女人禁制の宮



 馬に乗った子鳴が、都の大通りを往く。

 蘭児は彼の隣を歩かされていた。縄こそ打たれていないが、都を引き回される囚人のような気分だった。二人から少し離れて、従者がついてくる。

 子鳴は蘭児の沈む横顔を眺め下ろし、惜しむように言った。

「女なら傍に置くんだがな」

 声には執着が滲み出ている。蘭児は、背中がぞわぞわした。悪寒が止まらない。やはり彼は、自分を性的な玩具にするために買ったのだと思った。

「男なのがつくづく残念だ。……さて、お前をどうするか」

 子鳴は蘭児を男だと思い込んでいる。蘭児は女である。

 当初女だと思った子鳴の目に狂いはないのだが、公的な証明書はこの国でもっとも信用に足るものだ。組合の登録を信じたのも無理はない。

 子鳴は大通りを北に進み、宮城に近い地区へ入っていった。

 貴族や士大夫が住まう長大な四合院が立ち並んでいる。

 子鳴はそのうちの屋敷の一つへ入った。突然の訪問に老いた家令が出てきた。子鳴とわかるとその場に跪いた。どうやら知己の家らしいが、家令の顔に歓迎の色はなかった。

 扉を抜け中庭へ入っても、子鳴は下馬しなかった。

 貴人の邸宅を訪ねて、馬から下りないのは失礼な行為である。なのに、家令も他の使用人も誰も咎めようとしない。どういうわけか子鳴は傍若無人な振る舞いを許されていた。蘭児は従者たちと共に後ろに控えた。

 家令に案内されて、主人らしき壮年の男が出てきた。立派な身なりで藍色の冠を被っている。官、それも高官である。

 主人は子鳴に丁重に挨拶を述べた。

「李家の若さま、当家に何の御用でございましょうか」

りん大人たいじん、ご苦労。だが貴殿に用はない。崔夫人さいふじんを呼んでくれ」

 相手が高官であっても、子鳴はぞんざいな口を聞いた。

 大人は、士大夫に対する敬称である。林大人こと林太博りんたいはくはいぶかしんだ。

「はて、奥に?」

「ちょっとした余興だ。呼べばわかる」

 太博は夫人を呼びに行かせた。しばらくして奥から、彼の妻である崔夫人がはしためを伴って出てきた。都風のゆったりとした上衣と裳袴を身にまとい、長い裾を引きずっている。

 崔夫人は馬上の子鳴を見て、露骨に眉を顰めた。

「李家の若さま、お久しゅうございます。わたくしに御用がおありと伺いましたが」

 品のよい、しかし突き放すような声だった。子鳴の訪問は迷惑そうな口ぶりである。冷淡な反応は予期していたのか、子鳴は皮肉っぽく笑った。

「はい、本日は伯母上に面白いものをお見せしたく。無聊の慰めに参った次第です」

 崔夫人は目上に当たるのか、子鳴の口調は急に丁寧になった。蘭児は内心驚いた。組合では馬鹿だ、阿呆だと散々な言われようだったし、彼の乱暴かつ横柄な言葉遣いにはうんざりしていたが、こんな上品な口上もできるらしい。下劣なようで、高尚な一面もある。彼は一体何者なのだろう。

「蘭児、出てこい」

 子鳴に命じられて、蘭児は進み出た。促されるまま、彼の馬の前に立った。

「どうです、この者をご覧ください。いかにも懐かしい心地がしませんか。伯母上ならば格別のはず」

 蘭児を見た夫人は、あっと声をあげた。顔からみるみるうちに血の気が引いていく。彼女はぶるりと震え、口を長い袖で覆った。太博も身を乗り出して蘭児を見、夫人と同じく驚いている。まるで蘭児を前から見知っているかのようである。

「これは、この者は一体……」

 夫人の声はひどく掠れた。その悲痛な顔を見て、子鳴は得意げに言った。

「丁として売られていたのを買いました。初めて見た時は驚きましたよ。まるで運命に弄ばれているかのような出会いです。これはぜひともあいつに見せてやりたいと思いまして、これから円華宮へ連れていくところです。その前に、折角なので伯母上にも見ていただこうと思い立ち寄りました」

「なんと……悪趣味な」

 夫人は子鳴をきっと睨んだ。静かな怒りが伝わってくる。

「この哀れな卑賎の者を殿下に会わせてどうしようというのですか。今更に殿下を苦しめて、それであなたは満足なのですか。つまらない嫌がらせはおやめなさい。恥をお知りなさい」

 夫人に叱責されても、子鳴は冷笑を浮かべるばかりである。蘭児はわけがわからないまま、一同の前で立ち尽くすしかない。初めて会うはずの高官夫人が、どういうわけか自分を見て嘆いたり怒ったりしている。自分の一体何が、彼女の心を揺さぶったというのだろう。

 夫人を制すようにして、太博が割って入った。

「お待ちください。円華宮は女人禁制です。立ち入りが厳しく制限されているのは、若さまもご存知のはず。まさか太后さまのご命令に逆らうというのではありますまいな。女人を入れたと知られたら、ただでは済みませんぞ」

「これは女ではない。……男だ」

 子鳴は自分で言いながらも、諦めきれない情念のようなものを滲ませた。

「なんですと」

 太博は目を見張った。

「証拠もある」

 子鳴は懐から、組合と交わした契約書を取り出した。家令が受け取って、太博に差し出した。太博は契約書を読んだ。確かに、書面によると蘭児という丁は男である。法務局商工所の印まで押してあるからには、正式な証明書である。

 読み終わるのを待って、子鳴は言った。

「大人、俺はこれをあいつにくれてやるつもりだ。斉の共公の故事にもあるじゃないか。公の忠臣・揚薛山ようせつざん美桃児びとうじを失った主人の悲嘆を癒すべく何年も全国を巡った。そしてとうとう美桃児にそっくりの男児を見つけ出して献上し、公をおおいに喜ばせたと。まさに忠臣の鏡だ。俺もそれに倣ってみようと思う」

「ご冗談を。蒼旻妃そうびんひは男ではないし、あなたは殿下の臣ではない。若さま、戯れに人と人の心を弄ぶのはおやめなさい。蒼旻妃を通してあなた方は深く繋がっている。殿下を傷つけようとすれば、あなたも傷つくのです。殿下にやいばを振り下ろしたところで、すべてあなたに跳ね返ってくるのです」

 太博は嫌悪の情を隠すことなく、それでもできるだけ穏やかに言い諭した。

 子鳴は虚を突かれたような顔をした。

「黙れ、お前たちに何がわかる」

「わかりませぬよ。あなたの心の闇は、誰にも」

 太博は、つける薬はないとでもいうようにゆるゆると首を振った。

 子鳴は悔しそうに歯噛みすると、しぶしぶといった面持ちで「出るぞ」と言った。嫌がらせに立ち寄って、林家の平穏をかき乱すことには成功したが、林大人の説諭は耳に痛かったようだ。蘭児は黙って後をついていくしかない。

 背後から「奥さま」という悲鳴が聞こえた。振り返ると、崔夫人が倒れているのが見えた。太博や婢が夫人の細い身体を支え、助け起こそうとしている。子鳴の訪問は夫人に甚大な精神的苦痛を与えたようだった。いや、子鳴ではなく、蘭児がと言うべきかもしれない。


 林家を出た後、子鳴はいったん中央の大路へと戻った。今度は右へ曲がり、西の大路に入った。

「それにしても……お前を見たときのあいつらの顔。大驚失色とはこのことだな」

 子鳴は薄笑いを浮かべたが、声はどこか空回っている。無理に虚勢を張っているようにも見えた。

 蘭児は気が重かった。子鳴は伯母と呼ぶ女性に自分を見せた。夫人は驚き嘆き、卒倒した。そしてこれから「殿下」なる人物のところへ行き、会わせようとしている。自分の存在が誰かを傷つけるのなら行きたくはない。

 自然と足がのろくなった。気がついた子鳴から「早く歩け」と叱咤される。

 一行は西へ進み、やがて都の南西に位置する円華宮へ到着した。皇帝一族が使う別荘である。広大な敷地は白亜の頑丈な石壁に囲まれていた。壁の内側に沿って杉や檜が植えられており、中の建物は見えない。

 子鳴は迷うことなくまっすぐ正門へ向かった。門の前には検問所のような小屋が建てられ、武装した兵士が立っていた。子鳴の顔が険しくなった。聞き取れないほど小さな声で「太后の狗め」と呟いた。

 兵士たちは子鳴を視認すると、一斉に拱手した。

 子鳴は小屋の前で馬を下りた。林大人の屋敷と違って馬では入れないようだ。隊長らしき男が進み出た。

「李家の若さま、御剣みつるぎをお預かりいたします」

 子鳴は腰から剣を外して、隊長に渡した。馬も預けた。

 兵士たちは蘭児を含む従者たちを取り囲み、武器を持っていないか調べた。蘭児も服の上から身体を探られた。服が綿入りなのが功を奏したのか、懐の割符は見つからずに済んだ。

 隊長が子鳴に言った。

「この者は初めて見る顔ですな」

「最近雇った」

「都の貧民ですか。若さまが関わるような人種ではありませんよ」

「お前には関係ない。放っておけ」

 隊長は蘭児の顔を覗き込んだ。蘭児はヒヤリとした。

「男だ」

 咎めるように子鳴は言った。

「わかりました。それではどうぞ」

 と隊長は言い、兵士たちに門を開けるように命じた。中へ入ると、背後で門扉が音をたてて閉まった。

 まず目に入ってきたのは高い杉の林だった。無数の杉が天に向かって屹立し、邸内は清涼な空気に満ちている。整備された小径こみちが林の奥に向かって伸びている。

 子鳴を先頭にして小径を歩く。敷地内もあちこちに兵士の姿が見えた。

 林を抜けると漆黒の瓦屋根と乳色の壁を基調とした壮麗な宮殿があらわれた。入り口の朱塗りの扉の前で、子鳴は振り返った。

「ここで待て。蘭児、お前は来い」

 子鳴は蘭児のみを連れて宮に入った。

 勝手を知っているのか、彼は迷うことなくずんずんと奥へ進んだ。長い回廊を渡り、幾つもの廊下を曲がり、大小の部屋を通り抜けた。宮はその広さに反して、殆ど人を見かけなかった。時々、使用人らしき男たちがこちらを伺っているのが見えたが近づいてはこない。宮殿内に兵士の姿はなかった。

 小門をくぐり、内院へと入った。皇族の私的な居住空間である。

 正面に大きな鉄扉があった。左面に神獣のほう、右面におうが彫られている。扉を閉めると、二羽でつがいの鳳凰ほうおうとなる。鳳凰は三百六十種の鳥類の頂点に立つ鳥王であり、聖なる天子や聖者の象徴である。理想的な君主が出現する際に、天帝の使いとして地上に舞い降りるとされる瑞鳥である。

 鳳凰の鉄扉を抜けると、若い男が跪いていた。子鳴を見ると顔を上げた。その表情は硬かった。

「李公子殿下、このような突然のお越しは困ります。この宮の事情はご存知のはず。せめて前日までにご連絡か、当日でも先触れをいただきませんと」

 丁寧だが棘のある口調である。子鳴は男を冷たく一瞥した。

「嫌味なやつだ。この国に李公子などという者は存在しえない。それを知りながら愚弄するか」

「ですが、その奇矯なご身分を行使されない限り、あなたさまはこの宮にお入りにはなれません。殿下に拝謁することも適いません」

 男は怖じることなく、堂々と言った。

ねい、貴様」

 子鳴は唸り、こぶしを握り締めた。蘭児は寧と呼ばれた男が殴打されるのではないかと危ぶんだ。

 予想に反して、子鳴はすぐにこぶしをほどいた。暑くなったのか、円套を脱いで放った。寧をそのままにして歩き出した。

「どこだ、どこに隠れている。あのうすのろ馬鹿は。さっさと出てこい」

 歩きながら、わざとらしく大声をあげる。寧は立ち上がり、子鳴に追いすがった。

「お待ちください。殿下はご体調がすぐれず、今はお休みになっておられます。どうか別室でお待ちを」

 子鳴は寧を無視し、内院を巡った。途中で蘭児を呼んだ。蘭児も後を追うしかない。

 子鳴は乱暴に扉を開け、各部屋を見て回った。中に誰もいないとわかると舌打ちし、次の部屋に移る。幾つ目かの部屋を覗いたところで、足を止めた。確信したように中に入ってゆく。寧がため息をついた。

 部屋は昼間だというのに薄暗かった。しんと静まり返っているが、人の気配がした。誰かいる。

 蘭児は室内に目を凝らした。中庭に面した格子から、細い陽光が差し込んでいる。

 光を受けて輝くものがあった。取っ手の部分と先端が金で装飾された白檀の杖だった。一目で高価なものだとわかる。杖は壁に立てかけてあり、すぐ傍に椅子があった。

 椅子に目を移すと、そこには男が座っていた。光沢のある黒絹の長袍を身にまとい、長い髪をそのまま後ろに流している。全身が漆黒に覆われる中、白い顔と首だけが宙に浮かんで見え……たところで、蘭児は息を呑んだ。

 最初は面を被っているのかと思った。そうではなかった。

 それはなんとも美麗で奇怪な面貌だった。

 左半分は驚くほどに端正である。繊細な眉の下にある瞳は切れ長だが眦は少したれて、なんとも優しく柔和な印象を受ける。その横にすっきりとした鼻梁、下には形のよい唇が、天の配剤とでもいうべき正しい位置に収まっている。細身ながらがっしりとした体つきから男とわかるが、顔だけなら女と見間違う者も多いだろう。

 左の秀麗さに対し、右半分はおどろおどろしかった。頬の皮膚は赤茶色に変色して筋状に隆起し、こめかみに向かって引きつっている。眉は抜け、眼球は灰色に濁っている。明らかに失明している。首も顔同様、右側の皮膚が赤く変色していた。額から下を左右に分けて、赤と乳白で塗り分けたかのようだった。

 男は人が入ってきても微動だにせず、ぼんやりと虚空を見つめている。

「ここかよ。手間をとらせやがって」

 子鳴が毒づきながら、男に近づいた。

「喜べ、義兄あにが来てやったぞ。世の中に見捨てられたお前に、忘れさられたお前に会いにくる酔狂は俺くらいのものだ。なあ、嬉しいだろ廃嫡殿下」

 反応はなかった。聞こえていないのか子鳴の方を見ようともしない。

「おい、無視するな。こっちを見ろ」

 子鳴は頬を軽く叩いた。それでも廃嫡殿下は瞬き一つせず、呆けたように固まっている。

「くそ、なんなんだこいつは」

 子鳴は寧に振り返った。

「この木偶でくの坊はなんだ。痴呆とおしに加えてろうにもなったのか」

「医師からそのような報告は受けておりません」

「じゃあ聞こえてはいるんだな」

「と思いますが、断言はできません。殿下のご病状は一進一退です」

「こんな状態では来た意味がないだろうが」

「ですからご体調がすぐれないと申し上げました。強引に押し入ったのは李公子殿下ではありませんか」

「公子と呼ぶな」

 子鳴は鬼のような形相で叫んだ。蘭児は耳を塞ぎたくなった。罵声も怒声も聞いているだけで心が削れる。

 子鳴は蘭児の襟首を掴むと引っ張り、廃嫡殿下の前に立たせた。

「どうだ、よく見ろ。俺からの贈り物だ。お前にくれてやる。生憎と男だがな」

 廃嫡殿下は蘭児も見なかった。左目は開かれているが、焦点が合っていない。眼球に蘭児を映しながらも、彼の視界は無関心という壁に深く閉ざされている。

「蘭児、挨拶しろ。直答を許す」

 子鳴が苛々しながら命じた。直答を許すのは、挨拶される側である。子鳴が許すのはおかしいのだが、何の反応もない以上は仕方がない。

 蘭児は勇気を出して口を開いた。

「蘭児、と申します。丁です。李家の旦那さまに買われてここへ来ました」

 それ以上は続けようがなかった。蘭児の逃れようのない非情な現実である。

 挨拶してもやはり反応はなかった。廃嫡殿下の精神は肉体を乖離し、ここではない別の世界を浮遊しているかのようだった。

「この、気狂いめ」

 子鳴はとうとう爆発した。蘭児を前にしての、彼の無関心は到底許せなかった。後には引けなかった。飛び掛かるようにして胸倉を掴むと、上半身を持ち上げてがくがくと揺さぶった。

「貴様、見えているんだろうが。え? 見えているんだろ。見え透いた演技はやめろ。お前はこれを見てもなんとも思わないのか。何も感じないのか。お前が滅茶苦茶にした女だぞ。お前が殺した女だぞ。崔夫人はまだまともだった。これを見て嘆き悲しんだからな。夫人は人間だ。お前はなんだ。人の心を失った畜生だ」

 子鳴は何かと混同しているのか、支離滅裂なことを叫んだ。彼自身が何か、狂想の渦のようなものに呑まれつつあった。

「お前が殺したんだ。お前が悪い。全部お前が悪い。お前さえいなければ……あいつは自由になれた。南へも行けた。積年の願いが叶ったのに……。お前があいつの人生を台無しにしたんだ。俺からすべてを奪っておいて、お前だけが生き残りやがって。こんな腑抜けた白痴になりやがって」

 子鳴はさっとこぶしを振り上げた。殴らせまいと寧が子鳴の腕を掴んだ。

「乱暴はおやめください。手をお離しください」

 寧は声こそ必死だが、目は醒めきっている。子鳴の罵倒や乱暴に驚いた様子はない。辟易しつつも「またか」という冷ややかな諦観が感じられた。このような修羅場は初めてではないのかもしれない。

 子鳴は「触るな下郎」と一喝し、寧の胸に肘鉄をくれて突き飛ばした。寧は壁に当たって倒れ、胸の辺りを押さえて咳き込んだ。蘭児は子鳴の狂態に圧倒され、その場を一歩も動けない。

 子鳴は吠え続けた。

「畜生以下の外道め。あいつさえ、逸琳いつりんさえ忘れてしまったのなら、お前に生きる意味はない。生かしておく必要もない。死ね、さっさと死ね、死んでしまえ」

 耳が腐るような罵詈雑言を吐きながらも、声は次第に疲れ、あてどない哀愁を帯びてゆく。

「なんで生きているんだ。なんでお前だけが……」

 暴言の語彙が尽きてしまい、とうとう鼻声になると子鳴は手を離した。廃嫡殿下は糸が切れた人形のように椅子からずり落ち、どうっと床に転がった。

「もういい」

 と、肩で息をしながら子鳴は言った。

 彼は蘭児に振り返った。これに対しては、堪えきれない思いがあった。どうしようもない執着を覚えながらも、男を愛することはできない。同性の生身を慰めとする勇気はなかった。傍に置いておけないなら、振り捨てる覚悟を決めた。

「これは置いてゆく。戯れに買った玩具だ。どうせ人手不足なんだろう? なんにでも使うがいい」

 子鳴の口元が卑猥に歪んだ。

「愛玩してもいいぞ。もっともお前の一物は役に立たんだろうが」

 嘲笑しながら廃嫡殿下を蹴り上げようとしたが、足は寸でのところで止まった。

「そうやっていつまでも床を舐めていろ。虫けらめ」

 最後に捨て台詞を吐くと、子鳴はさっと身を翻した。

 そのまま部屋を出ていこうとした。

「お待ちください」

 起き上がった寧が、出口を塞ぐように立ちはだかった。

「この者は丁なのでしょう。出自不詳の卑しき者を宮に入れることはできません。そもそも丁の譲渡は禁じられているはずです。お連れ帰りください」

「譲渡が禁じられている?」

「丁妓に関する法をご存知ないのですか。譲渡厳禁の旨は、契約書にも書いてあるはずです」

 子鳴はバツが悪そうな顔をした。本当に知らなかったらしい。

「ならばこれは預けておく」

「なりません。連れ帰ってください」

「黙れ。お前に指図されるいわれはない」

 子鳴は乱暴に寧を押しのけて出ていった。寧は床に転がった廃嫡殿下に呼びかけた。

「殿下、すぐに戻ります。お待ちを」

 寧は子鳴を追いかけていった。尚も二人の言い争う声が聞こえ、徐々に遠ざかっていく。

 蘭児は、そろそろと廃嫡殿下に近づいた。

 見知らぬ人、それも殿下と呼ばれる大層身分の高そうな貴人に触れてよいものか迷ったが、とにかく助け起こさなくてはいけないと思った。

 蘭児が膝を折って、そっと手を伸ばしかけたその時だった。

 廃嫡殿下が動いた。まず右腕が円を描くように床をなでた。ずりっと布地が擦れる音がした。次に緩慢ながらも、しっかりと右肘が立った。それから頭が持ち上がった。右腕に体重をかけながら注意深く上半身を起こした。

 彼は壁を伝うようにして床に座り込んだ。窓辺に立てかけてある白檀の杖を見た。杖を使って立ちたいのかもしれない。蘭児は咄嗟に杖を取り、両手で掲げるようにして廃嫡殿下に差し出した。そうしなければいけない気がした。

 廃嫡殿下がようやく蘭児を見た。いや、子鳴に続いて部屋に入ってきた時から、彼の左目は蘭児を視認していた。驚きもしたし、懐かしくもあった。けして忘れてはいなかった。ただあえて焦点を合わせなかった。

 蘭児も廃嫡殿下の目を見た。小さいが強い光が宿っている。目の光はその者の意識であり、意志でもある。蘭児は直感した。……この人は正気だ。









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