三、第一の近侍 -寧-
円華宮の同僚
蘭児は途方に暮れていた。
助け起こそうとした廃嫡殿下は白檀の杖を使って自力で起き上がり、倒れ込むようにして再び椅子に腰かけた。そのまま部屋に入った時と同じようにぼうっとしている。
続く沈黙に耐えかねて、蘭児は思いきって声を出した。
「あの、何か私にできることはありませんか」
返事はなく、反応もなかった。蘭児に視線を向けることもない。許容も拒絶もない。元からそこに存在しないもののように、丸きり無視を決め込んでいる。蘭児は困ってしまった。黙って突っ立っているほかなかった。
ようやく寧が戻ってきた。
蘭児を見ると戸口を指差して「出ろ」とだけ言った。蘭児が回廊へ出ると、寧は戸を閉めた。
蘭児は、壁に隠れてそっと中の様子を伺った。
「殿下、参りましょう」
寧が小さな声で囁いている。廃嫡殿下は再び杖を使ってゆっくり立ち上がった。寧に支えられながら、奥の間へ消えた。蘭児は壁から離れた。彼女は確信した。少なくとも、廃嫡殿下の耳は聞こえている。
寧が回廊へ出てきた。柱の影に立つ蘭児を見つけるとつかつかと寄ってきた。
「旦那さまは?」
蘭児が尋ねると、寧は顔を顰めた。
「李公子は帰った」
「帰った……?」
「お前を置き去りにしてな。信じられん」
寧は蘭児を上から下まで眺めた。
「こうなってはどこへなりと行け、と言いたいところだが……」
大仰にため息をついた。とっとと追い出したいがままならないという苦渋が滲んだ。
「この宮に入った者は外へは出られない。そういう決まりだ。出られるとしたら、死体になってからだ」
恐ろしく物騒なことを言いだした。蘭児は唖然とした。壮麗な宮殿のように見えるが、ここは死刑囚が入る牢獄のようなところなのだろうか。
「えっと、出られないっていうのは……」
「そのままの意味だ。ここには入れはしても、出られはしない。逃げようとすれば兵士に斬られる。そのための兵だ」
「寧さんも?」
「そうだ。俺も長らくここに閉じ込められている」
「旦那さまが出られたのはなぜ……」
「あの方は法の外におられる」
意味がわからない。蘭児は困惑するばかりだった。
ここから出ようとして兵士に斬られたくはないし、死にたくもない。それに、もし宮を生きて出られたとしてもどこにも行く当てはない。
「じゃあ私はどうすれば」
「……それを今考えている」
寧は苦虫を噛み潰したような顔をしつつも、何事か思案している。
蘭児は子鳴の言ったことを思いだした。確か彼はこの宮を人手不足と言っていた。自分を好きなように使えとも。ならばと、蘭児は言った。
「ここから出られないなら、私を雇ってください。ここで働かせてください。なんでもやります」
「必要ない」
寧の声はそっけない。
「旦那さまは人手が足りないと言っていました」
「丁を使うほど落ちぶれちゃいない」
寧は怒ったように言った。ゾッとするほどの冷たい階級意識と差別感情が滲んでいる。
「ここは宮殿だぞ。誰がお住まいになっていると思っている」
「……廃嫡殿下」
それしかわからないので、蘭児は仕方なく言った。失礼な呼び方であることくらいはわかる。
「皇太子殿下だ」
「皇太子……」
蘭児は驚いた。あの方が皇太子とは。本来なら一生お目にかかることはない、お声も聞くことはない雲上人ではないか。
「皇太子がどういう方かくらいはわかるだろう」
「次の天子さまになられる方です」
「そうだ、皇帝陛下に次ぐこの国で二番目に偉い方だ。ここは仮の香宮、皇太子殿下がお住まいになっているところだ。殿下は重病であらせられる。先ほどの有様を見ただろう。今ではこの世の何もおわかりにならない。殿下のお世話をするのが宮の者の務めだが、お世話には特別の技能と経験が必要だ。お前のように卑しく無能の者の手には負えん」
「確かにお身体は不自由そうでした。……でも殿下は正気ですよね」
蘭児は寧の目をまっすぐ見て言った。
「旦那さまの前ではうつけのように振る舞っていたけれど、本当はうつけじゃない。目に光がありました」
「……」
寧は押し黙り、蘭児を睨みつけた。殺意じみたものを感じて、蘭児は身を竦ませた。重い沈黙が流れた後、寧は言った。
「お前……飲食回りのことはできるか」
「できます」
蘭児は即答した。炊事はできるのかと問われている。料理ならできる。村では毎日のように食事の支度をしていた。稗や粟の粥を作り、野鳥や川魚、蛙に串を刺して焼いた。
「入浴の介助は?」
「できます」
幼い弟妹を風呂に入れるのは蘭児の仕事だった。二人いるため手間も二倍で大変だったが、弟妹を溺れさせたことは一度もない。
「洗濯も掃除もできます。他のことも教えてもらえれば全部覚えます」
「洗濯や掃除はいい。別の者がやる」
寧は腰に手を当て、仕方ないとでもいう風に首を振った。
「とりあえず、まずはそのみすぼらしいなりをなんとかしろ。見苦しいにもほどがある」
蘭児は自分の着ているものを見た。父の冬服だがそんなにひどいものだろうかと思った。これでも蘭児の家では一番いい服だった。
「内院を出て左にある東屋、そこの被服房へ行って制服を一式貰え」
と寧は言った。制服を貰ったら風呂に入って身支度しろとも。
蘭児は喜んだ。言葉はきついが、どうやらここに置いてくれるらしい。仕事も貰えるようだ。寧の気が変わらないうちにと早速にも歩きだす。
数歩進んだところで、寧が「待て」と呼び止めた。
「いいか。お前の素性、この内院で見聞きしたこと、殿下に関するいかなる些細なことも他言無用だ。誰にも話すな。もし話したら」
蘭児は背を向けたまま、息を呑んだ。
「お前を殺す」
寧はあっさりと言い放った。蘭児は戦慄しつつも、彼ならばやるだろうと思った。声は静かながら、鬼気迫るものがあった。
蘭児は内院を出て左に進んだ。小門を出ると東屋があった。幾つも部屋が並んでいるが、ひと気がなくしんとしている。部屋に沿って歩いてゆくと、一つだけ戸が開いているところがあった。
覗くと床には敷物が敷かれ、反物や厚手の布地、動物の毛皮、毛布などが大量に積み上がっている。巨大な卓があり、その上には色とりどりの糸や鋏、針刺し、定規などが所せましと並べられていた。卓の端に、男の丸まった背中が見えた。
蘭児は思いきって「あの」と声をかけた。
「ここで制服をもらうように言われたんだけど」
男が顔をあげた。蘭児とさほど歳が変わらなそうな少年である。手には、赤い糸がついた針と布を挟んだ丸い刺繍枠をもっていた。寧と同じ服を着ているが、頭が一風変わっていた。派手な色をした帯状の布を幾重にも巻きつけている。布の間から細かい毛が飛び出している。布で増した大きな頭の下に、丸く人好きのする顔があった。男は蘭児を見ると、にかっと笑った。
「お前、新入りか」
彼は刺繍枠を置くと、高い椅子から滑り落ちるようにして降りた。蘭児の前まで来ると、ふーんと言いながら全身を眺めた。蘭児はそこで気づいた。頭に巻かれている布は白で、様々な色の糸で細かい刺繍がされていた。
「待ってろよ」
と言うと、彼は部屋の奥にある大棚の方へ行った。しばらくして両手に大荷物をかかえて戻ってきた。
「はい、これ。お前の服」
蘭児は制服を受け取った。綿が入った新品の上衣と穿袴が二枚ずつ、帯が二枚、下着が六枚、薄手の肌着も六枚、羊の毛を編んだ靴下が六足あった。手巾が三枚、身体が拭けそうな大きめの手拭いも三枚ある。これも制服と決められているのか頭巾まであった。
「こんなにくれるの」
信じられない気持ちで尋ねると、男は大きな木箱の中を探りながら言った。
「余ってるんだからいいんだよ。暇なんで、沢山作ってしまったし。お前が持っていけば俺には仕事ができる。また切って縫うことができる」
男の声は子供のように弾んでいる。「これか」などと嬉しそうに独りごちながら、木箱から革靴を取り出した。
蘭児は勧められるままにそれを履いた。靴は柔らかくしっとりとして、足にぴったりだった。革靴なんて生まれて初めて履いた。蘭児はおっかなびっくりしながら、周囲を歩いてみた。とても歩きやすい。
「よし、これでいいな。他に欲しいものはあるか」
蘭児は思案した。ここで暮らすのであれば、布はできるだけ沢山あった方が良いかもしれない。
「何か、固い布がもらえるといいんだけど」
「麻でいいか」
「なんでもいい」
男は積み上げた布の中から、麻のさらしを引っ張り出した。五尺ほど巻き取ってから切ると蘭児に渡した。
「あとで布団も届けてやるよ。被服や布関係は全部俺に言いな。袋とかも作れる」
「ありがとう。風呂に行くようにも言われたんだけど」
「ならこの先だ。湯屋はいつでも使える」
「良かった。じゃ、また」
蘭児が行きかけると、男は右手をすっと差し出した。
「俺は被服と裁縫係の
「蘭児。係は……これから決まると思う」
蘭児も右手を出して以依の手を握った。握手を求められたのは初めてだった。以依の手の平は固かった。
荷物を抱えて、蘭児は離れの湯屋へ行った。外に大きな炉があり、火が焚かれている。中に入ると大釜に湯が沸いていた。水が入った大きな瓶も並んでいる。壁には錆びついた鏡までかかっていた。
蘭児は備え付けの桶で湯や水を汲み、浴槽へ入れた。服を脱ぐとそろそろと入った。温かい湯に身を浸すとホッとした。そのまま手巾で身体を洗っていると、ガラッと音がして戸が開いた。以依が立っていた。
「ひっ」
蘭児は声を上げ、浴槽に深く身を沈めた。
「悪い。糸を渡すのを忘れちまった。髷を結うのにいるよな」
「う、うん」
「なんなら結ってやろうか。俺上手なんだぜ」
以依はそのまま湯屋に入ってきた。蘭児は慌てた。彼に裸を見られるわけにはいかない。男でないことがバレてしまう。胸と股間を押さえながら、蘭児は必死に言った。
「だ、大丈夫。自分で結える」
「そうか?」
「うん、自分で結うのが好きなんだ。自分の髪だから丈夫だし、いつも大事」
気が動転するあまり、よくわからないことを言ってしまう。湯気の向こうで、以依は少し残念そうな顔をした。
「じゃ、置いとくからな」
と言うと、太い木綿糸の束を衣類の上に置いた。湯屋から出ていった。蘭児はそろそろと身を起こした。
危なかった……。これから風呂に入るときは、よほど気をつけなくてはいけないと思った。誰も入ってない時を狙うのはもちろん、中からつっかえ棒でもして他の人間が入れないようにしなくてはいけない。しかし、女人禁制で男しかいないらしい宮で鍵をかけて風呂に入るのは、それはそれで怪しまれる気もする。
風呂から出ると、蘭児は薄い胸に麻のさらしをきつく巻いた。身体の線が出ないようにするためである。
といっても、痩せた蘭児の胸や腰に娘らしいまろやかな線はなかった。凶作とそこから生じた飢餓は、彼女から女らしさや娘らしさというものを根こそぎ剥ぎ取っていた。それでも慎重を期して、下着を三枚重ねて着た。その上に上衣を着た。
次に鏡に向かって髷を結った。幼い頃から父が結うのを見ていたからやり方はわかる。濡れた髪を拭き、束ねると頭上でくるくると丸めて団子状にした。太い木綿糸で団子の根元をきつく縛る。その上に支給された頭巾をかぶせると、鏡には若干着ぶくれのきらいのある少年の姿が映っていた。
蘭児は決意した。なぜこの宮が女人禁制なのかはわからないが、自分はここに男として入ってしまった。ここでは男として過ごし、男として暮らさなくてはいけない。女であることは誰にも知られてはいけない。
湯屋を出ると、寧が待っていた。開口一番、彼の声は尖った。
「遅い。身支度ごときに時間をかけるな」
「すみません」
蘭児は肩を竦めた。
「俺は基本的に内院に詰めていなくてはならん。今は外に出てくることができるが……悠長にはしてられん。ここのことをざっくり説明する。ついてこい」
叱る時間も惜しいのか、寧は早足で歩き出した。蘭児も荷物を抱えたまま小走りでついていく。
寧は歩きながら言った。
「考えたんだが、お前は俺の弟ということにする」
「弟……」
意外すぎて、蘭児は戸惑った。
「この宮にいる者は、まあ色んなやつがいるが……基本的には縁故でなければ入れない。紹介とか親類とかだ。俺の弟ということにすれば、内院にいても怪しまれないだろう。もっとも本格的に調べられたら誤魔化せないだろうが。誰かに聞かれたら適当に話を作れ」
「はい」
「お前は殿下のお世話係、つまり近侍となる。側仕えの一人だ」
「はい、わかりました」
寧がさっと振り向いた。
「ここに限ってだが、近侍に上下はない。上官もいない。仕えている期間が長いか短いかだけだ。俺は近侍としては一番長いが、敬語は使わなくていい。下の者たちはもっと適当でいい。口の利き方に気をつけなくてはいけないのは、殿下と段先生くらいだ」
「うん、わかった。……兄さん」
寧を兄と呼ぶのは少し変なかんじがしたが、兄弟と偽るなら早急に慣れる必要がある。心の中で、兄さん兄さんと繰り返した。設定を頭の中に叩き込む。自分は男であり、寧の弟であると。
北へ進むと、また別の棟が見えてきた。棟には東屋よりは狭い住居用の房が並んでいた。寧は一番西側にある房に入った。奥に寝台があり、机に椅子が一脚、備え付けの棚に衣類が入っているだけの簡素な部屋だった。
「俺の部屋だ。お前もここで寝起きしろ。といっても俺はあまり部屋にいない。俺がいない時は好きに使っていいが汚すなよ」
「うん」
蘭児は寝台の上に、今日一日だけで随分と増えた私物を置いた。これまで着ていた父の服は丸めて枕にしようと思った。組合にもらった草鞋は室内履きにいいだろう。
寧は蘭児を連れて外へ出ると、他の房に向かって「亮、把田、出てこい」と言った。房の戸が開き、男が二人出てきた。
太り気味で顔にそばかすがある男が
「弟の蘭児だ。明日から働く」
と言って寧は蘭児を紹介した。把田は洗濯係、亮は掃除係だった。
皇太子専属の近侍は四人いて、蘭児は五人目であるらしかった。洗濯や掃除と係が決められている以上、業務は細分化されているようだ。
へえ……と蘭児の顔を覗きながら、把田が言った。
「かわいい顔してるな。こいつは何をするんだ」
「御膳番だ」
寧は素っ気なく答えた。
「御膳番? ひどくないか。弟だろ」
「弟だからこそだ。身内ゆえに遠慮はいらない」
「お前はまったく……見上げた忠心だな」
と把田は呆れたように笑った。
亮は暗い顔をしてその場に突っ立っているばかりで、一言も言葉を発しなかった。
寧は蘭児を連れて、今度は宮の北東にある医務室へ行った。ここには皇太子専属の医師である
医務室へ入ると、部屋の四方が天井まで届く薬棚だった。どの棚も干された薬草や薬壺、治療器具らしきものであふれていた。奥に机や診察台もあった。肝心の医師の姿は見えなかった。
「段先生、どこですか」
と言いながら、寧は奥へ入っていく。
診察室を通り抜けて勝手口から外に出ると、小さな畑があった。
畑の畝に沿って、白髪白髭の老人がしゃがみこんでいた。脇に篭を置き、薬草らしきものを摘んでいた。
「先生、お邪魔しますよ」
段先生は振り返り、寧を見ると億劫そうに立ち上がった。
蘭児に気づくと、目を細めた。
「はて、これは誰じゃ」
「蘭児です。本日、ここに入りました」
「わしは小童など要望しておらんわ」
「違います、殿下の近侍ですよ」
はあと段先生は大きくため息をつき、肩を落とした。
「寧、わしも歳じゃ。建前上の患者は殿下のみとはいえ、何もかもを一人でこなすのはきつい。もう何年も宮城の医務官を寄こせというておる」
「わかっていますよ。私も何度も人手が足りないと陳情しています。ですが、中央が医科の者を寄こす気配はありません。まあ、世捨て人の願望でもなければ来たがる者もいないでしょうし。毎回、判を押したように先生一人で対処せよとの返事です」
「やれやれ、殿下に回復されても困るからであろうが」
と段先生は空を見上げながらぼやいた。
「実は先生があまりにお困りなのを見かねて、弟を呼びよせました。これから
寧はいけしゃあしゃあと言った。
「弟か。似とらんのう」
「腹違いでして。兄弟と判明したのもごく最近です」
寧は呼吸するがごとく、口から出まかせを吐いている。おそらくは今思いついたことを適当にしゃべっているだけだろう。蘭児は冷や冷やしながら、嘘の設定が積み上がっていくのを黙って聞いた。
「老い先短いわしはいいが、これは随分と若い。一度入ったら出られないと知りながら、この宮に入れるとは……むごい兄よの」
「外で野垂れ死ぬよりはましですよ」
「おぬしは平素からそうじゃが、身内にも冷淡じゃな」
寧は段先生の非難も一切気にする風はなかった。
蘭児にとっても、これは当然の反応に思われた。
寧は弟でもなんでもない他人の、しかも事故同然に置き去りにされた丁の面倒を見る羽目になったのである。いい迷惑だろうし、李子鳴による嫌がらせの一番の被害者でもある。
医務室を出ると、寧は一度内院へと戻った。奥まで行くと左へ曲がる。突き当たりに内側から
皇族専用の厨房である御膳房への直通の道だった。内院へ入るには、南側の鳳凰が彫られた黒の鉄扉か、西の御膳房から出入りするかのどちらかになる。
小路を抜けながら寧は言った。
「さっきも言ったが、お前は殿下の御膳番になる」
「うん、どんな仕事?」
「本来は毒見役だ。殿下が召し上がるものすべてを毒見する。それだけじゃない。配膳や給仕もお前がやれ。殿下の飲食回り全般が仕事になると思え」
「調理も?」
「それはしなくていい。料理人がいる」
二人は内院を囲む塀も越えて、大きな平屋である御膳房に入った。
中はむっとして熱かった。大きなかまどが幾つも並び、すべてに火が入っている。天井からは鴨やあひる、鶏、豚、羊などの肉の塊がぶら下がっている。長方形の大きな卓が幾つも並び、多種多様な野菜や果物、大小さまざまな卵が山盛りになっている。棚には調味料や酒壺が、床には油や水の大瓶が並んでいる。
外へ出る入り口付近には、食材が入っているらしき樽や木箱が大量に積んである。
数人の男が鳥をむしったり、野菜を刻んだり、鍋をかきまぜたりと忙しく立ち動いていた。
「
寧が大声で呼ぶと、大柄な男が包丁を置いてこちらへやってきた。御膳房の料理長である隆善だった。隆善は首にかけた手拭いで汗をぬぐいながら言った。
「おうおう、どうした。菓子か、果物か? なんでもそろってるぜ」
「違う。新入りだ。弟の蘭児だ。明日から働く。今から御膳番の仕事をみっちり仕込んでくれ」
寧は蘭児を前に押し出した。蘭児は簡単に挨拶した。
「おうよ。こいつは長生きするといいな」
隆善はガハハと豪快に笑い、蘭児の肩をぽんと叩いた。
蘭児はドキリとした。御膳番は自分以外にもいたが死んだ、そんな風に読み取れる。
蘭児は尋ねた。
「兄さん、私以外に御膳番はいるの」
「いない。お前の前には五人いたが全員死んだ。御膳番は一人で担当する。歴代の三人は毒見で死に、一人はここを逃げ出そうとして斬られた。もう一人は刺客で殿下のお命を狙ったので俺が斬った」
寧は物騒な事実を淡々と告げた。蘭児は肝が冷える心地がした。とんでもないところに来てしまったと思った。
「毒なあ……料理人も三人ほど巻き添えで死んでんだよなあ。今は鍋や皿から目を離さないようにしているし、味見もそれなりにしているが、ぶっちゃけ宮に入れる者なら誰でも混入できる。実際入れられたらどうしようもねえ。外で食材に塗布されて搬入される恐れもあるしな。俺たちも命がけっちゃあ命がけだが、毒との戦いは御膳房の宿命だからな」
人死には慣れているのか、隆善の口調も軽い。
「ま、殿下のお命さえ守れりゃいいんだよ。そのための御膳番、そのためのお前だ」
「……うん」
蘭児は頷いた。毒見役なのだから、毒が入ったものを口にすれば当然死ぬ。それはわかる。蘭児は毒を知らないわけではなかった。山で獲れるきのこや山菜、草花の実、魚に毒があるものもあるし、腐った食べ物は毒を生む。実際毒のある動植物をうっかり食べて死んだ村人は何人もいた。毒虫、毒蛇に噛まれて死んだ者もいる。毒は常に身近にある。ただ、ここでは事故ではなく、人を殺めるために故意に毒が混入されるという。正直にいえば怖かった。
寧が内院の方を振り返りながら言った。
「では俺は行く。そろそろ戻らねばならん」
隆善が尋ねた。
「今夜の間食はどうするよ」
「俺が運ぶ。明日の
寧は蘭児を残すと、来た道を足早に戻っていった。
隆善は蘭児の前にでんと仁王立ちした。
「おうおう、じゃあ始めるか。まずは料理の名称と順番と、それを入れる器や金物を覚えるところからだ。ここは皇太子殿下のための御膳を作るこの国一番の美食処よ。すっげえ細かい決まりがあるからな。心して聞けよ」
「お願いします」
蘭児は覚悟を決めた。毒のことは、今は考えないことにした。ここで暮らしていくからには、なんでも覚えてなんでもこなしていくしかない。
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