く。女は騒動の種でもあるし、迂闊に置いて間違いが起きても困るんだろうが……。太后や珂家からしてみれば、殿下を閉じ込めて自由を奪い、この世の一番の悦楽からも遠ざける。殿下が絶望して生きる気力を失ってくれたら万々歳というところだろうな」

 そこで寧はぴたりと足を止めた。前方からザッザッと規則正しい足音が聞こえてきた、松明をもった兵士たちが行進している。夜の巡回だった。

 蘭児、と寧は囁いた。

「お前は御膳番だ。日々の食事は欠かせず、俺に次いで殿下のお傍近くへ参る。殿下に誠心誠意仕えろ。殿下を見ろ。手指と唇は特に注意しろ。お前が信頼に値する者と判断すれば、殿下は合図を出してくる」

 寧はくるりと踵を返した。蘭児を残すと、足早に去っていった。

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