最後の昼餐
凰琳は正鵠へ、紙の端から端までびっしりと想いを書き連ねた手紙を送った。返事は直筆ですぐに来た。「数日中に逢いに行く」とだけあった。凰琳はたった一行の手紙を胸に抱きしめ、一日千秋の思いで夫の訪いを待った。
手紙を書いた三日後、正鵠はやってきた。
皇太子の光臨を知らせる先触れが来た時の、凰琳の喜びようはなかった。大急ぎで風呂に入って髪を結い直し、限られた衣装や装身具を使ってめいっぱい着飾った。念入りに化粧もした。茶や酒器の支度をさせた。崔夫人は凰琳のいつにない浮かれぶりに目を細めた。
昼を過ぎたころ、皇太子の一行が香雪殿にやってきた。
正鵠は馬に乗り、その後を大勢の臣下や侍従が付き従っている。
扉の前まで来ると、正鵠は馬を止め、臣下に向き直った。
「ご苦労、ここまででよい」
劉丞相はじめ一同は礼をした。劉丞相が言った。
「それでは殿下、幣家の入宮のことはなにとぞよしなに。吉日を選びましたらまたご連絡いたします」
夏民部相も一歩前に出た。
「殿下、わが娘と姪も今年中にはお傍にあげますゆえ」
うむ、と正鵠は頷いた。我も我もと家臣たちは一族の娘の上納を訴えた。正鵠はすべて聞き届けた後、馬から降り、数名の近侍を連れて香雪殿へ入った。臣下たちは解散した。
凰琳はそそと進み出て、正鵠の前に跪いた。
「幸多くいらせられます正嫡の君、未来の天子さま、私の偉大な
しきたりどおりに挨拶をした。白凰殿下というのは、凰琳が考えた敬称であり愛称だった。正鵠の「鵠」は白鳥のことである。彼を白き鳳と呼ぶことで、自分が持つ「凰」も引き立つ。
「崔妃、そなたも息災で何より」
凰琳は微笑み、立ち上がった。正鵠が手を差し伸べてくる。凰琳はおずおずとそれを握った。
正鵠は丈が膝までしかない
凰琳はいつも以上に凛々しい正鵠の姿に見惚れた。背丈は今でこそ凰琳より少し高いくらいだが、黎氏の男はみな長身である。これからぐんぐん伸びると思われた。狩りから戻り、着替える間も惜しんで自分の元へ来てくれたことを嬉しく思った。
二人は手を繋いだまま歩きだした。
「殿下、少しお背が伸びられたのでは?」と凰琳が言うと「まさか」と正鵠は笑った。
「だが背伸びしたい気持ちはある。来年には人の子の親になるのだ」
少し照れくさそうに言った。
凰琳は膨らみはじめた下腹部をさすった。
「殿下のために立派な男子を産みまする」
「おなごでもよいぞ」
「それは六人目か七人目に授かれば。男子は五人は欲しゅうございます。
安基公主は黎大公の生母、つまり凰琳の祖母にあたる人である。先々帝である
大貴族で有氏十家の一つである
「殿下がお望みならおなごも産みまする。幾人でも産みまする」
凰琳は祈るように言った。子供の数は、夫への愛情の証とされている。懐妊後の孤閨は辛いが、正鵠が望むのであれば何度産褥の床についても構わないと思った。子供を産んだ後も正鵠に愛されたかったし、愛されていると信じたかった。どうか見捨てないで欲しかった。
宮城を出て外の世界で暮らすという夢は叶わなかった。皇太子と結婚してしまった以上、凰琳が取るべき道は一つしかない。子供を一人でも多く産んで、寵愛を確固たるものにし、後宮での出世をはかるしかない。
「頼む」と正鵠は言った。彼は彼で皇帝一族である黎氏の隆盛と団結を願っていた。
気持ちのよい秋空の下、凰琳は正鵠を庭園の露台へと案内した。円卓や椅子が並べられている。爽やかな風を感じながら、二人は向き直って座った。
近侍や女官が近くに控える中、二人は久しぶりに語らいの時間を持った。正鵠は東部から東遼公の子息たちが来たこと、歓待のため巻狩りに出たこと、途中劉家が治める村に立ち寄ったところ思わぬ歓待を受けて二日も逗留してしまったことなどを話した。都の劉家に連絡が行き、劉丞相の息子や一門が村に駆けつけた。昼夜問わず延々と接待が続きそうなのを、なんとか振り切って帰ってきたらしい。
凰琳も使いの話で、正鵠が狩りで都を離れていることは知っていた。大勢いるいとこたちをはじめとして黎氏一族と交流がないことは寂しく思ったが、正鵠の話は面白く新鮮だった。
正鵠は、東遼公の息子で従兄弟の
それにしても、と正鵠はおもむろに肘をつき、右手を口元に当てた。
「そなたからの文は驚いた。そなたがここまで情熱的なおなごであったとは思わなかった。私に果たしてそこまでの魅力があっただろうかと考えてしまった」
ふいと目を逸らし、少年らしい初々しさで頬を赤らめた。
年の割には落ち着き、大人びているようでも妻からの熱烈な求愛はさすがに気恥ずかしかったようだ。凰琳もつられて頬を赤らめた。
「年甲斐もなく、はしたないことを申し上げたかもしれませぬ。ですが、文に書いたことは私の偽りない正直な気持ちでございます。一目でも殿下のお姿を拝見しとうございました。本日もお時間が許す限り、お傍にいとうございまする」
「それは構わん。私も夜までここにいるつもりだ」
と言いながら、正鵠は近づいてくる衣擦れの音に振り返った。
香宮付きの女官がやってきて、正鵠に耳打ちした。
彼は満足そうに頷き、凰琳に向き直った。
「さて、腹がすいたな」
凰琳は慌てた。そういえば昼を過ぎて
「でしたら、一度香宮へお戻りにならなければ。お見送りいたします」
いや、と正鵠は立ち上がりかけた凰琳を制した。合図のように悪戯っぽく笑った。
「ここへ運ばせる。実を言えば、都に戻る途中で御膳房に使いを出しておいた。支度が整ったようだ」
「……ですが
と凰琳は一応にも諫めた。彼の企みはわかっている。
「午餐ではない、少し手の込んだ
食事ではない、おやつであると正鵠は主張した。
「そうですか、間食ならば問題ございませぬ。私もお叱りを受けずにすみまする」
凰琳は、周囲にも聞こえるように少し大きな声で言った。
「そなたは食べたのか」
「いいえ……」
正鵠が来るとなっては、迎え支度に大わらわで、食事どころではなかった。特に腹は空いていなかったが、それを言っては正鵠の気持ちを台無しにするとわかっていた。
「では仕方ない。腹をすかせた妃の前で、私一人が間食するわけにもいくまい。そなたも相伴せよ」
「はい、お供いたしまする」
凰琳は神妙に頷いた。変な癖をお持ちではあるが、夫の命とあらば従わないわけにはいかない……という風に振る舞った。
正鵠は凰琳のところへ通ってくると、なぜかともに食事をしたがった。皇族は、食事は必ず一人でとるのがしきたりである。皇室典範でも明確に皇族とその家族の共食は禁じていた。いかなる場合も、親子や兄弟姉妹、夫婦で食卓を囲むことはない。後宮では、皇帝も皇后もその他の妃も子女も遵守しなくてはならない厳格な掟だった。
凰琳も皇族としての規範を厳しく躾けられて育ったから、ものごころついた時から食事はいつも一人だった。父や兄と暮らしていたときも食事時になると自室へ戻り、使用人が運んでくる料理を一人で食べた。兄も必ずそうしていた。父には夫人が何人かいたが、妻妾らと共に食べている様子はなかった。孤食を疑問に思うことはなかったし、むしろ皇族として当たり前の気品ある振る舞いだと信じていた。
だから、正鵠が初めて共食しようとしたときは本当に驚いたし、止めようともした。官民の模範となるべき皇太子が、規範を破ろうとするのは恐ろしくも感じた。
けれども、今は彼の好きなようにさせていた。正鵠は凰琳とは違って、宮城を出た外の世界を知っている。案外、宮城の外では、孤食の掟はあってないようなものかもしれない。行事や祭事、地方においてはとうの昔になあなあになっており、皇族も複数人で食卓を囲んでいるのかもしれなかった。
そもそも家臣らの歓待や宴は禁じられていないのだから、皇族が二人以上招かれた場合は孤食にならない。宮城では多くの人の目があるゆえに、正鵠も規範を守っているが、それも食事でないと言い張ればどうにでもなる。
しばらくして、間食を装った午餐の料理を捧げもった行列が香雪殿へやってきた。後宮であるため、男たちの大半は入り口で待機し、料理は中の女官に引き渡された。
例外もあった。三人の
まず
食事が始まった。正鵠は本当に腹が空いていたようで、品よくも旺盛に食べた。凰琳は袖で口を隠すようにしながら少しずつ食べた。衆人監視の中、それも正鵠付きの女官や、御膳番の男たちもいる中で食事をするのは恥ずかしい心地がする。一挙一動足をくまなく見張られているようで落ち着かない。だが、目の前で様々な料理に舌鼓をうつ夫は、本来ならけして見ることができない貴重な姿である。何か眩しいもののようにも感じられて凰琳は目を眇めた。
料理は進行具合を見ながら、御膳房から一品ずつ運ばれてくる。
前菜が終わると主食で、沙糖と醤油で甘辛く煮込んだ豚肉と春菊を挟んだ
次は
以後は、主菜が続く。干しあわびと卵の煮込み、羊肉と白菜の炒め物、あひるの丸焼き、鯉の姿揚げ、鴨肉の薄切り餡かけなど趣をこらした料理が毒見を経て次々と出てくる。円卓は皿や椀で埋め尽くされた。主菜の合間に、羹と主食がもう一品ずつ出てくる。正鵠はいずれもよく賞味した。ひととおり味わうと、白菜豆と鶏肉の湯をおかわりした。女官もよく心得たもので、熱した炭を用意し、その上に湯の鍋を置いて冷めないようにしていた。
「殿下は本当に白菜豆の湯がお好きですね」と凰琳が笑うと「うん、まあ、そうかもしれぬ」と正鵠は曖昧に濁した。
彼は普段から、人にしても物にしても好悪を明らかにしない。好みがないわけではないのだろうが、公平を期するために発言を避けている節があった。内心はどうであれ、表面上は何ものも贔屓せず、何ものも憎まない。それが天子となる者の正しき振る舞いであると教え込まれて育っている。正鵠に仕える者たちは、彼の好みを推しはかりながら、試行錯誤を繰り返すしかない。
正鵠が箸を止めた。心配そうに凰琳を見た。
「崔妃、もっと食べよ」
「はい」
「気分が悪いのか」
「いいえ、そうではありませぬ」
すでに悪阻は収まっている。凰琳は己の食事よりも、ただひたすら夫を見ていたかった。
「腹には子がいるのだ。そなたは私よりもよほど多く食べねばならぬ。油の多いものや甘いものは辛かろう。酢の物なら食べられそうか」
「はい」
「塩が効いたものはどうか」
「はい」
正鵠は女官に命じて、凰琳の皿に柚子(文旦)で香りづけした酢の物と塩豆腐を入れさせた。さらに自分の皿にあった香味野菜を入れた塩味の
「やはり共食するに限るな。食べるものこそが、そなたを雄弁に語ってくれる。そなたを知らねば、案じてやることもできぬ」
としみじみ言った。
凰琳は胸がいっぱいになった。正鵠の優しさが身に染みて、息が苦しいくらいだった。
彼女は確信した。今が、この瞬間が、おそらく自分の人生の絶頂なのだと。こんな素晴らしい人を、半年も占めていられたのは本当に類まれな奇跡だったと。
彼の優しさは、これからは他の女人にも与えられる。公平に、平等に分け与えられる。来月には珂麗麗が、再来月には劉丞相の孫娘が、冬までには夏民部相の娘と姪が入宮する。他の貴族たちも先を争って一族の娘を送り込む。貴族の娘だけではない、いずれは東遼公の息女も……。
もし郷主が入宮したら、皇族の出自であることだけが誇りの凰琳は到底太刀打ちできない。子を産んだとしても、ただの嬪の一人として落ちぶれていくだけである。後宮に妃嬪は増え続ける。妻は大勢いても夫はただ一人、正鵠が妻たちに誠実であればあるほど、凰琳への訪いは間遠になってゆく。
凰琳は頑張って酢の物を食べ、塩豆腐や菜包も食べた。正鵠からの愛情だと思った。いずれは失ってしまう儚い幸福であると思った。舌の上で酸味と塩味が混ざり合って塩辛くなった。
主菜が終わると、果物や菓子が出た。凰琳はいつものように茶を煎れさせようとし、そこで先日珂麗麗にもらった白牡丹茶のことを思い出した。彼女の訪いは不愉快だったが、茶自体は大層美味だった。
「殿下、実は先日、珂家の姫君が挨拶にいらしたのです。その時にお茶をいただきました。皇后さまからの下賜のお品だそうです。折角ですので喫しましょう」
凰琳は崔夫人に命じて、茶器一式と白牡丹茶を持ってこさせた。凰琳に届いた物は、崔夫人がすべて厳重に管理している。
茶は凰琳が手ずから淹れることにした。茶壺(急須)に茶葉を入れかけたところで、彼女ははたと手を止めた。
この茶は珂麗麗と自分が喫している。何も問題はない代物だった。とはいえ皇太子の口に入るものは、例え杞憂であってもしきたりを守り、万全を期すべきだろう。
凰琳は箱に入った茶を、御膳番に向けて差し出した。
「これも頼む」
御膳番は取次ぎの女官から茶を受け取り、茶葉をひとつまみ口に入れた。よく咀嚼して呑み込んでから言った。
「大事ございません」
凰琳は安心し、茶壺に茶と白湯を入れた。茶碗に茶を淹れると正鵠に差し出した。それから自分用にも茶を淹れた。
正鵠は一口、二口とゆっくり茶を啜った。凰琳は塩辛いものを食べて喉が渇いていたので、茶碗一杯をするりと飲み干した。茶はこの前飲んだ時よりも、苦味が強く感じられた。
「珂氏か。珂氏が入宮すれば、そなたは辛い思いをするな」
正鵠は顔を曇らせた。
「いいえ、辛い思いなどいたしませぬ」
凰琳は首を振った。嘘だった。
「幸多くいらせられます正嫡の君、未来の天子さま、私たちの偉大な白鳳殿下。珂家の姫君が入宮すれば、この世に幸せな女人が一人増えるだけでございまする。殿下のような素晴らしい方と連れそえて、幸せにならぬ女人がおりましょうか」
凰琳は悲しみを隠しつつ、正鵠を見つめて微笑んだ。
女に生まれて、この人と出会って結ばれて、何をどうして愛さずにいられようか。いくら愛してもけして占められぬ人と知りながら、どうして……。
「私は殿下と結婚できて、本当に幸せでございまする。殿下が娶ってくださらねば、今頃はきっと尼寺で泣き暮らしておりましたでしょう。寄る辺なき私を殿下は拾ってくださり、救ってくださって……」
そこまで言ったところで、凰琳は咳き込んだ。胸の辺りに鋭い痛みが走った。痛みは強烈な熱となって彼女の喉を灼いた。凰琳は胸を押さえたまま、よろよろと立ちあがった。また激しく咳き込んだ。椅子が倒れて大きな音を立てた。
「崔妃、いかがした」
正鵠が跳ねるように立ち上がった。
凰琳は手で口を押さえた。鉄さびたどろりとしたものが、咥内に充満する。堪えきれず吐き出した。手を離すと真っ赤なものが視界に映った。大量の血だった。
「え……」
凰琳は血まみれの手を茫然と見つめた。あふれた鮮血が指の間から滴り、腕にだらだらと流れてゆく。どこからか悲鳴が聞こえた。
何が起きたのかわからないまま、正鵠の方を見て彼女は驚愕した。正鵠は真っ青な顔をして口を押さえていた。彼の口からも血が滴った。がくがくと全身を震わせて床に突っ伏した。四つん這いになりながら、必死の形相で口の中に指を突っ込んだ。飲んだものを吐き出そうとしている。辺りは爆発したような騒ぎになる。
「でん、か……。そ、んな」
凰琳は真っ赤な手を差し伸べてふらふらと歩いた。円卓を回り込んで倒れた正鵠に近づこうとした。
「崔妃さま、逸琳、逸琳……ああああああ」
崔夫人が叫びながら駆け寄ってくる。夫人の腕に抱きとめられた瞬間、身体の力が抜けた。凰琳はのけぞって天をぐるりと仰ぎ、その場にくずれ落ちた。視界が暗転した。彼女の瞳は大きく見開かれたまま、この世ではない永劫の闇を映した。
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