木曜日の親子

あまみけ

木曜日の親子

 新年度になって、毎週木曜日の午前中の会議がリモートから対面の会議に変わった。

 流行病も4年も経過して威力が弱まったこともあって5類の扱いになり、日々の仕事もリモートから対面に戻して行こう、との部長の方針に従って、この会議も対面に変わった。


 この方針はウチの部だけではなく、他の部署も同様で会議室が不足しているため、この会議は毎週木曜日の10:30からS県にあるシステムセンターの会議室を確保して開催されることになった。


 普段は都内の本社で勤める私だが、システムセンターの方が本社よりも近いため、朝イチに自宅でメールを確認した後、9:30頃に出発して10:00過ぎにはシステムセンターに到着するという予定で毎週移動していた。


 システムセンターは、最寄り駅から徒歩10分弱のところにある。

 ここは東京のベッドタウンで、駅前には大きなタワーマンションが建ち、更に駅周辺は再開発中で、高層マンションが建設中だ。

 私はタワーマンションを迂回するようなルートで、システムセンターまで歩いていく。

 タワーマンションのすぐそばには、すべり台がある小さな公園があり、近隣の老人がベンチで新聞を読んでいたり、近くの保育園の子どもたちが遊んでいる。

 私が道を挟んだところを歩いていると、ベビーカーと母親らしき女性が背を向けて立っているのが見えた。

 その向こう側に子どもが遊んでいるのだろう。

 母親らしき女性は手を振っているようだった。

 4月の半ば、ようやく気温も暖かくなってきた頃だった。


 特に気にはしていなかったのだが、5月のゴールデンウィーク明けの最初の木曜日の会議の日にもあの親子を公園で見かけた。

 初夏の日差しが強く、もう半袖でも大丈夫だろうというほど暑い日だった。

 母親らしい女性は以前見かけた時と同じように公園の中にいるのであろう子どもに手を振っていた。

 思い返すと、これまで毎週あの親子を公園で見ている気がしてきた。

 とはいえ、あの親子の毎日のおさんぽのルーティンか何かだろうと思うと、特に気になることではないのだが、5月の最終週の木曜日に少し驚くことがあった。


 この日は部長の予定で、会議の開始時間を1時間前倒しして9:30からの開催となった。

 私も普段の出発時間を1時間繰り上げて、8:30過ぎに家を出た。

 いつもより1時間早いせいで少し混んだ電車だった。

 駅に着いて、システムセンターへの道のりを毎週と同じように歩いていく。

 普段より1時間早いので、当然公園の前を通るのも1時間早いのだが、いつもと同じようにあの親子がいた。

 勿論、私は今まであの母親の顔を見たこともなく、近くに行って確認したわけではないが、母親の背格好と髪型、ベビーカーに提げられたバッグが同じだったので、あの母親なのだろう。

 これまではあの親子の木曜日のルーティーンと、私の木曜日の移動時間がたまたま重なっていただけだと思っていたが、1時間前倒しとなった今日も毎週と同じようにあの親子を見かけたことで、私は少し驚いた。

 たまたま私と同じようにあの親子も1時間早くあの公園で遊んでいたのだろうか。

 もしくは普段から1時間以上、あの公園で遊んでいるのだろうか。

 どちらにしても確認のしようがなく、特に気にかけることもなく、その日の会議は大いに難航したこともあって半日もすれば忘れてしまっていた。


 その翌週は私の体調があまり良くなく、会議はリモートで参加したためシステムセンターへは行くことが無かったので、あの親子を見かけることはできなかったが、次の週の木曜日は私の体調はすっかり回復していたので、天気はもうすっかり真夏の様相の日で朝から気温は30度に迫るくらいだったが、いつも通り9:30に家を出て、システムセンターまで歩いていると、いつものように公園のところであの親子を見かけた。

 やはりこの時間があの親子の普段のルーティーンなんだろう。

 こんなに暑いのに子どもを外で1時間も遊ばせているとは思えないしな、と私は勝手に納得して、公園の前を通り過ぎた。


 6月の最終週の木曜日は、前日の夜からの雨が強まり、土砂降りとまではいかずとも、ズボンの裾が大きく濡れるほどには雨が降っていた。


 傘をさしてシステムセンターまでのいつもの道のりを歩く、駅までの送り迎えのためか、普段よりも車の通りが多い。

 よく見る宅急便のトラックが目の前を過ぎると、あの公園がいつもと同じように道を挟んで見えて、いつもと同じようにあの親子、否、あの母親が傘もささずに背を向けて立っている。

 紺色か黒かは分からないが、ずぶ濡れのワンピースで、肩ほどまである髪は濡れて首筋に張り付いているように見える。

 いつもと同じようにベビーカーを傍らに置き、向かいにいるのであろう子どもにいつもと同じように手を振っている。


 明らかにおかしい。

 本来はどうかしましたか?と声を掛けて様子を見にいき、何か異常あれば人を呼んで助けてやるなり、何も問題がなくても、傘を渡してやるくらいのことをするものなのだろう。

 だが、私は何か得体の知れないものを感じて、とても怖くなって、システムセンターへの約100mの道を足早に歩き、正門で鞄を落としそうになりながら社員証を警備に見せて、道の窪みに出来た水溜りも避けずに急いで建物内に駆け込んだ。


 ロビーはよく冷えていたが、私は梅雨時の蒸し暑さからの汗と、冷や汗が混じったような嫌な汗でインナーシャツはびっしょりだった。

 トイレでインナーシャツを脱いで、汗拭きシートで身体を拭き、ポカリスエットを飲んで一息つくと、少し落ち着いてきた。


 思い返すと、今日までは毎週木曜日のこの時間は雨が降っていたことがなかった。

 今日はここ周辺も朝イチからずっと雨だったようで、8:30頃は土砂降りだった、と同僚のNも言っていた。

 では、何故あの親子は強い雨の中、あの公園で傘もささずにいつもと同じようにいたのだろうか。

 何かの事情で精神的に問題がある母親なのか、それとも私は存在しない何かを今までずっと見ていたのだろうか、と考えると、また背中を冷たいものが伝った。


 会議後、普段は同僚のNと昼食に出ることが多いが、あの親子が気になって、午後は自宅に戻る必要があるので、とNからの昼食の誘いを断って、早々にシステムセンターを出て公園の前に行った。もう雨は止んでいた。

 普段は5mほどの道を挟んで見ているだけの公園である。タワーマンションのそばにあって、金網を挟んで線路が走っている。

 すべり台と小さな馬の遊具とベンチがあるだけの小さな公園だ。

 既にあの親子はおらず、初老の男性がベンチで新聞を読んでおり、中年の女性が線路の方を向いてタバコを吸っている。

 もう家に帰ったのか、と駅に向かって行こうとした時に、背後から声を掛けられた。


「おじさんはあの女性が見えるのですか?」

 そう声を掛けられて、振り返ると中学生くらいの男の子が立っている。

 あの女性とはおそらくあの母親のことだろう。

 この男の子がどうしてこんなことを聞くのか、という疑問が湧いてくるが、そうだよ、と肯定する。

「午前中にこの公園によくいるだろう?」

 私がそう続けると、男の子は少し近寄って、「あの女性の顔を見ましたか?」と声を顰めて聞いてきた。

「いや、いつもそっちの歩道を歩いていてね。いつも後ろ姿しか見ていないよ。」と、私は歩道を指差して答える。

 顔?どういうことだ?とさらに疑問は大きくなるのだが、男の子は安心したように、「そっかぁ。それならよかった。」とニコリとする。

「おっと、車が来ました。歩道に寄りましょう」と促され、私と男の子は少し下がって歩道に入る。

「よかったって何がだい?あの女性の顔を見ていないことかい?」

 何か嫌な予感がし、男の子に問いかける。

 男の子は静かにゆっくりと頷き、ニコリと笑う。

「おじさんはあそこの会社の人なんでしょ?だったら、ここを通らないわけにはいかないでしょうが、来週からは公園の方は見ずに通り過ぎるようにしてください」と男の子は言った。


 どうして?と聞く前に、男の子は少し後ろに下がって、「あの女性が振り向き始めたら、すぐに走って通り過ぎてください。絶対に顔は見ないでくださいね。」と男の子に制された。


 顔をなぜ?どうして顔を見てはいけない?

 いや、あの女性にこちらの顔を見られてはいけないのだろうか。

 そして、何故この男の子はこんなことを私に伝えているのだろうか。

 また、冷たいものが背中を伝わってくる。

 鼓動はバクバクと早くなっていく。


「あ、あの人は、その、、、幽霊か何かなのかい?」

 私は絞り出すように男の子に聞いた。

「お母さんです。ぼくのお母さんです。」

 男の子はニコリとしてそう言った。


「じゃあ、約束ですよ。」

 いや、失礼なことを言ってしまって、申し訳ない、と謝る前に、男の子は言う。

「あ、あぁ分かったよ。約束する。」

 そう答えると、「じゃあ、お母さんにもう帰ろって言ってきます!約束ですよ!」と、公園に走って行く男の子の背中を見守る。その先にはあの母親がいる。


 男の子が公園に向かって道を渡ると同時に、1台トラックが私の前を通り過ぎた。

 私の前の道の向こうの公園の前にいつものように立っている母親の横には男の子が立っている。

 小さな3歳くらいの幼児で、母親の手を握り、母親を見上げて「もうかえろ」と楽しそうに話しかけているようだ。


 母親がよいしょと男の子を抱っこしてベビーカーに乗せる。

 男の子と母親が公園の奥の方にベビーカーを押して行き、見えなくなるまで私は親子をずっと見守った。


 この小さな狭い公園には出入り口は1つしかない。

 親子が見えなくなってから、私は道を渡って、あの母親と同じように公園の入り口の前に立つ。

 左手にはベンチがあり、右手には小さな滑り台がある。

 植木の向こうは金網が立っていて、その向こうは電車の線路だ。

 数分前の出来事と変わらず、ベンチには新聞を読む男性と、線路を向いてタバコを吸う女性しかいなかった。

 また雨がポツポツと降ってきた。今日は1日中降ったり止んだりの1日なのだろう。

 また傘が濡れてしまうのは嫌なので、私は足早に駅へと向かった。


 翌週と翌々週のこの木曜日の会議は、部長の都合でリモートでの開催だったので、システムセンターに行くことがなかったので、あの公園の前を通ることはなかった。

 私はまだあの親子があの公園にいるのかどうかと気にはなっていたが、あの奇妙な体験をしたこともあって、わざわざ確かめにいくことはできなかった。


 そして、また木曜日になった。

 会社の夏休みは営業部門はバラバラでみんな取得するため、夏休み期間前の最後の対面開催になり、私はいつもどり9:30に家を出て、10:00前に駅に着いて、システムセンターへの道のりを歩いていく。

 タワーマンションを迂回して、システムセンターまでの最後の曲がり角の近くのあの公園の前を通過する。

 

 明け方まで降っていた雨で蒸し蒸しとひどい湿気と刺すような強烈な日差しの下、あの母親は背を向けて立っって、手を振っている。

 ドキリとして一瞬立ち止まってしまうが、あの男の子との約束を思い出して、また歩み出す。

 後方からトラックがやってくるのが分かって、私は少し振り向いて後を確認する。

 狭い歩道の奥に避けてトラックを見送る。システムセンターに搬入は搬出でやってきたトラックのようでシステムセンターに入っていった。

 

 少し気になってまた後ろを向いて公園の方を見る。

 あの母親がこちらを見ているように感じたからだ。

 

 母親は先ほどと同じように公園の向こう側を向いて立っていた。

 ただ、先ほどと違うのは、あの男の子がそばに立っている。

 笑顔で私に手を振っている。

 そして、母親の顔を見上げるようにしながら、こちらを指差す。

 ゾクリとする。

 母親が男の子の方に向いて、そして、こちらを向こうとする。

 

 私は前を向いて、システムセンターに向かって走って逃げた。

 

 

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