便利屋ハンドマン外伝

椎名ユシカ

01「禁足地ダウンヴィレッジ」


 アルカデア聖法国の辺境、人里離れた谷間に位置する限界集落ダウンヴィレッジ――ここは文明の光が届きにくい、忘れられた場所だった。

 高く険しい山々に囲まれ、外界との交流は限られ、訪れる者も稀な、まさに禁足地と呼ぶにふさわしい寒村であった。


 朝晩の気温差は激しく、日中は陽光が燦々と降り注ぎながらも、夜は凍えるような寒さに襲われる。

 吹き荒れる風が村中に土埃を巻き上げ、木造の家屋の隙間を唸り声のようにすり抜けていく。貧しい土地柄ゆえ、作物はまばらにしか育たず、人々の暮らしは決して豊かでなかった。


 村の中心には、かつての繁栄を偲ばせる洋風の建物がいくつか残っていた。しかし、それらも今は朽ち果てており、レンガ造りの家々は黒ずみ、木造の家屋は灰色に変色している。

 人々はその古びた家々で肩を寄せ合い、静かに質素な暮らしを続けていた。


 表面的には穏やかで平和な村のように見えた。しかし、人々の表情にはどこか暗い影が宿り、会話にも活気がない。それは彼らが背負う負い目のせいだった。


 禁足地ダウンヴィレッジには、大陸に害をもたらす怪異の集積区画が存在する。そして、その怪異を封じるためにインヴィオレイト一族が犠牲となっていることを、全ての村人たちは知っていた。

 自分たちの平穏は彼らの犠牲の上に成り立っている――その事実が村人たちの心に暗い影を落としていた。


 3つの区画からなるダウンヴィレッジ。第一区画は村人たちが暮らす場所、第二区画はかつての商業地区で今は廃墟、そして第三区画は怪異が集まる場所。人々は第三区画を忌み嫌い、決して近づこうとしなかった。


 その中、村はずれに佇む古い屋敷だけが、どこか異質で特別な雰囲気を纏っていた。インヴィオレイト一族が住むその洋館は、神秘的な気配と不気味さを併せ持ち、一族が背負う宿命を象徴しているかのようだった。


 屋敷の奥まった一室で、二人の女性が向かい合っていた。

 セラの義姉、ウォルター・ヴァイオレット・インヴィオレイトと、ライオネル・アネモネ・インヴィオレイト。二人の表情には、どこか硬さと重みが見える。


「セラ君から頼まれた願い……」


 ヴァイオレットが口を開いた。その声は静かだが、冷たさを含んでいる。


「うぁ……もうそんな時間?」


 アネモネは気怠そうに小さく頷く。その仕草にも、影が差していた。

 二人はセラに託された使命を果たすため、そして自分たちの宿命と向き合うため、ダウンヴィレッジを後にする決意を固めていた。


「セラ君、あんな地下の街に根を生やしてないで、また私たちと一緒に住めばいいのに。そう思わない?」


 ヴァイオレットが不思議そうに尋ねた。窓の外には灰色の雲が垂れ込め、今にも雨の降り出しそうな空模様が広がっている。


「妹ちゃんは昔から一度決めたら最後まで諦めない性格だからね。あいつが自分で限界を見つけるまでは、私やヴァイオレット姉さんが説得しても無駄だと思うよ」


 アネモネの横顔は、薄暗がりの中でどこか寂しげだった。


「本当に世話が焼ける妹よね。そろそろ支度も済んだことだし、出掛けましょう」


 ヴァイオレットはどこか諦念を滲ませながらも、力強い声で告げた。


 屋敷を出た二人は鬱蒼と茂る森へと足を踏み入れた。木々の隙間から差し込む光は途切れ途切れで、森全体が薄暗く陰鬱に覆われている。

 足元には湿った枯れ葉や折れた枝が散乱し、歩くたびに鈍い音を立てる。森そのものが訪問者を拒んでいるかのようだった。


 やがて、二人の前に古びた祠が現れる。祠の前には石碑が立ち、そこには苔むした文字が刻まれていた。


「古代龍語……」


 ヴァイオレットは呟く。石碑にはこう書かれていた。


『この先、禁足地。入るべからず』


 二人は警告を無視し、祠の奥へと進む。薄暗い細い道を抜けると、景色が変わり始めた。木々はまばらになり、地面は岩肌がむき出しに。そして、空気はどこか重く淀んでいた。


「第三区画……久しぶりだけど、相変わらず嫌な場所だね」


 アネモネが呟く。

 遠くに巨大な影が見えた。それは山のような巨躯を持ちながら、生き物のように蠢いている。


「セラ君が一人で捕縛した神の残骸……怪異となった成れの果てよ」


 ヴァイオレットは、恐ろしさを隠しきれない声で告げた。

 二人は恐怖を抱えながらも、前に進まなければならなかった。セラの願いを果たすために――。


「確か、元々の名前は……」


 ヴァイオレットは眉間にしわを寄せながら言葉を継ぐ。


「王黒蠍セルケトじゃなかった?」


 その名をアネモネが告げた瞬間、遠くで蠢いていた巨大な影が反応したかのように震え、低い唸り声を上げる。

 風が森を抜け、辺りは異様な静けさに包まれた。ヴァイオレットの背後からアネモネが一歩前に出る。彼女は興味深そうにセルケトの巨躯を見上げた。


「随分とボロボロだね。あの子にやられた毒尾がないせいか、もう威圧感も半減って感じ?」


 アネモネの声には冷たい嘲笑が滲んでいる。


 セルケトの巨体がゆっくりと動き出した。その岩のような甲殻の擦れる音が耳障りに響く。

 15メートルを超えるその体躯は、見る者に圧倒的な威圧感を与えるが、確かに二本の毒尾がないことでその姿はどこか不完全だった。


「気に入らないね。あんなお粗末な状態で妹ちゃんの腕を奪っただなんて」


 アネモネの口元が歪み、まるで嗜虐的な楽しみを思わせる笑みを浮かべた。

 突然、セルケトが巨体を振り上げ、残る一本の毒尾を振りかざして襲いかかってきた。岩肌のように硬質な尾が唸りを上げ、空気を切り裂く。


「ふん、その程度?」


 冷静にその場を動かず、彼女は僅かに指を動かしただけだった。次の瞬間、彼女の周囲に淡い光の膜が現れ、それはセルケトの毒尾を阻むように弾き返す。


「それって……呪力障壁?」


 ヴァイオレットが驚いた声を漏らす。


「まぁね。転生者を倒した時に奪った新しい異能。だけど、こんなのは遊び道具だよ」


 アネモネは軽い口調で答える。だが、その瞳には冷たい光が宿り、目の前の怪異を完全に見下していた。



◇◇◇



 セルケトは唸り声を上げると、残った一本の毒尾を激しく振り回し、アネモネ目掛けて突き立ててきた。その速度は先ほどより格段に増している。しかし、彼女は微動だにせず、再び指を軽く動かした。


 透明な膜が一瞬光り、毒尾を受け止めた。その衝撃で地面が揺れ、周囲に砂埃が舞い上がる。しかし、それでも表情は余裕そのものだった。

 アネモネは愉快そうに肩をすくめると、一歩前へと踏み出した。


 セルケトの動きは鈍重だったが、その巨体から放たれる攻撃には並外れた破壊力があった。

 再び振り下ろされた毒尾を今度は真正面から受け止める。アネモネの手元にはいつの間にか、薄い炎のように揺らめく長槍が出現していた。それを毒尾に向けて横薙ぎに振る。


「さぁ、どうする? 大きいだけの無様な蠍さん」


 彼女は軽口を叩きながらも、その動作には一切の隙がなかった。槍がセルケトの尾を捉えると、火花のような衝撃波が走り、尾の先端が大きく削れた。

 セルケトは甲高い悲鳴を上げ、さらに身を震わせて威嚇する。だがアネモネは動じるどころか、さらに冷たい笑みを深めた。


「こんな状態で妹ちゃんの腕を奪ったって? 許されると思ってるわけ?」


 呟くと同時に、アネモネは槍を大きく振り上げた。槍の先端には呪力が渦を巻き、鈍い輝きを放っている。それを一気に振り下ろすと、セルケトの毒尾の根元に直撃した。


 甲高い音と共に毒尾が地面に叩きつけられる。切断されはしなかったものの、その一撃で大きく亀裂が入り、動きが鈍くなった。


「どうしたの? もっと本気を見せてよ」


 アネモネは槍を軽く回しながら挑発するように言った。その態度に苛立ったのか、セルケトが甲殻を震わせ、全身の力を使って突進してきた。


「こら、あまり森を荒らさないでちょうだい」


 ヴァイオレットが眉をひそめる。しかし、アネモネは気にする様子もなく、槍を宙に放り投げた。槍は呪力を帯びながら浮遊し、セルケトの巨体に向かって自動的に飛び込んでいく。

 槍がセルケトの胴体に深々と突き刺さり、呪力が内側に広がっていく。セルケトは苦しげに身をよじらせ、周囲の岩を砕きながら暴れる。


「おっと、これ以上騒ぐと姉さんに怒られるからね。そろそろ大人しくなってもらうよ」


 アネモネは手を広げると、その掌に黒い呪力の球体を浮かび上がらせた。それは不気味に脈動し、空気を歪ませるほどの圧を放っている。


「これが最後の一撃よ、冥途の土産に覚えておきなさい――」


 そう言い放つと同時に、アネモネは呪力の球体をセルケトに向けて投げ放った。

 球体がセルケトの胸元に着弾すると、爆発的な呪力が解き放たれる。セルケトの巨体はその場に押しつぶされるように崩れ落ち、断末魔の叫びを上げる。


 煙が晴れると、セルケトはもはや動かなくなっていた。その巨体は再び岩に戻ったかのように静止し、不気味な輝きすら失われている。


「はぁ……見てよ、この惨状を」


 ヴァイオレットは溜め息をつきながら周囲を見渡した。第三区画は荒れ果て、砕けた岩や土砂で足場もままならない状態だった。もともと不毛な土地だったとはいえ、さらに無残な姿になった景色を前に、彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。


「これだから、もう少し加減してくれればいいのに」


 ヴァイオレットはアネモネを睨むように横目で見やった。


「えー、仕方ないじゃん。こんな大きい蠍、普通に倒したら面白くないでしょ?」


 アネモネは軽い口調で答え、肩をすくめてみせる。その無頓着な態度にヴァイオレットは苦笑を漏らした。


「本当に手のかかる妹ね……」


 そう言いながらも、ヴァイオレットは諦めたように視線をセルケトの倒れた巨体に向けた。


「さぁ、動き出す前に力の根源を奪い取りなさい。無駄な混乱は避けたいのだから」

「了解、了解。姉さんの指示には逆らいませんよ」


 アネモネは冗談めかして言いながら、セルケトの巨体に近づいていった。

 彼女は槍を消し去ると、代わりに両手をかざし、掌に呪力を練り上げた。淡い紫色の光が周囲を包み込み、セルケトの体から黒い霧のようなエネルギーが吸い取られていく。その霧は、ゆっくりとアネモネの手元に集まり、1つの球体を成していった。


「ふーん、これがこいつの力の根源ね。思ったより小さいな」


 アネモネは軽く呟き、笑みを浮かべる。


「アネモネ!」


 その瞬間――ヴァイオレットの叫び声が響いた。倒れていたはずのセルケトが突然、甲殻を震わせて動き出し、残る一本の毒尾を激しく振り上げてアネモネに襲いかかる。


「……っ!」


 毒尾の気配を感じたアネモネはすぐに身を翻そうとしたが、直前まで力を吸収していた影響で反応が僅かに遅れた。


 巨大な尾が彼女を捕らえようとする――その刹那、空気が急激に冷え込み、周囲の温度が一気に変化した。


「これ以上、勝手な真似は許さないわ」


 静かだが凍えるような冷気を帯びたヴァイオレットの声が響く。次の瞬間、セルケトの巨体全体が白い霧に包まれた。


 それは冷気が目に見える形になったもの――まるで瞬時に氷点下を大きく下回る冷気が、空間そのものを侵食したかのようだった。

 セルケトの動きは完全に止まり、その表面には無数の氷の結晶が生じ始める。


「……姉さん?」


 アネモネが思わず後退しながら、その様子を見上げる。


 ヴァイオレットは片手を軽く掲げていた。その掌から溢れる氷の力が、次第にセルケトの全身を包み込んでいく。

 蠍の巨大な体は徐々に氷山そのものへと変わり、最後にはまるで大地と一体化したかのように凍り付いていた。


「周囲を巻き込むのはあなたの悪い癖ね、アネモネ。せめて、私が手を出さなくて済む程度には上手くやりなさい」


 瞳に鋭い光を宿しながら、冷ややかに告げる。

 その声には怒りが込められているわけではない。それでも、彼女の存在感がこの場を完全に支配していた。絶対的な冷気と威圧感に、アネモネですら一瞬言葉を失った。


「……ただの悪ふざけだって。次から気をつけるよ」


 アネモネは笑みを浮かべつつも、どこかバツが悪そうに頭を掻いた。

 ヴァイオレットは短く息を吐き、片手を軽く振った。それだけで、周囲に漂っていた冷気が霧散し、氷の結晶が音もなく崩れ落ちていく。だが、セルケトの体は完全に凍り付いたまま動かなくなっていた。


「蠍の力は取り出せた?」


 ヴァイオレットが銀髪を鋭く問いかける。


「うん、もちろん」


 アネモネは手に集めた呪力の球体を掲げて見せた。

 彼女はゆっくりと一歩前に進み、凍りついた蠍の巨体に近づいていく。白く凍結した甲殻は僅かに光を反射し、まるで無機質な彫刻のように無言の存在感を放っている。


「……動けないなら、ただの大きな氷塊ね」


 ヴァイオレットは低く呟き、伸ばした指先をその氷の表面にそっと当てた。


 次の瞬間――音もなく、セルケトの巨体に細かな亀裂が走り始めた。その亀裂は瞬く間に広がり、まるで無数の蜘蛛の巣が表面を覆うかのように細かく網目を描いていく。


「私の家族に刃向かった罰よ。蠍が己の殻に閉じこもるなんて皮肉ね」


 冷ややかに言葉を紡ぎながら、ヴァイオレットは指先に僅かに力を込める。微かな力の流れに反応するように、氷の表面が一瞬だけ青白く輝いた。


 それが合図だった。低い轟音と共に、セルケトの巨体が内側から砕け散り始める。

 最初に破裂したのは残された一本の毒尾。それに続いて甲殻、節足、頭部、全身が次々と細かな氷片へと砕け、空気中に舞い散る。まるで雪崩が起きたかのように、凍りついた巨体は見る間に原型を失い、跡形もなく消えていった。


 冷たい風が吹き抜け、地面には無数の氷の破片が残るのみだった。ヴァイオレットは氷片を一瞥し、指を払うように軽く振る。すると、まるで氷片自体がその仕草に従うかのように、全てが光の粒となって霧散していった。


 その静かな光景を見ていたアネモネは、軽い口調で笑った。


「さすがに姉さんが本気になると怖いわね。誰も敵わないって感じ」


 ヴァイオレットは返事をせず、冷たく澄んだ瞳でアネモネを見やった。その目には感情の揺れはほとんどなく、ただ一つの事実だけを告げるような威圧感があった。


「忘れないで、アネモネ。必要とあれば家族だろうと容赦しない。それに氷結の純度で比べるのなら、こんなのセラ君の足元にも及ばないわ」


 その言葉は重く、冷たく、そして抗えない力そのものだった。

 アネモネは思わず肩をすくめる。


「はーい、次はもっとちゃんと気をつけます」


 ヴァイオレットが静かに背を向けると、彼女の歩みに合わせるように周囲の冷気も次第に消え去っていった。残されたのは凍てつく静寂だけ――そして、彼女がこの場にいたという確かな痕跡だった。

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便利屋ハンドマン外伝 椎名ユシカ @tunagu_mono

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