若菜Ⅵ

 九月になると、僕と少女たちの交流は一気に減った。学校が始まり、進路選択に向けた動きが本格化したこともあるのだろう。僕に出来ることは、一旦はあの祭祀の日までにやりきった気持ちになっていた。あとは少女達の自己決定次第だ。となると、次は僕自身のことを考えなければならない。農作業を手伝い、土や風の匂いを感じ、洗濯物にアイロンをかけ、丁寧な生活に悦びを見出し、図書室や古書店で手に入れた本を読み、目的なき無知を味わい、鏡渕池のほとりで飽くことなく思索に耽った。振り返ると僕は、この村に来てからの美しき穂含月において、失っていたものをいくらか取り戻しつつあるような気がした。それは彼女らのおかげだった。失った原因は様々だ。それは学生時代に己に刻んだ身勝手な罪悪感であったり、社会人になってからのアメリカンフットボール的ビジネスの影響であったり、紗季と生まれてくるはずだった子どもの喪失であったり。そして失われたものは、個人的な感性であったり、想像力であったり、言葉であったり、そういったものだ。もちろん、それらのものはビジネスの現場でも求められたが、道具的で、デジタルで、操作的なものだった。いわば奴隷の感性であり、奴隷の想像力であり、奴隷の言葉だ。それは僕のためのものではない。搾取するために要求されるものだ。そんな時、僕は凌辱されているような気持ちになった。暴力的に犯され、嬌声を上げろと命じられているような気分になった。それは自分で選んだことであり、生きていくためには必要なことだ。でも、人間的とは思えなかった。そしてそうした見えない暴力に晒された者は、捌け口を求め、見えないところでまた新たな暴力を生む。そうやって最終的に弱い者だけが一方的にすり減らされ、使い捨てられていく。あの世界では、搾取されるか、搾取する側に回るかの二択しかない。そして搾取する側に回るには一度搾取される必要がある。利益率確保のために工数を過少申告させられるなんて日常茶飯事だ。もちろん彼らははっきりとは言わない。代わりに彼らは評価を盾に『責任を果たせ』と言う。すべては僕らの意思で勝手にやっていることなのだ。ただそういった直接的な搾取よりも、記憶にシミのように染みついていることがあった。僕は妻の妊娠が分かった際、上司に育休取得のための調整をしたことがあった。まだ安定期に入る前だったが、会社の状況や僕の社内での役割を勘案すると早め早めに交渉する必要があった。僕が意を決して話した際、もしかすると祝福されるかもしれないと思った。だが彼は少し顎をしゃくるような表情をした後こう言った。

 (『あー……やることないっしょ?』)

 僕は一瞬何を言われたのか分からなかったが、つまり育休を取得したところでやることなんてないだろう、という意図だ。僕は理解した。僕はここで一度彼らによって、痣が残らない程度に腹を殴られるように合法的な軟らかい搾取を受け入れ、見方によっては自らの手で妻を搾取することでようやく社内で搾取する側に一歩近づくことができるのだと。それはだった。世の中は強者と、弱者のふりをした簒奪者の論理で成り立っているからだ。そうしたロジックは何も今まさに紛争をしている地域であったり、フィクションの中のおおげさで暴力的な世界限定のロジックではない。もっとごく身近なものだ。足下を黒い水のように流れ、アスベストみたいに知らぬ間に体に染み込まされている。暴力的で肉食動物的なやり方ではなく、菌類がゾンビアリを操るようなやり方もある。最新の研究によれば、それら菌類は脳ではなく筋肉組織を操るという。それは僕らが置かれている状況に似ているかもしれない。僕らはあくまで表面上、自由意志と自己責任において行動している。だが実質、その社会的な筋肉を操作され、隷属させられているような側面もある。そしてそれはアリを操るクビオレアリタケにアリノシロイトタケが寄生するように何重にもなる重複寄生関係にあるのだ。そこには濃縮された暴力がある。それは弱者を鼠のように殺し、あるいは次のステージに導くのかもしれない。革新した者は、周りにも同じものを勧めるだろう。新たな価値体系が生まれ、古い価値を否定するために毒ガスを撒き、赤ん坊を殺す。僕たちは何を憎めばいい?弱さか?

 

 やがて、あれだけ賑やかだった蝉の声もしなくなり、金木犀が香り始める頃、僕は期限を定めた。それはおよそ一年先、次の祭祀の日だ。それまでは、もう少しだけ少女たちを見守りながら、僕自身の可能性を探ろうと。そんなある日、僕がカサカサと囁く落ち葉を蹴りながら歩いていると、学校帰りと思しき若菜に偶然出会った。彼女は相変わらずだった。瑞々しく、紅葉を背にすると、それはまるで彼女がもたらしたものであるかのように似つかわしく映えた。

「最近あんまり会ってなかったけど、元気?ちゃんとご飯食べてる?」

 若菜が僕に語り掛ける。まるで姉か母親だ。

「ご心配どうも。食べてるよ、農作業で体を動かすとお腹が減るからね。若菜ちゃんはどう?色々と、順調?」

 僕らは並んで歩きながら話した。

「うーん、まぁねー。だいたいの方針は決まってきたかな。アートスクールに行こうと思ってさ、結構カリキュラムの柔軟性とか高そうだから、巫女のお勤めとも両立できそうだし、シナジーあると思ってるんだ」

 自由でしなやかな若菜らしいと思った。そしてさり気なく巫女の勤めに言及したことを考えると、やはり継ぐ方向で考えているのだろう。

「そうか。僕はそのあたり明るくないけど、陰ながら応援してるよ」

 美術部時代に顧問から美大を勧められたことはあったが、とてもそんな気になれなかったし、自身に才能なんて欠片も感じなかった。

「結人さんは、まだしばらく村にいるの?」

 僕の顔を覗き込むようにして、彼女が尋ねる。早く出て行ってくれ、というニュアンスではなさそうだ。

「そうだね、少なくとも次の祭祀までは……と思ってる」

「ふむ」

 若菜は何か考えているようだった。

「ねぇ、結人さん、この後って時間ある?」


 若菜の後をついていくようにして、僕はあの街遊びの夜以来の小鳥遊邸へと向かっていた。若菜によれば、文乃さんが僕と話したそうだから暇なら相手をしてやって欲しいということだった。はっきり言って僕は複雑だった。僕は暇だし彼女との会話は楽しい。彼女は知的で、チャーミングで、気取ったところがない。だがそれは幾重にもなる彼女の見えない配慮の上に成り立っているはずなのだ。僕にとってどれだけ有益だとしても、彼女に何か僕から提示できるものがあるとは思えなかった。そもそもそんな急にお邪魔して大丈夫なのだろうか。

「……なんか、緊張してる?」

 若菜が見透かしたように言った。いや、僕が分かりやすいのだ。

「多少ね。僕に文乃さんの話し相手が務まる気がしない」

 僕は正直にそう言った。

「そう?前の時、結人さんと話した後、お母さん凄く機嫌よかったよ?」

「そうなの?」

「うん、まぁ……村の中でも仕事関係でも、ちょうど良い人いないんじゃない?溜めこんでそうだし、たまにグチってるし」

 確かに前回の会話でも、なんとなく苦労してそうな雰囲気はあった。言い寄ってくるような男性も多いのだろう。せめて僕は変な気を起こさないようにして、愚痴でも聴いてガス抜きのお手伝いをさせてもらおう。そういうのは割と得意だ。

「あ」

「うん?」

 突如として声を上げ、若菜が足を止める。

「準備するから、一時間くらい時間潰してきてくれって」

 どうやら文乃さんに連絡したSNSから返信があったようだ。案の定というか、それはそうだろう。

「というか、本当にお邪魔していいのかな?」

「また今度にする?って訊いたら、大丈夫だから待っててほしいって。ほらね?」

 そう言われて僕は多分また無意識に変な顔をしていたのだろう、若菜が笑いを堪えていた。さて、しかし時間を潰すと言ってどうしたものか。そこで僕はあることを思い出した。

「そういえば、神崎君に聞いたんだけど、若菜ちゃんにはアトリエがあるの?」

「アトリエってほど大層なもんじゃないけどね。うちの近くのお家で元々古道具屋さんをやってたところがあってさ。でもやめちゃうってなって、空き家になるところを譲ってもらったんだ。子どもの頃によく建物の裏で僕が勝手に変なオブジェとか作って迷惑かけてたから、よかったらどう?って感じで」

 若菜は幼い頃から若菜なのだなと感じ入るエピソードだ。小学校高学年頃から急速に卑屈になっていった僕とは大違いだ。そういう変化は好きな色さえ変える。

「ココア一杯でご招待しましょう」

 悪くない提案だ。それで今度また僕が落ち込んでいたら、グリーンスムージー饅頭でも奢ってくれるかもしれない。いや、十八の少女に甘え過ぎだな。僕らはまた役場前のドリンクスタンドでコーヒーとココアを買って飲みながら若菜のアトリエへと向かった。

 その家屋は向日葵畑に隣接するようにしてそこにあった。周囲には古い什器やガラクタが山積し、二階建てくらいの背の高い建物の中は吹き抜けになっていて、なるほどアトリエにするには適していそうだった。僕は若菜について、入って左側の奥に細長い部屋に足を踏み入れた。そこには、多様な形状のアクリル板が床に設置されたり、天井から吊るされたりしていて、さらに天蚕糸てぐすが縦横無尽に張り巡らされていた。インスタレーションアートだ。僕がその空間を前に見入っていると、やにわに光が差した。サーチライトの様にゆっくりと動くその光が世界に線を引くと、風に揺れるアクリル板や天蚕糸がぼうっと光り、反射した。同時に、さらさらという雨のような音と、水の滴るような音が不規則に空間を震わせた。僕は自然、瞼を閉じて深呼吸をした。雨の中にいるような、深い洞窟の中にいるような、得も言われぬ体験だった。穏やかで碧く澄み渡った世界。そこには若菜がいた。膝を抱えるように体育座りをして、済んだ瞳でどこか遠くを眺めている。明るく、混沌として色彩豊かなベールをそっとかき分けると、中には神秘的で静謐な世界が広がっていた。目を開けると、壁にもたれかかるように立ったままの若菜がこちらを見ていた。

「落ち着くね」

 適切な感想が浮かばなかったが、僕は素直にそう伝えた。

「意外だねって言われるんだ。こういうのをボクが作るの」

 誰かがそういう風に言う気持ちも分かる。でも、彼女が垣間見せる繊細で儚い雰囲気とこの世界観は僕の中で符合した。

「僕にはしっくりくる」

 彼女は目で笑っていた。

「ココア一杯分の価値、あった?」

「入場料としては安過ぎるくらいだ」

 コーヒーとココアの匂いが、イメージの中の雨の匂いと混じり合った。

 その後ももっと見て回りたかったが、あまり遅くなるのも気がかりだったので、僕と若菜は小鳥遊邸へと向かった。それに、なんとなくまたここに足を運ぶ楽しみを残しておきたかった。

 

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