第4話


 珍しく、フェルディナントの方がペンを持っていた。

 ネーリが寝そべっている側には、サイドテーブルが置かれて、きちんとした椅子もある。

 そこにフェルディナントが座って、彼が描いていた。

「……じゃあ、フレディのお家から王家の森は近いんだね」

「教会の裏手だからな。ここに教会がある」

 言いながら、フェルディナントが描き込んでいる。

 どうやら神聖ローマ帝国の、王都であるヴィーナー・ノイシュタットの地図を描いているらしい。

「どんな教会なの?」

「お前みたいに俺は描けないよ」

 フェルディナントが笑って言ったが、ネーリは聞きたがっている。

「ヴェネトにも、小さな教会も大きな教会もたくさんある。一人でヴェネトを回ってる時は、周辺諸島にも行ったから。教会スケッチするの好きなんだ。船と同じ。様式があるの。

でもヴェネトにある全ての教会が同じ様式で造られてないんだよね。造られた時代によって、教会にも流行りがあるんだよ。ヴェネトの教会、だけじゃない。色んな時代のヴェネトの姿が見えて来る感じがするから、教会を見るのは楽しい」

「神聖ローマ帝国にもたくさん教会はあるよ。……お前が来たら、俺が案内してやるから」

 ネーリの髪を優しく撫でてやると、彼は微笑った。

 ここに運び込まれた時は、血の気が引いていて、青ざめていて……本当に彼が死んでしまうのではないかと思った。今は、柔らかな乳白色の頬に、ちゃんと花のような温かみが戻っている。嬉しいのと、可愛さで、フェルディナントはつい、親指でネーリの頬に触れた。

 トロイはイアン・エルスバトから、城に仮面の男が出て騒ぎになった、という報せを持って来たのだが、そっと開いた扉から二人の様子を窺うと、話しかけられなかった。

  危うく引き裂かれそうになった運命に抗うように、フェルディナントはあれから、ずっとネーリの側について、寝泊まりも側のソファでしていた。

 何かあればすぐ報告してくれといわれていたのだが、普段から休みを取らないことで有名なフェルディナントが、時間を惜しまずネーリの側に寄り添っていて、例え彼が眠っている時でも、じっと側で手を握っている姿は、副官であるトロイも見たことのない姿であり、驚いた。

 それほど今や、ネーリ・バルネチアの存在はフェルディナントの心を占めている。

【エルスタル】を失ってから、何も大切なものが無くなったというように、戦いに没頭していくフェルディナントを危惧していたトロイは、ネーリに感謝した。

 ヴェネトに竜騎兵団を派遣することが決まった時、何故誇り高い竜騎兵団が、傲慢なヴェネトなどの使い走りになる為に行かなければならないのかと、彼は強い不満を覚えた。

 皇帝の考えだったので反対することはなかったけれど、トロイにとっては、敬愛する上官の祖国を消滅させた国、そしてその国の王に死んでも膝などつかない、という気持ちがあった。

 一体誰がヴェネトなどに行くのかと、仲間内でもいわれていたのだが、後日、フェルディナントが志願したと聞いて驚いた。

 ……嫌な予感がしたのだ。

 ずっと組んでいた上官なので、フェルディナントが行くならトロイも行くのはごく自然だったが、フェルディナントは今回は特殊な任務なので、例え自分の隊でも思うことがある者は、ヴェネト行きは見送ってくれて構わない、話は聞く、と言った。

 もしや、復讐を心に秘めているのではないかと思い、心配でならなかった。

 しかしヴェネトに着くと、フェルディナントはいつも通りの手順で堅固な陣を作り、王都ヴェネツィアの視察を詳しく行った。

 王妃に謁見をした時も、彼は膝を折り、臣下の任に徹した。

 この人は本当に、祖国のことは置いておいて、神聖ローマ帝国の為に尽くすつもりなのだと、ここについてそれが分かって、一層その誇り高さと意志の強さに、トロイは敬意を抱いたのだ。その反面、陰に籠って行かなければそういう己を保てない、フェルディナントの精神状態も心配していたから。

 トロイは本当に、ネーリには感謝していた。彼がここにいてくれなかったら、フェルディナントはどこかで、光が見えないこの世界に絶望して壊れてしまっていたかもしれない。

 フェルディナントは情勢不安なヴェネトから、ネーリを連れ出し、神聖ローマ帝国へ連れ帰るつもりらしい。その方がいいと、トロイも思う。今回のことはきっかけになった。

失ってからでは遅すぎるのだ。

 以前からフェルディナントは宮廷画家としてネーリを連れ帰りたい、と言っていたのだが、ネーリの方がヴェネトを離れる決心がついていなかったらしい。

 普通、神聖ローマ帝国の将軍位にあり、公爵の称号も持っているフェルディナントが屋敷に連れ帰って好きなように暮らしていいと言えば、喜んで来るものだが、ネーリは貧しい暮らしをしていても、贅沢な暮らしにただ惹かれるようなことはない人で、幼いころから育ったヴェネトに、深い愛着があるようだ。

 祖国を失ったフェルディナントは、どんなに彼が欲しくても、無理に故郷から引き離すことは出来なかっただろう。

 だが……。


「一番近くにある教会の庭にはどんな花が咲いているの?」


 聞き返すネーリの声は優しい。

 今は、そこに向かうことも、前向きに考えてくれていることが伝わってくる。

 きっとフェルディナントのことを愛してくれているのだ。

 廊下の壁に身体を預けて、別に誰に隠すわけでもなく、ゆったり開いた扉の中から聞こえて来る会話を、トロイはしばらく目を閉じて聞いていたが、やがて会話が続いて行くのを感じ取ると、小さく笑んで、静かにその場を後にした。

「花のことはあんまり詳しくないんだ。ごめん。……でも白い花がよく咲いてたと思う」

 ネーリはフェルディナントを見た。

「あ、いや……。妹にはあまり会ったことがない、って前に話しただろ」

 うん、とネーリは頷く。

「でも会った時に、色んなことを話してくれた。花がとても好きなことも話してくれて。庭を歩きながら、植えられている花の名前を感心するくらい、しっかり教えてくれた。

俺は『そうなのか』しか言ってやれなくて。お前の絵と一緒だな。戦ばかりして来て、花とか芸術とか音楽とか、人生を彩るためのものを疎かにして来た罰だよ。折角相手がそういう話をしてくれても、気の利いた言葉も、話を深めて行ってやることも出来ない。妹と別れた時、今度会う時までにもう少し花のことは詳しくなっておいてやろうと思ったはずなんだが。 ……忘れてしまっていた」

 彼の告白にネーリは心の痛みを感じたが、フェルディナントはもっと痛いはずだと思って、優しい声で話しかけた。

「……なら、神聖ローマ帝国に行ったら、僕が教会や街に咲いてる花のこと、フレディに教えてあげるよ。ぼくお花のことは結構詳しいから、名前たくさん教えてあげる。妹さんの好みは分かるんでしょ?」

「ああ。あの日たくさん教えてもらったから。優しい色が好きなんだ。ドレスも、花も。あの子も絵を描いてたけど、淡い紅色を特に好んで一生懸命使ってた」

「じゃあ好きな花もきっとフレディが分かるね」

 ネーリが微笑むと、フェルディナントは頬に触れ、肩に深い傷を負っているネーリに痛みを与えないように、そっと慎重に額に口づけた。

 自分の心に、ネーリはいつも優しく寄り添ってくれる。そのことを、フェルディナントは深く感謝した。彼のこういう、情け深さが、一番大好きだ。

 少し目を閉じてそれを受けて、ゆっくりフェルディナントの方を見上げると、彼は優しい表情でネーリを見つめて来てくれた。

「今、初めてお前が『神聖ローマ帝国に行ったら』、って言ってくれた」

 ネーリが笑った。

「フレディが連れて行ってくれるって」

「連れて行くよ」

 覆い被さる体勢で、仰向けに寝ているネーリの身体を、壊れ物を扱うように包み込んでから、腕に力を籠める。

「そのことを、お前が楽しみにしてくれるのは嬉しい」

「確かに、ヴェネツィアを離れたことは、そんなにないから二度と戻れなくなったら、って思うと怖かった。でも今は、フレディのところに行くの、楽しみにしてる。……違うかな、願ってる。

 いつかぼくと、フレディと、フェリックスの三人で暮らしたい。

 家族みたいに」

 そうしたらいつかみたいに、寂しさなんて少しも感じない、そういう日々が来るのかな。

「俺もそうだよ」

 フェルディナントはネーリの額に、自分の額を預ける。

「俺もそう、願ってる。お前も同じ気持ちでいてくれるなら……」

 フェルディナントの両手が頬を包み込んでくれる。

 温かくて、優しくて、ネーリは彼の手が大好きだった。その手に触れられることも、好きだ。愛情が、確かに伝わってくるから。


「必ず俺がお前の願いを叶えるよ」





【終】



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