二、寄る辺なき哀妃 -崔凰琳-

謀反人の娘



 宮城を出たい。

 南へ行きたい。

 お父さまに会いたい。

 ……それが彼女の願いだった。



「珂家の姫君のお越しにございます」

 婢の来客を告げる声に、崔凰琳さいおうりんは化粧する手を止めた。鏡に顔を近づける。映る顔は青白く陰鬱で、まぶたは腫れぼったい。凰琳は困ってしまった。こんなひどい顔で人前には出たくないと思った。

 昨夜は寂しい一人寝だった。いや、ここ二ヶ月ほど彼女は後宮のしきたりで孤閨を囲っていた。

 懐妊がわかってからも、正鵠は優しかった。時間ができると凰琳が住まう香雪殿へ通ってきて、限られた時間を彼女と過ごした。無聊の慰めにと宮城の外で得た珍しいものをくれ、悪阻に苦しむ凰琳の身体を労わってくれる。

 正鵠が来ると、凰琳の心は喜びで満ちた。二人は顔を突き合わせて語らい、茶や菓子をつまみ、美しい絵巻物を広げたり詩集を読んだりした。中庭を散策し、花や月を愛でた。

 正鵠は侍従や警護の兵、女官、家臣などいつも大勢の人に囲まれている。香雪殿でもなかなか二人きりにはなれなかったが、目ざとい正鵠は隙を見ては人を払った。

 二人は灯篭や屏風の影、寝台の垂れ衣に隠れるようにして抱き合い、口づけを交わした。手を握り、頬をすり寄せてお互いの体温を確かめ合った。夜が更けて御寝ぎょしんの時間になると、正鵠は別れを告げ、住まいである香宮こうぐうへと帰っていった。彼が泊っていくことはなかった。懐妊した妃は御寝に侍ることを許されない。無事に出産を終えるまで、房事は固く禁じられていた。殿下に無用な刺激を与えてはいけないという理由で同衾もできなかった。


 さらさらと絹ずれの音がして崔夫人が入ってきた。崔夫人は凰琳の母の姉で伯母にあたる人である。凰琳の母は、今上帝の異母兄である黎一徳、通称黎大公の側室だった。崔家から女官として出仕した際に、大公に見初められたのである。母は凰琳を出産してすぐに亡くなった。現在は、崔夫人とその夫である林太博が、凰琳の後見となって面倒を見ていた。

 崔夫人は子に恵まれず、姪の凰琳を我が子同然に可愛がった。これまでは宮城に通ってきていたが、凰琳の結婚を機に彼女の女官となり、同じ香雪殿で暮らしている。目上の伯母が姪に仕えるのは異例であるが、崔夫人はそうまでしても凰琳の傍にいたかった。愛しいのはもちろんだが、それ以上に心配だったのである。

「珂家の姫君がいらっしゃったようね」

 崔夫人は客間の方を振り返った。

「はい、すぐに支度します」

 凰琳は背筋を伸ばした。

 伯母の顔を見ると、しっかりしなくてはと思う。自分は正鵠の一番目の妃である。しかもすでに子を身ごもっている。

「いいのよ、待たせておけば。挨拶とはいえ、いきなり押しかけてくるなんて失礼だわ。あなたはゆっくり支度なさい」

 崔夫人は凰琳の背後に立った。そして鏡に映った凰琳の目が赤いことに気がついた。夫人は嘆息した。

「また泣いていたのね。お腹の子に障りますよ」

「違うの。昨日はなかなか寝つけなくて……」

 凰琳は寝不足が原因と言いかけたが、伯母の目は誤魔化せないとわかっていた。

 凰琳は昨夜泣いた。人目があるところではさすがに堪えたが、寝所に入り、広い寝台に横になると涙が出た。彼女は密やかに泣いた。声を噛み殺して泣いた。どうにも寂しかった。夫の正鵠に逢いたかった。毎朝毎夕、彼の傍に侍りたかった。彼の腕に抱かれ、彼の高い体温を感じながら眠りにつきたかった。けれども、それは正鵠が大黎の皇太子であり、凰琳が彼の妻(の一人)である限りは適わないことだった。

 凰琳は白粉おしろいの入った箱を手にとった。気が進まないが、客が来た以上応対しないわけにはいかない。白粉を小指に少しとり、赤くなった目のふちをなぞるようにしてのせた。


 支度を終えた凰琳が客間に入ると、れいれいは卓付きの椅子に上品に腰かけていた。珂家の当主で、丞相補である道元どうげんの十二番目の娘である。凰琳とは比べるべくもない豪華な絹の衣を身にまとい、耳には重そうな純金の耳飾りをつけ、髪にも翡翠や真珠、珊瑚さんごを散りばめていた。容貌優れ、勝気な瞳をしている。同じく飾りたてた婢を二人連れていた。

 麗麗は立ち上がって挨拶を述べ、凰琳もそれに応えた。二人は円卓を挟んで向き合った。

 崔夫人が茶と果物を運んできたが、麗麗は口をつけなかった。

「このたびは入宮おめでとうございまする」

 凰琳はまずは礼儀として麗麗の婚姻を祝福した。麗麗は来月、入宮することが決まっていた。正鵠と婚儀を執り行い、彼の二番目の妃となる。

「ありがとうございます、崔一嬪さま」

 麗麗は、凰琳を官位で呼んだ。「一嬪いちひん」にわざとらしくいやらしい響きがあった。

 さりげない挑発に、凰琳は顔が強張るのを感じた。初対面ながら麗麗は好戦的である。ふふふと妖しく笑った。

「ああ、でも香宮殿下の後宮は始まったばかりでしたね。今はあなたさましかいらっしゃらないのですもの、ここは崔妃さまとお呼びしましょう。なにせ元は郷主きょうしゅさま、尊いご身分でいらっしゃいますものね」

 鈴を転がすような可憐な声に、あからさまな敵意を込める。

 香宮殿下とは正鵠のことである。皇太子は宮城の東側にある香宮に住んだので、香宮殿下とも呼ばれた。

 郷主は皇族の女子に与えられる称号である。皇帝の娘は公主、その他の女子は郷主に叙される。黎大公の娘である凰琳は当然郷主であったが、六年前にその地位と称号を失っていた。

 麗麗が言うとおり、正鵠の後宮は彼の成人と共にこしらえられたため、まだ日が浅い。成人の儀と結婚は同時に行われるのが大黎皇室のしきたりだった。

 後宮は皇帝と、皇帝の後継である皇太子のみが形成する。

 皇太子は最初の結婚をもって、皇帝よりは小規模な後宮を開く。婚儀を重ね、側室である妃嬪が揃ってくると、後宮は彼の家庭および後継の育成施設として機能し始める。宦官たちが集められ、派閥が形成され、女たちの熾烈な出世競争が始まる。皇太子が即位し皇帝になると、妃嬪たちは皇帝の正室である皇后を目指して、さらにしのぎを削ることになる。

 大黎の後宮は門閥主義で、いわゆる庶民、一般女性に門戸は開かれない。出身の家格こそがすべてだった。

 妻である女官には厳格な序列があり、皇后を頂点として、皇貴妃(皇后の代理)・貴妃・淑妃・徳妃・賢妃の上位の妃五人、下位の嬪(暫定)九人が皇后候補となる名家出身の女性から選ばれる。妃の数は決まっているが、嬪以下に特に定めはない。九人以上になることもよくある。

 その下は、婕妤しょうよ(九人)、美人(九人)、才人(九人)、宝林ほうりん(二十七人)、御女ぎょじょ(二十七人)、采女さいじょ(二十七人)と続き、これは中堅貴族以下、実家の後ろ盾がない女官、貴人出身ではない者などが任命される。

 妃嬪とそれ以下の女官の間には、明確な身分の壁があった。嬪以下の女官は、たとえ皇帝や皇太子の子を産んだとしても、よほどの寵愛と功労がない限り妃嬪にはなれなかった。

 凰琳は皇族出身であり、正鵠の一番目の妃ではあったが、官位は下位の嬪であった。下位にされた理由は明白である。彼女には自分を援助し、後宮での生活を支えてくれる確固たる後ろ盾がなかった。

 さらに悪いことに、正鵠の父である今上帝にも好かれていなかった。皇帝は正鵠と凰琳の結婚に難色を示した。夫唱婦随する皇后も同じ気持ちだろう。凰琳の兄も反対した。元から祝福された結婚ではなかった。

 麗麗は、凰琳の現状や寄る辺なき身上を知っていた。知っていて、あえて意地の悪いことを言った。何事も最初が肝心、今後の敵手となる女を叩き潰しておきたかった。皇族特有の古式ゆかしい話し方も、皇太子に名を奉って媚を売ったのも、結婚早々に子を身籠ったのも気にくわなかった。

 麗麗は手を叩いて婢を呼んだ。

「崔妃さま、今日はお近づきのしるしに贈り物を持って参りました。皇后さまから賜ったものですが、生憎当家では茶は有り余っておりますの。どうぞ遠慮なく受け取ってくださいな」

 余り物を人へ贈るのは無礼千万である。凰琳は腹が立ったが、いちいち反応するのも相手の思惑に乗るような気がして黙っていた。

 麗麗は、婢に白木の箱を持ってこさせた。箱を開けると、中には深緑色の四角い塊が入っていた。茶葉を乾燥させて固めたものである。麗麗は小匙を使って茶葉を崩し、欠片をつまんで口に入れた。食品を贈る場合、相手の目の前で一部を食べてみせるのが大黎貴族の礼儀である。

 舌で茶の味と香りをよく味わうと、麗麗は微笑んだ。

「問題ございません。最高級の白牡丹茶です。いただきましょう」

 麗麗はともかくとしても、姑にあたる皇后からの下賜の品とあれば賞味しないわけにはいかない。凰琳は仕方なく、もてなしとして出した茶を下げさせた。崔夫人に、贈られた茶葉で茶を淹れ直すよう命じた。

 しばらくして白牡丹茶が出てきた。麗麗は、茶を優雅に飲み干した。彼女が飲み終わるのを待ってから、凰琳も一口だけ飲んだ。茶は美味だった。とろりとして上品な甘みがあり、後味が爽やかだった。何より馥郁たる香りが素晴らしい。香り聞きたさに何杯でも飲みたくなる。

 皇后から賜ったというが、皇后は珂家の出身である。おそらくは珂家からの献上品だろう。この白牡丹茶は珂一族の喉を潤すために宮中を回っている。白茶は薬としても用いられる高価なものだ。凰琳はこれを常飲できる珂家の財力に圧倒された。純粋に羨ましくも思った。

 麗麗は、凰琳の様子を注意深く伺っている。すっと目を細めた。

「本日は内覧に参りましたの。来月から暮らすところですもの、今から入念にお支度しませんとね。香宮殿下にもわたくしの部屋で居心地よくお過ごしいただきたいですし。そうそう、わたくしは小徳妃に叙せられることになりました。お部屋は香花殿を賜りました。南で日当たりもよいですし、なんといってもお庭の眺めが素晴らしい。こちらは随分じめじめとしてお暗いのにね」

「……」

 凰琳は、茶碗から手を離した。円卓の下で手を重ねるとぎゅうと握った。

 信じられなかった。自分は下位の嬪なのに、麗麗は序列第四位の徳妃に叙せられるという。皇太子の後宮だから、「小徳妃」と謙遜しているにすぎない。

 部屋は香花殿を賜るという。

 香宮とよばれる皇太子の住まいにおいて、妻女が暮らす殿舎には「天地花鳥風月雪雨上品てんちかちょうふうげつせつうじょうほん」という序列があった。凰琳が暮らす香雪殿は、広さも内装も使用人の数も中庭の手入れの頻度ですら香花殿に劣った。上や品に至っては、婢が寝起きする場所である。

「それは……重畳かと。香花殿はよきところと伺います。麗麗さまが健やかにお過ごしになられるは、殿下にとっても僥倖でございましょう」

 凰琳は、そう言うのがやっとだった。

 皇族の生まれである自分よりも、麗麗の方がはるかに官位が高く厚遇されている。入宮すれば、彼女は凰琳の上官になる。命令されたら従わなくてはいけない。部屋に呼ばれたら何においても駆けつけなくてはならないし、挨拶の際は足元に跪かなくてはならない。それは屈辱以外の何ものでもない。

 仕方がないこととわかっている。珂家は大貴族である有氏十家ゆうしじゅうけを追う新興勢力であり、正鵠も新たな妻をないがしろにはできない。それでも……あまりにも差がありすぎる。

 麗麗は、衝撃を隠しきれない凰琳を満足げに眺めた。高貴な生まれ以外には、何の取り柄もない凰琳を侮辱するのは楽しかった。

「新参者であるわたくしが崔妃さまを差し置いて小徳妃になるなんて。申し訳ないとは思っているんですよ。でも致し方ありませんわね。わたくしは皇后さまの異母妹いもうとですし、父は丞相補。対して崔妃さまは黎大公さま……いいえ、皇帝陛下に反逆した謀反人の娘なんですもの」

 凰琳は青ざめた。麗麗のはしたないまでの露骨な攻撃は、鋭い刃となって彼女の心をえぐった。

 これはさすがに聞き捨てならなかった。……謀反人とその娘。そういう中傷があることは知っていたが、面と向かって言われたのは初めてだった。

 何か言わなければいけない。ここは断固として抗議し、反論しなくてはいけない。自分は何を言われてもいいが、父が侮辱されるのは耐えられない。なのに、咄嗟の言葉が出てこない。

「なんと無礼な……。黎大公さまを貶めるようなお言葉、いくら珂家の姫君でも許されません。不敬でございましょう」

 控えていた崔夫人も、さすがにこの暴言は耐えかねたようだ。血相を変えている。

「おやめ、清湖せいこ

 凰琳はなんとか声を発した。清湖は崔夫人の名である。夫人と同じ気持ちだったが、香雪殿の主は自分である。下の者に庇ってもらうわけにはいかない。

 凰琳はしばし瞠目した。それから麗麗の目を見て、きっぱりと言った。

「麗麗さま、お言葉ですが父は謀反人ではございませぬ。従って私は謀反人の娘ではありませぬ」

「そうかしら? 黎大公殿下は、皇帝陛下に謀反を企てて失敗なされた。皇籍を剥奪され、南に追放されたと聞いております。みなもそう申しておりますよ」

「違います。わが父は皇帝陛下に頼まれ、南黎との共栄共存のための橋渡しとして南へ赴かれたのです。大黎のために高家に入り婿されたのです。そして今も、その務めを立派に果たされておりまする」

 凰琳は必死に抗弁した。

「あら、殊勝なお心がけ。でもそう思い込みたいだけなのではなくて? でないと、あまりにも惨めですものね」

 麗麗は引き下がらない。可憐な唇にさらに毒を乗せる。

「崔妃さまは尊いお生まれですのに、皇籍の離脱を余儀なくされ、郷主のご身分をも失った。挙句に黎氏を名乗ることすらも許されなかった。皇帝陛下がぜひにと望まれ、黎大公さまが真に国のために尽くされているなら、このような事態にはならないでしょうに」

「……それは」

 凰琳は言葉に詰まった。おろおろと目が泳いだ。

 悲しい記憶が鮮やかに、そして底の知れない深い痛みを伴って蘇った。

 どうしてなのか、当の凰琳にもわからなかった。

 父は大黎のために南へ行ったはずだった。

 自分と兄を置いて行ってしまった。あんなに連れて行って欲しいとお願いしたのに……。

 嫌な疑問、嫌な想像ばかりが鎌首をもたげる。

 なぜ自分は皇籍を離脱しなくてはならなかったのだろう。なぜ父は謀反人の汚名を着せられているのだろう。なぜ、父は自分を置いて……いや、捨てたのだろう。

 いくら問うてもわからない。誰も答えを教えてくれない。

 凰琳は茫然とした。果てしなく沈みゆく心に反して、熱く込み上げてくるものがあった。

「冤罪、です」

「何が冤罪なのです」

「父が謀反など起こしておりませぬ。すべて……嘘です。謀りごとです」

 とうとう、とどめようのない熱が目からあふれた。凰琳の頬を涙がひとすじ伝った。泣きたくなどなかった。ことに珂麗麗のような性悪女の前では、けして。

 凰琳の心はあまりにも素直で、心に沿おうとする身体もまた正直だった。ぼやける視界の向こうで、麗麗は唇を上向きに反らせ、凰琳の悲しみを煽っていた。

「嫌だわ、お泣きになるなんて。まるでわたくしがあなたさまをいじめたみたい。同じ香宮殿下の妃になるのです。わたくしたちはいわば姉妹。入宮後はいつでも遊びにいらしてくださいな。こちらからもご招待いたします」

 麗麗は、懐から扇を取り出して開き、見せつけるようにひらひらと扇いだ。

 凰琳は勝ち誇ったように笑う麗麗に、最後まで何も言い返せなかった。


 麗麗が帰ったあと、凰琳は逃げるように寝所へ飛び込んだ。寝台に突っ伏すと泣いた。涙も嗚咽も止まらなかった。

 寝所の入り口で、中の様子を伺いながら、崔夫人は何度も深いため息をついた。夫人は凰琳を心から憐れんだ。

 そして、この結婚はやはり間違いだったと思った。わかっていたのに、止められなかった己の無力さが身に染みる。凰琳の繊細かつ誇り高い性格を考えたら、後宮での生活など到底耐えられるはずがなかった。

 表立っては言えなかったが、崔夫人は凰琳と正鵠との結婚には反対だった。

 正鵠自身がどうこうというよりは、彼が強制される重婚制度が根深い階級差別と偏見に満ち、凰琳にとって不幸の源になると思われたからである。

 まず二人がいくら愛し合おうとも、まともな夫婦生活は営めない。後宮という制度において、一夫一妻は絶対にありえないからだ。貴族たちは家と一族の繁栄をかけて、次々と娘を送り込んでくる。皇帝や皇太子に拒否権はなく、入宮してくる娘はすべて妻として迎えなければならない。上級貴族の娘なら、特に大切に遇する必要がある。

 当然、妃嬪たちは寵愛を競って争うし、他の妃の追い落としをはかる。いびられたくらいで泣いていたら身体も心も持たないし、生き馬の目を抜くような後宮では生きていけない。

 崔夫人は、早逝した妹のこともあって、凰琳の後宮での出世や崔一族の隆盛などは願わなかった。伯母として代母として、凰琳の個人的な幸せだけを願っていた。

 凰琳も、皇太子との結婚は望まなかった。そんなことは考えもしなかったはずだ。彼女の一番の願いは宮城を出た外の世界で暮らすことだった。

 皇族に生まれた女子が合法的に宮城や実家を去るには、降嫁するか出家して尼寺へ行くほかない。他の選択は一切許されない。公主や郷主は十四歳を過ぎた頃から婿選びに入る。十六歳で成人すると同時に、貴族や高官に降嫁するのが慣例である。

 凰琳自身も降嫁を強く願っていた。実際、正鵠の後宮に入るより、貴族の子弟や官僚の令室として傅かれて暮らした方がよほど幸せになれただろう。それなのに……今は皇太子の子まで孕んで泣き濡れる羽目になっている。

 だが、と夫人は反芻する。何度繰り返しても変わらない。悲しみが過ぎたあとは、深くやるせない諦念だけが残る。

 どうして何の力もない彼女に入宮を、正鵠との結婚を拒めただろうか。凰琳を所望したのは、他ならぬ皇太子であったのに……。

 正鵠が従姉妹である凰琳を妃としたのも、そう不自然なことではなかった。皇太子でなくとも、皇族の男子は最初の妻を自身に仕える女官か、見知った親族の女性から選ぶことが多かった。

 大黎では儒教的思想の影響から、同姓不婚が支持されている。同姓の男女の結婚は近親相姦にあたるとされ、皇族同士の婚姻も本来は禁忌である。

 が、現実として抜け道は幾つもあった。女性側が一度でも降嫁する、出家して還俗する、書類上だけ他家の養女にして結婚後に復籍する、短期間だけ実家と縁を切る等の諸手続きを踏めば、皇族女性も皇帝や皇太子の後宮へ入ることができた。むしろ黎氏の女性を妃にして高い地位におけば、外戚にならんとする貴族の勢力を抑えることができるため、公主や郷主を積極的に後宮に入れる皇帝も多かった。最近は縁切りの手続きすらも形骸化し、諸公も当たり前のように娘を入宮させる。

 凰琳は皇籍を離脱して崔氏を名乗っているため、正鵠との結婚は同姓婚とは見なされなかった。近親相姦にあたるとして断ることは不可能だった。

 崔夫人は、足音を忍ばせて部屋に滑り込んだ。伏して敷布を濡らし続ける凰琳の肩をそっと抱いた。

「可哀想な子、可哀想な小鳥……。私の可愛い娘」

 幼子をあやすように囁き、背中をさすった。昔から泣き虫な子だった。悲しいことや辛いことがあると、いつも部屋に籠もり、布団にもぐってしくしくと泣いていた。

 凰琳が顔を上げた。化粧が崩れてひどいことになっている。

 崔夫人を見るとまた激しく慟哭し、胸に顔をうずめた。夫人は凰琳に優しく言った。

「あなたはもうすぐ香宮殿下の子を産んで、母になるのよ。こんなことくらいで泣いていてどうするの。本当に困った子ね」

「ごめんなさい。泣きたくないのに、涙が止まらないの」

「いいのよ、わたくしの前ではいいの」

 夫人は凰琳を抱き、共に悲しんだ。

 愛する娘の悲しみは、夫人の悲しみだった。凰琳が泣き疲れて寝てしまうまで、ひしと抱きしめて離さなかった。

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