若菜Ⅳ
若菜達と街に出てから数日が経ち、祭祀まで残すところ一週間足らずとなったある日の夜、僕は定例報告のため白木邸で和夫さんの晩酌のお相手をしていた。アユの塩焼きを肴に、酒はその日も八海山だった。学生時代にお世話になった教授にも八海山を好む人がいたのを思い出す。
「そういえば若菜のことなんじゃが、何か聞いておるかの?」
「いえ、特には。何かあったんですか?」
和夫さんはお猪口の文様を眺めていた。
「祭祀の日に巫女の勤めをやると言っておるんじゃよ」
「若菜ちゃんが……?」
どういう心境の変化だろうか。よく考えれば、彼女自身から明確にそうと聞いたわけではないが、千種の話から若菜は巫女の伝統を継ぐつもりがないのだと思っていた。
「意外じゃろう?儂ももう、あの娘にそんな気はないものと思っておった。九月からは街の分校に移る予定じゃったし」
「そうなんですか?」
「それも白紙にするそうじゃ」
何かがあったとすれば、それは彼女があの日の夜に僕に語ってくれたことかもしれない。他者への関心。何気ないことだが、それは彼女に自身の足元の伝統を再評価する動機を喚起したのかもしれない。身近な事物や歴史を矮小化し、遠くの事象や未来を理想化し、過大評価する。誰だってやりがちなことだ。
「こっちにも来はったよ。伝統のことが分かるようなもんはないか言うて」
今日は稲葉さんも一緒だ。と言っても彼は禁酒中らしく、ちびちびと冷やし甘酒を飲んでいた。
「あの娘も血筋やから、見せれるもんは見せたけどね」
「家でも部屋に籠って、文乃さんの論文やら参考文献やらを読み漁っているそうじゃ」
一度興味を持ちだすと熱中するというのも、イメージと違わない。
「いっぺん、結人さんから
僕はそう言った稲葉さんの酒器に冷やし甘酒を注いだ。
「はい、僕としても気になるので、連絡して話を聞いてみます」
「一度決めたら聞かないところは母親譲りじゃから、意思は固いのじゃろうが……動機や、持っておるイメージ次第でこちらの対応も変わるからの」
確かに文乃さんも柔らかさの中に意思の強そうな印象がある。でなければ研究者なんて出来ないだろう。
「文乃さんも、昔は若菜さんみたいな感じだったんですか?」
「そうさなぁ……あの娘の意志がなければ、巫女の伝統はもっと早くに途絶えておったろうしの」
その声の響きには質量があった。和夫さんと稲葉さんの全身から、紙に墨が滲むかのように、何かが染み出すのを感じた。緊張、苦悩、悔恨そういった種類の何か。僕は話を続けていいのか迷ったが、それを察したのか稲葉さんが言葉を継いだ。
「三十年前に、村の中でちょっとした
東京の事件があった時、僕はまだ二歳だった。憶えているはずもない。だが幼い頃、
「その内紛をきっかけにして、伝統も一度は廃絶するはずじゃった」
そんな僕の思考を和夫さんの声が呼び戻した。
「他ならぬ、儂の手での。じゃが、あの娘らの意志によってそれは継承された。それが良かったのか、悪かったのか、儂にも分からん。出来ることがあるとすれば、良かったと思えるよう、最善を尽くすことだけじゃ」
和夫さんが眼鏡のレンズ越しに僕を見据える。
「結人さん、このことは色々と微妙な問題を孕んでおる。察しておられるやもしれぬが、ここだけの話とするよう、頼む」
わかりました、とだけ、僕は端的に返事をした。その後は稲葉さんの元いた大阪の玉造稲荷神社の話などに話を咲かせた。
翌日、僕はSNSで若菜に連絡をとった。僕の部屋に来るというのでそれは制して、昼に診療所のカフェで会うことにした。カフェに着くと、若菜は先に着いていて、奥のテーブルで既にアイスティーを飲みながら待っていた。今回は十分前には到着したが、それでも若菜が早かった。今更ながら気づいたことだが、若菜は普段から制服姿ではあるものの、タイやリボンなどのデザインが毎回違う。そのあたりは自由なのかもしれない。今日は紺地にストライプの入った蝶リボンだった。僕の姿を認めると教科書に載せられそうなふくれっ面をした。
「ぶーぶー」
「どうしたのさ」
「どうしたのさ、じゃないよ。なんで結人さんの部屋行っちゃダメなの?」
あるいはと思ったがそのことが原因のようだった。
「そりゃあダメだよ。わかるでしょ?」
「結人さんが男の人で、ボクがか弱い女の子だから?」
「か弱いかどうかはともかく、そういうこと。世の中には、部屋に行ったらそれで合意が成立してると思う人だっているんだ」
「合意って?」
正直、カフェでは話しにくい話題だ。
「男女の仲に関する合意だよ」
若菜は『ああ』というような顔をして、さもつまらなそうに僕を見つめた。
「そこはさ、結人さんのこと信用してるんだよ?」
僕は溜息をつく代わりに目を閉じて少し項垂れた。
「信用してくれるのは、すごく有難いし、嬉しい。僕だってその信用に応えられる自信はある。でも、教育的によくない。どんなに歳が離れていて、普段はどんなに良い人に見えても、そういうこととなると豹変する場合もある。悪意なくね」
「ふぅむ」
若菜は露骨に難しい顔をした。反発しているという感じではないが、うまく呑み込めないという感じだ。
「だから、気をつけて欲しい。歳の離れた友人として、若菜ちゃんが心配だ。君は魅力的だからなおさら」
そう言うと、彼女はほんの少しだけ頬を緩め、それを隠すようにストローに口をつけてずずずとアイスティーを飲んだ。
「ま、ボク可愛いからね。結人さんが言うなら、気をつけますよ」
素直な反応だった。
「何卒、よろしくお願いいたします」
「結人さんの部屋、どんな感じか見たかったのになー。あのアパート、イイカンジだし」
それはなかなか見る目があるな、と僕は仲間を見つけたような気分になり、ちょっと嬉しくなった。
「千種と一緒ならいい?」
彼女の提案に、僕は少し考えた。
「来たら、もう一人男がいるかもよ?」
「え、こわ、誰それ?」
「僕も知らない人」
「ホラーじゃん、やめてよ、ボクそういうの好きだけど苦手なんだから」
そう言って彼女は身を強張らせていた。若菜はいつだって複雑だ。
「まぁ、二人ならいいか……」
「んで、本題は?」
そうだった。危うく忘れるところだった。その前に僕は一度コーヒーをオーダーしに席を離れた。その日のデイリーコーヒーはゲイシャだった。
「和夫さんから、巫女のお勤めに興味を持ち始めてるって聞いたんだけど、どういう心境の変化なのかなと思って。てっきりあまり興味がないものと思ってたから」
彼女は、ああそのことね、といった風に何度か頷いた。彼女はこういう時、表情豊かで分かりやすい。一方で、何かを隠したい時のポーカーフェイスも上手い。僕は彼女の爪の垢を煎じて飲むべきだ。
「そうだね、今だから言うけど、元々は本当に、カビ臭い伝統になんて興味ありませんよーって感じだった」
老人が一人、杖を突きながら席を立って去っていった。
「でも、千種が奉習始めたの見てたら、どんな感じなのか気になりだしちゃってさ。千種に色々話聞いて、そしたら急に面白くなってきちゃって、とにかく一回やってみようって」
やはり身近な人間が関わっていくとなると、気になるのだろう。
「結人さんも参加したんでしょ?奉習。どうだった?」
幻覚のことは伏せるとしても、なかなか説明が難しかった。未だに僕自身、あの類のない体験を言語化できていない。
「うまく説明できないんだけど……すごく神秘的な体験ではあったよ。千種さんはすごく堂々としていて綺麗だった。そしてお神乳を飲んだ後は、体の芯が熱くなって、体が浮き上がるような……」
「だよねぇ……」
『だよね』というのは、お神乳を飲んだ際の感覚についての共感だろうか。だとすると若菜も口にしたのかもしれない。千種の、あるいは自分の?そこまでで僕は想像力を切った。
「あとは……夢、見たんだ」
「夢?」
若菜は何かを計るような目で僕を見つめていたが、やがて続きを話し始めた。
「時々見るんだよ。夢だから内容ははっきりとは覚えてないんだけど、他の夢とは違うって分かる、そういう夢。みんなは霞様が見せてるんだって言うけど、どうなんだろうね。だってヒカガクテキでしょ?でも最近は見てなかったんだ。それが久々にその夢を見て……なんだろう、求められてる気がしたんだ」
雲をつかむような話だ。
「求められてるっていうのは、霞様に?」
「たぶん、そう。なんか、こう、うねうね~って」
若菜が指を蠢かせてニュアンスを伝えようとしてくる。その感性は独特だったが、ふと和夫さんの家で見た絵巻物の蛸を思い出した。
「まぁでもとにかく、そういう直感的な要因もあるってことか」
日本人というのは縁起を担ぐところがある。最近はやや薄れつつあるかもしれないが、それでも身に沁みついている。若菜の夢もまた、吉兆と捉えてもいいのだろうか。
「良い兆しくらいに思えばいいのかもね」
「霞様って、たぶん不器用なんだよ。それに話し相手がいなくて、寂しいんだと思う。だからかな……なんか、放っとけない」
そう語る若菜は、本当に物語の世界から出てきた神託を預かる巫女然としていた。普段の、どちらかと言えばリアリスティックな雰囲気とはギャップがあった。そしてそのことが、僕にとっての霞様の存在に不思議な現実味を与えていた。
「そういうところは、結人さんに似てるかもね」
かと思えば、ニマニマといつもの笑みを浮かべて僕を見ていた。
「畏れ多い話だな」
実際のところ、こんな僕に話しかけてくれる若菜には感謝しかない。
「カワイイ女の子だったらいいのになー」
「なんの話?」
「霞様の話」
若菜のイマジネーションは止まるところを知らないようだ。
「でも、うねうねしてるんでしょ?」
僕の問いに対して、若菜は腕組をして考えている様子だ。
「きっと、髪の毛が途中から触手になってるんだよ」
なんだか昔、そんなアニメのキャラクターがいたような気がする。あれは確か蛸ではなくて烏賊だったはずだが。際限がないので僕はそろそろ話を戻すことにした。
「さて、でもそうすると、今から奉習を始めるの?」
「ううん。今からだと中途半端になるから、自主練して、あとはぶっつけ本番かな」
そう言って若菜は頬杖をつき、何を見るでもなく窓の外を見ていた。
「そういえば、祭祀って実際何をやるのか全然知らないんだけど、訊いてもいいもの?」
彼女の目が僕を捉える。僕は彼女が話し始める前に一度席を立ち、セルフサービスの水を二人分、汲んできた。
「大した事やんないよ。祝詞あげるくらいはするけど、巫女としてはお神乳を氏子さんにご奉仕して、それが神饌の奉納を兼ねてる。やることは奉習と一緒。もちろん、なるべく多くの希望者に振舞えるようにするから、人数が増える分、そこは大変だけどね。あとはフツーのお祭り。お囃子があって、屋台が出て、って感じかな。あ!夜はちょっと楽しみにしててもいいかも。結人さん、ロマンチストっぽいし」
そう考えると、千種一人ではやはり限界があった気もする。夜はライトアップでもするのだろうか、あまり訊いてネタバレするのも興醒めだ、素直に楽しみにしておこう。
「媛の巫女になる娘がいれば就任式みたいのもやるらしいんだけど、今んとこ千種もまだ決めかねてるみたいだし、今年もやんないんじゃないかなー」
慎重な千種のことだ、まだ悩んでいるのだろう。何も必ずしも祭祀までに決めなければならないという訳ではないだろうし、焦ることはない。別に決断が遅くなったからといって、何かコストが発生して利益率が下がったり、商談の成約率が下がって機会損失するわけでもない。そう単純ではないんだ。
「あと昔は神楽とかあったらしんだけどさ、結構昔に廃れちゃって、途絶えてるみたい。そういうのも、今風にアレンジして再開していけたらいいなーって、思ったりもするんだ」
彼女は伝統を再解釈しようとしている。思った以上に主体的に伝統のことを捉えているようだった。小さな、というと失礼かもしれないがアーティストとしての彼女を刺激するところもあるのかもしれない。
「え、なんか笑ってる。キモチワルー」
そんな若菜に僕は無意識を頬を緩めていたらしく、辛辣な言葉を浴びせられた。ただ、その言い方には親しみが感じられ、そんなに悪い気はしなかった。
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