02 家郷の記憶



「お決まりでしょうか?」


 ぼんやりしていたら、ふいに後ろから声をかけられた。驚いて振り向くと、白のブラウスに膝丈の黒スカート、黒タイツと飾り気のないローファーを履いた女性が白いエプロン姿で立っていた。


 肩に届きそうなストレートの髪、メイクしているけど派手な主張はなくナチュラルだ。清潔感があって二十歳はたちくらいの学生に見える。メモとペンを手にして黙ったままで、お世辞にも愛想がいいとはいえないが不思議と嫌な感じはしない。


(昔の漫画に出てきそうな店員さんだな)


 しばし見ていたが、待たせていることに気づいてあわててテーブル上のメニューを手に取った。手書きされた料理を追っていたら「ナポリタン」で指が止まった。


(ナポリタンがあるのか。もう何十年も食べていない。

 そんなに好きじゃないけど……なぜだろう。無性に食べたい)


 コーヒーとナポリタンを頼むと「かしこまりました」と言って店員はカウンターへ戻っていく。横目で追っていると窓が目に入った。外で白いものがちらついている。


(雨……?

 違う、雨じゃない。あれは粉雪だ。

 この時期に降るなんて珍しいな)


 都心ではめったに降らないので雪景色は珍しい。窓の外で音もなく降り続ける雪を飽きることなく眺め続ける。


 雪のせいか外は真っ暗ではなく、霧の中のように白くぼんやりとしている。白い景色の中で動く影が現れては消えていく。しばらくして影は人だと気づいた。


(こんなに人がいたんだ)


 窓のすぐ近くを通る人もいる。どの人も真っすぐ向いて背筋が伸びており、穏やかな表情をしている。


(こんなふうにじっくりと人を眺めるのはひさしぶりだ)


 いつも焦燥感があって何かしていないと罪悪感を持ってしまう。他人はおろか自分のことを考えるゆとりがなく、どこにいても落ち着くことができず不安が消えない。


(居場所がなくてわざと仕事を詰め込んできた。

 常に孤独を感じていたけどこの店はとても居心地がいい)


 調理の音とともにナポリタンのいい香りが流れてくる。目を閉じて耳を澄ませると、カチカチと規則正しく動く音も聞こえてきた。


(なつかしい。振り子時計だ。祖父母の家にもあった)


 蒸気の音も加わってコーヒーのかぐわしい香りもしてきた。調理場を想像していたら子どものときの大好物がナポリタンだったことを思い出した。


(あの頃は姉ちゃんとよく寄り道して帰った。

 遅くなると母さんが玄関の前で待っていた。

 寄り道を叱ったけどいつも笑顔だったな)


 脳裏に次々と思い出がよみがえってくる。どれも幼いときの記憶ばかりでほっこりする。


(ここは実家にいるみたいだ。

 ……いいや、そうじゃない。

 一番楽しかった頃に戻っているみたいだ。

 不安を感じることもなく守られていて幸せだった)



 このままでいたい――。



  モウ ガンバラナクテ イイ

  ココニ イレバ イイヨ



 ここにいてもいいのか?



  イイヨ



 じゃあ、ずっと居させてくれ……




 椅子に深く腰掛け、穏やかな表情で遠野とおのは眠っている。白髪の老人が彼に近づいても目を覚まさない。


 いつの間にか室内の明かりは消えていて時計の音も聞こえてこない。ナポリタンの香りもしなくなっていて、ひんやりとした空気に包まれている。老人は横に立つとやさしい眼差しで見つめた。



「ゆっくり休むといい……」



 暗い室内で寝息だけが聞こえている。老人は手を伸ばすと頭を撫で始めた。安心しきって目を閉じ、幸せそうな表情で白い息を吐いて眠っている。静かな空間で突如、声が響いた。


「じいさん、ルール違反だよ」


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