名まで捧げても
夜を告げる警邏鍾の音で凰琳は目を覚ました。外はすっかり暗くなっている。重い身体を起こすと、婢を呼んで湯を運ばせた。顔を洗って化粧を落とし、身支度を整えた。食欲はなかったが、食べないと身体に触る。簡単な食事を運ばせて食べた。
食事を終えると文机の前に座った。引き出しから日記を取り出した。毎日ではないが、彼女は日記をつける習慣を持っていた。今つけているので五冊目になる。
日記を見つめていると、父が南へ行ってしまった六年前のことを思いだした。
その日、凰琳は出立する父をなんとか見送りに出たものの、別れが辛くて仕方なかった。父の足にしがみついて泣きじゃくった。
黎大公は泣き続ける凰琳を困った顔で眺めていたが、やがて腰を落として、一冊の冊子を差し出した。
「逸琳、お前はあまりにも素直すぎる。大黎の皇族たる者、軽々に自らの心を周囲に知らしめてはならぬ」
逸琳、それが凰琳の本当の名だった。父がつけてくれた名である。かつての名を思い出す時、凰琳は懐かしさと誇らしさと父恋しさで胸がいっぱいになる。
大公は言った。
「慶事があればおおいに喜び、愉快な時は笑えばよい。だが、負の感情は表に出してはならぬ。不安、憤懣、悲哀……これらに圧し潰されそうな時はぐっと堪え、努めて平静に振る舞うのだ。募る思いは日記に綴れ。字に、文にすることで心が整理され、落ち着きを取り戻せる」
凰琳は冊子を受け取った。パラパラとめくったが、縦の行線が引かれた真白の紙が続くだけである。
「お父さまも日記をお書きになったの?」
「ああ。わしも子供の頃からつけてきた」
大公は頷いた。彼の場合、前日にこれまでつけてきた日記をすべて燃やしてしまっていたが。
「お父さまはいつ帰っていらっしゃるの」
凰琳は尋ねた。大公は答えなかった。
「またお父さまと一緒に暮らせるのですよね。私と兄さまとお父さまと三人で暮らせるのですよね」
凰琳は尋ねた。大公は答えなかった。ただ置いてゆく娘をじっと見つめて言った。
「忍従せよ、逸琳」
号令が出た。大公を乗せた車が出立した。馬と徒歩で大勢の供がつき従う。車が遠く、小さくなっていくにつれて凰琳はたまらなくなった。大好きな父と離れたくなかった。
父母は誰よりも大切に敬い、孝行しなくてはならないと教えられてきた。母と死別した以上、孝を尽くせるのは父しかいないのに、どうして父と別れなくてはならないのか。感極まると、崔夫人の手を振りほどいて車を追いかけた。声の限りに叫んだ。
「お父さま、行かないで。連れて行ってください。私も南へ行きとうございます。どうか私もお連れくださいませ」
日記帳を抱えたまま、涙を振りまきながら追いかけた。凰琳の声は大公に届いていたはずだ。けれど、車が止まることはなかった。凰琳は必死に駆けたが、とうとう裳袴を踏んで転んでしまった。
「逸琳、大事ないか」
追ってきた兄が凰琳を助け起こした。凰琳は兄の手を振り払うと立ち上がった。尚も走って追いかけようとしたが、あっけなく女官たちに取り押さえられた。車が遠ざかっていく。父とはそれでお別れだった。
凰琳は人生で一番悲しかった日を思い出しながら、硯に水を入れ、墨をすった。日記帳を開き、日記を書き始めた。
父に似て筆まめな彼女は日記をしるすこと自体はまったく苦ではなかったが、内容は日々あった出来事を記録するというよりは、不平不満、悲憤、愚痴など鬱屈する負の感情を吐露するものとなっていた。凰琳は自らの境遇を嘆き、これまでも叶わぬ願望を切々と書き綴っていた。
宮城を出たい。
一度も見たことがない大都を見物して回りたい。
都やその郊外にあるという別邸や城を訪ねたい。
地方の都市や町や村にも行ってみたい。
兄と共に南へ行きたい。
南黎にいる父に会いたい。
父と一緒に暮らしたい。
父に孝を尽くしたい。
特に宮城を出ることは一番の願いだった。彼女は生まれてこの方、一度も宮城を出たことがなかった。宮城の外の世界を知らなかったし、知るすべもなかった。
父が南へ行ったあと、兄と凰琳はやむなく皇籍を離脱した。父は南黎に発つ前に、異母弟である今上帝に我が子を皇帝の養子とし、皇位継承権を持たない
兄は公子、凰琳は郷主の地位を失った。それは皇族に配分される収入、すなわち領地や城、化粧料、皇帝一族を名乗ることで受けられる様々な恩恵をも失うことを意味した。表向きは大公の皇籍離脱に伴って地位を返上した形になっていたが、事実上の剥奪であった。
凰琳たちは、黎氏を名乗ることも許されなかった。皇籍を離脱しても、通常は黎姓を名乗ることができるにも関わらずである。父が南黎の高家の養子となり、黎姓を失ったからとされたが納得するのは難しかった。凰琳は母の実家である崔氏を名乗るほかなかった。
崔夫人は凰琳を宮城から連れ出し、夫と暮らす自分たちの屋敷で養育しようとした。だが、皇帝は大公の子供たちが宮城を出ることを許さなかった。黎姓を名乗ることができず、もはや皇族ではない甥と姪をあえて宮城にとどめたのである。崔夫人は「皇帝陛下は大事な姪御である姫さまを心配なさっておいでなのです」と言って慰めたが、凰琳には理不尽な仕打ちに思えた。
毎年新年を迎えると、兄と共に皇帝へ挨拶に行ったが、親族の中でも一番後に回され、拝謁の時間も短かった。皇帝は意図して兄妹に冷淡だった。罪人でも見るような蔑みの視線を投げるだけで、一切声を発しなかった。皇帝が大公の子を毛嫌いしていることは、その他の皇族や臣下にも否応なく伝わった。皇帝の不興を買いたくないと、二人から人は遠ざかった。
凰琳は何度も南黎の父に手紙を送った。使いの者は手紙を確かに届けたが高家に入り、
凰琳は、男である兄からなら返事が来るかもしれないと考え、兄の名で手紙を書いたり、兄に書かせたりもした。それでも返事は来なかった。
凰琳と兄はその後も宮城に住まざるをえず、母方の親族の援助で暮らした。凰琳は中堅貴族の崔家とはしては相応の、皇族としては随分質素な生活を送った。
皇太子である正鵠と結婚する際には、「結び金」が問題になった。入宮に関わる諸支度および婚儀にかかる費用、通称「結び金」は、すべて妻側の持ち出しである。妃嬪となる大貴族の娘は盛大かつ豪華に、そうではない娘は簡素な婚儀を挙げる。さらに家格や身分が下がって結び金が工面できない場合は、婚儀そのものが執り行われない。夜に通ってくる皇帝や皇太子と酒を酌み交わし、そのまま床入りである。
凰琳と崔家は、豪勢な婚儀を挙げられる莫大な結び金は用意できなかった。本来香宮に収めるべき持参金も用意できず、客人に振る舞う祝儀にも事欠いた。
林太博が金を出してなんとか身内だけの婚儀を執り行なうことにし、家具や衣類などを支度したがそこが限界だった。むしろ困窮ぶりが伝わったのか、正鵠の方から後宮で生活するための援助があった。
凰琳はまともに入宮するのも難しい己の窮状を深く恥じた。皇太子の栄えある最初の結婚であるにも関わらず、自分は夫の面子を潰していると思った。正鵠もさぞかし落胆しただろうと思うと、胸が塞がる思いだった。
心痛の末に、彼女は自らの名を夫に奉ることにした。大黎では、妻側の事情で十分な持参金や支度金を用意できない場合、妻は夫に「改名を申し出る」という風習があった。夫に好きな名前をつけてもらい、日々呼んでもらうことで、末長く愛されることを願ったのである。
凰琳は、本当は改名したくなかった。逸琳は父がつけてくれた大切な名だった。親からもらったものはすべて、何に代えても大事にしなくてはならない。それなのに、今や父の形見にも等しい名を捨てるなど親不孝の極みのように思われた。
何日も悩み苦しみ、思い詰めて、それでも名前しか捧げられるものがないと観念した後、彼女は自らのたっての希望であるとして正鵠に改名の儀を願い出た。
「何の取り柄もない私ですが、せめて殿下に愛される名となって気安く呼んでいただきとうございます」と阿った。
正鵠は喜び、数日考えた挙句、彼女に「凰琳」の名を与えた。凰は一羽の雌雄同体、もしくはつがいの二羽で描かれる神獣・鳳凰の雌である。
正鵠は「大黎は鳳凰を神獣の王と崇めてきた。天子は鳳の化身とも称する。私はいずれ天子となる身。そなたは黎一族の生まれで同じ血を持つのだから、私の妻になるのなら凰がふさわしかろう」と言った。
凰琳は分不相応な名に驚き、恐縮もしたが、正鵠の思いやりを嬉しく思った。彼は凰琳を同族と見なし、黎氏の血筋を尊重してくれた。
一方、改名したことで兄との仲は拗れた。兄は正鵠との結婚に反対し、婚儀にも出席しなかったが、改名を知ると烈火のごとく怒った。
「お前は父上からいただいた名を、あいつに媚びへつらうために手放したのか。序列一位の皇貴妃ならともかく、お前はお情けで叙せられた嬪なんだぞ。たかが凰の一字をもらったくらいで、骨を得た犬のように喜んで恥ずかしくないのか」
と詰った。凰琳は兄の剣幕に怯え、泣きながら謝るしかなかった。改名は父を裏切り、兄を傷つける行為である自覚はあった。兄はすがる凰琳を振り切って出ていった。
父が去って以来、ずっと兄と二人きりで助け合って暮らしてきたのに、凰琳は結婚によってその絆も危うくしてしまった。その後も兄と顔を合わせる機会はあったが、他人行儀のようなぎくしゃくしたものとなった。兄は改名を認めず、あくまでも彼女を逸琳と呼び続けた。
凰琳はこみあげてくる悲しみを、淡々と文章にした。文字という形で吐き出すと、少し気が楽になる。自分の心を、少し離れたところから見つめることができる。
夜が更けるにつれて正鵠のことも想った。今夜も彼が来ないことはわかっている。彼を慕うようになってから、凰琳の孤独な夜は一層辛いものとなった。忙しいのは仕方がないが、別の嫌な疑念がよぎることもあった。もしや彼の
恋も知らないままに結婚し、結婚してから彼女は存在するかもわからない恋敵への狂おしい嫉妬を知った。いや、女人だけでなく正鵠の限られた時間を占めるすべての事象に嫉妬していた。妬心にまみれた自分を浅ましいと思い、恥ずかしく感じている。最近の彼女の日記は、恋煩いにも似た深い懊悩で満ちていた。
寂しく孤閨を囲うくらいなら、このまま朝まで起きていようか。それは腹の子によくないだろうか。また崔夫人に怒られてしまうだろうか……。
そんなことをつらつら考えながら、凰琳は文箱から薄桃色の紙を取り出した。
彼女は正鵠へ手紙を書くことにした。音信不通の父や筆不精の兄とは違って、正鵠は凰琳が手紙を書くとすぐに返事をくれる。返事はいつも短く、簡潔だった。余計な文言がなくさっぱりしている。時には近侍らによる代筆にもなる。返事が出せない時も、必ず使いの者がやってきて手紙を受け取った旨や正鵠の近況を知らせてくる。とにかく何かしら反応をくれるのがありがたかった。
凰琳は紙を広げ、率直に自分の想いを綴った。
「あなたさまに逢いたい」と。
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