李家の若さま
組合に戻ると、早くも売り場用の掛札ができていた。小さな板に簡単に蘭児の紹介文が書かれている。板の端には穴が開いていて紐でつるすようになっていた。さすがに裸足ではみすぼらしすぎるという理由で、掛札と共に草鞋も与えられた。蘭児は履物を得てホッとした。これで足が汚れなくて済む。
蘭児は掛札を首からかけ、その日いっぱい組合の市に立った。売り場は外から見えやすいようにと木の支柱を四本立て、上に布を張っただけの簡単な作りである。通りを向いて立ち、往来する人々に自分を見てもらい、買い手がつくのを待つ。
売り場には、蘭児の他にも数人の少年が立った。
若いが、蘭児と同じく特に技能を持たない、健康なこと以外に取り柄がない者たちである。特技や専門知識を持つものは別のところへ連れていかれ、少しでも高値になるよう競りにかけられる。丁を求める客の大半はそちらへ行くので、蘭児の周囲は寂しいくらいに閑散としていた。人の流れは途切れないものの、売り場まで入ってくる者は滅多にいない。冷やかしで来る者は、すぐに売人に追い払われる。一応にも官製市場であり、官吏が売っているため、売人の方がどことなく偉そうにしている。客との交渉はすべて売り場担当の売人が行い、丁は口をきいてはいけない決まりだった。
日が傾き、夕刻を告げる警邏鍾が鳴り響く。家路を辿る人々の足が早まり、空が真っ赤に染まる頃合いだった。
売り場の前を、馬に乗った男が通りかかった。白絹の長袍をまとい、腰には
男は馬上から蘭児を見下ろした。蘭児は視線を感じ、男を見上げた。逆光で男の顔はよく見えない。男はそのまま馬で通り過ぎた。が、しばらくすると、馬首を返して戻ってきた。そして、ゆっくり道を戻りながら蘭児を見た。蘭児も再度馬上の男を見上げた。男は去っていった。
半刻半ほどして、蘭児はまた視線を感じた。振り返ると、先ほどの男が馬を止めてこちらを見ている。何回も同じところを往復しているからか、従者は困惑の表情を浮かべていた。
とうとう男は馬を降りた。蘭児の前までやってくると、顔をずいと近づけて、彼女の顔を穴が開くほど見た。
男は、雷よりは若く見えた。背が高く整った顔立ちだが、不躾な視線に高慢の気配がする。上衣の襟元がはだけている。目のふちがほんのり赤くなっており、酒の匂いがした。酔っているのかと、蘭児は顔を背けたくなった。男のねっとりと絡みつくような視線に、生理的な嫌悪を感じた。
男は視線を下に向けた。蘭児が首から下げている札を読んだ。そして驚いたように「男かよ」と呟いた。
ようやく客が来たかと、世甫が一足飛びでやってきた。
「おや、李家の若さまじゃないですか。丁をお求めですかい」
李家の若さまと呼ばれた男は、興が醒めたかのようにフンと鼻を鳴らした。世甫を無視すると、くるりと踵を返した。従者に手伝わせて馬に跨ると去っていった。
世甫はなんでもないとでもいうように、蘭児の肩をぽんと叩いた。酔っぱらいが来て売りものを冷やかしていった、ただそれだけのことのようだ。
日が暮れると市場は店じまいとなった。蘭児たち丁は組合の二階の部屋に連れていかれた。床には薄い寝具が置いてある。ここに寝泊まりするらしい。
雷は男と女は別の部屋で寝泊まりすると言ったが、他の少年たちも同じだった。一緒くたにされたことを残念に思ったが、致し方のないことだった。
夕飯は饅頭二つと白湯が配られた。それを食べてしまうと、蘭児は早々に寝具を敷いて横になった。
丁同士が会話することも禁じられている。部屋の戸は常時開け放たれたままで、警邏鍾が鳴るたびに世甫やその他の売人が見回りにやってくる。一番安い商品とはいえ、逃亡や丁たちが不必要に親しくなることを警戒しているのだった。売れるまでは組合で寝起きし、毎日市に立つことになる。蘭児は寝てしまうことにした。寝てしまえば、余計なことを考えずに済む。
翌日も蘭児は市に立った。相変わらず客は少なく、売り場に入ってくる者もまばらだった。
昼近くになって、蘭児は視界の端に見覚えがあるものを認めた。昨日やってきた男、李家の若さまが通りを挟んだ向かいに立っている。従者は連れず一人だった。身だしなみはきちんとしており、日よけのためか笠をかぶっている。彼は何をするでもなく腕を組んで、ただ通りを挟んで市に立つ蘭児を見ている。ただ見ているのだ。飽きもせず、じっと見ている。まるで彼女を厳しく吟味するかのするように。
晩秋にしては珍しく暖かな日だったが、蘭児は背筋が寒くなるのを感じた。売りものなのだから見られて当然であるし、咎められることでもないが、得体の知れない視線が不気味だった。
若さまは時々姿が見えなくなったが、しばらくすると戻ってくる。彼は日がな一日、市が閉まるまで蘭児を見ていた。
その翌日も、李家の若さまはやってきた。さすがに三日目ともなると、世甫や他の売人たちも蘭児が目的と気づいた。異様な関心を持っていることを気味悪がった。
「また来ているのか、李家の馬鹿坊は。営業妨害てわけじゃないが、どうにも気持ち悪いな」
「しっ、声が大きい。聞こえるぞ」
「構うもんか。何もできやしねえよ」
とひそひそ話している。蘭児は彼らの話から李家の若さまの名を知った。
蘭児は憂鬱になった。自分の何が気に入ったのかわからないが、早く興味を失って欲しいと思った。
「蘭児」
不意に大声で名を呼ばれた。
声がした方へ顔を向けると、先日別れた雷が必死の形相でこちらに駆け寄ってくるのが見えた。彼は次の仕事を得るため、都にとどまっていた。
雷は売り場に飛び込むと、世甫に断って蘭児を外へ連れ出した。といっても組合から離れることはできないので、売り場の裏手に回った。
「おじさん、どうしたの」
周囲に誰もいないのを確認すると、雷は堰が切れたようにまくし立てた。
「おい、一体どうなってんだ。たまたま通りがかっただけだが、お前を見て目が飛び出るかと思ったぞ。売り場も違うし、意味がわからん。お前、お前は……男として売られているじゃないか」
「男? なんで?」
蘭児も寝耳に水である。雷は、蘭児が首から下げている掛札の一点を指さした。
「だって、お前……それ『
読みあげる雷の声は動揺から震えている。蘭児は掛札をまじまじと見た。そこで初めて彼女は「男」という字の意味を知った。
「ああ、だから……」
蘭児はようやく合点した。世間を知らないゆえに組合での暮らしはそういうものと思っていたが、実は根本から間違っていたのである。
自分は衣類すら満足になく、父の服を着ている。顔は殴られて腫れていた。都へ来てみれば丁になるのは男ばかりで、組合の売人たちも少年たちをさばくうちに蘭児も男だと思いこんだ。男で登録されてしまったので、売り場も寝泊まりする部屋も少年たちと同じだったのだ。
「妙に買い叩かれておかしいと思った。女の丁なら男より高く売れるはずなんだよ。あいつらお前を男だと勘違いしたんだ。ありえねえ。どうやったら男と女を間違えるんだよ。
雷は呆れたり怒ったりしたが、こうしていても埒があかない。意を決して言った。
「今からでも遅くない。お前は女だと言って再度登録し直してもらおう。このままじゃお上を謀ることになるし、お前は相場より安く売られちまう」
と行きかけた雷の袖を、蘭児は慌てて掴んだ。
「待って、おじさん」
蘭児の脳裏に浮かんだのは、通りを挟んで立つ李家の若さまである。彼は毎日やってくる。一日中、自分を見ている。異様な執着を感じるし不気味で仕方ないが、同時に「男だから」と購入を迷っているような節もあった。
「このまま男だと思われていた方がいいかもしれない」
「なんでだよ」
「昨日から私のことをずっと見ている人がいる。李家の若さま、李子鳴とかいう人。一昨日は私の掛札を見て、男だと知ってがっかりしていた。けど、昨日も今日も朝から来てずっと見ている。勘違いじゃないよ、私だけを見ている」
「なんなんだ、そいつは。お前を買う気なのか」
ほら、と蘭児は壁に隠れながら、通りを挟んで立っている李子鳴を顎でしゃくった。雷はちらちらと覗き見ながら確認した。
「あいつか。男前だな。着ているものも豪華だ。金持ちみたいだが、
「冠をつけていると官なの?」
「下っ端は俺たちと同じような頭巾だけどな。官位を持っているなら、冠をかぶっている。色と形で分かれているんだよ。佩刀もしているな。なんでだ? 貴人でも剣を携えられる人間は限られるはずだ」
雷はあれこれと李子鳴の身分を推測したが、結局わからないようだった。
蘭児は、怯えたように呟いた。
「もし女で登録し直されたら、あの人は私を買うかもしれない。そうしたら私は……」
それ以上は声にならなかった。雷も蘭児の気持ちを察した。丁は奴隷ではないとはいえ、その立場はとても弱く、一般の使用人よりも下に置かれる。女の丁は、主人の心一つでいかようにもなる。
「おじさん、お金のことはいいから私は男のままにしておいて。間違えたのは組合の人たちなんだから、おじさんは悪くないよ」
「あいつが嫌なんだな?」
「嫌」
蘭児は断言した。
「嫌なやつだと思う」
言いすぎたかなとも思い、柔らかめに言い直した。
「……わかった」
雷は大きく息をついた。
「隠し通せる自信はあるのか。女だとバレた時にどうなるかわからんぞ」
「自信なんかないよ。その時はその時だよ」
蘭児はやけくそ気味に答えた。男と偽ることに不安を感じないわけではないが、性別を間違えたのは組合である。自分にも雷にも非はないのだ。バレたところで、組合にはいくらでも言い訳できるだろう。それよりも女と知られて買われて、李子鳴に好きにされる方が恐ろしかった。
雷は心配そうだったが、蘭児の気持ちを尊重してくれた。通りには戻らず、裏手からそっと立ち去った。
蘭児は売り場に戻った。すると、間髪入れずに男が入ってきた。噂をすればの張本人、李子鳴だった。
子鳴は蘭児の前に立ち、怒ったように言った。
「お前、今会っていた男は誰だ。父親か、兄か?」
売人にひと声かけるでもなく、いきなり詰め寄ってくる。どうやら、子鳴は雷と蘭児が一緒に裏に消えたのを苦々しく思っていたようだ。
蘭児は、丁の規則通り返事をしなかった。目を合わせずに下を向いた。妬心だかなんだか知らないが、馬鹿馬鹿しいにも程がある。父親や兄が一体どんな顔をして、捨てた家族に会いに来るというのだろう。的外れもいいところだし、雷のことを知られたくもなかった。
「答えろ。あいつはお前の何なんだ」
子鳴は声を荒げ、蘭児に触れようとした。世甫がすっ飛んできた。蘭児を背後に庇うようにして笑顔を作った。
「若さま、お手を触れるのは勘弁ですよ。売りものなんですから。さっきのはただの仲介人でなんでもありません。どうやら蘭児がお気に召したようで何よりです。こいつは他の旦那からも声がかかっていましてね。値段も手ごろですし、決断するならお早めになさ」
「うるさい」
子鳴は遮り、蘭児に向かって冷たく言った。
「お前、こっちを見ろ。顔を見せろ」
蘭児は仕方なく顔を上げて子鳴を見た。人を見下す嫌な目をしている。
子鳴は蘭児の顔を正面から、右側から、左側から、下からとゆっくりと舐めるように見た。何かを確認するような仕草だった。やがて満足したように顔を離した。
「まだ少し痣が残っているが、見られる顔になった」
子鳴はなんらかの理由があって蘭児を見初めたようだ。顔の腫れや傷が気になっていたのだろう。毎日市場に通って、傷が癒えるのを待っていたのだった。
子鳴は世甫に向き直ると、傲岸に言い放った。
「こいつを一晩貸してくれ。連れていきたいところがある。金は払う」
蘭児は驚愕した。心臓がバクバクと脈打つ。一晩の貸し、組合はこれを承諾するのだろうか。卑しい丁であるとはいえ、そこまで粗略に扱われるのか。
世甫は客の無体には慣れているのか、全く動じなかった。
「あ~そういうのはやってないんですよね。大事な商品を傷ものにされて返されても困りますしね。一夜の慰めをお求めでしたら、別のところへ行ってください」
「だめなのか」
「だめです」
世甫はにべもなく断った。子鳴は途端に不機嫌になった。
「この木っ端役人が。この俺がお願いしているんだぞ」
「お言葉ですが、丁妓は国の専売、ここは国営の市場です。お上、すなわち皇帝陛下のお膝元で営業しているんです。法を破るわけにはいきません。丁の貸し借りは厳禁です」
「買い取れということか」
「はい。銀貨三百五十枚でお買い求めいただけます」
「三百五十? これにそこまでの価値はないだろう」
子鳴は冷笑した。蘭児は胃がむかむかしてきた。値段ほどの価値がないなら放っておいて欲しかった。
貴人から見れば、丁など人間のうちに入らないのかもしれない。しゃべる家畜のようなものなのかもしれない。それでも彼の言うことが理解できる以上はどうにも不快だった。不愉快な男だった。
「金満家でいらっしゃる若さまにとっては、はした金かと。手持ちがないなら、李夫人にお願いしてはいかがですか。買い取りさえすれば、これは今後五年間あなたさまのものです。売約が成立すれば、私どもは何も干渉しませんよ。煮るなり焼くなり、どこへ連れていくなりお好きになさればよい」
世甫は引き下がらず、子鳴への軽蔑の念も隠さなかった。
子鳴は押し黙り、世甫をきつく睨みつけた。それから、拗ねたように顔を背けると足早に出て行った。
世甫は子鳴が雑踏に消えたのを見届けると「子供か」と吐き捨てた。
「女には不自由してないだろうに、遊び飽きてとうとう男に目覚めたのかねえ。迷惑なこった」
蘭児はその場に立ち竦んだ。子鳴に買われなかったという事実を喜ぶまでにはしばし時間を要した。
市が終わるといつもように部屋に戻って夕飯を食べ、早めに就寝した。粗末な床に雑魚寝だったが、安心して眠ることができた。
翌朝もいつものように市が開いた。
蘭児が売り場に立った瞬間、待っていたように男が入ってきた。子鳴だった。彼は銀糸で縁取った豪奢な
子鳴は世甫の足もとに銀貨の詰まった革袋を投げた。
「はした金を用意してやったぞ。這いつくばって数えろ。三百五十枚きっかりある」
「若さま。まことにありがとうございます」
世甫は平伏し、革袋を拾うと両手で掲げるようにして事務所へ運んだ。子鳴と蘭児も事務所に入った。
半刻ほどして奥から世甫が出てきた。子鳴に紙の契約書を二枚差し出した。子鳴は契約書をざっと眺めると二枚ともに署名し、そのうちの一枚と割符を受け取った。銀郎が作った蘭児の売約板の右半分である。
この瞬間、子鳴は正式に蘭児の主人となり、蘭児は彼の所有物となった。子鳴は腕を組むと、蘭児に向かって横柄に告げた。
「今日から俺がお前の主だ」
蘭児は目の前が真っ暗になった。性別を偽ってまで買われたくないと思った男のものになってしまった。
「返事をしろ」
「はい、李家の若さま」
「旦那さまだ」
「はい、旦那さま」
蘭児は言われたとおりに彼を呼んだ。
「お前の一挙一動足まで俺が管理する。俺が許すまで誰とも口をきくなよ」
蘭児は、緊張に身を固くしたまま神妙に頷いた。そうする以外にどうしようもない。
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