第4話
「傷に化膿も見られませんし、順調に塞がっていますね。大丈夫でしょう。まだ二、三日は起きてはいけませんが、じき動けるようになりますよ」
軍医が明るい表情でそう言った。
「絵が早く描きたいなぁ……」
「肩の傷は深い。身体を動かすのは徐々に大丈夫ですが、肩は完全に痛みが消えるまでは大きく動かすのはいけませんよ」
ネーリがそう言ったので、軍医がちゃんと付け足した。
それではまた、数日後に見に参ります、と二人の軍医が去って行く。代わりに、入り口のところで見守っていたフェルディナントが入って来た。
「良かったな。順調に治ってる」
優しくネーリの頭を撫でてやると、うん、と彼は笑った。
その笑顔に、もう一度笑みを返してやった後、フェルディナントはネーリの右手を、そっと両手で包み込む。彼は手の甲に傷があり、こちらも順調に治ってはいるが、まだ痛みはあるはずだから、慎重に包み込んだ。
ネーリはフェルディナントを見る。
フェルディナントは、これまで、事件発生時のことを、彼に聞くことを避けていた。
彼の傷が明らかに近距離から与えられたものだったので、犯人の顔や、遭遇した時の記憶を、覚えている可能性があった。それは、戦いを知らないネーリにとっては、また、死傷といってもいいほどの深手を負った彼にとっては、恐ろしい記憶に違いないから追及出来なかった。
どこかでネーリが自分から話して来たら、抱きしめながら聞いてやりたいと思っていたが、彼はそのことには、明らかに話を避けている。だから多分、フェルディナントが危惧した通り、恐ろしかったから話したくないのだと思う。
それならそれで、構わない。無理に何もかも今、聞き出すつもりはない。しかしネーリを襲った者の正体は知らなければならなかった。そうでなければ、彼を再び守れないし、誰から守ればいいのかも分からない。
「……ネーリ。今から、俺がお前に言うことは……お前を守りたいから言うことだ。お前があの時のことを思い出すのが怖くて辛いなら、無理に今は思い出さなくてもいい。でも話せることが何かあるなら、少しでも話してもらえたら助かる」
ネーリは、そういう話がいずれ出ることは予期していたようだ。目覚めてから、いつもそばにいて、彼はいつもより安心したような顔を見せてくれたから、はっきりと少し曇ったその表情に、フェルディナントの胸が痛んだ。でも、苦しめるために聞いてるんじゃないということを伝えたくて、手を握り締める。
「よく聞いてくれ。ネーリ。お前は何も悪くないという前提で、聞いて欲しいんだ。お前は干潟の家で倒れてた。倒れてたのは家の外だけど、海に浸かったあとがあるから、波打ち際に倒れていたのだと思う。あそこはヴェネツィアの北の外れにある。人気のない所だ。
もし、あそこで襲われたなら、しばらくは、あそこへは一人ではお前を行かせられない。
あそこからの干潟の景色を、お前がどんなに愛してるかはよく分かってる。どうしても行きたいなら護衛を付ける……。つまり、もしあそこで襲われたなら、犯人は通りすがり偶然お前を襲ったわけじゃない可能性が高い」
水気を帯びたネーリの瞳を慰めたくて、お前はなにも悪くないんだと、優しく彼の瞼に唇を触れさせる。
「でも、お前はヴェネツィアの画家だ。教会や、あの干潟の家に寝泊まりをし、ただ教会の慈善活動を手伝いながら美しい絵を描いているだけ。お前は誰かに憎まれるような人間じゃない。……ただ、お前は最近神聖ローマ帝国の駐屯地に出入りしているだろう? 恨まれるなら、俺たちの方が可能性が高い。勿論、ヴェネトに来てからはこの国の為に働いていると俺たちは思っているけど、余所者というのは、人によっては訳もなくそれだけで疎ましく、排除したいと望むような者もいるんだ。俺たちのもとに出入りしていることが、今回の出来事の一因になっているのだとしたら――、……俺はお前に詫びなければならない。俺たちのもとに来てほしいと願ったのは俺だ。ここならお前を、不穏な城下町の危険から遠ざけれると思ったけど、逆にそれで、お前を妙な事件に巻き込んでしまった。そうであるなら、」
「違うよ。フレディ、それは違う」
耐えられなくなって、ネーリはフェルディナントの声を遮った。
今度のことは、全て自分の意志でやったことだ。
フェルディナントや、神聖ローマ帝国軍のみんなには、何にも非が無い。でもそれを上手く説明できない。まずこんな傷を負うに至った原因は、城に忍び込んだことで、【シビュラの塔】を見ることが目的だった。
イアン・エルスバトに遭遇した時、塔から逃れた時、逃げるべきだった。
だが、どうしても塔の現状が知りたくて、欲が出た。
そこにラファエルと遭遇したのは、不運だとしか言えない。王妃が居合わせたことも。
彼女がいなければ、ラファエルには正体を明かせたのだ。斬り合うことは無かった。ラファエルは戦いが嫌いだから、自分が街に出て警邏隊を殺していると知れば、いい顔はしないだろうが、分かってはくれると思う。しかし王妃と共にラファエルが現われた時、どうしても戦わざるを得なくなった。
(最低だ)
そこまで追い詰められると、結局自分のことしか考えられなくなる。
あそこで例えラファエルの気を失わせることが出来たとして、自分を逃せば彼はそのことで責めを負わされたかもしれないのだ。その時はそんなことを考えてやれなかった。どうあの場面を切り抜けようと、そのことしか自分は考えられなかった。
自分が何故干潟の家にいたのか、ネーリは分からない。彼が覚えているのは海に落ち、荒れる海を泳ぐために武器を海の中に捨てて、泳ぎ続けたけど、肩の痛みで動けなくなり、沈んでいく感覚だけだ。何故自分が今生きているのかさえ、本当は分からない。流されて干潟の家に辿り着いたはずがないのだ。
(分からない)
分からないことが、僕の人生にはたくさんあるんだ、とネーリは思う。
フェルディナントは自分を、人に恨まれる人間じゃないと言ってくれたけど、自分は恨みを向けられる人間なのだ。ヴェネト王妃の憎しみに満ちた顔を思い出す。お前を本気で葬っても構わないのだ、というあの強い意志。でも分からない。何故自分がそこまで彼女に憎まれるのかは、分からない。
王家に関わる意志はないのだといくら示しても、彼女は自分が死ぬか、ローマの城の監視下に入るまでは、決して憎み、狙うことをやめないのだと思う。でもそれが何故なのか分からないのだ。
あの幼い頃、自分を呼んだ声の正体が何だったのかも分からない。
確かに通った光の花の道。
【シビュラの塔】が開いたのを、確かにこの目で見た。
確かに自分の前に、塔は開いた。でもその理由も分からない。
シビュラの塔が起動したわけも、何故、フェルディナントの国を滅ぼしてしまったのかも、その滅ぼされた国の王子である彼が、ヴェネトに来て、
自分の絵を見て、美しいと誉めてくれたのかも、
……何故、彼を愛してしまったのかも分からない。
ぽろ、と大粒の涙が流れた。
「ネーリ、」
フェルディナントは狼狽える。
「……、分かった。辛いなら、話さなくていい。今はゆっくり……」
ネーリは首を振った。
身を、起こそうとする。
「起きない方がいい」
もう一度、大きく首を振ると、フェルディナントは仕方なく、身を起こすのを手伝ってくれた。
「辛いんじゃない」
辛くなんかない。全部自分の蒔いた種だ。
危険を承知で城に行った。何も上手くはいかなかったけど、後悔はしてない。
死んでたかもしれないけど、それは覚悟して行ったから、いいのだ。
「……フレディ、……僕を刺した人は、僕を、僕だから狙ったんじゃない」
フェルディナントは驚いた。
「相手の顔を見たのか?」
うん、とネーリは頷く。
「でも、僕を狙ったんじゃない。その人は、神聖ローマ帝国軍の駐屯地に出入りしてるから、僕に狙いをつけたんじゃないし、貴方たちのことも憎んだりしてない。ヴェネツィアの人達は、貴方たちを今は信頼するようになってる。貴方たちがここに来てから、ずっと街の為に尽くしてくれるのを知っているから。貴方たちは憎まれたりしてないよ」
「ネーリ……」
「僕が刺された場所は、干潟の家じゃないんだ。全く関係のない所。相手は僕のことを知らないで、偶然、こうなってしまったんだ」
「でもお前の傷は、お前を迷いなく刺してる」
フェルディナントは軍人だ。剣傷を見れば、どういう傷かは分かる。ネーリの肩の傷は、近距離から深く短剣を刺し込まれている。顔も見合える距離だったはずだ。あの距離で、咄嗟の事なら、普通は払い傷になる。深く正面から刺し込んだりはしない。フェルディナントの見る限り、あれは相手の顔を確認し、迷いの無い殺意を持って刺した傷だった。
だが、そうだとしたら何故彼はこんなことを言うのだろう。
相手が突然襲って来て、怖かったと泣きついてくれれば、もうこんな思いはさせないと抱きしめてやれた。
「……刺した相手を知っているのか?」
まさかと思ったが、一番可能性が低いと思うその言葉を言ってみた。
ネーリが押し黙ったので、フェルディナントは驚く。
「ネーリ」
「……フレディ……」
ネーリは、いつも明るく穏やかな性格をしている。泣き顔を見たことはあるけど、彼は普通の子供のように声を上げて泣くということをしなかった。
声も零さず、涙を零す。
そういう泣き方をする人だったから、今、目の前で嗚咽を零して泣きじゃくっている姿に、フェルディナントは驚いた。
自分を殺傷しようとする相手を、ネーリは知っているのか?
そしてその相手を、彼は怒りも憎しみもしてない。
「……僕は…………、時々、君に好きになってもらえるような人間じゃないって自分を思うことがある」
フェルディナントは息を飲んだ。
「自分では、きっと、君に嫌われるようなことは、してこなかったつもりだけど……」
当たり前だ、と思う。
それは分かる。
ネーリの過去を、確かに自分は何も知らない。
彼は一人で生きて来たから、たくさんの苦労はあったのだと思う。
でも絵を見れば分かる。
例え何かあっても、ネーリの中であまりに重い、暗い醜悪なものがあるなら、あんな絵は絶対に描けない。きっと彼が何をしても、例え、それが遠回りに人を傷つけたことがあったとしても、それは決して彼の望むことじゃない。絵を見れば分かる。
そして彼と言葉を交わし、触れ合えば、優しく情け深い人だと絶対に分かる。
彼は冷たい刃を受けなきゃいけない人じゃない。
「ネーリ……、答えてくれるか?」
俯いている。
その傷ついた肩に、手をそっと置いた。
「……お前は自分が刺した相手を知ってるんだな?」
これには彼は答えなかった。
「刺した理由は敵意か?」
ネーリが首を横に振った。そのことで、前の質問にも彼は答えた。
「……。もう一度、同じ事が起こると思うか?」
明確に、首を横に振った。
ラファエルは戦いや人を傷つけることが嫌いな青年だ。今回のことは自分が悪い。ネーリが同じことを繰り返さなければ、決してラファエルは自分から剣を抜いて襲い掛かってきたりはしない人だ。だからそれはないと、断言出来る。
「…………そうか」
もう一度はない。そう言われて、少し安堵した。
ネーリにこんな傷を負わせた相手に、フェルディナントは強い怒りを感じている。代わりに切り刻んでやりたいほどだ。たった一度でもそうなのだから、再び同じことをされるなんて絶対に許すことは出来ない。そんなことになったら相手を必ず殺す。
「フレディ」
ネーリは手を握り締めた。
「自分勝手なこと言ってるって分かってる……ほんとは、何もかも、話せること全部、君に話したいって思う。でも、どうしてもそれは無理なんだ」
フェルディナントは王宮に出入りし、王妃とも関わりがある。
王妃はジィナイース・テラという名を、ネーリから取り上げた。理由は分からないが、彼女はその名前が欲しいのだ。そして他の誰も、それを所有することを望まない。もし無理にでもネーリがその名に固執すれば、軋轢が生まれ、本当に邪魔な人間だと彼女が思えば、刺客を差し向けて殺すくらいするだろうと思う。
フェルディナントに秘密を漏らせば、彼を危険に巻き込むことになる。
彼は【エルスタル】の王子だ。
もう、二度と、ネーリやヴェネトが傷つけてはいけない人なのだ。
「……自分にも分からない、……その流れの中で、息をするのが精いっぱいなくらい、どうしようもない流れの中に自分がいつの間にか、いると気付くことがある。自分の罪や、行いが巻き込まれた原因じゃないって、僕は信じたい。でも……、……知らないうちに、そうなってて……」
ネーリがこんなに泣いているのは初めてのことだった。
(こんなに……)
言えないことを抱えていたのか。
絵に名前が入れられないから売ることが出来ないんだと、あの時から何か時々、不思議だと思うことが確かにあった。
「言えないことがたくさんあるのに、君は僕を大切にしてくれて、好きって言ってくれるから……、僕は何も返せなくて……これでいいのかなって、いつも思ってた。家族になりたいと思ったのは本当だけど、……きっと、こんなに何も話してあげられない家族なんていないよ。今まで、そんなに悪いことはしてこなかったと思いたいけど、こうして過ごしてる間に、君を騙してるみたいだから、今、悪いことを積み重ねてる気がする。いいのかなって……いつも、」
涙をこぼしていた
フェルディナントの唇が言葉を遮る。
悔恨の言葉なんてネーリには似合わないし、必要ない。彼はそう信じた。
「……ネーリ」
よく聞いて、と彼の両頬を包み込む。
「今回の事件で、犯人が、俺たちへの敵意が理由で、お前を狙ったなら、俺は自分と犯人が絶対許せなかった。必ず見つけ出し、捕まえなくてもいい、この手で殺したいと思ってたよ。……でもお前がそうする必要はないと言うなら、俺はこのことはもう追求しない。
お前を苦しめたいわけじゃないんだ。
ネーリ……。自分が予期しない、どうにもならない流れの中に、いつのまにか閉じ込められることがあるっていうのは……。俺にも理解出来る。特に軍人なんかしてると、個人の感情で全てを選べない。望んでない戦いもしなければならないことだってある。それで憎まれ、刃を返されることだってある。それで自分の友人や知り合いが死ぬこともある。
……何がどこで間違ってそうなったのか、分からない。説明も出来ない。でも、それでも、愛してる人間には、恥じない自分でありたいとは、いつも思ってる……」
ネーリの瞳に溜まっていた大粒の涙が、宝石のようにぽろ、と一つ零れた。
「こう生きたいと自分で願うことと、全てそう出来ないことくらい、俺はちゃんと分かってる。俺は別に、お前が聖人であることなんか求めてない。俺はお前がお前であることが一番好きなんだから。だからお前が秘密を持ってても平気だ。打ち明けられたら、それは、驚くことだってきっとある。でもお前がそうしたかったことも、そうしたくなかったことも、話してくれれば必ず聞く。お前は喜んで人を傷つけるような人じゃないのは分かってる。そうならなくても、俺は失望したり嫌いになったりはしない。お前が何かを抱え込んでいて、その為に苦しんでるなら力になりたい。なれないなら、寂しいし辛い、その程度のことだ。お前が何をしたって、……そこに心があるにしろ、ないにしろ、お前を軽蔑したりなんかしない」
フェルディナントはネーリを抱きしめた。両腕で包み込む。
「好きだ」
ネーリの瞳からもう一度涙が零れる。
全てを今話して、楽になりたい。
「……フレディは、【エルスタル】の王子様なんだよね?」
フェルディナントは目を瞬かせる。
「イアンから聞いて……」
「……言ってなかったか?」
なんだか言っていた気になっていた。
ネーリは首を振る。
「そうか……ごめん。とっくに話した気になってた。お前には親のことも妹のことも話してたから。だけど、それは別に俺の秘密じゃないぞ。隠してるわけじゃない。言う意味がもう失せたから言わなかっただけだ」
「国を失った時、憎まなかった?」
誰かを。
(その誰か、に僕も入ってる)
フェルディナントは抱きしめたネーリを見下ろして、数秒押し黙った。
「……憎んだよ」
ネーリの肩が小さく跳ねる。胸が痛んだ。
「誰かを。……それこそ、何故そうなったかすら分からない中で、顔も分からない相手を憎んだ。家族を殺した、俺の国を殺した、誰かを」
ネーリは目を閉じる。
「……でも。憎んでるだけじゃ、進み出せないんだ」
フェルディナントは言った。
「生き残った者として、生きなければならないことを悟った。生きようと思った時、まだ自分には残っているものがあると気付いた。母や、仕えるべき皇帝陛下、多くの友人がいる、神聖ローマ帝国という国」
大切なものがエルスタルだけではなかったから、フェルディナントの心は死ななかった。
そう言ったのはイアンだった。
「まだ守れるものがあると気づいた。それは幸せなことなんだ。ネーリ。俺は、幸せなんだよ」
ネーリは驚いた。
彼は国を一夜で消滅させられたのに。
見上げた
フェルディナントという男の、真価を、見た気がした。
こんなに過酷な運命を背負っても、自分が幸せなんだと言える。
凄すぎる、とネーリはフェルディナントの纏う光の気配に圧倒された。
彼は滅び去った【エルスタル】の、最後に残った光。
光の、王子。
「……ぼく、フレディの国を滅ぼした国に生まれて、生きてる。大切に想ってる」
「当たり前だろ。逆の立場なら俺だってそうする。もしかしてお前が気にしてるのはそのことなのか?」
「……。」
「まあお前がそんなに泣くんだから、そんな単純なことじゃないとは思うけどな……。でも、お前が例えどんな事情を抱えていたって『俺に愛される資格がない』とかは言わないでくれ。お前が俺を好きじゃなくて、別に一緒に暮らしたくないというのなら分かるが、
お前が俺を好きなのに、愛してくれて、家族になりたいと思ってくれるのに、心はそうなのに他の関係ない理由で『そうなってはいけないんだ』なんて結論にされるのだけは嫌だ」
はっきりとフェルディナントはそう言ってくれた。
「お前にどんな事情があったって構わない。……俺はお前が好きだから、絶対に一緒にいる。この世界の誰とお前が、一緒にいられない運命で結ばれてても、俺だけは例えそうなっても、運命じゃなくて自分の心に従って、側にいる。お前が俺とお前とフェリックスと、三人で家族みたいに暮らしたいって言ってくれた時、俺がどんなに嬉しかったか、ちゃんと分かってるかネーリ。お前は俺を巻き込みたくないって言ってくれたけど、もう好きになった時点で、俺とお前は一緒に生きてる。無関係になったりしない」
他にどんな言葉を言い尽くせば、何かに怯えるネーリの心を救ってやれるんだ。
「ネーリ。
お前を愛してるんだ。
例え俺の国をお前が滅ぼしたって、それは変わらない。
お前が望むものも、望まないことも分かるから、
何が起こっても、お前を信じる。
……永遠に側にいる」
それは考え得る限りの、愛を伝える、単なる言葉の羅列に過ぎなかったかもしれない。
実際にそうであったら、また別のことを思うかもしれない。
でも、簡単に言葉を違える人ではないから、彼の言った通り、彼の望むものと望まないものがネーリも分かった。
それは彼の願い。
そうであれと自分に望む、彼の世界観なのだ。
『例えお前が滅ぼしても』
それを聞いた時、一番欲しかった言葉がもらえた気がして、また大粒の涙が零れた。
一番は、そうしたくなかった。
でもそうなってしまったなら、あとはフェルディナントがどう思うかだけだ。
彼が決めるしかない。
それでも、言葉を尽くすことに意味があると、彼が教えてくれた。
言葉を重ねて、相手に愛を伝えたりすることは、無意味なんかじゃない。
フェルディナントが自分を憎むなら、今度は自分が愛を伝えて、許しを乞い、共に生きたいと願い続けるだけ。それ自体が怖いなんて言ってるのなら、永遠に想う相手と心が重なることなんか出来ない。
本当は首に飛びつきたかったけど肩が動かないので、精一杯身体を伸ばして届いたのが、フェルディナントの首筋だった。
「僕も、大好き」
ネーリの唇が首筋に触れて、フェルディナントが赤面する。
投げかけられた言葉には、もっと心が揺さぶられた。
「フレディが大好きだよ。いつか、全て君に話して、秘密なんて持たずに、一緒に暮らしたい」
別に秘密くらい、持ってたっていいのになとフェルディナントは思ったが、素直なネーリらしい、嘘のない世界でいたいという想いは、とても彼らしいと思って愛せたので笑えた。
「……するならちゃんと唇に」
自分から顔を近づけて、そう言うと、ネーリは躊躇いがちに、でも自分からフェルディナントの唇に重ねて来てくれた。想いの籠った、優しいキスだ。愛を向けられてることを感じられて、フェルディナントは幸せに思った。
伏せられた本当の名前に、彼の語れない事情や過去が、あるのだろうか?
興味は尽きない。
秘密を分かち合いたい。
何もかも、一つに重ねて、……何もかも一つになってしまいたい。
そうしたら、この心に甘い痛みのように残る不安も消えるのだろうか。
でも、とフェルディナントは思った。
多分この不安があるからこそ、こんなにこの人が愛しいのだ。
完全に重なっていない、自分の触れられない過去を辿って生きてきた、孤独で優しいこの魂。そう思うからこそ、これほど惹かれ、求める。
それはきっと、運命に結びつけられたように確かなことで、傷を負った自分がヴェネトにやって来て、国を失ってもまだ、何かを成す人間でありたいと、失っただけの人間のままでいたくないと望んで、神聖ローマ帝国を守るために、この地にやって来た。
その自分が、あの日ミラーコリ教会を訪れた。
彼はそれまで、教会を不意に訪問するような性格はしていなかった。
だからあれも、亡き国や亡き妹を偲ぶ意味があったから、彼らの犠牲は無駄ではない。
彼らの犠牲を悼むのは。その心が無ければ、憎しみだけで、悼むことさえ疎いと心を閉ざしてしまう心境になったら、きっと教会すら敬遠した。
フェルディナントは彼らの死を受け止め、祈りを捧げたいと望んだから、あの時聖堂へと足を踏み入れた。
そこでネーリ・バルネチアの絵を、見た。
描いた本人に出会うよりも早く絵に出会い、惹かれた。
こんな美しい、光ある風景を描ける人はどんな人だろうと――あの気持ちが過去を悼む所で立ち止まっていたフェルディナントにもう一度人生の歩む意志を、はっきりと取り戻させてくれたのだ。
全てが、繋がっていると彼は思う。
でもそれは、受動的に見れば、枷や、柵になる。
繋がせたいと自分で望んでそうすれば、全ての痛みや、苦労も、幸せになる為のものに出来たと思える。
人生の指針を決めるのはいつだって自分の心だ。
物事や、他人の行いや、他がどうあるかではない。だからフェルディナントは確信があった。例えネーリがどんな秘密を抱えていても構わない。
彼を愛したいのだ。
それなら全ての苦しみも、理解する試みも、彼を愛する為に使うためにあると思える。
だから抱えられた秘密を、恐れないでいい。
ネーリが、何かを抱えていても、必死に、自分に対して誠実や素直でいたいと。
……一緒にいたいと願ってくれる気持ちが確かに伝わってくる。
それならそれを信じるべきだ。
(信じるよ)
いつか全てを乗り越えて、一緒になりたいと言ってくれた彼の言葉には、心を感じた。
ネーリが何を抱えていてもいい。
過去に何があっても、それが逃れ難い運命から来るもので、彼自身にどうにもできないものだったのなら、尚更だ。
未来のことは約束できない?
本当にそうだろうか、とフェルディナントは思う。
手に触れることの出来る近さで、まだ起こっていない未来を、現実味のあるものとして、約束してやれることだってきっとある。
貴方を幸せにしたいという言葉は全てにおいて空虚ではないはずだ。
全ての物事を、たった一つ、誠実に繋いで行けるなら。
今手の中にあるものを、未来にだってきっと出来る。
(何があっても君を愛する)
ネーリの身体を抱きしめながら、フェルディナントは誓った。
【終】
海に沈むジグラート28 七海ポルカ @reeeeeen13
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