丁と妓



 一刻半(三時間)ほど山道をくだり、ようやく平地へ出ると雷は川べりに荷馬車を止めた。休憩ということらしい。馬に水を飲ませ、馬車に積んでいたまぐさを与えた。荷物から麻の手巾を取り出すと蘭児に渡した。

「何も持ってないんだろ。これをやるから顔を冷やせ」

 蘭児は川へ行き、まず水を飲んだ。水しか腹を膨らませるものがない。それから傷に触れないようにそっと顔を洗った。手巾を濡らしてまぶたや頬に押し当てた。

 家族との別れは散々だった。

 夜明け前に雷の馬車が来て、蘭児は叩き起こされた。

 母は蘭児の一枚しかない着物の上に、父親の冬用の服を着せた。唯一綿が入ったものだったが、上衣うわぎ穿袴ずぼんもぶかぶかだった。

 蘭児は、今になって自分が辿ろうとしている運命に愕然とした。本当は大声で叫びながら外へ走り出したかった。どこへも行きたくなかった。女郎になるのは嫌だった。売られてしまえば自分は死んだも同然で、最初から存在しないものになってしまう。二度と家族に会えないし、村にも戻れない。

 蘭児は父にすがりついて懇願した。「行きたくない、どうか家に置いてくれ」と訴えた。

 願いは聞き届けられなかった。父は激怒し、彼女の頬を張り飛ばした。

「親に逆らうなんて許されると思っているのか。お前は割股かっこしてでも親に尽くす教えを忘れたのか。お前の我儘で俺たちに飢え死にしろというのか。ご先祖様がつむいだ家系をここで絶やせというのか。ここまで育ててやった恩を忘れるなんてとんだ親不孝者だ。もうどこにでも行ってしまえ、二度とここへは帰ってくるな」

 そう罵倒しながら、容赦なく打ち据えた。起き出してきた弟が騒動を見て泣きだした。母は弟を抱きしめて、その場にうずくまった。娘を殴る夫を止めることはなかった。

 どんなに殴られても蘭児は諾とは言わなかった。その場を動かず、泣きもせず、ただじっと殴打に耐えた。我慢していれば、父はいずれ疲れて諦めるだろうと思った。

 父は強情な蘭児に業を煮やした。とうとう蘭児の首根っこを掴むと家の外に引きずり出した。飢えでやせ細った身体のどこにそんな力があったのか、蘭児を抱え上げると藁でも投げるように馬車に放り込んだ。

「行ってくれ、早くこいつを売ってくれ」

 と父は怒鳴った。

 雷は黙って馬車を出した。蘭児は頭をしたたかに打って、床に転がっていた。目が回ってしばらくは動けなかった。


 川の水面をぼんやり眺めながら、蘭児は思った。

 どうせ売られるなら、あんなことは言わなければ良かった。殴られずにすんだし、皆にきちんと別れの挨拶だってできたかもしれない。父母はもちろんのこと、弟にも妹にも。吉祥ばあさんにだって……。

 もう会えないかもしれないのに、ひどい別れ方をしてしまった。興奮が醒め、頭が冷えてしまうと、残ったのは水底へ沈むような昏い後悔だけだった。

 馬車に戻ると、雷は草や枯れ枝を集めて火を熾していた。

 鉄鍋を取り出し、川の水を入れて火にかける。袋から麦の饅頭まんとうを二つ取り出すと、火のそばに置いた。

 蘭児は頬に手巾を押し当てたまま、焚火のそばに座った。

 饅頭を見ていると、腹がぐううと鳴った。恥ずかしいのを誤魔化すように雷に尋ねた。

「これからどこへ行くの」

「都だ。人は、一番人が多く集まるところに需要がある。お前はそこの市に立つ」

 雷は温めた饅頭の一つを、蘭児に放った。

「しょうがねえな、食えよ」

 蘭児は礼も忘れて、饅頭にむしゃぶりついた。もう三日もろくに食べていなかった。麦粉で作った饅頭なんて久方ぶり……どころか固形物自体を口にしていなかった。うまいもまずいもなく、味覚も麻痺したまま、あっという間に食べてしまった。

 雷は饅頭をかじりながら、木の棒で地面に「丁」と書いた。

ていだ。お前がこれからなるのはこれだ」

「丁……」

 蘭児は地面に書かれた記号のようなものを見つめた。雷が文字を書けると思わなかった。

「丁は、主人のために定められた期間を働く限定奉公人だ。給金も休みもないが、一日二回の飯と衣服と住居を与えられる。移動や結婚の自由はない。重労働は免除されていて売春も禁じられている。これを仕事として強要した場合は主人が罰せられる。年季が明ければ自由になれるが、使用人として働き続けるやつもいる」

 蘭児は雷の説明を、一字一句聞き漏らさないようにした。

 耳慣れない語句もあるが、大体のことは理解できた。

 続けて雷は地面に「奴」と書いた。

だ。奴隷のことだ。一切の自由がなく、一生誰かにこき使われて死ぬ運命だ。奴隷になるのは戦争捕虜だ。けど、もう長いこと戦はないし、これまでいた奴も前の天子さまが恩赦で解放された。つまり今は存在しないし俺も見たことがない」

 古今東西のどの時代、どの地域においても、権力者は安価に使える労働力として奴隷を所有した。奴隷がいない場合は、戦争や略取といった手段で調達した。

 大黎国の場合、他国との戦で得た捕虜(異邦人)を奴隷にするのは問題なかった。異邦人とは中華の文明圏の外に住む未開の蛮族であり、人ではない。

 しかし、自国民を奴隷とするのは道義上問題があった。当初は異邦人の奴隷であっても、その子孫は大黎で生まれ育つ。子孫は同じ言葉を話し、同じ風習を持ち、同じ法の下で生きる自国民と解釈された。大黎の上層は、「儒教と仏教を国是とし、文明国に生きる文明人」という自負と矜持があったから、同じ文明人であるはずの同胞を奴隷に貶めるわけにはいかなかったのである。

 先帝は即位すると、異邦人およびその子孫である奴を解放した。奴は大黎に存在しなくなった。

 代わりに使われるようになったのが、下層身分で奴隷もどきの「丁」だった。前借り金で縛り、無償労働で返還させるのだが強制力はなく、あくまで本人の意志でなるものとされた。奴隷とは違うことを示すために法で細かい規定を作り、多少は丁の権利も認めていた。

 さらに雷は地面に「妓」と書いた。

だ。女郎のことだな。女が売られると大抵これにされる。詩が詠めたり、芸を売ったりする女もいるがやることは同じだ。待遇は……名目上奴隷じゃないってだけだな。一応年季が明ければ自由になれるが」

 雷は小首を傾げた。自由になった妓は見たことがない……と言いたげだった。

「丁・奴・妓の三種類で人は売買される。奴はいねえから実質二つだな。女の丁はかなり珍しいが、まったくいないわけじゃないし男よりは高値がつく。もちろん妓よりは安いけどな」

「丁になるとして、どれくらい働けばいいの」

「前借り金次第だ。お前はそうだな、五年も働けば足りるんじゃないか? お前が売れると、前借り金の半分が家族に支払われる。半分でも来年の夏くらいまで食いつなげるだろ。残り半分は、主人から直接支払われる。もらえる時期は交渉次第だ」

「ありがとう、よくわかった」

「大丈夫とは思うが、逃げようなんて考えるなよ。お前が逃げたら、家族には前借り金の三倍の追徴金が課せられる。払えなきゃ牢獄行きだ。一家ごと破滅するぞ」

「うん、逃げたりはしないよ」

 蘭児は静かに言った。とうに諦めはついている。

「雷おじさんが市で売ってくれるの?」

「俺はお前を市へ連れていって交渉するだけだ。丁妓は国の専売だ。専門の組合が仕切っていて、あとはそこのやつらが全部やってくれる。俺は荷運び人だ。お前を丁にしようが妓にしようが貰える金は変わらねえ。だったら丁でいいだろ。わざわざ妓にして妓楼を儲けさせてやる義理はねえ」

 鍋の水が沸いて、シュンシュンと音を立てた。

 雷は干し肉の塊を取り出し、小刀で切って鍋に入れた。干し肉は湯を吸うと、ぷっくりと膨らんだ。雷は干し肉のかけらも蘭児にくれた。蘭児は少しでも腹持ちするように固い肉を何百回も噛みしめた。

 肉を煮た湯も無駄にせず、塩を入れて飲んだ。椀を貸してくれたので、蘭児も肉汁入りの白湯を飲むことができた。白湯を飲むと身体の奥がじんわりと温まった。

 湯をすする蘭児を眺めながら、雷はしみじみと言った。

「お前は女だし、とにかく良い主人に巡り合うことを願うんだな。丁は仕える主人がすべてだ。辞めることができねえんだから、変なのに当たったら地獄を見ることになる」

「主人以外のところで働くことはできないの?」

「できない。丁の譲渡や貸し借り、転売は厳禁だ。移動の自由がないってのは、主を変えられないという意味もある。そんなのを許したら無法状態になるだろ。これでも、丁には随分細かい決まりがあるんだぜ。丁は十三歳以上三十九歳未満の男女に限る、とかな。お前は十三にはなっているんだよな?」

「たぶん」

「たぶんてなんだよ」

「たぶん十は越えていると思う。家の裏に梅の木があって、八回は花が咲いたのを覚えているから」

「……適当すぎだろ」

 雷は呆れたが、蘭児にも己の正確な歳はわからないのだった。農村ではどの家も子沢山だが、子供の死亡率も高い。全員が成人するとは限らないため、役場に出生を届け出ない親も多い。多く生まれて多く死ぬ。蘭児の親をはじめとして、村の誰も子供の歳なんか気にしなかった。

 吉祥ばあさんは「女は初花が来るまでが子供、初花が来て子供が産めるようになったら女、子供を産めなくなったら婆。それしかないよ」と言った。その基準に当てはめるなら蘭児はすでに女だった。

「仕方ない、お前は十五ということにしておく。他にも決まりは色々ある。丁には毎食最低でも升半分の粟や稗を、正月はます一杯のもち米を与えなくちゃいけないとかな。衣類の他に、年に一回靴を支給するとか」

「本当に詳しいんだね」

 蘭児が感心すると、雷はハアと大仰に息をついた。

「俺も丁だったんだよ。お前くらいの時に売られて七年奉公した。売られた日は……死にてえ気分だったな。俺を買った主人はクソを煮詰めたようなクソ野郎で、ひでえ目にあった。理由もないのにしょっちゅう殴られてよ」

 嫌なことを思い出したのか、眉間に皺を寄せる。

「つっても、悪いことばかりでもなかった。少しだが字の読み書きができるようになったしな」

 雷は立ち上がり、てきぱきと鍋や食器を片付け始めた。焚火は土をかけて消した。休憩は終わりだった。


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