燈子Ⅱ

 燈子さんと約束した翌日の昼過ぎ、僕は羽衣石邸のチャイムを鳴らした。燈子さんがいつもの柔和な笑顔を浮かべて出てきた。だが何かがいつもとは違う気がした。ほんの僅か、服の裾が濡れている程度の差だ。

「ごめんなさいね、急に呼び出しちゃって」

「いえ、とんでもないです」

 その日、僕は彼女のアトリエに通された。中央の大きなテーブルには布地やデザインのラフが浜に打ち上げられた魚みたいに横たわり、壁にはピン留めされたカラー見本などがあった。家具はアンティーク調で、家全体とは趣を異にした、彼女の特別な空間であることが分かった。行儀よく並んだマネキンには試作中と思しき服やランジェリーが飾られていた。ランジェリーの方はかなり攻めたデザインで、僕は少し目にやり場に困った。

 僕はアトリエの中の一角にあるソファセットに促され、腰を下ろした。家を建てる際に打ち合わせ用に設けたスペースなのだが、実際には打ち合わせはほとんど外でやるから使う機会がないのだと彼女は言った。

「紅茶でいい?」

「はい、最近ハマってるので」

 そう答えると、彼女の表情が少し柔らかくなった。やがて淹れてくれた紅茶は香りからアールグレイだと分かったが、それ以外に何か加えられているような気がした。

「ラベンダー……」

 燈子さんは少し眉を上げ、やがて口の端を緩めた。

「正解」

 ロングスカートをたなびかせ、燈子さんがテーブルの向かいに座る。

「わたしのお気に入りなの。ミルクにも合うから、よかったらどうぞ。もっとも、今はわたし以上にすみれが気に入っちゃったみたいだけど……」

 藤色の気配を漂わせている彼女の瞳に、青みが差す。

「お二人は、とても仲が良さそうですもんね」

 燈子さんはテーブルの上に肘をつき、その手の上に顔を載せた。冬の間にも何度か彼女にはお世話になり、互いに打ち解けてきたということはあるが、今日の彼女はやはり少し疲れて見えた。

「そうね、ずっと一緒だったから……わたしのデザインするものはね、基本的にいつもすみれをモデルにイメージして作るの」

 それは、なんだか、とても美しい関係だ。そんな風に仕事が出来たら、きっと素敵なんだろう。僕はそんな彼女たちが、羨ましくなった。

「素敵ですね」

「そう?私にとってはもう当たり前みたいになってしまって……でも、ありがとう」

 とん、とん、と彼女の指がテーブルでリズムを取る。

「そんなすみれが、いえ一番つらいのは琴音ちゃんなんだけど……いま苦しんでる」

 本題だ。彼女の目が僕を見る。瞳の奥に、思い込みだろうか、縋るようなニュアンスがあった。僕はそれを受け止められるように準備して、続く言葉を待った。

「でもこれは、誰にも話せない種類のことなの。あなたにも、千種にも……」

 燈子さんが目を伏せる。僕は紅茶を口に含むとなるべく音を立てないようにそれをテーブルに戻した。それでも、僅かに音はした。誰にも話せない種類のこと……それは僕に一つの可能性を想像させた。それは憶測で話してはならないことだ。想像が正しければ尚のこと、僕は我慢強く待つ必要がある。

「千種のことを、見ていてあげて欲しいの。もちろん私も精一杯そばにいるつもりだけど、それだけじゃ足りない気がして。ごめんなさい、いつも便利にあなたを使うような真似……」

「いいんです。そんな風にご信頼いただけるのは、とても嬉しいです。僕には時間だけはありますしね……貴女は、大丈夫ですか?」

 彼女の瞳が僕を捉える。

「ありがとう、私は大丈夫。というか、今あなたに話しているだけでも、結構楽になってるのよ?」

 彼女の微笑みに釣られる。

「貴女にとっては若造かもしれませんが、僕で良ければいつでも話を聞くくらいはできますから」

「あら、年寄り扱いするつもり?」

 彼女が目を眇める。

「そんなつもりはないですよ。あなたも千種さんも、たまにそうやって僕を虐めるのは親子ですね」

「千種が?ふふっ、おかしい」

 燈子さんは笑ってくれたが、正直、僕にはあまりユーモアのセンスはない。こういう時、もっと彼女をリラックスさせられたらと、悔しくなる。

「今はね、待つことが必要なの。琴音ちゃんを。それはあの娘、千種にとってもつらいことだと思う。でもきっと、琴音ちゃんを待てるのはあの娘だけで、そんな千種を支えられるのも、わたし達だけなんだと信じたい」

 『信じたい』その言葉の重さに、僕は肩に質量を感じた。

「わかりました。千種さんには適度に声をかけるように意識してみます」

「ありがとう、助かるわ……本当に」

 この話は一旦ここまでだろう。僕は彼女が茶うけに出してくれたキャラメルビスケットを齧った。

「文乃ちゃんとの仕事の方は順調?」

「はい、彼女の感性にはいつも刺激を貰っています。心から尊敬できますし、僕も少しでも彼女の役に立って、貰ったものを返していきたい……そう思ってます」

「それだけ?」

「え?」

 茶化すようなニュアンスだったが、眼の奥が笑っていないように見えた。とはいえ僕が返すべき答えは変わらない。

「それだけです。だって、そうでしょう?」

「そうかしら」

 僕らは笑顔だったが、傍から見たら国境で睨み合う兵士みたいに見えたかもしれない。燈子さんがどこまで本気なのかは分からないし、僕に何を期待しているのかも分からないが、いずれにせよだ。文乃さんは敬愛の対象であって、それ以上でもそれ以下でもない。僕には向き合うべき問題が山積している。

 

 

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