つま先

沢田和早

つま先

 正月三日目の朝、僕は自転車を漕いでいた。アパートを出てすでに一時間が経過している。


「おい、何をチンタラ漕いでいるんだ。もっとスピードを出せ。もたもたしていると午前十時に間に合わんぞ」

「そう思うんなら引っ張ってくださいよ。先輩なら造作もないでしょう」

「馬鹿者。他人の力を当てにしてどうする。己の力のみで獲得してこそ価値があるのだ。ほれ、漕げ漕げ」


 僕に発破を掛けながら一緒に自転車を漕いでいるのは先輩だ。


 先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩は一年浪人してしまったからだ。

 同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。


「うう、正月早々こんな目に遭うなんて。今年も先輩に振り回されそうだなあ」


 どうして正月三日に片道三十キロのサイクリングを敢行することになったのかというと、昨日先輩がこんなことを言い出したからだ。


「初夢を見た。この町から三十キロほど離れた場所に神社がある。その名はつま先神社。そこでは今年一月三日、十名限定で一貫の餅が与えられるのだ。行くぞ」


 こんな話を即座に信じ込むほどお人好しな僕ではない。さっそくネットで調べてみた。ウェブサイトにもグーグルマップにもSNSにも「つま先神社」などという単語はまったく見付からない。


「愉快な初夢を見られてよかったですね。行くのなら勝手にどうぞ。僕は行きません」

「なんだ、餅は要らないのか。一貫といえば四キロ弱だぞ。それが無料で手に入るんだぞ」

「それはあくまでも夢の中の話でしょ。どんなに検索してもつま先神社なんて見付かりません。つまり存在していないんですよ」

「ネットに存在しないからといって現実に存在しないとは限らない。それに俺の夢は当たる。八割引きで入手したヒレカツを忘れたのか」


 そう言えば昔そんなことがあったっけ。あれも夢のお告げだったんだよな。


「いえ、覚えています」

「だったら何を迷うんだ。めでたい正月だってのに食べているのはいつもと同じうどんやパスタ。悲しすぎるじゃないか」

「それはそうですけど」

「餅だぞ。焼いて良し、煮て良し、揚げて良し。どうだ、食いたくないか」

「食べたいに決まってます。でも往復六十キロは遠すぎませんか」

「それくらい自転車なら楽勝だろう。時速二十キロで走れば三時間だ。運動不足解消にはちょうどいい」

「うーん、でもなあ」

「俺は行く。行って餅を貰ってくる。おまえが食わせてくれと言っても食わせてやらん。悔しそうな顔でよだれを垂らすおまえの顔が目に浮かぶなあ。たった三時間のサイクリングを嫌がったせいで大きな不幸を招いた自分の愚かさを後悔するがいい。はっはっは」


 馬鹿にした口調で煽ってくる先輩の言葉を聞いているうちに燃えるような反発心が湧き上がってきた。ここまで言われては引き下がれない。


「わかりましたよ。行けばいいんでしょ。明日は腹いっぱい餅を食べましょう」


 ということで翌日の今日、つま先神社に向けて自転車を漕ぐことになったのである。


「それじゃ先輩、道案内をよろしくお願いします」

「任せろ。夢で見た映像は鮮明に残っている」


 前半は順調だった。ありふれた平坦な舗装道路が続いていた。しかし二十キロを過ぎた辺りから一気に山道になった。延々と登りが続く。やがて道は砂利道に変わった。これ以上ママチャリを漕ぎ続けるのは不可能だ。


「先輩、ここからは降りて押していきましょう。あと何キロくらいですか」

「二キロもないと思う」


 登り道であることを考えれば四十分はかかるだろう。時計を見ると九時十分。十時にはギリギリ間に合いそうだ。早めに出発したのは正解だったな。

 冬の山道は寒い。日陰には雪が残っている。晴天でよかった。雪や雨だったらさらに困難な道行になっていたはずだ。


「はあはあ、まだかな」

「もう少しだ。頑張れ」


 白い息を吐きながら進む僕たちはやがて最悪な局面を迎えた。道がなくなってしまったのだ。


「先輩、行き止まりじゃないですか。この道で本当に合っているんですか」

「問題ない。ここからは茂みの中を行くぞ」


 さすがにもう自転車を押してはいけない。道端に自転車を置き、餅を入れるリュックを背負って木々の中を歩く。完全な獣道だ。人気はまったく感じられない。道標も標識もピンクテープもない。ここだけ文明から取り残されているかのようだ。


「本当にこの先に神社があるんですか」

「ある。俺を信じろ」


 ここまで来たら信じるしかない。それから歩くこと十分ほど、いきなり目の前に鳥居が現れた。


「これだ!」


 確かにここで間違いないようだ。鳥居の神額には「爪先大明神」と書かれている。やはり先輩の夢は正しかったのだ。


「どうやら俺たちしかいないようだ。十名を超えれば抽選と言っていたがその必要もないだろう」

「これで餅四キロ弱ゲットですね」

「ああ。早く社務所へ行こう」

「待たれよ」


 鳥居をくぐろうとした僕たちの背後に声が掛かった。振り向くと小袖の白衣に紫の袴を身に着けた老人が立っている。どうやら宮司のようだ。


「あ、もしかして神社の方ですか。僕たち、餅をいただきにきたのですが」

「ほう。よく参られた」

「ちょうど十時だ。俺たちの他には誰もいないようだし、さっさと餅をくれ」


 無礼な先輩の態度にこちらまで恥ずかしくなる。しかし宮司はさして気に留めていないようだ。


「確かにそなたたちしか居らぬがそれだけで餅は渡せぬ。これから課す試練を全て乗り越えれば授けてしんぜよう」


 えっ、何だか話が違うぞ。大晦日に神社で無料配布される甘酒みたいなものを想像していたのに。ミッションをクリアしないと餅が貰えないなんて。


「お安い御用だ。何でも言い付けてくれ」


 先輩は自信満々だ。その楽観的姿勢だけは見習いたいものだ。


「ならば拝殿へ参ろう。おう、そうだ。言い忘れておった。境内ではつま先を地に着けてはならぬ。踵で歩くのだ。つま先が地に着いた時点で試練は失敗したものとみなす」

「それは、何か理由があるのですか」

「この神社はつま先を祀っておる。畏れ多くも神であるつま先を地に着けるなど以ての外だ。そのような不敬を働いた輩は直ちに境内から排斥される」

「僕らは靴を履いています。ですからつま先が地面に着くことはありません。それでも駄目ですか」

「駄目だ。つま先には決して力を加えず常に自由な状態を保持し続けねばならぬ。神であるつま先を愛するのであれば、これくらい当然のことであろう」

「ああ、わかったよ。踵で歩きゃいいんだな。行くぞ」


 先輩はつま先を上げて平然と鳥居をくぐって歩いていった。僕もやってみたが物凄く歩きにくい。バランスが取りにくいし前へ進む時に蹴り出せないので小刻みにしか歩けない。なにより踵が痛い。


「そなたは未熟者のようだな。これを貸してやろう」


 宮司が差し出したのは松葉杖だ。有難い。これで体重を分散できるしバランスも取れる。


「ふっ、その若さで杖を使うとは。心も体もすっかり老いを迎えているようだな」


 先輩は余裕で軽口を叩いているがこちらはそれどころではない。油断するとつま先を着きそうになる。ここまで来たら何としてもミッションをクリアして餅を持ち帰らねば。


「長いなあ」


 鳥居を抜けて参道を歩き階段を上りまた参道が続く。何気なく宮司の足元に目を遣った。足袋と草履で普通に歩いている。宮司さんはつま先を地に着けてもいいのですか、と訊きたくなかったが機嫌を損ねて餅を貰えなくなると嫌なので見て見ぬふりをした。やがて手水舎が見えてきた。


「止まれ。ここでつま先を清めてもらう。井戸から水を汲み、靴を脱いでつま先を洗うのだ」

「つま先を浮かせたまま水を汲むのですか」

「言うまでもない」


 これまた大変な作業だった。そもそも未だに井戸を使用しているだけでも驚きなのに、手や口ではなくつま先を清めて参拝しなければならないとは。さすが、つま先を神と崇める神社だけのことはある。


「わしも清めるとするか」


 宮司が足袋を脱いだ。驚いた。その両足につま先はなかった。全ての足の指が欠損していたのだ。普通に歩いていた理由がようやくわかった。つま先がないのだからどのように歩いてもつま先が地に着くことはない。


「終わりました」

「よろしい。次は参拝だ」


 拝殿の階段を上り五円玉を賽銭箱に入れ鈴を鳴らし二礼二拍手一礼。さすがに松葉杖は使えない。踵の痛みに耐えながら参拝を済ませる。礼儀知らずな先輩もきちんとやっていた。最低の作法は心得ているようだ。


「うむ。では神楽殿にて最後の試練の儀式を執り行う」


 神楽殿は十二畳ほどの空間がある板敷きの建物だった。靴を脱いで上がると正座しろと言われた。


「ええっと、正座する時もつま先を浮かせていないといけないんですか」

「無論だ」


 どう考えても不可能である。結局両手を床板に着け、膝立ちをして座ることになった。半分土下座をしているような格好である。そして宮司の話が始まった。


「ほんの僅かではあるが、そなたたちはつま先に頼らぬ時を過ごした。それが如何に不便で、心細く、不快で、辛く、不自由なものか身を以って知ることができたであろう。つま先は偉大だ。神のように偉大だ。故につま先は神なのだ」


 それから宮司の話は数十分続いた。内容はよく覚えていないがとにかくつま先を褒め称えていたようだ。先輩は膝立ちしたまま居眠りしていたので何も覚えていないだろう。


「以上でわしの話は終わりだ。同時にそなたたちの試練も終了した。厳しい苦難を乗り越えた褒美として一貫の餅を進ぜよう」

「ありがとうございます!」

「待ってました!」


 喜ぶ僕たちの前に差し出されたのは一枚の紙だった。薄茶色で丸いモノが描かれている。


「あの、何ですかこれは?」

「餅だ。その紙には一貫の餅が描かれている。遠慮せず持ち帰るがよい」

「ええっ!」


 なんてこった。餅は餅でも絵の餅だったとは。これじゃ文字通り、絵に描いた餅じゃないか。


「先輩、どういうことですか」

「どういうも何も、こういうことだろう」

「貰えるのが絵に描いた餅だなんて一言も言ってませんでしたよね」

「ああ。俺も本物の餅だと思っていたからな。しかし思い出してみると夢の中の餅は絵に描いた餅だったような気がしないでもない。こりゃあ一本取られたな、はっはっは」


 反省の色を微塵も見せずに大笑いする先輩を見ていると無性に腹が立ってくる。これまでの努力も時間も完全に無駄になってしまった。


「用が済んだら帰るがよい。鳥居を出るまではつま先を地に着けぬように。松葉杖は鳥居に立てかけておいてくれ」

「……ありがとうございました」


 腹は立つが宮司さんには何の落ち度もない。勘違いした僕たちが悪いのだ。絵に描いた餅をリュックに入れ、礼を言って神楽殿を出る。踵歩きで鳥居まで歩き再び獣道に入る。


「僕たちしか居なかった理由がわかりましたよ。絵に描いた餅なんか貰っても何の役にも立ちませんからね」

「そうとは限らんぞ。腹が減った時に眺めれば空腹が癒やされるかもしれん」

「余計お腹が空くだけですよ。あれっ、あそこに誰かいますよ」


 道端に置いた自転車の横に見知らぬおじさんが立っている。僕たちに気付くと声を掛けてきた。


「こりゃ珍しい。あんたらこんな場所に何の用かね」

「つま先神社へ餅を貰いに行ったのです。まあ、貰えたのは絵に描いた餅でしたけど」

「つま先神社? そんなもの、この辺りにはねえよ」

「ない? いや、そんなことはないはずです」


 これまでの経緯を話してもおじさんは信じてくれない。仕方ないのでおじさんを連れて獣道を引き返した。驚いたことにさっきまで確かに存在していた鳥居や参道は影も形もなくなっていた。そこにあるのは小さな祠だけだった。


「嘘でしょ。間違いなくここにあったのに」


 まるで狐に化かされたような気分だ。しかしおじさんは祠に気付くと話を始めた。


「そう言えばこんな話を聞いたことがある。ずっと昔、ここは峠道だったそうだ……」


 昔、この辺りは冬になると雪が深くなり、旅人や村人は大変な難儀をしながら峠を越えていた。特に困ったのはつま先だった。霜焼けになるくらいならまだマシなほう。酷い凍傷に罹り腐り落ちてしまうこともあった。ところがある日、一人の男が峠に住み着いて雪道を行く者に粟餅を配るようになった。


「この粟餅でつま先を覆いなされ。さすれば寒さにやられることはねえ」


 男の作る粟餅には唐辛子が練り込まれていたので効果は抜群だった。それ以来誰ひとりつま先を失う者はいなくなった。しかし男は自分の身を顧みずに唐辛子粟餅を人々に与え続けたため、自分自身のつま先を凍傷で失ってしまい、それがもとでほどなく亡くなってしまった。

 だが男の死後も男の気遣いは続いた。峠を行く者は必ず「つま先に気を付けられよ。つま先を大切になされよ」という男の声を聞いたからだ。男は氏神に生まれ変わり我らを見守っているのだ、そう考えた村人たちは峠に小さな祠を作って男を祀った。そして男に代わって今度は村人たちが峠を行く旅人に唐辛子粟餅を与えた。それ以来男の声は聞こえなくなった。


「恐らくこの祠がそれなんだろうて。わしも初めて見たわい」

「そんな言い伝えがあったんですか」


 先ほど出会った宮司、彼はこの話に出て来た親切な男だったのか。しかしどうして先輩の夢に現れて僕たちをここに導いたのだろう。


「きっと寂しかったんじゃないのか。それこそ百年以上も忘れられたままなんだからな」


 まるで僕の心を読み取ったかのように先輩が言った。昔の峠道はとっくになくなり今では近くを国道が走っている。徒歩で山を越える者などいない。防寒対策を怠らなければ日常生活で凍傷や霜焼けになることは滅多にない。忘れられ消えていく運命の男が最後に先輩へメッセージを送ったのかもしれない。そう考えると何とも言えぬ哀れさを感じてしまう。


「そうだ、絵に描いた餅はどうなったんだろう」


 僕と先輩はリュックを開けて先ほど宮司から貰った紙を取り出した。それは紙ではなく何の変哲もない朴の木の葉に変わっていた。と、不意に大きな風が吹いてきてその葉を高く舞い上げた。


「つま先を大切にせよ」


 空からそんな声が聞こえた気がした。


「はい。ありがとうございました」


 朴葉は吸い込まれるように青空の中へ消えていく。それを見上げながら心だけでなくつま先までホカホカと温められていくのを僕は感じていた。











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