空魚

保坂星耀

空魚

 たっちゃんが帰ってきていた。


 近所のスーパーが三が日は営業しないのを十九時を回ってから思い出し、部屋着にコートだけを引っかけて駆けつけたところ、精肉コーナーも野菜コーナーもすっかりからっぽになっていた。ぽつんとミカンが売れ残っていたのは僥倖だった。幼い頃からの好物で、大入りの袋でも一時間あれば食べ尽くしてしまう。それが三袋も残っていたので美紀は迷わず全部を買い物カゴに放り込み、人っ子ひとりいない夜道をえっちらおっちら運んできたのだった。


 大晦日の住宅街は静まりかえっていた。いつもなら停まっている車がない。自転車に乗って家路を急ぐサラリーマンたちも今日ばかりは姿が見えなかった。人間のいた痕跡といえば家々の玄関にかけられた正月飾りくらいのものだ。美紀の住む二階建てのアパートも例に漏れず、しんと真っ暗に佇んでいた。大家の部屋にも老夫婦が住む部屋にも、その隣のベーシストの部屋にも人の気配がない。灰色のカーテンが壁のように各々の窓を塞いでいて、柔らかな光が灯っているのは美紀の部屋だけだった。


 自分の足音がやけに響いている気がする。まるで深夜に、誰かの眠りを妨げないよう息さえ殺して歩くようにして美紀はアパートの階段を登った。コンクリートに金属の手すりを打ち込んだだけの階段はそれでもギイギイと耳障りな悲鳴をあげる。首を縮めながら美紀は重いミカンの袋を二階まで運び上げ、そこで棒立ちになった。


 たっちゃんだ、と誰かが頭の中で言った。その誰かの声音は自身の声色そっくりで、遅れて美紀は自分がそう考えたことに気付いた。じゃり、とどこか遠くでサンダルがコンクリートの床をにじって、その音でたっちゃんはこちらに気付いたようだった。


「あ、帰ってきた」


 思いのほか低い声でたっちゃんは言った。額の真ん中で分けた長めの黒髪がまるでアニメかドラマの登場人物みたいに決まっていて、だが、顔立ちは柔和で愛嬌がある。それというのも目が丸く大きくて、鼻は低めの団子鼻、唇の薄さに比して左右の口角が離れた位置にあるからだろう。ご近所の子ども好きなお兄さんを想像すればだいたいこういうなる、という明るい顔立ちをくしゃっと笑わせながらたっちゃんは立ち上がった。


「もう。遅いよ。俺、すごい待った」


 当たり前のようにたっちゃんが言うので美紀は「ごめんね」と答え、答えてからなんで自分は謝ってるんだろうと思った。別に約束もなにもしていない。彼は勝手に来て、勝手に美紀の部屋の前にいた。それだけだ。しかし、それがたっちゃんらしいといえばらしく、思わず美紀は笑ってしまった。


「どうしたの、とつぜん」


 美紀がそう尋ねると、たっちゃんは「うーん?」と首を傾げてからぽんと手を打った。


「おおみそかだから。ご馳走食べに来た」

「ええ? いきなり来てもなんにもないよ」


 鍵を取り出しながらドアに近づくと手元に黒々と影が差していた。見上げれば、たっちゃんが首を曲げて美紀を見下ろしている。


「そんなことないでしょ」とたっちゃんが言った。

「そんなことあります。知ってるでしょ、うちはおせちなんてしないんだから」


 ドアを開けて中へ入る。当然のようにたっちゃんは中へついてきた。鍵を閉めるように言い置いてミカンを台所へ運び、冬の外気ですっかり渇いた喉をコーヒーで潤していると、しばらく玄関でガチャガチャやっていたたっちゃんが遅れてやってきた。


「俺も喉渇いた」

「……お水飲む?」

「チンしたのがいい」

「わかった」


 電子レンジが回るのを見つめているとたっちゃんが隣に来て言った。


「ねええ。ご馳走。俺の分は? ほら、おせち食べなくても蕎麦は食べるでしょ」

「残念。かき揚げもお蕎麦も一人分しかありません」

「じゃあ、俺、牛丼がいい」


 思わず美紀が隣を見ると、たっちゃんはキラキラと目を輝かせていた。


「ずうっと食べたかったんだ!」


 ええーと呟いて冷凍庫を覗いてみる。小分けにしてラップした肉の中に牛肉らしきものはミンチの合い挽きしかなかった。ほかにあるのは鶏肉と豚の切り落としだけだ。「ごめんね」と前置きしてからそのことを伝えると、案に相違してたっちゃんは顔中で笑った。


「やった! 豚肉! あこがれのやつ!」

「豚丼でいいの? じゃあ、作るから」


 チンとそこで電子レンジが鳴った。マグカップに入った白湯を取り出し、こたつの電源をつけてあげてから美紀はその一片を指差した。


「ここに大人しく座ってて」


 どん、と天板に置いたマグカップと美紀を、たっちゃんは何度か見比べた。


「なら、テレビ見たい。鳥のやつ。それ見て待ってる」

「テレビじゃなくてYouTubeだから」


 お気に入り登録したはずの動画をあさっている間、たっちゃんはワクワク顔で美紀を見守っていた。三年前とまったく同じだ。美紀がたっちゃんの為になにかする時、彼はいつだって目をまん丸にしてじっと美紀の手元を見つめていた。美紀のことをまるで疑ってない、美紀がすることは必ず自分を喜ばせることだと確信している目だった。


「ねー。まだー?」

「ちょっと待ってよ」


 あれこれ操作をしていると、待ちくたびれたらしいたっちゃんが美紀の手を覗きこんできた。その仕草も三年前と変わらない。美紀のことを信じている割にこらえ性のないたっちゃんは、美紀が支度や操作に手間取っていると様子を見にきたものだった。


 リストを遡って動画を探しながら、三年、と美紀は胸の内に呟いた。たっちゃんがいなくなってから経った年月は短いようでいて、実際はとても長いものだったらしい。彼が気に入っていた動画は三年の間にお気に入り登録した動画に埋もれてなかなか出てこなかった。リストを探しても探しても、出てくるのはSNSでのバズり方だの美味しい料理レシピだの、たっちゃんとは縁遠い動画ばかりである。


 ふと思い出して美紀は再生リストの一覧を開き、その下の方にようやく目当ての動画をみつけた。リストのタイトルはそのものズバリの『たっちゃん』だ。


「懐かしい」とたっちゃんが呟いた。


 そうだね、と美紀は心の中で答え、それから再生リストを起動した。



* * *



 豚丼を前にしたたっちゃんは輝くような顔で匂いをかいで、どんぶりを左右から観察して、スプーンで豚肉をひっくり返したのち、口を尖らせた。


「ねえ、これ」

「なに」と、美紀はかき揚げを呑み込んでから答えた。

「透明なやつ入ってない」

「仕方ないでしょ。こんにゃく、買ってなかったんだから」

「こんにゃくじゃなーい! 透明の! ぴらぴらしたやつ!」


 美紀はしばし考え、それから調理中に考えた是非をそのまま口にした。


「タマネギはやっぱダメでしょ」

「そんなことない!」

「わかんないじゃない。具合悪くなられても困るし」

「そんなことないぃぃ」


 たっちゃんはしおしおと俯いている。無視して美紀は蕎麦をすすった。出汁を取るなんて面倒くさいのでめんつゆを使ったが十分に美味しい。ほうと息を吐き出していると、わがままを言ってもどうにもならないと悟ったらしいたっちゃんが渋々といった様子でスプーンを使い始めた。その顔がすぐにぱあっと明るくなる。


「美味しい! いっつもこんなの独り占めしてたんだ!」

「いや、人聞き悪いな。きみの体を気遣ってのことでしょ」

「でも、ずるい! フライドチキンも白いお刺身も独り占めしてたじゃん」

「だから、それは」


 言いかけて美紀は口をつぐんだ。たっちゃんの為、そう思っていろいろなものを『独り占め』してきた。フライドチキンも、イカの刺身も、チョコレートも、ブドウも、欲しがるたっちゃんの顔を手のひらで遠ざけながら食べたものだった。ミカンだって、と美紀は箸を握りしめた。三年前までは買うのをやめていた。たっちゃんの体に悪いと知ってのことだったが、はたしてそれは本当にたっちゃんの為になっていたのだろうか。むしろ体に悪くても食べさせてあげた方がたっちゃんは幸せだったんじゃなかろうか。


「あのさ」


 たっちゃんが呟いたので美紀は思考をいったん横に置いて「なに」と答えた。


「名前、なんていうの」

「え」と、美紀は瞬いた。「うそ。知らなかったの」

「知るわけないじゃん。ずっとここで暮らしてたんだから」


 考えてみれば当然だった。たっちゃんはこのアパートの一室から出たことがない。そして、美紀は一人暮らしである。部屋に友人を招いたこともないし、そもそも美紀をそうと呼ぶ人は部屋の外にもいなかった。両親は美紀が学生の頃に亡くなってしまって、高校を卒業するまでは名前で呼ぶ人もあったが、社会に出てからはそんな人も付き合いもなくなってしまった。


「ハシモトっていうのは知ってる」


 ぽつんとたっちゃんが呟いた。


「名前知らないのに苗字は知ってるんだ」

「変な男が来た時」たっちゃんは頷いて言った。「そいつがそう言ってたの聞いた」


 宅配便の人のことを言ってるのかな、と美紀は考えた。この部屋を訪ねてくる他人なんてそのくらいだ。


「美紀。橋本美紀」


 蕎麦をすする合間に美紀は早口で答えた。改まって名乗るのも恥ずかしい気がしたのだ。なにせたっちゃんとは五年も一緒に暮らしていて、お互いのことは知り尽くしたと思い込んでいた。そこに来てこの質問は不意打ちが過ぎる。


「ミキ。ミキちゃんかあ」


 たっちゃんは嬉しそうに繰り返してから、スプーンを置いて美紀に向き直った。


「あのさ。ミキちゃんはどうしてわかったの?」

「どうしてって? なにが?」

「ほら、俺が俺だって。俺、もうちょっと揉めると思ってたんだ。だから、どう言おうかいっぱい考えてたんだよ。だってさ、俺、前とは全然違う見た目じゃん。きっとわかってもらえない、家に入れてもらえないって思ってたんだ。でも、ミキちゃんは俺だってわかってくれた。どうして?」

「そんなの」箸を置いて美紀は言った。「一目でわかったよ」


 たっちゃんは目を丸くしている。黒目が獲物を見定めた時のように大きくなって、黄色い光彩が丸くそれを縁取っていた。人間の姿形、それには間違いない。しかし、美紀にはすぐにわかったのだ。


 長袖の上着の背中とお腹が黒くて胸元だけ焼き肉のエプロンを巻いたように白い。右袖は真っ白なのに、左袖は入れ墨でも入れたように真っ黒だ。外にいた時に履いていたスニーカーは雪のように白く、その下のソックスも洗いたてみたいな白だった。肌の色は抜けるような白。長袖からつきだした両手のひらはまるで白い手袋を嵌めた紳士のそれだ。


「たっちゃんのことなら私はわかる。どんな姿でも、毛皮を着替えてきたんでも、絶対にわかる。それだけは自信があるんだ」

「もっと怖がるかと思ってた」

「そんなわけない。大好きな猫が会いに来てくれたのに怖がるわけないじゃない」

「ありがとう、ミキちゃん」泣き笑いのように顔を歪めてたっちゃんは言った。「良かった、やっと伝えられた。ずっと言ってたんだよ。ミキちゃんが言ってくれるたび、俺も大好き、ありがとうって返してた。だけど、俺の声、全然ミキちゃんに伝わらなくて」

「だって。きみの声、にゃーにゃーとしか聞こえなかったから」

「うん。それでも言ってた。大好き、ありがとうって」


 たっちゃんは笑っていたが、美紀はもうこらえきれなかった。目の縁が熱くなって、喉がぐうっと締まって、顔を覆った美紀の暗い視界の中でたっちゃんが困ったように言った。


「どうしたの? ミキちゃん、どうして泣いてるの?」

「私も大好きだよ」絞り出した声はかすれてみっともなかった。「ありがとう。会いに来てくれて。大好きだよ、私の猫。私だけの猫。たっちゃん。ありがとね。大好きだよ」

「なんで泣いてるの? 俺、なにか悪いこと言った?」

「違うの。違う。ずっと、ずっとごめんねって思ってて」

「なにがごめんなの? ミキちゃん、なにも悪いことしてないのに」

「だって」


 しゃくりあげてしまって、その先は言葉にならなかった。あとからあとから涙が溢れてきて止まらない。たっちゃんのいる方から唸り声のようなものが聞こえて、衣擦れの音がしたかと思うと美紀はすっぽりと温かなものに包まれた。


「やっとできた。前からこうしてみたいって思ってたんだ」


 背後から美紀を抱きしめて、たっちゃんは頬ずりをしたようだった。


「ミキちゃん、よくこうしてくれたでしょ。大好きだよ、可愛いね、いい子だねって」


 なおさら涙が止まらなくなった美紀は、それでも笑った。笑いながら泣いた。


「そんなこと言って。だっこ、嫌いだったくせに」

「嫌いじゃないよ。ただね、ずっと動けないとううーってなっちゃうんだよ」

「ねえ、たっちゃん」


 呟いたきり言葉が続かない美紀を、たっちゃんはただ黙って待っていてくれた。優しい猫だった。出会った時からそうだった。穏やかで、おおらかで、どこを触っても許してくれた。猫は急所のお腹を触られるのが嫌いです、なんてのはよく聞く話だけど、たっちゃんはむしろお腹を撫でるとゴロゴロ言いながら喜んだ。どんなことがあっても美紀を噛んだり爪を立てたりしなかった。苦手な爪切りの時だって、もじもじと体をくねらせて逃げだす隙を探すばかりだった。


「たっちゃんはさ、幸せだった?」

「幸せだったよ」


 間髪入れず、きっぱりとたっちゃんは言った。


「本当に? ずっと部屋の中に閉じ込められて嫌じゃなかった? 本当はお外に行きたかったんじゃない? お散歩してみたかったよね?」

「ええー」というたっちゃんの声は笑っていた。「やだよ。外は寒いから」

「本当の本当?」

「本当だってば。だって、ミキちゃんがあそこから助けてくれたんじゃん」


 人間の姿でどうやっているのか、ゴロゴロと喉を鳴らしながらたっちゃんは答えた。


「俺、あの時、すっごくうれしくて。だって、あったかかったから。ごはんも。おなかいっぱいになれたし。ありがとね、助けてくれて」


 これもやっと伝えられた、とたっちゃんは言い、それで美紀は良かったんだとようやく思えた。


 たっちゃんは野良猫だった。美紀が勤める運送会社の事務所に、ある日ふらりと現われた野良猫の親子、三匹いた子猫のうち一匹がたっちゃんだった。にゃーにゃーと愛想を振りまく子猫が愛らしく、事務所の面々は猫缶やおやつを買ってきては親子に与えたものだ。母猫はたっぷりごはんをもらえ、寝床になる段ボールも豊富にある倉庫を気に入ったらしくしばらくそこに留まっていたが、ある日を境に姿を見せなくなった。交通事故に遭ったのかもしれない、事務所の所長はそう言っていたが、真相はわからない。ともかく事務所には三匹の子猫が残された。キジトラのメスとオス、それから黒白のハチワレ柄のオスだ。キジトラの二匹はすぐに貰い手がみつかったが、ハチワレの一匹は長いこと事務所で暮らしていた。ようやく貰ってもいいという人がみつかっても、柄について伝えると断られるのだ。黒猫は縁起が悪いからねえ、と同僚は苦笑いしていた。


 それで美紀は手を挙げた。自分が飼います、気付いたらそう言っていたのだ。理不尽だと思ったらあとは反射だった。野良猫に生まれたのも、黒猫に生まれたのも、この子猫が選んで決めたことじゃない。自分ではどうしようもできなかったことで未来が狭まるのは違う。そう思った瞬間、言葉は勝手に口から飛び出ていた。


 理不尽なことが大嫌いだった。例えば女に生まれたこと、例えば両親が早くに亡くなったこと、努力では覆せないことで未来が決まったり変わったりする場面には山ほど出くわしてきた。そのたび苦難をはねのけてきたと言えれば格好いいが、事実はそうではない。屈すること、諦めること、山ほどあった。


 同じ思いをこの子猫にさせたくない、その一心に操られるように美紀はたっちゃんを引き取ることにし、当時住んでいたペット禁止のマンションからこのアパートへ移り住みさえした。


 けれど、それは意地でしかなかったのかもしれない。心の底でいつもなにかがそう囁いていた。


 運送会社のしがない事務員に引き取られなければ、たっちゃんはもっと幸せになれたのではないか。自然を感じながら走り回れる庭、キャットタワーがいくつも置かれた広い部屋、大好きなウェットフードだけを食べられる日々、いずれも美紀には用意できなかったものだ。美紀は自身の意地、あるいは自己満足にたっちゃんを付き合わせただけで、彼が得られたはずの幸福を取り上げてしまったのではないか。


「うちで良かったの?」


 胸がつかえてしまって、たったそれだけしか言えなかった。


「うん。俺、ミキちゃんのとこの子になれて良かったよ。だって、美味しいのいっぱいくれたじゃん。おやつのタワーとか、にぼしとか、かつぶしとか。クリスマスにはおっきいマグロ三枚もくれたよね? 俺、ちゃんと覚えてるよ。それと、いっぱい寝れた。テレビも見れた。これ以上にいいことってある?」


 たっちゃんはそう言ってくれたが、美紀は必死に頭を振った。そんなわけがないと思った。


「でも、だって。私、たっちゃんのこと殺しちゃった」


 誕生日だった。たっちゃんを迎えた日、本当の誕生日はわからなかったからその日がそうだということにしていた。特別に用意した猫用のケーキは朝にちゃんと冷凍庫から冷蔵庫に移してあったし、お気に入りのマタタビ棒も新しいのを買っていた。そうだ、お相伴させてもらおうと帰宅途中に思いついて小さなケーキを買い、アパートのドアを開けたらたっちゃんは泡を吹いて倒れていた。心臓は止まっていて、けれど、まだ体は温かかった。かかりつけの動物病院に慌てて電話した。タクシーを呼んで、教わったとおりに心臓をマッサージしながら病院へ急いだ。しかし、医師はたっちゃんになにもしてくれなかった。いや、なにもできなかったというのが正しい。全てが手遅れだったのだ。


「ごめんね。ごめんなさい。あの時、ケーキなんて買わなきゃ良かった。もっと急いで、走って帰れば良かった。健康診断だって一番高いのにしとけば良かった。たっちゃんはきっとどこかが悪かったんだよね。ずっと痛いの、苦しいのを我慢してたんだよね。まだ五歳だったのに。若かったのに。あんなお別れするはずじゃなかったのに。私、なにもしてあげられなかった。もっとなんでも食べさせてあげれば良かった。だって、あんなに早くお別れするなんて思ってなかったから。私、たっちゃんに我慢ばっかりさせて。チョコもアイスもイカもサバもあげれば良かった。旅行でもどこでも連れてってあげれば良かった。もっといっぱい遊んであげれば良かった。たっちゃん、ごめんね。私、自分のことばっかりで。たっちゃんがねこじゃらし咥えてきた時、はいはいって後回しにしたりして。遊びたかったんだよね、もっと甘えたかったんだよね。もっと撫で撫でしてほしかったよね。なのに、ごめんね」

「ミキちゃん」


 温かい手がゆっくりと美紀の頭を撫でた。たっちゃんは思いのほか穏やかな声で「ミキちゃん」ともう一度言った。


「俺、幸せだったんだよ。本当だよ。ミキちゃんのこと、大好きだった。ありがとうっていっつも思ってた。なのに、俺の大好きなミキちゃんをミキちゃん自身が悪い子だって言うの? そんなの、ひどいよ」

「だって」という反駁を温かな手のひらが拭っていった。

「ミキちゃん、あのね。お空にお魚はいたよ」


 涙を流れるままにして美紀は顔を上げた。たっちゃんは真剣な顔をしていた。黒目がきゅっと針のように細くなっている。


「俺が死んじゃった時、俺ね、しばらくミキちゃんの傍にいたんだ。ミキちゃんは俺のこと見えてなかったみたいだけど、それでも離れられなかった。だって、ミキちゃんが泣いてたから」

「……ごめんなさい。心配でお空にいけなかったんだね」


 ううん、とたっちゃんは首を振って言った。


「俺がそうしたかったんだよ。それでね、ミキちゃん、あの時言ってくれたよね。俺の体を撫でながら、お空には大好きなお魚がいっぱいいるよって。お腹いっぱいだよ。もう苦しくないからね。もうずっと幸せだからねって」たっちゃんはにこりと笑って続けた。「お魚、本当にいたよ。青空をね、すうっと泳いでいくんだ。すっごく高いとこを泳いでるもんだから、俺、かじろうと思ったんだけどジャンプしても届かなくて。それでもね、お腹はすいてない。毎日、いつも、お腹いっぱいだよ」


 ぼろぼろと溢れては伝い落ちていく美紀の涙を拭ってたっちゃんは笑みを深めた。


「俺ね、お空でいっぱい頑張ったんだ。すっごく修業した。本当はね、猫は空で人間を待つんだって。人間と猫の寿命は違うから、猫はみんなそうするんだって。それでいつか人間が空に昇ってきた時、人間をお出迎えして空の上の上のほうへ案内してあげるのが猫の役目なんだって。でもね、俺、どうしてもそれが嫌で」


 それはどこかで聞いた童話だと美紀は思った。ペットが死ぬとその魂は虹の橋の袂へ行って、やがて来る飼い主の魂を待つのだという。


「嫌? どうして?」


 美紀が尋ねるとたっちゃんはくすっと、どうしようもない子を慈しむように笑った。


「ミキちゃん、言ってたじゃん。私をひとりにしないでって」


 言ったかもしれない。親類縁者も頼れる人もない、特に親しい友人もいない、毎日を会社との往復で消費するだけの人生が寂しくて、虚しくて、たっちゃんの暖かな毛皮に顔を埋めた夜があったような気がした。


「もう死んじゃった猫が人間の世界に行くにはチカラが必要なんだって。魂のチカラっていうのが高くないと、世界の壁とかいうのを越えられないんだ。だからさ、俺、いっぱい修業した。お空の上で待つんじゃなくて、ミキちゃんをこうして迎えに来る為に」


 迎えるとはどういうことだろう。美紀の疑問をすくい取るようにたっちゃんは台所の方を指差した。


「やっぱりまだわかってなかったんだね」


 リビングから漏れる光を何か白く細いものが反射していた。芋虫みたいに転がったあれは、なんだろう。美紀が目を凝らす前にたっちゃんが自身の体で台所を隠した。


「行こう、ミキちゃん。俺たちはもうずっと一緒だよ」

「でも、たっちゃん」

「またねこじゃらしで遊んでよ。今度は同じものを食べて、同じ言葉を話して、同じように笑おう。一緒にお空の魚を捕まえよう」


 見上げたたっちゃんの目はいつかのようにキラキラと輝いていた。惹かれるように手を伸ばしかけて、美紀は驚いて両手を握ったり開いたりしてみた。


「なんだろう。とっても軽い」

「うん。人間も猫もみんないつかはそうなるんだって」


 たっちゃんは美紀の両手を取って立ち上がった。吊られるようにその力に身を任せ、美紀は瞬いた。大人になるにつれ重くなってきていた体が子どもの頃みたいに楽に動いた。


 見上げれば猫の瞳がやわらかにしなっている。優しいその輝きに促されるまま美紀は目を閉じた。握られた両手が温かい。そのぬくもりはゆるゆると全身を包み込み、やがてどこまでも果てしなく拡がっていった。床を踏む感覚が遠ざかり、瞼の向こうが明るくなる。呼びかけてくるたっちゃんの声の向こうに美紀は聞いた。遥かな空から降り落ちてくる、それはクジラの豊かな笑い声だった。

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