図書館Ⅳ

 相変わらず雪は降り続いている。しんしんと、汚いものを覆い隠し、を慰撫するかのように。こんなにもずっと降っていたら、とうにこの図書館も雪に埋もれていそうなものだったが、ドーム状の形状の恩恵か、はたまた何か不思議な力が働いているのか、雪は常にある一定以上は積もる様子がなかった。

「……」

 僕はガラスに映る自分の顔を眺めるでもなく眺めた。ひどい顔をしていた。生きているのか死んでいるのか分からない。そんな表情。でもその時、僕はあることに気づいた。僕が彼女に抱いている感情。それはあの時、僕の上で震えていた彼女の瞳にもあったもの。

(罪悪感)

 彼女は罪悪感を抱いている。なぜ?なにに対して?分からない。僕はそれを知りたいのだろうか。それも分からない。でも一つ確かなことがあった。僕はいまこの胸に宿った、その暗く淀んで黴のように深く根を張ろうとしている感情を少しでも紛らわすため、彼女に何かしたかった。それはたぶん、彼女のためじゃない。僕自身のためだ。僕は再び、意を決して彼女を探した。合わすような顔はなかった。でも、他にしたいこともない。本を読むか、雪を眺めるか、音楽を聴くか、あるいはあの日僕の脳に刻まれた彼女の姿を思い出しながら、自分を慰めるくらいしか、することがない。あの時、僕は勃起していた。でも、すごく哀しい勃起だった。僕はそんなものは知らなかった。知りたくもなかった。だから彼女を想って自分を慰めるときも、僕はそうすればするほど、胸の奥の罪悪感が根を張っていくのを感じた。自慰を始めたての頃の、終わった後のあのなんとも言えずやり場のない虚無感とは違う、明確な指向性を持った、鈍く、鋭く、触れる先からぼろぼろと崩れ、傷口を醜く侵していくような、そんな罪悪感だった。傷が癒されても、きっと傷跡は残るだろう。その傷跡を見るたびに、己の醜さを突き付けられるのだ。

 彼女はいつもの場所にいた。その日は小さなランプを灯して本を読んでいた。本に視線を落とす彼女の横顔や解れた髪に、僕はいつしか見入っていた。

「ねぇ」

 僕は思い切って声をかけた。彼女が振り向く。いつもの虚ろな目だ。でも少しだけ、そこには生気のようなものを感じた。

「なにを、読んでるの?」

 彼女は読んでいるところに親指を挟むと、本を閉じて表紙を見てから言った。読むものは何でも良かったのかもしれない。

「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』」

「おもしろい?」

 彼女はすぐにまた本に視線を落とすと、ページを捲った。そのまましばらく返事がなかったので無視されたのかと思ったが、僕は我慢強く待った。

「わからない」

 それが彼女のリズムなら、僕もそれに合わせようと思った。

「本を読むのが、好きなの?」

 あるいは奇妙な問いだったかもしれない。彼女は図書館にいるのだ。でも、彼女が本を読んでいるのを初めて見た。それに僕はとにかく彼女のことが知りたかった。

「……」

 またしばらく間があった。でもかまわない。時間はいくらでもある。

「嫌いじゃない。読んでいる間は、余計なことを考えなくていいから」

 僕はさらに一歩踏み込んだ。

「他に、何か好きなことはないの?」

 彼女が僕の方を見る。さっきまで微かに宿っていたように見えた生気は、もうそこにはなかった。僕は怖くなった。それから彼女は視線を床に落としたまま、動かなくなってしまった。でも息はしているようだった。静かだ。自分の息をする音だけが、世界が完全には停止していないことを伝えた。

「なんで、そんなこと訊くの?」

 自然、僕も言葉を返すまでに少し間を置いた。彼女のリズムに少しでも合わせたかった。そしてまた、実際その返答には考える時間が必要だった。

「僕が、君に、なにかしたいから。好きなものがモノなら、それをプレゼントしたい」

 僕は直截的に思っていることを伝えた。遠回しな言い方は、意味がない気がしたから。彼女は再び本に目を落とそうとして、しかし顔を上げると、どこか一点をぼんやりと見つめた。あるいはどこも見つめていなかった。

「どうして?」

「僕が、そうしたいから。理由はない」

 彼女はそれを聞いても、何の反応も示さず、変わらず虚空を見つめていた。それはもう元には戻らない、何かを見ているようだった。崩れた家。台無しになった料理。死んだ仔犬。

「へんなの」

 ぽつりと、彼女が呟いた。「キモチワルイ」そう、続きそうな言い方だった。

「それで、あなたの気は済むのね?」

 彼女はそう言いながら、両手でこめかみの辺りを押さえた。早くどこかに言って欲しい。そう言いたげだった。

「そうだと思う」

 これは会話と呼べるのだろうか。意味は通っている。でも、そこに心は通っていない。僕は爪が食い込むように手を強く握った。

「……」

 それから彼女は目を瞑って天を仰いだ。それはまるで何かの儀式みたいだった。記憶を探っているのだろうか。遠い過去の、ある一日を必死で手繰り寄せようとしているようだった。

「お花」

 花。

「あと……花火」

 花火。

「……」

 それだけ言うと、彼女は疲れたのか、ランプを消した。もぞりと、横になるような気配がした。僕は彼女の眠りの邪魔をしないように、静かにその場を去った。僕は自分の場所に戻り、外の雪を眺める。

「花と、花火」

 竹取物語みたいだな、と思った。この世界のどこにそんなものがあるのか、見当がつかなかった。

 

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