第3話

 馬車が教会の少し手前で止まった。

 アデライード・ラティヌーはお菓子を入れた籠を持って出ると、教会の入り口に立った。

 彼女は修道院で暮らしていた経験がある。だからこの教会が小さくとも、いい管理者に恵まれ、大切にされ、いつも清潔に保たれている教会であることは、見た瞬間に分かった。

 穏やかな昼下がり、神父が祭壇を掃除し、子供たちが教会の床や椅子を拭いている姿があったのだ。少し安心して、彼女は入って行く。

 神父が気付き、振り返った。

「申し訳ありません。騒がしく掃除をしておりまして……よろしければ二階にも祈りの場がありますから、もし煩わしいようでしたらそちらで……」

 アデライードは優雅に会釈をする。

「お忙しい時間に参りまして、お許しください。こちらにネーリ・バルネチア様の絵が飾ってあると聞いて、ぜひ見せていただきたいのですが」

「ネーリの絵ならこっちにあるよ!」

 元気いっぱいに少年が奥の部屋を指差した。今は掃除をしているので、扉が開いている。

「まあ、ありがとう」

 アデライードは微笑んだ。

「以前、こちらにラファエル・イーシャというフランス海軍の方がいらっしゃったと思うのですが」

 ああ、と神父は明るい顔で頷く。

「覚えておりますよ。あの方もネーリの絵を見に来ていらっしゃった」

「私はあの方の妹です。アデライード・ラティヌーと申します」

 アデライードはあまり、公の場では「自分はラファエルの妹」と言わないようにしている。というのも、ラファエルは君が望めばいつでも父に取りなすよと言ってくれているが、ラファエルの父親はアデライードという娘がいることも、現在は知らないのだ。母の身分は低かったので、あまり勝手に妹と名乗ることに、彼女は罪悪感を感じるのである。

 それならラファエルの愛人だと言われて、それを兄妹でくすくすと笑っていた方がずっと楽しい。しかしここは教会なので、ラファエルと縁もない女がやって来たなどと思われるのはいかにも不謹慎な気がしたので、身の潔白を示すためにも、アデライードはここでは「妹」ときちんと名乗った。

「これはご丁寧に、そうでしたか」

「兄がヴェネトに派遣されて、身の回りの世話をするために私も遅れてヴェネツィアにやって参りました。兄が、ヴェネツィアに来たならばぜひ、ネーリ・バルネチアの絵は見るべきだと言っておりましたので。お邪魔ではないでしょうか?」

「とんでもない。子供たちに掃除を手伝ってもらっているだけですから。夕べの礼拝にはまだ時間が十分ありますから、どうぞ好きなだけ、ご覧になって下さい。ネーリも喜びます」

「ネーリ様はこちらには……?」

「彼はヴェネト中を歩き回って絵を描くので、しばらくここに戻ってこないこともあるんですよ。今は留守にしていますね」

「そうですか。ネーリ様がもしいらしたら、こちらを差し入れにと思ったのですが、留守でしたらどうぞ、神父様と子供たちで召し上がって下さい。先ほど家で焼いて来た焼き菓子です」

 子供たちが興味津々で集まって来る。

「お菓子ー?」

「なんか甘いいい匂いがする」

「こらこら……失礼ですよ。ちゃんとお掃除を終わって手を洗ってからいただきましょうね」

 はーい、と子供たちは素直に返事をして、また笑いながら床に雑巾をかけ始めた。

「ありがとうございます。あの子たちはよく教会の掃除や準備を手伝ってくれるので、とても喜びます」

「良かったですわ。余り物と言っては失礼なのですけれど、私がお菓子作りが好きなもので、作り過ぎてしまったのです」

「これは、見事な。お作りになったのですか?」

 籠を覗き込んで、神父が整然と並んだ菓子の美しさに、思わず目を丸くする。

「私は修道院育ちだったので修道院の大きな窯で大勢に出すようなお菓子に慣れていますの。その癖でつい作りすぎてしまうのです」

「修道院で……そうでしたか」

 突然訪問したいかにも身分高そうな貴族令嬢だったが、素性と背景が明らかになり、神父は安心したようだった。

「どうぞゆっくりご覧になって下さい」

 アデライードは菓子を神父に預けると、奥の部屋に入って行った。

 入った瞬間、息を飲む。

 修道院や貴族の家で、立派な絵画というものを彼女は見てきた。それでもこの小さなアトリエに飾られた絵には圧倒された。

 鮮やかな色彩。

 海の青も、木々の緑も、宝石を砕いて溶かしたような美しさだ。

 狭い部屋に出来る限りだけ多くの絵を置かなくてはならなくて、教会の作りを利用した天井の高い部屋に、上に重なって行くように掛けられた、その世界。


(なんて美しいの……)


 彼女は感動した。これがあの、ネーリ・バルネチアという青年の描く世界。

 描く世界ということは。

 彼の頭の中にある、描かれる世界。

 彼の理想、望むもの、こういう世界を愛する人なのだ。

 どうしてラファエルが、ネーリをあんなにも愛するのか、よく分かった。

 あの人も美しいものを愛するひとだから。

 美しいものを愛する共感が、あの二人を深く結びつけている。

 そして幼い頃の、偶然の出会いと、短いながらも印象的な縁で――決して切れない絆で彼らは結び付けられているのだ。

 そこにあった小さな椅子に、彼女は腰掛ける。

 緑の輝く時間、

 黄昏時、

 夜空の星、

 海、花園、街並み、干潟……。

 様々な時間の様々な景色。

 ここは世界を見下ろす、天の座のようだ。

 アデライードは感動し、言葉を失った。



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