すみれ

 事の真相を聞いたのは、祭祀が間近に迫った日のことだった。その日はやけに暑かった。複数回に渡る志保さんの訪問カウンセリングを経て、琴音はまず千種に開示し、そして志保さんの勧めもあって千種経由で僕にも事情が開示されることになった。今後の回復に向けて、僕に役目が生まれる事もあるかもしれないから、と。

 遠野家の白を基調とした美しいはずの部屋は、その日、なんだか病室のように見えた。テーブルには僕、向かいにすみれさん、隣に志保さんが座り、燈子さんは立ったままの姿勢ですみれさんの肩に手を添えていた。母鳥が小鳥を守るかのように。

「……デートレイプって、いうのかしら」

 いつもアサガオのように瑞々しいすみれさんの表情は、明らかに翳り、しおれていた。

「本人曰く、未遂ってことなんだけど……相手はサークルの先輩で、その日は前日に彼の家で飲み会があって、その時に気付かないうちにお気に入りのリップを落としてしまったらしいの」

 どこかで知らない鳥が鋭く鳴いた。

「だから彼に連絡して、取りに行っていいか訊いて、一人で彼の家に行ったんだって」

 琴音らしくない……僕は反射的にそんな風に感じていた。

「信頼してたんだって。サークルの他の、ちょっとガツガツした感じの先輩とは違って、話しやすくて、やっぱりソトにはこういう紳士的な人がいるんだって」

 巨大な万力で、胸を押しつぶされるような心地がした。

「だから、きっと油断していたのね。せっかくだからお茶でも飲んでいかないかって言われて……そこからはあまり憶えてないって。気づいたら彼がにいて、その感情の強さに押しつぶされて、何も出来なくなって、泣き出したところでようやく相手も気がついたそうよ。琴音が望んでないんだって」

 僕は、いつしか疎かになっていた呼吸を意識し、息を吐くのでやっとだった。燈子さんの手がすみれさんの鎖骨辺りを撫で、それに呼応するように差し出されたすみれさんの白く華奢な手を燈子さんが握っていた。

「彼、本当にごめんって、謝ってくれたらしいわ。でも、同時にこうも言ったんですって。『恥をかかせたくなかった』、って」

 僕は、気づかない間に握りしめていた拳を、思わず額に打ち付けそうになった。でも、ダメだ。ここで僕が感情を出すべきではない。皆、抑えているのだと、何とか己を御し、代わりに目を瞑って奥歯を噛んだ。

「あの娘、結人さんとは普通に話せてるみたいだったから、わたし少し安心しちゃってたんだけど……ダメね、本当に」

「すみれ」

 燈子さんが、すみれさんを後ろから抱き締めた。

「月城さん、分かっているとは思うけど、このことはくれぐれも内密に。琴音さんの同意なしに、誰にも話さないで」

「もちろんです」

 セカンドレイプ被害を防ぐための大前提だ。見やると、そこには志保さんの変わらずプロフェッショナルな表情があった。それは僕をいくらか冷静にさせてくれた。さすがだ。


 遠野邸を出た後、今後カウンセリングの際に僕に同席をお願いするかもしれないといった話を志保さんとして別れ、僕は鏡渕池に向かった。

 池の水面は変わらず澄んで、残酷なまでに穏やかだった。蝉の声も、何もかも変わらない。なのにどうして、彼女ばかりがつらい目に遭わないとならないんだ。しばらく経っても感情が治まらなかった僕は仕方なくアパートに戻り、自分でも驚くくらい大きな声を上げて布団を殴りつけた。僕の頭の中に、会ったこともない有象無象の声が木霊した。「未遂なんだからいいじゃないか」「彼女の方もちょっと警戒心が無さ過ぎたよね」「大袈裟だよ」「被害者ぶっちゃって、本当は誘ってたのに途中で怖くなったんでしょ?」――琴音が遭遇したこと、それは、ありふれたことなのかもしれなかった。多分、そのことが一番僕を苛立たせた。実際、そんな話は学生時代にしばしば耳にした。無責任に男性の積極性を美化する傾向、それは必ずしも男性らだけでなく、女性が強化することもある。男はそうあるべきだと。ニュースで話題になるような薬物を使ったり、計画的に複数人が結託したような明確に悪意のあるケースですら、同意の立証は難しいことがあるという。琴音はそれでなくてもまだまだ男性への苦手意識の改善過程だったんだ。なのにどうして――

 僕は壁紙の痛んだ壁に体をもたれかけさせると、そのままズルズルと虚脱し、災害で放棄された家に忘れ去られたクマの人形みたいに、畳に尻もちをついた。そして、いつしか自身の過去を回想していた。同意の問題というのは、カップルの間ですら難しい。僕が大学で最初に女性と付き合った際に、僕は正直、大学生ともなればをするものだと思っていた。特に僕は中高一貫の男子校という邪悪な教育パイプラインを経てきており、彼女もまた女子高出身で、互いに頭の中はファンタジーで一杯で不慣れだった。だが自分で勝手にそういうタイミングだと判断して事に及んだ際、そこに河原の石みたいな違和感があることに気がついた。彼女が固まっている。話を聞くと、いまどき珍しく……と言うべきではないのだろうが、結婚まで貞操を守る主義なのだということだった。幸い、僕はがっかりする以前に自分を恥じることが出来た。でもとにかく、性に対する問題というのは、本当に個々別々のものなのだ。運よく互いの抱いているファンタジーが一致すればそれは幸運なことだ。だが、それは一つ間違えれば、取り返しのつかない歪を生む。そして、ともすれば一生その影響を抱えて生きていくことになる。

 僕はまたしてもエアコンを入れ忘れていることに気付いた。熱中症になる前にと、ふらふらと台所まで歩いて行って、コップに水を注いで一息に呷った。そのまま台所に突っ伏して、しばらく身動き出来なかった。

「……」

 俯いた視線の先には見慣れた膨らみがあった。男の肉体を持つということは、所与の加害性を持つということ。それに反発する声も大きいだろう。もちろん、それは男性のせいではない。仕方のないことだ。それは気づいた時からナマケモノみたいにぶら下がってる。でも仕方ないからといって無自覚で良いというわけじゃない。それは一つの力だ。暴力になる得る力だ。だからその影響力を、少しずつでも理解していかないといけない。無辜の怪物を飼いならす必要がある。いけない、思考がバラつき始めている。散漫になっている。

(千種……)

 彼女のことも考えなければならない。燈子さんに頼まれているし、純粋に心配だ。色んなものが、少しずつ掛け違い、世界が軋みをあげていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る