朧
酸っぱい、饐えた臭いで目が覚めた。どこかで嗅いだことがある気がしたが、それがどこかは思い出せなかった。瞼を開けると、そこには自分の膝があった。椅子に座っている。肘掛があり、背もたれの高い、つるりとしたアンティーク調の椅子だ。状況が掴めなかった。周囲は薄暗く、遠くから漏れ出ている灯りでなんとか視界が確保されている程度だった。
立ち上がる。ぶにゅりとした、異様な感触が裸足の足の裏から伝わって来た。ぬめぬめと粘液に塗れた床。いや、肉?それはまるで、何か巨大な生き物の内臓の中にいるようだった。ぴたぴたと耳ざわりな音を立てながらともかく前進し、灯りの方へと足を運ぶ。周囲の様子がだんだんと鮮明になってくる。灯りは恐らく蝋燭かランタンか、そういった種類のものに思われた。肉の壁はデコボコとして、大小さまざまな球状の肉塊が並び、脈打っていた。大きいもので、バスケットボールか、それより一回りくらいは大きそうなサイズだ。
「それは子宮だよ」
しわがれた声が、僕の耳元で囁き、全身が粟立つ。しかし周囲を見回しても、誰もいなかった。呆然としていると、また違う声がした。
「時間だ」
どこかで聞いたことがあるような気がしたが、それも記憶に朧がかかったように思い出せなかった。何もかもが曖昧だ。
気づくと、視線の先には見慣れた天井があった。夢だ。僕は全身にびっしょりと汗をかいていた。汗を吸った布団や下着が不快だ。僕は溜息をつきながら、顔を手で覆った。なんだか、酷く不気味な夢を見ていた気がする。自分の唾を呑み込む音が耳ざわりだ。外を見ると、もう日が高い。まずい、今日は祭祀だ。寝坊どころではない。具体的な役目があるわけではないが、今は千種たちに寄り添わねばとならないのだ。跳ねるようにして身を起こし、僕はともかく風呂場に向かった。洗面台の前で鏡を見ると、目に隈ができていた。昨夜は早く寝たはずだが、変な夢のせいだろうか。何かがおかしい。シャワーを浴び、歯を磨き、着替えてすぐに外に出た。
「……」
全身に纏わりついてくるような違和感があった。それが何かは分からない。ただ動物的な直感が、僕にそう訴えてきた。道端の草木の細胞一つ一つに至るまで、すべてが巧妙に似せられた偽物のように感じられた。僕はともかく社に急ぐことにした。小走りに駆け出してしばらくした頃、途中、一人の村民とすれ違った。
(……あんな人いたか……?)
祭祀の日だ。出稼ぎから戻ってきている人間も多いはずだ。もちろん、その全てを把握しているわけではない。だが――
「……」
足を止め、恐る恐る振り返ると、彼は変わらずゆっくりと歩いていたが、こちらの視線に気づいたのか、立ち止まり、ネジを回すように振り向いた。砂場にうち捨てられたビー玉のような、虚ろな目だった。僕は得体のしれない恐怖にかられ、すぐさま駆け出した。それからも村民を何人も目にした。彼らは、なんというか、
社に続く石段の前まで一気に駆け、上がった息を落ち着けた。見上げると、社の上空には墨色の不吉な雲が、とぐろを巻くように渦巻いていた。僕は、かぶりを振った。また夢でも見ているのではないかと。目覚めた気になっていたが、まだ夢の続きではないかと。頬を叩いてみるが、耳まで伝うようにじんじんと痺れる感覚は本物だった。僕は社の方を睨めつけると、意を決して石段を登り始めた。石段の両脇の茂みの奥から、無数の何かが僕を監視しているような気がした。錯覚だ。僕はそんな嫌な感覚を振り払うようにしてひたすらに石段を登っていった。
(おかしい)
登り始めて、かれこれ十五分以上は経ったと思う。村に訪れたばかりの頃ならともかく、慣れた今の僕ならもうとっくに二の鳥居が見えてきてもおかしくない頃だった。視線。その視線には悪意があった。茂みの奥から僕に投げつけられる眼差しに僕は段々と怒りを覚え始めた。それは僕にパノプティコンを想起させた。きっと、僕の心を折ろうとしている。そう思った。僕はともかくも石段を登り続けた。登ることに集中するうち、僕は蝉の声が聴こえないことに気がついた。彼らが恋しかった。三十分は経った頃だろうか。二の鳥居の代わりに、目の前に洞窟の入り口のようなものが現れた。僕は一度背後を振り返った。だがここまで来ればもはや進むしかない。夢であれ現実であれ、行きつくところまで行くしかない。今の僕に、他に向かうべきところなどないのだ。
昏い穴を進んでいくと、湿った土と古い木のような臭いがした。そして、夢の中で嗅いだような饐えた臭いがした。そうだ、確かに夢でそんな臭いを嗅いだ。その臭いは歩を一歩進めるごとに段々と濃くなっていった。やがて何かが聴こえてきた。背筋がぞわりとした。聴きたくなんてなかったが、その正体を掴むべく僕は立ち止まって耳を澄ませた。それは声のようだった。無数の、囁くような声。それが闇の向こうに
途中、危うく滑って転びそうになった。土の洞窟はいつしか何か動物の内臓のようなものへと変貌していた。徐々に夢の記憶が蘇る。同じだ。ならこの先に何かが待っている気がする。それを突き止めない限り、この悪夢は終わらない気がした。元凶があるはずだ。
向かう先から、それまでのくぐもった音や声とは異なる、より鮮明な生々しい営みの様子が耳に侵入してくる。それは徐々に湿り気を帯び、激しさを増した。ようやく最奥と思しき場所に辿り着いた時、そこには周囲の光景に不釣り合いなものが鎮座していた。無数の蝋燭に囲まれた、天蓋付きのベッドだ。そこに、彼がいた。
「神崎君……なのか……?」
彼は、何かに覆いかぶさるようにしていた体勢からこちらに気付くと、ゆっくりを身を起こし、僕を見下ろした。彼は何も身に着けていなかった。汗ばんだ肌が朧げな光に照らされ、てらてらと光っていた。そして、以前会った時からは、雰囲気が一変していた。どこか怒りを感じる、しかし責任感と自制心をも感じさせる、教職志望の誠実そうな青年は、まるで違う何かに変貌していた。最初それが誰か分からなかった。でもその顔は間違いなく彼のものだった。
「よう、遅かったな。間が悪いねぇ。もうちょっとでイケそうだったのによぉ」
僕の中で糸が一本切れたような感触があった。
「お前、誰だ?」
「んー?神崎悠斗君だけど?」
「違うだろ」
僕は、自分の中にこんなにも乾いた感情があったことを久々に思い出した。今目の前にいるのは、人を見下し、簒奪することしか考えていない存在だ。それが直感的に分かった。そういう人間を、かつてはよく見てきた。もちろん、そういう人間にも守るべきものがあり、やむなくそういう仮面を被っていたのかもしれない。でも、僕には僕の守るべきものがあった。甘い顔をしたところで、良いようにすり減らされるだけだ。そして目の前の奴は、それを煮詰めたような強烈な臭いがした。
「俺は俺だよ。昔の俺とは違うけどな。もうあんな幼稚なガキじゃない。俺はもう搾取される側の人間じゃない。そんなことより、ようやく役者も揃ったことだ。お愉しみを始めようじゃないか。でもお前の配役はまだ決まってない。今からそれを決める。テストだ。これが誰だか分かるか?」
神崎君の形をした何かが、彼が覆いかぶさっていたものを指さした。見たくなんてなかった。だが奴は
「見ないで……」
もはやその面影がないほど泣きはらした顔は、若菜のものだった。眩暈がして、猛烈な吐き気に襲われ、僕は膝をついた。
「脆弱なメンタルだなぁ。興奮するところだろうそこは」
肉を叩くような音がして、また短い悲鳴が聴こえた。
怒れ。そして今すぐ体を起こして奴を引き剝がせ。そんな思いとは裏腹に、なぜか僕は体に力が入らなかった。威圧感だ。それは圧倒的だった。それが故に、僕は目の前の存在が神崎君だと思えなかった。非科学的で、邪な何かを感じた。世界が曖昧になっている。そして到底かなわない巨大な脅威を目の前にして足がすくむというのは、こういう感覚なのだろうか。僕は生まれて初めての感覚の前に、指先一つ動かせなくなっていた。
「やめろ」
僕は震える声でそんな風に言うのが精一杯だった。
「簒奪者が俺に指図するな。今は再教育中だ。血筋の女だからな。若菜には村の母になってもらう」
「何を……言ってるんだ?」
「別にお前が理解する必要なんてない。お前はヤるかヤられるか、どっちになりたいか選ぶだけだ。そして俺はただこいつの、俺自身の情動を糧に一番効率のいい、気持ちの良い方法を選ぶ。村の人口も減る一方だ、今を逃したらもうチャンスはないかもしれないからなぁ」
相手が何を言ってるのか理解が追い付かない。でも、僕にはまだ気がかりなことがあった。
「千種や、琴音は、どうしたんだ……?」
他の皆も気がかりだったが、若菜の状況を目の当たりにして、僕はまずその二人について問うた。血筋と言うのは巫女の血筋のことだろう。それが相手にとっては価値を持つらしい。なら二人が、そして文乃さん達の身も危うい。神崎君の姿をしたそいつは、いかにも愉しそうに嗤った。
「ああ、まず千種だがな」
わざとらしく間を置いた後、そいつは話を続けた。
「爪を一枚ずつ剥いでやった」
僕はとうとう堪えきれずに嘔吐した。食事も摂らずにここまで走ってきた僕の空っぽの胃から、胃液だけがぱしゃぱしゃと壊れたポンプみたいに撒き散らされた。
「良い声で鳴いたよ。いつもの澄ましたお上品な顔からは想像も出来ないような声でな。勃起したよ」
相手の言っていることが何一つ理解できなかった。いや、僕の思考が理解を拒否した。粘ついた脂汗が額から、耳の裏から溢れ出し、嫌な臭いがした。
「両手と両足を全て剥いだら次は爪切りで指の肉を少しずつ削いでやった」
何かあると、いつももどかし気に揉み合わされていた彼女の美しく可憐な指が脳裏に浮かぶ。美しかったものが汚され、傷つけられ、貶められている。目から、口から、全身の穴と言う穴からあらゆる汁が流れ出す。
「でも何回か削いだところであの娘の精神は限界だった。何でもするというから、慈悲深い俺はたっぷり
「人間じゃない……いや……生命への冒涜だ」
視界が歪み、全身が粟立ち、震えが止まらなかった。
「お前に人間性が語れるのか?人間性を語れるのは生き残った人間だけだ。つまり強者だ。お前のような弱者が偉そうに。俺からすれば、俺は人間性のより純粋な部分を啜って生きているつもりだ。俺は人間性で出来ている」
「人間性の……搾取……?」
「そうさ、お前たちも大好きだろう?搾取が。それが人間の本質だ。耳ざわりの良いお為ごかしで弱者を
僕は、言葉を返せなかった。
「あと、琴音とかいう娘な。あの娘には千種のショーを最前列で見せてやった。半狂乱になってて笑えたよ」
感じたことのない、熱したタールの如き感情が腹の底から湧き上がる。
「そんな琴音は皮を剝ぐことにした」
(皮を……剥ぐ……?)
ふっと、全身から力が抜ける。それまで体を満たしていた怒りの熱が一気に冷め、背筋が凍った。精神がヒートショックを起こしている。
「……」
声が出なかった。体が、声の出し方を忘れている。回路が途絶している。
「平和ボケしたお前らは見たことなんてないだろう。見たければ見せてやる」
「……やめてくれ……」
人生で感じたことのない感情だった。人生でこんな泣き方をしたことはなかった。こんな感情を知りたくなかった。……夢だ。そうでないと説明がつかないことが起きている。
「大丈夫だ安心しろ、皮を剝いでもちゃんと
「なんだってする……だからもう……やめてくれ……」
そいつは大仰に溜息をついた。
「どいつもこいつも同じようなこと言いやがって。大した覚悟もねぇくせに。それにお前は分かってない。お前に残された選択肢は二つだ。お前がこれまで築いてきた絆には利用価値がある。良いオモチャだ。意思のあるままこっち側に来て俺を愉しませて、お前も少しでも美味しい思いをするか、あるいはここで意思のない人形に作り変えられるかだ。生きたまま作り変えられるのは苦しいぞ?WIN-WINあるいはWIN-LOSEだ。ビジネスの現場にいたんだろう?アピールしていこうぜ、お前のメリットを」
「……」
僕にはなんの力もなかった。なんだっていい、神頼みだって出来るならしたい。虫のいい話だ。神?霞様という秘神はどこにいった?まさか目の前にいるのがそうなのか?考えたところで分かるはずもない。苦しいのは嫌だ。ここは一旦味方になるふりをして、反旗を翻すのが合理的な判断かもしれない。でもそんなのはただの自己正当化にも思える。僕はそんな自分に耐えられるのか?
「あー、ダメだ。お前、めんどくさいな。考えてることなんて丸わかりなんだよ」
何かが這い寄って来た。触手だ。いよいよリアリティが無くなって来た。誰だ、こんな脚本を考えた奴は。奴の、まるでミミズのような触手が僕を絡めとり、粘液に塗れたそれで首を絞め始めた。振りほどこうとするが、見た目以上に力が強い。その息苦しさは、本物だった。
「お前のような奴は一番虫唾が走る。弱いくせにどっちつかずの態度で状況にぶら下がって、結局何もできやしない。不愉快なんだよ。一回絞めてから使ってやる。じゃあな」
視界が霞む。いや、朧がかかったように、黒く塗りつぶされていく。
「お前にとって俺みたいな存在はファンタジーなんだろうけどな、俺はただの象徴だ。その証拠にお前の弱さはリアルだろ?御伽噺みたいに都合よく特別な力が目覚めたり、助けが来たりなんかしない、そのまま鶏のように惨めに終わってろ」
耳鳴りがする。最後に、皆の顔が浮かんだ。悔しい。悔しい。悔しい。悔し――
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