廃嫡殿下の御膳番

八島清聡

序、廃嫡殿下の出生 ‐とある歴史研究家の私的考察‐



 廃嫡殿下の話をしよう。


 大前提として、民衆は彼の名を知らなかった。

 彼の氏姓はわかる。そのままに国名であったから。

 名を知る必要はなかった。知らなくても困らなかった。

 彼の名が世間に広まり、日常で口の端にのぼることはついぞなかった。

 彼は、いつの時代も庶民に人気があった。

 この上なく高貴な生まれでありながら、その波瀾に満ちた生涯は後世で伝記や小説になった。歌にもなった。講談や戯曲、芝居、人形劇にもなった。大人も子供も、彼の物語をおおいに楽しんだ。

 名前がわからないため、主人公であるにもかかわらず、登場人物の紹介は決まって、特別な役職のような、そうでもないような不思議な通り名が用いられた。注釈や説明を加えなくとも、それだけで通じた。

 中国の歴代王朝に仕え、多くの史書を著した学者たちでさえも、まことの名よりこの通り名を重視した。

 言葉の意味だけを考えるならば、これはまぎれもなく汚名である。誹謗中傷とも言えるだろう。彼の信奉者の中には、呼称を不敬と考える者もいただろう。

 けれども呼ぶ方に、悪意や揶揄する気持ちはなかった。ひいきの役者の屋号を叫ぶような親近感があった。

 人々は生まれや身分に関係なく、哀惜と畏敬と愛着の念を込めて、彼を廃嫡殿下と呼んだ。


 廃嫡殿下とはいったい何者なのか?

 ここからは、明代に発見され、現在の中華人民共和国青海省にある西方桂台遺跡から出土した史書「大黎たいれい正史せいし」、偽書「大黎別史」、当時の風俗や文化が記録されており、明の万歴帝に仕えた儒学者・せきとうらくによって編纂された書籍「林孟之りんもうの書今釈しょこんじゃく」、また本邦の大黎国研究の第一人者である佐藤喜一郎著「大黎国~西域の中華史~」(太平堂出版刊)を中心に、廃嫡殿下が生まれた大黎国たいれいこくについて語っていこう。

 大黎国は、黎氏が中華圏と西域の境界に興した国で、九一〇年から約三百三十年に渡って現在の華中西部を支配したが、大黎暦一五五年(西暦一〇六五年)になると北黎ほくれい南黎なんれいの二つの国に分かれた。

 南黎国は大黎国第三代皇帝・りょう帝の女系である高氏こうしが政治の混乱に乗じて独立し、大黎の南西部に建国した国である。

 南黎は黎氏の国ではないため、高氏南黎とも呼ばれる。(北黎は、一二四二年にモンゴル帝国に滅ぼされるまで『大黎』を名乗ったが、南黎に分かれる前の大黎国と区別するため、以後北黎に統一する)

 高一族は南黎建国後も、自分たちはあくまでも偉大なる父祖・黎氏の分派であるとわきまえた。国名は改めず、北黎の皇室こそを正統と崇め奉り、毎年のように進貢したため両国に大きな衝突は起きなかった。高氏は本家にへりくだり、戦乱を回避したことで、南部に安定した政権を築いた。

 南黎に独立されたことで国土の四分の一を失った北黎は、その後も有力貴族の内紛が長く続いた。政変が起きるたびに皇帝が変わり、幼帝が立つと外戚が権力を振るった。

 第十一代皇帝・鍾文帝しょうぶんていの時代になると東、北、西と三方から異民族の侵入が相次ぎ、各地は荒らされた。

 鍾文帝は異母弟三人を東部、北部、西部の諸王に封じ、人民を脅かす蛮族、夷狄の討伐を命じた。皇帝直属の王師軍を地方に派遣し、攻め入ってくる夷狄を各個撃破して国土防衛を成し遂げた。その功績をたたえて、鍾文帝は伐狄君ばつてきくんとも贈諡ぞうしされている。

 その後、王師軍は中央には帰還せず、皇弟たちが治める地方にとどまった。さらには国境警備や鍛錬の名目で兵力を増強し続けたため、三地方を合わせた軍事力は中央をしのぐほどになった。

 鍾文帝は、南に国境を接する南黎への対策も行った。異母兄のれい一徳いちとく(黎大公)を高家に養子として送り込んだ。兄を高家に入れ、高家の娘と婚姻させて縁戚となることで、南黎の進出を阻もうとしたのである。


 鍾文帝は皇后・鄭氏ていしとの間に一男をもうけた。

正鵠せいこく」と名付けられた男児は、生まれたその日に立太子し、北黎の正当な後継者と定められた。

 北黎における皇太子とは、皇帝の正室、すなわち皇后が産んだ男子である。名に特徴があり、特別に使われる一字に、彼がもちうるすべての権威、権力があらわされていた。

 名前には必ず「正」の字が入った。「正」は皇帝や皇太子そのものを顕す字であるため、両親が同じ兄弟でも使うことは許されなかった。

 皇帝一族のみならず貴族や庶民も、名に「正」の字を使うことは固く禁じられていた。当時の有識者は畏れ多い字として「禁字」「尊字」と呼んだが、一般に使えない以上「正」は死んだ文字であった。(当時の文書や書物で名前以外に「正」を用いる場合は、一画減らしてへりくだった造字『下一』が用いられたが、ここでは『正』に統一する)

 皇太子となった黎正鵠は大黎国史上、いや中国史上においてもかなり珍しい数奇な人生を辿ることになる。

 まず確かなこととして、正鵠は身体に障害があった。

 偽書「大黎別史」(元は『大黎正史』の五巻に収められていたが第十三代・慶雍帝けいようていの時代に指定を外された)によれば、正鵠は「生まれながらに右目が見えず、顔の右半分は麻痺して皮膚が引きつり、右足首は内側にねじ曲がっていて歩行が困難だった。身体が不自由なだけでなく、精神薄弱で知能は幼児ほどしかなかった。声は老人のようにしゃがれて聞き取りづらく、意志疎通が難しかった。成人後も日がな一日奇声をあげながら屋敷を徘徊し、糞尿を垂れ流した」と書かれている。

 しかし、これは真実ではなく、正鵠を貶める誹謗中傷と考えられている。なぜなら、正鵠は十代前半までたびたび宮城(董陽万華宮とうようばんかきゅう)の外に姿を見せていたからである。根拠として、当時の目撃談をしるした民間の日記や回想録が存在している。

 時の皇太子は常に臣下や警護の兵に囲まれていたが、至って壮健で、都や地方を視察する際は颯爽と馬を乗りこなしたという。

 性格は明朗闊達で、身分の低い者とも気さくに話したため人気が高かった。少なくとも少年時代の彼は、心身共に健常であったと思われる。


 正鵠が十二歳の時、母の鄭皇后が亡くなった。死因は腹に石ができたためとされている。

 喪が明けると、鍾文帝に仕えるあまたの妃嬪のうちで、序列第一位の珂氏かしが新皇后に立った。珂氏は正鵠の継母けいぼとなり、翌年男子を出産したが、その頃から鍾文帝は体調を崩し病に伏せるようになった。

 正鵠は十四歳になると成人し、従姉妹であり同じ宮城で育った崔氏さいしと結婚した。崔氏は正鵠の三歳年上だった。

 二人は仲睦まじく、崔氏はすぐに懐妊したが、懐妊がわかった二ヶ月後に腹の子と共に急逝している。死因は「大黎正史」「大黎別史」ともに記録されていない。そして妃の喪も明けぬうちに、正鵠は廃嫡され皇太子の地位を失ってしまうのである。

 廃嫡令は父の鍾文帝の名で発せられたが、廃嫡された理由や経緯はわかっていない。正鵠自身の病、父帝との不和、継母である珂皇后および珂一族との確執など、様々な説がある。

 廃嫡されて一ヶ月後、病床にあった鍾文帝が崩御した。

 ただちに新帝の即位が宣言されたが、玉座についたのは珂皇后が産んだ男子・正鷲せいじゅでわずか一歳の赤子だった。第十二代皇帝・聆喜帝れいきていである。

 珂皇后は太后となり、幼い新帝の摂政となった。宮廷の高位や要職は外戚である珂一族が多くを占め、一大勢力となった。

 廃嫡後、正鵠は都の西にある別邸・円華宮えんかきゅうに移された。

 彼は重い病であるとされ、表に姿を見せることはなくなった。

 都の人々は、悲運の皇子の現状を知りたがったが、円華宮は武装した兵士で厳重に警護され、人の出入りも厳しく制限されたため内部の様子はわからなかった。中に入ることができるのは、一部の皇族や高官のみとされた。

 それから、十年近くの歳月が経過した。

 その間に元皇太子の訃報が報じられることはなかった。

「殿下の動静はわからないが、東方、北方、西方いずれも目立った動きはない。各公たちの支持は依然として高く、ご存命なのは確かなようだ。だが十年近くも幽閉されて、自由なき御身の胸のうちはいかばかりか」

 と当時の都の商人・壇弓だんきゅうの日記にしるされている。

 人々は在りし日の皇太子を懐かしみ、哀惜の念を込めて彼を「廃嫡殿下」と呼んだ。

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