文乃Ⅱ
小鳥遊邸の門をくぐり、相も変わらずよく手入れされた庭の草花の間を通る。若菜が鍵を開けて中に入るのに続き、ゆったりとした玄関に足を踏み入れる。バーベキューの夜には食べ物や火薬や色んな匂いで紛れてしまっていたが、改めてそこに身を置くと、この家本来の空気がよく分かった。紙とインク、革や木の匂いに混じって、シトラスを思わせる爽やかな柑橘系の香りが気持ちを落ち着けてくれる。床材に合わせて家具もダークウッドを基調としており、所々に緑の観葉植物が配された、知的で上品な空間が広がっていた。それは極めて僕の好みだった。意図せず、小さな溜息が出る。そんな風に僕が文乃さんの創り出したと思しき世界観に耽っていると、奥から彼女が顔を出した。
「いらっしゃい。ごめんね、急にお誘いしちゃったみたいで」
白いブラウスの胸元はワンポイントの黒いサテンのリボンで飾られ、シフォン生地の黒のフレアスカートに、秋を感じさせるベージュのゆったりとしたカーディガンを羽織っている。秋の彼女も素敵だった。またも見惚れそうになってしまうが、慌てて彼女に挨拶を返した。僕は学習しなければならない。文乃さんが魅力的なのは、ピサの斜塔が傾いているくらい当たり前のことなのだ。
「こちらこそ突然すみません。うっかり若菜さんの甘い言葉に乗ってしまって」
「ちょっと!ボクが
文乃さんがクスクス笑っている。
「どうぞ、入って。飲み物は何がいいかしら。コーヒーに紅茶、ハーブティー、だいたいのものは用意できるけど」
普段はコーヒー派の僕だが、その日はなんとなく紅茶をリクエストした。通されたダイニングテーブルに座って待っていると、程なくしてピンクゴールドのステンレスフレームのフレンチプレスで淹れられた紅茶が運ばれてきた。爽やかな、独特の香りがする。
「これは、何の茶葉ですか?」
「ダージリンに、夏に庭で採れたクロモジってハーブを加えてるの。ダージリンにはよく合うわ」
ブルーフルーテッドのティーカップとソーサーのセット。父がコーヒーカップとして使っていたハイハンドルも確かこのシリーズだった。白磁に繊細な青のレース模様。僕の経済力では到底手が出ない代物だったが、文乃さんには似つかわしく、そして僕の郷愁を誘った。紅茶を口に含むと、どこか和のテイストを感じる味わいがした。
「おいしいです。語彙力が無くて、お恥ずかしいですが」
文乃さんが微笑む。
「あなたはもっと自分の言葉に自信を持つべきよ。紅茶は普段あまり飲まないんでしょ?お勧めはまだまだあるから、飲み比べるうちに自ずとイメージが広がるわ」
どうにも彼女は僕を買い被っている気がする。あるいはこうした肯定的バイアスは彼女の講師としての職業病なのかもしれない。僕がどう返したものかと逡巡していると――
「また自分のこと、悪く言おうとしてる……」
窓から吹き込んだ風が、彼女の背後でカーテンを揺らしていた。紗季のことを考えていた時と言い、僕は見透かされっぱなしだ。
「僕は若菜さんからポーカーフェイスを学ぶべきですね」
「あら、寂しいこと言うのね。そこがあなたのチャーミングなところなのに。それに、根本的な解決になってないわ」
そう言うと片目で僕の表情を伺いながら、彼女も紅茶を口に運んだ。文乃さんの言う通りだ。僕は謙遜する前に、彼女の期待に応えようと前向きに捉えるべきなのだ。ただ遠くから自分を眺めるだけでなく。仕事ではあれだけ不快だった期待の眼差しも、彼女から向けられると、温かく心地よかった。穏やかな秋風の吹き込む寝室で柔らかな毛布に包まっているような、そんな心地よさがあった。
「確かに、僕は言葉が好きです。貴女と話しているとそのことを思い出せます」
文乃さんがすっと線を引くように瞼を閉じる。何かを察したのか、若菜は飲み物をもってそろそろと二階へ上がっていった。自室があるのだろう。
「そう、あなたは言葉が好き。それが伝わってくる。だから……今日はその話をしたかったの」
僕には文乃さんの意図がうまく汲み取れなかった。
「と、いうと……?」
「結人さん、今の暮らしぶりはどう?」
「暮らしぶり、ですか……」
予想していていなかった問いに僕は日々を振り返った。
「そうですね、村の皆さんには本当に良くしていただいています。農作業のお手伝いは慣れないですが楽しいですし、野菜を分けていただくことも多いので、生活するのには困っていません。ただ……ご厚意に甘えている現状に後ろめたさがあるのも事実です。そろそろ、昔の仕事の関連で、リモートで出来るものを探さないといけないのかも……と思ったりもしていたところでした」
彼女の目は、僕を観察していた。
「あまり……楽しい仕事ではなかったのね」
彼女には隠せないだろう。僕は観念して素直に打ち明けることにした。
「そうですね。本当にただ、生活のためにしていただけのことですから。だから、妻を、守るべきものを失くしてからはすぐに辞めました」
僕は音を立てないようゆっくりと、胸に溜った淀んだ空気を鼻から外に追い出した。そんなものを文乃さんの住処に出したくなかったが、どうしようもなかった。
「あなたは間違っていない。正しく、実際的であろうとしただけ。……でも、わたし個人としては、あなたのそんな顔は見たくない」
その言葉は、僕の胸の奥に小さな棘を刺した。それは僕が鼓動するたびに、チリチリと主張し、揺さぶった。そして僕がまた悪い癖を出しそうになる前に、彼女が言葉を継いだ。
「ひとつ、お願いしたいことがあるの」
風に、窓ガラスがかたかたと揺れた。
「ごめんなさい、藪から棒に。でもね、わたしにとっては大事なことなの」
彼女のお願いが、僕の仕事の話と何のかかわりがあるのか分からなかったが、そんな風に言われたら断れない。
「お伺いします」
僕がそう言うと、彼女は奥のデスクからプリントアウトされた何かの原稿のようなものを持ってきた。
「これ、わたしが今書評を依頼されているものなの。だから、扱いは慎重にお願いしたいのだけど、これについてのあなたの感想を知りたいの」
「いま、少し見ても構いませんか?」
「どうぞ」
文乃さんから渡されたその原稿、『男性学とかいう』と題された論説は、タイトルからして挑発的だった。男性学というもの自体やその潮流について、フェミニストの視点から分析、批判が為されている。こういう議論は繊細だ。なのに、しばしば傲慢で、押しつけがましくて、断定的で、過度に一般化した物言いで物事を単純化するような意見が共感や反感を煽り、注目を集める。それはもはやビジネスだ。どういう意見が「バズる」のか発信者はよく知っている。SNSや多種多様なユーザー好みのメディアが溢れる世の中では、尖ったモノの方がバズり易い。単純で、過激で、軽く「炎上」するくらいがちょうどいい。丁寧な議論をしたい者は何も言わず、洗練された小さなコミュニティへと去る。分断は深まるばかりだ。そういう意味では今回の原稿は所謂「新書」相当のものらしく、洗練さと大衆性の中間くらいに位置しそうな印象だった。ざっくりと概要をさらった僕の苦い表情を、文乃さんはニヤニヤとしながら眺めていた。喰えない
「少し、お預かりすることは可能でしょうか?できればじっくり読みたくて……NDAが必要でしょうか?」
「NDA?」
さすがに文乃さんと言えど馴染みのないことはあるようだ。意地悪な質問だったかもしれない。
「すみません、恐らく書評の業界では一般的ではないんでしょうね。僕のいたIT業界で雇用や業務委託の際に結ぶ秘密保持契約のことなんです」
「勉強になるわ。でもそういう意味では、わたし達の業界では信用が前提だから、そこは結人さんを信じてお任せしたいところね」
彼女の寛容さには頭が下がる。
「分かりました。では、お預かりします」
「お願いね。さて、今日はご飯食べていくでしょ?」
抗いがたい魅惑的なお誘いだ。
「……いいんですか?」
「もちろん。簡単なもので良ければ」
「とんでもないです、何かお手伝いします」
「いいのよ、わたしがお誘いしたんだから、くつろいでいて。これ、フリじゃないわよ?わたしがそんな風に人を試すと思う?」
僕はつい口元に手をあてて考えてしまった。
「ふふっ、そうね相手によるかもね。あなたのことをこんなことで試したりしないわ」
僕が抗議する間も与えず、文乃さんは流し目に僕を見やった後、キッチンの方へともう足を向け始めていた。とはいえ、どうしたものか。
「もし良かったら、本棚を眺めていても構いませんか?」
「いいわよー」
既に準備に集中し始めているらしい彼女を返事を確認し、僕は彼女の開放的な書斎に足を踏み入れた。そこは彼女が過ごす時間が長いためか、より濃厚な文乃さんの匂いが立ち込めているような気がした。僕は恍惚とした心地になった。知的にして妖艶。あの若菜にしてこの母というわけだ。
本棚を見ると、そこには人文科学関連の幅広い書籍が並び、彼女の研究分野の多様性が伺えた。馴染みのある著者の名前もちらほらある。ピエール・ブルデュー、ニクラス・ルーマン、ジョック・ヤング、アンソニー・ギデンズ。働くようになってからは、もはや再会することもないだろうと思っていた著作達。引き払う前の自宅の本棚にはいくらか本が残っていたが、それも既に心の栞のような存在になっていた。ただの拠り所であり、遺跡のようなものだった。だが目の前の本たちは今も正に呼吸をしている。文乃さんの眼差しや呼気を吸いながら、そこに在る。僕は嫉妬した。その本たちにだ。馬鹿げている。でも嫉妬するのに理由なんてない。人はスイミングスクールにだって嫉妬するのだ。
やがていつしか読書に夢中になっていた僕は、食事の支度の完了を告げる文乃さんの声に呼び覚まされ、ダイニングへ移動した。肉や魚、野菜に塩とオリーブオイルをかけ、オーブンにかけたシンプルな料理たちは、素材の味が引き立てられ、美味だった。三人で囲む食卓は楽しかった。以前に招待された羽衣石邸での夕食会に比べると若菜のおかげで賑やかだったが、それぞれの家庭のカラーが出ており、そしてほっとした気持ちになるのは共通していた。夕食の片付けの後は、三人で屋上庭園に足を運び、小さな天文台で天体観測をした。ハイソサエティだ。ペガスス座やくじら座がよく見えた。星を眺めるのは二人とも好きだということだった。それは夜空を見上げる二人の横顔からも察せられた。
(家族で星を眺めるというのは、こんな感覚なんだろうか)
僕はおこがましくもそんなことを考えていた。あまりに穏やかで、親密で、そのことが僕を息苦しくさせた。
後日、再び文乃さんに連絡をとって小鳥遊邸を訪問し、予め文乃さん宛てにPDFにして送った「感想文」に目を通してもらった。僕が言葉にしたのは端的に纏めるとこういうことだ。
『生物学的にも性自認としても男性の私としては、ついついそのタイトルを見てイデオロギー暴露に終始してしまいそうになってしまう。だがその内容を見ていくと新鮮な視点に満ちている。確かに男性学をバックラッシュの一形態と見る批判的な視点は重要だ。価値の簒奪者はどこにでもいる。だからこそやや棘のある本書を、タイトルに惑わされず、男性にこそ食わず嫌いせずに手に取って欲しい。そこには馴染みのある声なき声があり、きっと同じに苦しむ女性と手をつなぐきっかけになるはずだから』
彼女の怜悧な眼が画面の上を滑る。しばし、目を閉じる。あの美しい睫毛はなにか特別な手入れでもしているのだろうか。
「とってもいいわ。期待以上」
そう言う彼女の表情には、いつもとは違うプロフェッショナルな風合いがあった。
「もちろん、粗削りな部分はあるけど、少なくとも初めてとは思えない」
僕は思わず、機械が排熱するように鼻から長い息を吐いた。自分で思っていた以上に緊張していたようだ。彼女の期待に添えるかどうか。他ならぬ、彼女の。
「ありがとうございます。やはり、褒めるのがお上手だ」
「忌憚のない意見よ」
文乃さんはそう言ってやや首を傾げるようにして、目を細めた。蠱惑的な表情だ。そんなものを昼間から持ち出さないで欲しい。
「改めて、どうして僕にこんなことを?」
「好きだからよ」
僕はちょっと怒ろうかと思った。だが、彼女に悪びれる様子はない。つまり、
「あなたの言葉選び、好きなの」
鳥が飛び立つような音が聴こえた気がした。部屋に差し込んだ光の粒子が妙にきめ細やかに見える。それは、あるいは直接的に好意を伝えられるよりも、僕にとっては嬉しい言葉かもしれなかった。僕はたぶん、照れていたと思う。でも、そんな僕をその時の彼女は揶揄ったりしなかった。わきまえているのだ。
「ありがとうございます」
「よろしい」
彼女は満足そうに、花のように微笑んだ。
「それでね?よかったら時々、わたしの仕事を手伝ってもらえないかと思って」
「僕が……ですか?」
「嫌?」
「とんでもないです……すごく興味があります」
それから彼女は今後の流れを説明してくれた。まずは彼女が書評を任された著作物に関して、カジュアルな形で感想や意見が欲しいということだった。その本のコンセプトや表現の妥当性など。それから簡単な要約やメモ作りなどの補助、文乃さんの書いた原稿の校正や誤字脱字のチェックにも徐々に慣れていき、最終的には僕も彼女と同様に書評を書いたうえで、二人のものを突き合わせてのディスカッションをする。そして僕のスキルが十分になったと彼女が判断したら、僕の希望次第だが、編集者や出版社に紹介し、正式な書評家へのキャリア形成もできるのではないか、と。
「……」
僕は言葉が出なかった。だが、まず気になる事があった。
「どうして」
彼女がテーブルの上で上品に手を重ね、傾聴のポーズをとる。
「どうして、僕にそんなに良くしてくださるんですか?」
「もちろん、あなたには若菜のことで感謝しているわ。でもね、勘違いしないで?さっきも言ったけど、わたしはあなたの物事への姿勢が好きなの。プロの端くれとして。知識なんて後からついてくる。でも、根本的なスタンスはそう易々と変わらないわ。その人の生きてきた軌跡が顕れる」
そこで一度言葉を切り、彼女は紅茶で唇を湿らせた。
「あなたの謙虚で、慎重で、ロジカルだけど感情も大切にして寄り添ってくれる、複雑なものを出来るだけそのまま解釈しようとする、でも袖口にはナイフが忍ばされている……わたしの想像の部分もあるけど、そんな風な思考や言葉が好きなのよ」
僕はどう返すべきか分からなかった。
「大袈裟って顔ね。確かに、私情も入ってるわ。それは否定しない。でももっと客観的に見ても、あなたのビジネス世界での経験は新鮮な切り口や説得力を持つと思うの。どう?やってみない?」
断る理由なんて、僕には何一つなかった。
「よろしく、お願いします」
そんな風にして、僕は週に一回から二回ほど、小鳥遊邸にお邪魔して、彼女の仕事を手伝うようになった。ティータイムには若菜が以前言っていたような仕事上の愚痴も聞かせてくれるようになった。信頼してくれているようで、なんだか嬉しかった。だから僕も、つい気が緩んで、ある日ちょっとした自己開示をした。
「以前、僕は言葉が好きだと言いました。そして、それはあなたにも見抜かれていた」
彼女の温かい眼差しは僕の言葉にレールを敷いてくれた。
「でも僕は二十代半ばの頃から、自分の言葉を信じられなくなっていました」
早くも喉が渇き始めた僕は、紅茶で喉を潤した。その日はウバだった。
「人を、傷つけてしまったからです。僕は自分の言葉に酔っていたんでしょうね。相手のために紡ぎ、捧げたつもりの言葉は、いつの間にか自分に都合よく相手を操るためのものになっていた。無自覚なお為ごかしになっていた」
僕はテーブルの隅を見つめた。
「そんな自分の醜さに気付くと、罪悪感からでしょうか、言葉が出なくなりました。自分の感情や想いを言語化することに対して、無意識のレベルでブレーキをかけてしまう。僕はそれを、『言語的不能』と呼んでいます」
「言語的……不能……」
文乃さんは口の中で形を確かめるように繰り返した。
「でも、今は違う」
彼女はあのバーベキューの夜のように、僕の心を覗き込むようにこちらを見ていた。心が震える。
「はい。それは恐らく若菜さん達との対話や、文乃さんがかけてくれた言葉のおかげなんだと、そう思っています」
「いいえ、それはあなたの力よ」
彼女の言葉は確信に満ちていた。何故、そんな風にはっきりと言えるのだろう。
「なぜ……そう思われるんですか?」
「自分のことを救えるのは、自分だけだと、そう思うからよ」
今度は彼女が目を伏せた。過去をなぞるように。
「あなたが自分の罪悪感を越えて、あの子、若菜達のことを案じてくれたから、あなたの言葉はあなたに応えて出てきてくれた。そしてそれは、わたしにも同じように降り注いだ。わたしは、そんなあなたの言葉をもっと引き出したくなったの。わたしは、あなたに、結人さんに動かされただけ」
僕は、息が詰まりそうだった。唾を飲み込む音が、彼女に聴こえていやしないかと、気が気でなかった。だから一度深呼吸をして、背もたれに体を預けてから、こう伝えた。
「僕は一度は言葉を手放しました。でも……やっぱり……僕は言葉が好きなんですね。それは依然として、手が届かないものに手を伸ばすための代償行為に過ぎないのかもしれない。でも、僕は言葉で誰かと手をつなぎたい、誰かを抱き締めたい。それが、分かりました」
文乃さんの言葉に触発されて、つい大仰な物言いになってしまったかもしれない。そう思ったが――
「もう、手放さないでね?」
その眼差しと言葉は僕の目と耳から僕のナカにするすると流れ込んできた。侵食されている。狂おしく、逃れ得ないほどの何かを感じる。僕は咄嗟に、目頭を押さえた。
「はい……もう……手放しません……」
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