図書館Ⅱ
目覚めると、相変わらずそこは柔らかい闇と朧げな光が灯る世界だった。外ではしんしんと雪が降り続いている。僕はほっとした。僕は朝が来るのが怖かった。ずっと夜のままならいいのにと、常日頃思っていた。朝も、春も、嫌いだ。何かが始まるのが怖い。ガラスの壁に近づいて、改めて雪を眺める。壁に頬をつけると、ひやりとした。心が落ち着く。僕はそれから、図書館の中を探索することにした。コツコツと床を叩く靴の音が響く。ちょうど僕が眠った場所は天井まで吹き抜けになっているようだったが、壁に沿うように、あるいは階段で中央に浮かぶようにして、床が階層を成していて、全体として解放感があった。ただ、ざっと見回した限りでは一階から二階へのアクセスする階段がない。エレベーターでもあるのだろうか。そう思ってしばらく観察していると、金属製の装飾的な梯子を見つけた。とてもバリアフリーに配慮しているとは言えない構造だ。
(そういえば……)
ここに入る時、僕は橋を渡ってきた。もしかすると、下の階層もあるのではないかと思った。そう思って探してみると、やはり下へと続く梯子があった。僕が今いるここは二階部分ということかもしれない。一段ずつ確かめるようにその梯子を下りがながら一階部分を俯瞰すると、そこには一見すると本棚の類はほとんどなかった。そこはどうやら、かつては植物園だったのではないかと思われた。ただ、今は何も生えていない。ただただ乾いた土と、ひび割れた鉢が雑然と並んでいるだけだった。ところどころに、こびりつくように地衣類が目につく程度だ。
「……」
そこは寂しい場所だった。僕はすぐにまた梯子をカンカン音を立てながら昇った。そしてそのまま三階へと向かう。壁沿いの床から中央に向けて足場が伸びていて、そこには黒く光沢を放つものが鎮座していた。
(ピアノだ……)
それはグランドピアノだった。家にはアップライトのものしかなかったから、それは魅惑的であると同時に、僕をやや気後れさせた。弾いてみたい衝動に駆られたが、あの少女が寝ていたら起こしてしまうかもしれない。僕はすごすごとまたその場を後にした。三階から四階へは外周に沿った螺旋状の広めの階段でつながっていた。色あせて褐色に近い赤い絨毯がしかれているその階段を昇っていくと、そこは三階や一階のような目立った事物はなかったが、整然と本棚が並んでいた。中央に五階へと続く階段があったが、僕は少し本を見て回ることにした。ゴシックな図書館の雰囲気から洋書ばかりかと思ったが、そこには日本語の本も数多くあった。学術書、文学、芸術関連書、図録やスコア、それらがだいたい部屋を四等分するようにして整理されているようだった。文学のコーナーでふと夏目漱石の『こころ』が目に入った。小学生の頃に読んで、当時の僕にはまだ理解の追い付かない部分もあったが、そこからは強烈な「罪悪感」が伝わってきたのを覚えている。幸か不幸か僕にはまだ馴染みの薄い感情だった。罪の意識というものは、キリスト教的欧米世界では神の眼差しにより生じ、日本では共同体の眼差しにより生じるといった話を聞いたことがある。もちろん文化圏によるコンテキストの違いはあるだろうが、日本でも『罰が当たる』といった表現はあるし、そう単純に分けられるものでもない気はした。
僕は更に階段を上り、五階へと至る。ここまで来ると、雲の間から星がよく見えた。そして、一角にはおあつらえ向きの天体望遠鏡と思しきものがあった。見回すと、この階層には背の低い本棚が多かった。絵本や児童書の類が豊富に揃っている他、小さな子ども向けの遊び場のようなものがあった。柔らかなマットの上に小さな丸いテーブルがあり、ついさっきまで誰かが遊んでいたかのように、積み木や木製の列車などが雑然と散らばり、月明りに照らされていた。ふと、クラスの人間の言葉が想起される。『子どもは欲しいが、結婚はしたくない。二十代は遊んで、三十が近くなったら結婚も考えようかな』彼はそんな風に言っていた。僕はよくわからない感覚だった。たぶん、僕はそんな風に自分を愛せないのだと思う。好きな人が望むのであれば、それは欲しいと思うかもしれない。でも、子どもはパートナーに似て欲しい。
どうやら次が最後の階層のようだった。僕は梯子を昇ってそこに至った。そこはこれまでと違い、壁沿いに床はなく、ただ中央に浮いた円状の床に向けて、梯子から足場が伸びているのみだった。その中央に何かがあった。それは揺り籠だった。梯子を昇り切って最初にそれを目にしたとき、揺り籠は微かに揺れているように見えた。いや、確かに揺れている。僕がおそるおそる歩み寄るにつれ、揺れは収まり、それを覗き込んだ。だが中には何もなかった。最初から無かったのか、失われてしまったのか、とにかく、そこには柔らかそうな毛布が敷かれているのみだった。
(戻ろう)
僕は特に感慨もなく背を向けると、元の二階へと下って行った。
戻った時、どこからか良い匂いがした。カモミールの香りだった。よく考えると、僕はこの二階に関してまだ十分に探索していなかった。香りに導かれるようにして進んでいくと、あの少女がいた。その一角には水道とストーブがあり、簡単な給湯ができるようだった。
「起きてたんだね」
少女はテーブルにつき、両手にカップを持ちながら、道端の草でも見るように視線だけをこちらに向けた。
「起きるわよ。こんな静かな場所、鼠一匹うろついてるだけでも気づくのに、カンカン梯子なんて昇られたらいやでも起きるわ」
彼女にとって僕は大きな鼠に過ぎないのだ。
「ごめん、邪魔をして」
「別に、どうでもいい。どうせ少しは起きて動かないと、腐っちゃうもの」
棚を見ると、何種類かのハーブティーや紅茶の缶が並んでいた。
「お湯は沸いてるから、好きに飲めば。わたしのじゃないし」
彼女はこちらを向かずにそう言った。僕は棚を検め、適当なターコイズブルーのカップを取ると、アールグレイとラベンダーの茶葉を混ぜ入れて、ストーブの上のドリップポットで湯を注いだ。そしてそのまま、壁際にあったダークブラウンの皮張りのソファーに腰を下ろした。
「変わった飲み方するのね……でも、良い匂い」
「誰かがこんな風にして飲んでいた気がしたから」
カモミールの香りが彼女を落ち着けるのだろうか。前回話した時より、いくらか態度が柔らかいような気がした。
「それで、なにか分かったの?ナナシくん」
恐らく僕の名前や過去のことを言ってるんだろう。
「なにも。特に、分かりたくもないのかもしれない」
「そう」
今回は特に怒られなかった。ただ、興味がないだけかもしれない。社交辞令的に訊いただけだろう。
「君は?」
「わたしが?」
「君の名前」
卵ひとつ分くらいの間があった。
「……わたしも忘れたわ」
言いたくないのかもしれない。なら、僕もそれ以上は訊かない。
「あなたが寝ていたところにあるオーディオ、たまに使っていい?」
「いいよ。僕のじゃないし」
「それもそうね」
それっきり、会話は止んだ。彼女は僕に冷淡だったが、時折、生来のものと思しき人の好さが顔を覗かせた。それは僕を落ち着かせてくれた。緊張感と、安らぎが、ぎこちなく混ざり合っていた。やがて彼女はカップを洗うと、何も言わず去っていった。しばらくすると、音楽が聴こえてきた。それはショパンのノクターン第二番だった。父が好きで、よく家でも流れていた。僕もカップを洗って音の源まで歩いていくと、彼女は僕が寝ていたのと反対側のソファーにしなだれ、どこか退屈そうに音に揺蕩っていた。
「ショパンのノクターン、好きなの?」
「これ、そういう曲なのね。好きかは分からないけど、なんとなく落ち着くから。とっても楽観的で、お上品で、でも……嫌なことは忘れられるわ」
それは複雑な感情だった。僕らはそのまましばらく、二人で音楽を聴いた。いや、一人と一人で、聴いた。外を見ると変わらず雪が降っていた。僕はそれを何度でも確認した。
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