一、最初から存在しないもの ‐蘭児‐

阿蘭村の子



 ――蘭児らんじは貞女でいたかった。


「心配すんな、お前は女郎屋には売らねえからよ」

 ひっきりなしに揺れる荷馬車の上で、馬に鞭をくれながら男は言った。三十がらみの小男である。

 馬車は一台がやっと通れるほどの狭い山道をくだってゆく。朝もやにとけた月が沈み、空気はぴりりとしている。秋は深く、初雪の日も近い。東部の冬は早く始まり、長く続く。

 蘭児は伏せていた顔をあげた。寒風にさらされた頬がズキズキと痛んだ。ぐっと奥歯を噛みしめて耐えた。

 黙っていると、聞こえてないと思ったのか男はもう一度言った。

「お前は淫売にはしねえ」

「……ほんとに?」

 蘭児は探るように尋ねた。にわかには信じがたい。

「ああ」

 と男は言いきった。

「俺は金にはなっても、なるべく恨みは買いたくねえんだ。これからもお前の村とは付き合いがある。変な噂がたったら困るんだよ。だから、いつまでもめそめそするんじゃねえよ」

「泣いてないよ」

 と蘭児はそっけなく言った。

 それは本当だった。彼女は心身ともに傷つき、ひどく打ちひしがれてはいたが泣いてはいなかった。

 男が振り向いて、蘭児の顔をまじまじと見た。まぶたも頬も赤く腫れあがり、唇の端が切れて血がこびりついている。痛々しい限りだったが、目に涙は浮いておらず泣いたような跡もない。

 女は、特に若い娘はことあるごとに泣くものだと思っていたが、そうでないのもいるらしい。

「なら、いいんだけどよ。ひでえ顔だな」

 意外そうに唸りながら、また前を向いた。

 蘭児は恐る恐る尋ねた。

「売られた子はみんな女郎にされるって聞いたけど」

 男は思わず吹き出した。

「そんなわけあるか。男はどうすんだよ。こういうのはな、仲介人次第なんだよ」

「どうしたら女郎にならずにすむの」

「あとで説明してやるよ」

 とにかく女郎にはならなくていいらしい。蘭児はホッとした。

 恐怖と不安でぐちゃぐちゃになっていた心が、ほんの少しだけほぐれた。とりあえず最悪の道は避けられた、そんな気がする。

 生まれてこの方、蘭児は村とその周辺からは一度も出たことがなかった。けれども女郎、およそ春を売る女ほど見下され、軽蔑されるものはないと知っていた。家族にとっても著しく不名誉な存在であり、女郎になってしまったら最後、縁を切られてしまう。

 蘭児の場合、教えてくれたのは、村に住んでいる吉祥きっしょうというばあさんである。ばあさんは家族と死に別れ、今にも崩れそうなあばら家に一人で住んでいた。村で唯一の産婆で、赤子をとりあげる礼に食べ物や衣類をもらって暮らしていた。

 吉祥ばあさんは村一番のおめでたい名を持っていたが、ばあさんが話してくれる昔話は、まったくもっておめでたくなかった。それは今も昔も、貧困と飢えと悪漢に苦しめられる農民の怒りと怨嗟の声でしかなかった。

 いわく、ばあさんには親代わりに育ててくれた歳の離れた姉がいた。姉は凶作の年に売られたが、行き先は当然女郎屋だった。遊里が一番高く売れるからだが、そこへ行くことは姉の社会的な死をも意味していた。

 姉が行ってしまったあと、ばあさんの親も親戚も村の人間も、彼女については一言も話さなくなった。売られた女は死んだものと見なされて、誰もが口をつぐむ。

 姉は一家全員が年を越せるほどの金や食べ物と引き換えに、「最初から存在しないもの」となった。

 吉祥ばあさんは、姉のことが忘れられなかった。

 村に行商人や旅人が来るとこっそり姉について尋ねたし、町に年恰好の似た女がいると知れば、代書屋に頼んで手紙を託したこともあった。密かに帰りを待ち続けたが、ばあさんが結婚しても子供を産んでも姉が村へ戻ってくることはなかった。

 だから、絶望的な秋を迎え、本格的に冬を迎える前に蘭児が売られると知ったとき、ばあさんは深く沈黙し、身体中から気が抜けるような大きなため息をついた。

 何度も力なく首を振り、両手で顔を覆ったかと思うと目をカッと見開き、ぼんやりと虚空を見つめ、最後に「だめだね、本当に。だめだよ、何もかも」と言ったのだ。蘭児には、それが無実の死刑宣告のように聞こえた。

 実際どうしようもなかった。

 今年はひどい凶作で、麦やあわひえといった主要な作物が殆どとれず、東部の村では飢饉が起きていた。

 東部を治めるのは、先帝の弟である東遼王とうりょうおうである。皇帝の皇子、およびその兄弟は「公」の称号を持つ。民からは東遼公、東の殿下と呼ばれて敬われていた。阿蘭村およびその一帯は東遼公の直轄地である。領主である公は事態を重く受け止め、今年は税を免除する布令ふれを出した。それでも農民たちにとって食料の確保は困難を極めた。

 村の備蓄が尽きると、蘭児は毎日食べられるものを必死に探した。山に入り、山菜やきのこはもちろんのこと、食べられそうな草や木の実、柔らかな木の皮までかき集めた。鍋でどろどろになるまで煮つめて食べた。日がな一日、水辺でどじょうや蛙、蛇、食べられそうな虫をとった。

 だが、どの家も飢えている。どの家も考えることは同じである。近隣で口に入れられるものは、あっという間にとりつくされてしまった。父は家族を食わせるためになけなしの衣類や家具、食器、とうとう一頭しかいない老いた牛まで手放した。

 売れるものを全部売りはらい、それでもどうにもならない、これから半年は続く厳しい冬を越せないとなったときに、一家がとる道は二つしかなかった。家族全員が飢え死ぬか、誰か一人を犠牲にして生き延びるかである。

 蘭児の下には、五歳か六歳になる双子の弟妹がいた。弟は病弱で手がかかったが大事な跡取りである。男子を手放すことは考えられない。妹は幼すぎて売りものにならない。

 家族の中で、それなりの歳でそれなりに働けて、まとまった金になりそうなのは蘭児しかいなかった。


 山々の稜線が白い光を放ち始めた。薄い墨を広げたような空に太陽がのぼってくる。

 山向こうの斜面にへばりつくような集落が見える。夜が明けたのに、家々の煮炊きの煙は見えない。煮るものがないのだろうか、どこも同じなのだろうかと蘭児は思った。

 退屈なのか、男がまた話しかけてきた。

「お前、名前はなんてんだよ」

「蘭児」

「蘭児か。そのまんまだな」

 蘭児の住む村は、正確には東遼群とうりょうぐん檪陽県れきようけん阿蘭村あらんむらという。東部はその大部分が山岳地帯である。阿蘭村は、国じゅうに張りめぐらされた全周街道から東の高山道に入り、峠を越えた高地にある最初の村だった。農業以外に食うあてのない僻村だが、馬車ならふもとの町へ行くのに一日とかからない。彼女の名は「阿蘭村の子」という意味である。つまり、村の子はみな蘭児である。

「おじさんは?」

 と今度は蘭児から尋ねた。会話すると空腹や痛みがまぎれる気がした。

らい。つっても、俺の村の男はみんな雷だ。お前のことは言えねえな」

 雷は苦笑した。彼は同じ檪陽県雷同村の出身だった。雷同村は、阿蘭村よりさらに山奥の三つ峠を越えたところにある。道が整備されていないため、車は入れず、馬か徒歩で行くしかない。

「みんな同じ名前じゃ大変じゃない?」

「そうでもねえ。兄弟なら雷一とか雷二とか適当に区別する。東の雷、西の雷、川向こうの雷、片目の雷、ケチの雷、ハゲの雷ってな。学生がくしょうがいれば、もっと気の利いた名前をつけてもらうんだが、あまりに田舎すぎて誰も来ねえ」

 学生とは、幼いころから学業に励みながらも官吏登用試験である科挙に合格できず、官僚になれなかった者の総称である。

 大抵は地方の小役人で終わるが、宮仕えを嫌って富裕層の家庭教師におさまる者、私塾を開いて生徒をとる者もいた。農村では、学生は「老師」「先生」と呼ばれて歓迎された。公的教育などは存在しないため、民衆の大多数は無知文盲である。お布令が書かれた立て札が読める、文字が書けるというのは特殊技能であり、僻地であればあるほど重宝された。

 蘭児はかつて村にいた学生を思い出した。村で一番大きな屋敷、村長の家に居候していたりょう先生のことを。

 梁先生は村長の客だったが、村長の子供たちに字を教え、役場の仕事も手伝っていた。頼まれると、子供の名づけも請け負った。村の中で読み書きができるのは村長一家と梁先生だけだったので、村人からは頼りにされていた。

「うちにはいたよ。梁先生という人が」

「そりゃいいな」

「うん、いい人だった。梁先生は東部でも一、二を争う秀才で、都の最終試験まで行ったんだって。官職は約束されていたのに、なぜか試験を辞退してしまって。東部に戻ってきたの。東遼公さまが召し抱えようとしたけど、それも断ってうちの村に来た」

「官職を蹴るなんて変人だな。今も村にいるのか」

 蘭児はどう答えたものかと迷った。咥内に、血とは違う苦いものがこみ上げてくる。

「もう、いない」

「出て行ったのか」

「……死んじゃった。賊に吊るされて」

 村長には息子たちの他に明花めいか蓮花れんかという姉妹がいて、蘭児は幼いころから村長の家に出入りしていた。姉妹は蘭児よりも年上で、村で唯一の友達と呼べる存在だった。

 明花と蓮花は、屋敷の外へ滅多に出なかった。だから、いつも蘭児が訪ねていって屋敷内で遊んだ。そのうち三人は自然と離れの梁先生の部屋へも出入りするようになった。部屋は書物だらけで黴臭かったが、先生はもの静かで優しい人だった。本を読み聞かせてくれたし、蘭児たちのとりとめのない話を笑って聞いてくれた。

 蘭児は梁先生のことが好きだった。明花はもっと好きだったと思う。村の者たちは、梁先生にずっと村にいて欲しいと思っていた。村長はいずれ明花と蓮花のどちらかと結婚させて婿にするつもりなのだと噂した。

 しかし、別れは突然にやってきた。

 三年前、村は匪賊に襲われたのである。蘭児たちは間一髪で山に逃げて無事だったが、賊たちは村長の家を取り囲んだ。貯蔵庫にある種もみも含め、村にあるすべての食料を差し出すよう要求した。そんなことをしたら村人たちは飢えて冬を越せないし、春先に種も撒けない。村長は要求を拒んだ。賊たちは村長を殴打し、家に火をつけた。略奪が始まった。

 村長と三人の息子、梁先生は木に吊るされ、女たちは連れ去られた。村長の妻は村はずれで遺体となって発見されたが、明花と蓮花の行方はわからないままだ。

 姉妹のことを思うと、蘭児の胸は痛む。あんな極悪非道な賊にさらわれて無事でいるとは思えない。おそらく、もう生きてはいないだろう。

「そうか、災難だったな」

 梁先生の死を知って、雷は残念そうだった。山間部の村では学生は貴重である。梁先生が健在なら、短期間でもいいから雷同村にも来て欲しかった。

 蘭児は話題を変えることにした。

「雷おじさんはなんで人買いになったの」

 はあ? と雷は素っ頓狂な声をあげた。

「馬鹿言え。俺は荷運び人だ。人買いなんて人聞きの悪いこと言うな。依頼があれば、人でも物でもなんでも運んでいる。兄貴が田畑と家を継いだからな。それ以下は全員お払い箱なわけよ。好きでやっているわけじゃねえが食い扶持は自分で稼がねえといけねえんだ」

 と早口でまくしたてた。

 売られた娘を女郎にして恨みを買いたくないと言い、人買いと思われるのを嫌がる。悪い人ではなさそうだと蘭児は思った。

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