悠斗Ⅳ

 物心ついた頃、既に俺の家庭に母の影はなかった。そして父は、そのことを後ろめたく思っているようだった。二人の間に何があったのかは分からない。だが、負い目がそうさせるのか、父は俺に厳しかった。皆が遊んでいる間、俺は祝詞の暗唱や神道の歴史の勉強、座禅や瞑想に時間を費やされた。父は言った。伝統と現代化の均衡を保つため、監督役たる父の役目は必ず誰かが継承しなければならないのだと。それならばいっそ、伝統なんて捨ててしまえばいい。俺は密かにそう思っていた。実際にそう言ったこともある。俺は頬を打たれ、髪を掴んで廊下を引きずられていくと、反省するまでそこで座っていろと言われて戸外で正座をさせられた。今の時代ではそんな体罰はもっての外かもしれないが、当時はありふれていた。少なくとも、周りの大人は皆そう言った。むしろ昔はもっと酷かったと。声を声として認められるには、煙草の火でも押し付けられるか、痣が出来るまで打たれるかして、しるしが無ければならないのかもしれない。もちろん現代において体罰は法律で明確に禁止されている。だが体罰で親が逮捕されたニュースなどを耳にすると、俺ですらどこか理不尽に感じることがあった。不平等のようなものを感じてしまうのかもしれない。こういう気持ちが暴力を再生産する。理屈ではないのだ。情けないことだが。俺は教育者になんて向いてないのかもしれない。でも俺が庭で泣いていると、何故かいつも門の前に若菜が立っていた。第六感でもあるのだろうか。泣き面を見られないように顔を伏せているとサクサクと足音が近づいてきて、ゴシゴシと大雑把に俺の頭を撫でた。年下のくせに俺より背が大きいからって、子ども扱いしやがって。そう思って彼女の手を払ったが、そうすると今度は何も言わずにじっと傍でしゃがみこんでいた。何を考えてるのか、わからなかった。でも今ならもちろん分かる。彼女は寄り添ってくれていたのだ。普段は飄々と自由気ままなのに、そういう時の若菜はちょっと違った。父に打たれた頬の熱さと痺れ、衝撃を思い出す時、若菜の手の感触も同時に甦る。だから多分、俺は子どものことを殴らなくて済む。

 若菜と約束をした夕方までの間、俺は久々に村の中を見て回ることにした。知らない間に新しい施設が増えたりしている。今来ているこの公園もその一つだ。相変わらず歪な村だ。俺は試みに大人用の雲梯を使ってみる。夏の陽光に熱せられた金属が手の平を焼く。端まで着いて一息つきながら周りを見回すと、見知った少女がひとり、ブランコに揺られていた。

「大きいお姉さんがいるな」

 振り返った彼女のポニーテールが揺れる。そして、さもつまらなそうな顔をした。

「なんだ、悠斗か。まだいたの?」

「唯一の故郷の村なんだ、別にいいだろ?」

「そんな柄でもないくせに」

 ごもっともだ。一年以上、帰ってなかったのだから。

「若菜が怒ってたよー。またなんか余計なこと言ったんでしょ」

「確かにちょっと言い過ぎた。反省してる」

 琴音がこちらを一瞥する。そしてふっと笑った。

「ま、分かるけどね。私もさ、結構悩んだから。千種が奉習はじめた時は」

 琴音が軽く地を蹴ると、ブランコがキィキィと音を立てた。ブランコの音というのは大人が奏でるとなぜこうも物悲しいのだろう。

「琴音は、結局受け入れたのか?」

「まぁねー……結局いつも私は、千種に分からされるんだ。自分の視野の狭さとか、不自由さとか」

 そんな風に言いながらも、琴音の横顔は晴れやかに見えた。

「信頼してるんだな」

「悠斗はどうなの?若菜のこと、信じてないの?」

 どうなのだろうか。俺ももしかすると、彼女に嫉妬してるだけなのかもしれない。でも、譲れないものはある。

「若菜だって完璧じゃない」

「そりゃあ、まぁそうかもだけど」

 琴音はすたんと反動をつけてブランコから降りると、ポケットを漁り始めた。

「ほいっ」

 何かをこちらに向けて投げてくる。ロリポップだった。

「納得するまで話してみなよ。それしかないよ。どこまでいってもね」

 そう言って、彼女の言葉が示すように、どこまでも青い夏空を背景にして彼女は笑った。少し見ない間に、随分と大人びて見えた。みな成長しているのだ。

「あいつと同じようなことを言うんだな」

「あいつ?」

 首を傾げると、ポニーテールも一緒に傾く。

「月城結人」

「話したの?」

「昨日な。悪い人間じゃなかった」

「へぇ」

 琴音は意味ありげに笑い、それから目を伏せた。

「なんだよ」

「あんたがそう言うなんて、珍しいなと思って」

 俺はちょっとムッとした。

「俺はいつだって公平に人を評価してるつもりだ」

「はいはい」

 どうも釈然としない。

「不器用だし変な人だけど、それは私も他人ひとのこと言えないから。同族嫌悪……なのかな。私も、悪い人じゃないと思う」

 そんな風に話した後、俺たちは別れた。

 

 その後、診療所のカフェでホワイトモカを飲みながら大学の課題をこなし、雑貨屋を覗いたりしてまた当分来ないであろう村の空気を吸い込んだあと、学校の図書室の近くで今度は千種に会った。この分だと今日一日で、巫女の血筋の娘三人ともに会うことになりそうだ。

「あ、悠斗くん」

「千種……元気か?」

「うん、悠斗君も変わらないね」

 『変わらない』、千種のことだから嫌味のない忌憚のない意見なのだろうが、俺は少し焦った。

「巫女の勤めはどうだ?その、無理してないのか?」

 千種は甘い夏草の匂いのする笑みを浮かべた。

「ありがとう、大丈夫だよ。琴音ちゃんも、悠斗くんも、やさしいね」

 彼女は人の保護欲を誘うのだろう。だがその穏やかな表情を見ていると、こっちが母を気遣う子どものような気分になってくる。

「何か困ったことがあれば、親父にもすぐ言ってやる」

 心配しておきながら、結局俺は親の名前を出す程度のことしかできない。無力なものだ。

「頼りにしてるね。悠斗くんは、お父さんの跡は継がないの?」

 俺は答えに窮して彼女から目を逸らした。

「あ、ごめんね、難しいよね……わたしもまだ全然……」

「そうなのか?てっきり巫女を継ぐものかと思ってたが」

「うん……考え中、かな」

 彼女なりに、悩むところがあるのだろう。それはそうだ。簡単に決められることじゃない。

「お互い、がんばろう」

「うん、がんばろうね」

 そうやって互いに出来の悪い笑みを浮かべ、彼女とも別れた。

 

 やがて夕暮れ時、俺は若菜と約束していた彼女のアトリエに向かって畦道を歩いた。幼い頃は彼女らとよく走り回った道だ。お目付け役の俺は、いつも彼女らに振り回されていた。千種も今の姿からはイメージできない程度にお転婆だったが、特に若菜だ。彼女はいつも危なっかしかった。突拍子がなかった。大人しくしていると思ったら、他人の敷地内に意味不明なオブジェを作って自慢げにしていた。でも俺はそんな彼女と過ごす時間が嫌いじゃなかった。彼女は自分の様に小さく収まる人間じゃないと感じた。それはまるで、自分の分まで自由を謳歌してくれているみたいだった。そう思うと、退屈な祝詞や座禅も、まぁいいかという気持ちになれた。思春期になり、噂から彼女の特性を知ったとき、最初は戸惑った。でも次第に、安心するようになった。それはまるで、若菜はどこまで行っても永久に若菜のままだと言われているような気がしたからだ。何にも染まらず、ずっと眺め、憧れることの許された存在。そう考えると俺にとっての彼女は、ある種の偶像だったのかもしれない。例えどれだけ世界が理不尽でも、腐敗していても、彼女されいれば、この世界は生きるに値する。

 アトリエに着くと若菜は既にそこにいて、廃屋前に転がっていたドラム缶の上に座って流れる雲を見上げていた。俺の踏む草の音に、こちらに気づく。

「きたきた。で、なに?ボクに何か御用ですか?」

 明らかに前回のことを根に持っている言い方だ。でも、仕方がない。

「この間は、悪かった。まずはそのことを謝りたい……ごめん」

 俺は深々と頭を下げた。頭のてっぺんに、そんな俺を見つめる若菜の視線を感じた。

「謝るってことは、考えが変わったってこと?」

 俺は顔を上げると、若菜を見た。そこにはいつものポーカーフェイスがあった。

「巫女の捉え方について語弊があったことは認める。ただ……やはり、リスクはあると思ってるんだ。そこは変わらない」

 若菜はたっぷり五秒ほどだろうか、その強く美しい瞳で俺を見つめた後、小さく溜息をついた。

「悠斗の言ってることも分からないではないけどさ、それは当事者であるボクらが悩みながら解決していくことなんじゃないの?」

 若菜の言ってることは間違ってない。

「悠斗はさ、なんでそんなにボクに拘るのさ」

 鴉が鳴いている。

「別に、拘ってるわけじゃない……もったいないと思うだけだ」

 そうだ、彼女には才能がある。

「でも悠斗ってそんな、他人に興味もつようなタイプじゃないじゃん?」

 確かにそれはそうかもしれない。俺は他人にお節介をやけるほど、余裕がある人間じゃない。若菜は俺の返答を待っているようだったが、やがて視線を外して見えないボールを足で転がし始めた。

「まぁ、ボクもそうだったから、他人のことは言えないけどさ」

「……だった?」

 なぜ、過去形なんだろうか。

「SNSとかでもよく言われるじゃん?人に期待しない生き方が正しいしラクだよーとか。正直ボクもそう思ってた……でも、ちょっと早計かなーって」

 得体のしれない不安に、自分の脈が速くなるのを感じた。

「そりゃ、勝手な期待を押し付けるのは良くないと思うけどさ、身近な人にはもうちょっと働きかけてもいいのかなって。結人さん見てたら、思ったんだ」

 あの時と、同じ顔だった。なぜあの男の名前が出てくるのだろう。俺は念のため、確認する必要があった。

「あの男が、気になるのか?その……まさかとは思うけど、異性として」

「は?なんでそうなるのさ。別に、面白いし、話聞いてくれるから、仲良くしてるだけだよ。ボクがそういう感じじゃないの知ってるでしょ?」

「そう、だよな……」

 俺は少しだけほっとした。だが若菜は何かを考えているようだった。

「でも……今後は分かんないかもね」

「……は?」

 今度は俺がそう言う番だった。

「結人さんがいなかったら、たぶんボク、巫女のお勤めやってみようとかも思わなかっただろうしさ」

「どういうことだ?」

 呼吸が浅くなる。

「さっきも言ったじゃん。結人さんの影響で、前より他人に興味持つようになったって。それで、千種が奉習始めた理由とか、どういう感覚なのかとか、お母さんの研究してる村関連のこととか色々興味持ちだしたら……って大丈夫?顔、コワイよ?」

 俺は混乱していた。つまり、若菜が巫女に興味を持ったのはあの男の影響だというのか?しかも――

「まぁ、それで初めて巫女のお勤めってのをやってみて、自分にもセーヨクがあるってことも分かったし、ボクも変わっていくのかもなー、なんて」

 若菜は笑っていた。何がそんなに嬉しいんだろうか。

「で、誰かとそういう感じになるとしたら、やっぱ最初はオ・ト・ナ?な感じの人の方がいいかなーって。でも気取ってる感じの人は好きじゃないし、その点、結人さんは不器用でかわいいとこあるし。もちろん例えばの話だけど……って聞いてる?」

 途中から若菜の話が頭に入ってこなかった。若菜はつい春まではソトに出る気でいたはずだ。それがこの夏、俺が知らない間に変わってしまった。あの男によって。若菜はソトの世界に出て、同じようにソトの世界に出た俺と友愛を育んで、良きパートナーとして助け合って生きていくはずだったんだ。そこに男の影なんてあるはずはないんだ。俺は未来の若菜の隣に知らない男が立っているところを想像した。もしかしたら、子どももいるかもしれない。そんなことは想像したくない。俺はそんな想像をする脳みそを金槌で潰してぶちまけたい衝動に駆られた。

「……」

 その辺のつまらない男が彼女を誑かそうとしているのなら、あんな奴はやめておけと容易に言えただろう。だが、俺は実際に月城結人と会った。キャリア構築に失敗した情けない男かもしれないが、彼は俺を励ましてくれた。善良な人間だと思った。

「おーい、悠斗さーん、もしもーし」

 俺にはもはや若菜の声は届いていなかった。彼女に背を向け、ただただ足元だけを見つめて、ふらふらと歩き始めた。さっき歩いてきた畦道は薄汚れて、同じ道だと思えなかった。気づくと、目の前に石段が現れた。俺はそれを己に課すように一段ずつ上りながら、さらに考えた。俺は彼女の特性を理解しているが故に、自分の気持ちを抑えてきた。そこいらの身勝手で節操のない男とは違う。俺はキラキラと煌めく彼女をただ眺めていられればそれで良かったんだ。なのにどうしてこうなった?何が悪かった?俺はこれからどうすればいい?

 だがそうするうち、俺の思考はそれまでモヤモヤとしていたのが噓のように、不思議と澄み始めた。月城結人、あいつの善良性なんてどうだっていい。そもそも、あいつがいなければ若菜は予定通りソトの世界に羽ばたいていたんだ。若菜も若菜だ。もう彼女は俺の知っている彼女ではないのかもしれない。あの男によって汚されてしまった。

 

 いつの間にか、俺は昏い洞窟の中にいた。ここは、どこだろうか?振り返ってもそこには闇しかなかった。湿った土と古い木のような臭いしかしない。いや、微かに何かが腐ったような臭いがする。しかもその臭いは段々と濃くなっているようだった。俺はわけもわからず、そのまま前に進んだ。ちりんちりんと、どこかから神楽鈴のような音が聴こえた気がした。それから声が聴こえた。ひそひそと、たくさんの何かが、闇の向こうで囁き合っている。悲鳴や嗚咽、嬌声のようなものや、嗤い声、啜り、咀嚼するような音、何かの動物を絞め殺したような声も聴こえたが、俺にはそれらがごく自然なものに感じられた。それらはずっと響き続けている。遥か昔から。今更気にするようなものではない。やがて目の前に小さな祭壇が現れた。そこには割れた鏡と、よく意味の分からない木で出来た祭具のようなものが並んでいた。水の滴る音がした。地下水でも染み出ているのだろうか。俺はその祭壇を思い切り蹴り飛ばした。それはあっけなく崩れた。世界が揺れ、けたたましいサイレンの音が鳴り響いている気がした。耳鳴りがする。何か大きなものが壁に叩き付けられ、どんどんと音を立てている。それは多分人間の死体だ。自然と俺の口角が上がり、俺は自分が嗤っていることに気づいた。喉の奥からしゃっくりが出た。何度も何度も。でもそれは嗤い声だった。俺は高揚していた。どうして今まで自分はつまらないことに色々拘っていたのだろうと思った。くだらない奴らに気を遣って生きてきた。俺はそんな奴らに煩わされるべきではない。もっと自分の気持ちに素直になるべきだ。若菜のことだってそうだ。彼女を説得する必要なんてない。彼女は何も分かっていない。自分の価値を分かっていない。俺がきちんと教えて、あの善人面をした簒奪者に汚された魂を綺麗にしてやらないと。ソウダ、ソレガイイ。準備を始めよう。

 

 どこかで落としてしまったのか、ポケットの中にロリポップはもうなかった。

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