文乃
ふと、こういう時に煙草が吸えるといいのだろうなと思った。学生時代に格好をつけてタビドフを吹かしていたことはあるが、二十五の時に父を亡くして以来、吸うのをやめた。父の死因は脳卒中だったが、長年の喫煙で寿命を縮めていたのは明らかだった。僕にとっての禁煙は、今や叶わない親孝行の代償行為のようなものだった。そしてまた現実の煙草というのはフィクションで描かれるほど美しいものではないという認識も、僕の禁煙を確固たるものにしていた。吸っている時は良いが、衣類などに染み着いた臭いはあまり好きではない。その後味の悪さは、刹那的で無軌道な情事を思わせる。そうして僕が形而上的な煙草を吹かしながら月を見上げていると、次なる来訪者がやってきた。モテ期なのかもしれない。それは文乃さんだった。僕は不躾にも彼女のことをしばしぼんやりと見つめてしまった。
「あの……何か、付いてます?憑いてる?」
文乃さんは、自分の体に触れながら、ややコミカルな調子で周囲をきょろきょろと見回す。そうしている間も僕はその美しい指先に目を奪われていた。一連の所作からは、彼女特有の柔らかさと親しみやすさが漂っていた。やがて彼女の瞳が僕を捉え、微かに笑みを浮かべると、その場の空気が一気に和らいだように感じた。
「ありがとうございます。さすが、アイスブレイクがお上手ですね」
「大学生なんかを相手にしてるとね。でも、みんなシャイだから、なかなか笑ってくれないんだけど。それで、なに?」
彼女は僕の向かいに腰を下ろし、微笑みながら首を傾げた。その仕草はまるで、僕の心の中を優しく覗き込むようだった。思いがけず、ナイーブな心臓が高鳴る。そして彼女の問いが、最初に僕が彼女を見つめていたことについてのものだと気づき、正直に打ち明けた。
「こういう時、相手の容姿を褒めるのが男のホモソーシャルな世界では常識でしたが、僕は元々そういうのはなんだか不躾な気がしていて……」
文乃さんは最初少し驚いたような表情をしていたが、やがてすぐに目尻を下げ、どこか面白がるような表情で僕の話の続きを待ってくれた。
「でも今は、初対面で相手の容姿を褒めるのは『私は貴女に性的な興味を持っています』と言っているようなものでハラスメント的だと考えるのが、社会的コンテクストを意識したスマートな思考とされる向きもありますよね」
僕は緊張のせいで説明が冗長になっていることを自覚し、背中に嫌な汗をかいた。
「つまり……どう対応したものか少し混乱したんです。ご不快にさせたら、すみません」
文乃さんは僕の言葉を染み込ませるかのように目を閉じると、すぐに澄んだ美しい瞳に僕を映した。
「いいのよ、そういうのは慣れてるから……というかむしろ、そんな反応をされたのは初めて」
彼女は小さく笑った。その時の文乃さんの笑みには
「つまり、褒めてくださってるという理解でいいのかしら?」
一転して、蠱惑的な表情で僕に問いかける。
「はい。今朝初めてお会いしてから夕食もご一緒させていただきましたが、こうして改めて近くで面と向かうと、新鮮な驚きがあります」
僕はなけなしの冷静さを引き出して、どうにか紳士的な態度を貫いた。
「おおげさねー」
文乃さんは自嘲的なニュアンスで微笑んだ。
「でも、なんだかあの娘が懐くのも分かる気がする」
若菜について話す時の彼女は、やさしい母の表情をしていた。子を持つ母というのはこんなにも表情豊かなものなのだろうか。
「懐く……ですか?」
僕は恐らくかなり変な表情をしていたのだろう。文乃さんが吹き出した。
「ンフフフッ、ふふっ、ご、ごめんなさいね」
顔を伏せお腹を抱えて笑っている。
「……」
「んんっ……失礼しました」
ひとしきり笑った後、チャーミングな咳ばらいをすると、文乃さんは姿勢を正した。
「いえ」
僕はどんな表情をしていいのか分からなかったが、文乃さんが楽しそうなので悪い気分はしなかった。ただ、確かにこの女性は若菜の母親なんだなと実感した。
「結人さんって、意外と表情豊かなのね」
「そんなこと、初めて言われました」
僕は正直に答えた。たまに僕の目を気に入ってくれる人もいたが、目が死んでいると言われることも多かった。チベットスナギツネみたいだと。もっともそういう時は、実際に心が死んでいたのかもしれない。
「あら、ならみんなは貴方の魅力に気づいてないのね」
目を細め、慈愛に満ちた表情をたたえた文乃さんに、僕はなんだか今から高額な壺でも買わされるのではないかとすら思った。
「三十二歳の男を、あまり
僕は曖昧な笑みを作って心ばかりの抗議をした。
「三十二か……わたしにとっては弟みたいなものね」
実際のところ、文乃さんは年齢不詳だった。若菜の母親ということを考えると若く見積もっても三十代後半だと思うのだが、容貌だけで言えば一回りは若く見えた。燈子さんに会った時も驚いたが、その若々しさは琴音の母のすみれさんにも同様に言え、こうなるといよいよ巫女の血の影響を真面目に考えてしまう。とはいえ――
(弟か……)
邸宅の前の道の切れかけた街灯の光が、ちらちらと揺れていた。
「若菜さんは、その……あなたから見て僕に懐いていると思うんですか?」
少しでも自分のペースにするため、僕は話を戻した。
「あの子、人を食ったようなところがあるでしょ?でも、そういう態度に出るのも、心を許した相手にだけなのよ……何か飲む?」
「じゃあお言葉に甘えて、ビールを」
文乃さんは背後のクーラーボックスから冷えたペールエールとIPAの缶を一本ずつ持ってきてくれた。
「どっちがいい?」
「IPAで」
「ふふっ、だと思った」
僕はIPAのイメージなのだろうか、つい真剣に考えこみそうになる。
「わたしも好きだから、それ」
僕は素直に彼女の好意を受け取ることにした。
「ありがとうございます」
ビールの缶を開封する小気味の良い音が夏の夜の空気に吸い込まれる。音と共に僕の緊張も、さらに少し空に逃げていく。
「乾杯」
「……乾杯」
両手で上品にビールを飲む文乃さんの姿は様になっていた。なんだかCMみたいだなと僕は思ったが、伝えるべきか迷ってやめた。彼女が何かをする度に褒めていたら、一向に話が進まなくなってしまう。それでも僕は、月を見上げる文乃さんの横顔にいつしか見惚れていた。そういえば妻は酒類を嗜まなかったから、こんな風に女性と二人きりで落ち着いてお酒を飲む機会は久しくなかったなと、ぼんやりと思い返していた。文乃さんの顔がこちらを向く。
「奥様のこと……考えてた?」
僕は空恐ろしくなった。
「どうして、わかるんですか?」
「わかるわよ……そんな顔していたら」
困ったような表情で文乃さんは言った。僕は、自分の表情というものにあまりに無頓着なのかもしれない。それは昔からの僕の悪い癖だという自覚はあったが、指摘してくれる人はあまりいないため、ついつい忘れてしまう。
「今日はね、一言お礼を言いたかったの」
やや改まったその言葉は、柔らかな雰囲気はそのままに、文乃さんの周りの空気が一段階澄んだような気がした。
「あの娘の、若菜のそばにいてくれて、ありがとう」
文乃さんのまっすぐで真摯な眼差しから、僕は目を離すことができなかった。
「そんな、お礼を言われるようなことは何もしていませんよ」
それは謙遜でもなんでもなく、僕の素直な気持ちだった。
「ううん、特別なことなんて、何もしなくていいのよ。あの娘が安心できるあなたが傍に居てくれるだけで、若菜は少し自分の気持ちに素直になれるんだと思うの」
信頼できる他者の介在が、自分の感情への向き合い方を変える……確かに改めて言われるとそういうこともあるのかも知れない。
「あの娘は、わたしに似て大雑把だけれど、それでも周りと自分との違いは敏感に感じてる」
若菜はともかく文乃さんが大雑把なら僕はラッコか何かなのではないか。いや、そもそも僕は目の前の魅惑的な女性のことをまだほとんど何も知らないのだ。わかったようなことを考えるのは愚かだ。それよりも今は若菜の話だ。
「アロマンティック傾向……」
文乃さんは小石に当たったような顔をした。
「強いて類型化するなら……ですけどね。まずはそうした概念を後景化して、彼女をありのまま見てあげた方が良いんだとは思ってますが」
「驚いたわ……よく分かってるのね……それにそんなことまで考えてくれてるなんて」
「あの歳で恋愛がよく分からないということ自体は特別変わったケースではないと思います。でも彼女の場合は、興味がない以前の何かを感じました。選択的にそういうスタンスを取っているわけではなく、そもそも選択肢がないというような」
文乃さんは真剣な表情で僕の言葉に耳を傾けてくれた。
「そしてそのことに疎外感を感じてもいるが、心細さを認めるのも癪に感じている……まだほんの僅かな時間しか共有していない僕の思い込みかもしれませんが」
すると文乃さんは、寂しそうな表情を浮かべながら言った。
「あなた、すごいのね。わたしは普通の恋愛みたいなものは知らずに育ってきたせいか、若菜のそういう特徴に気づいたのは割と最近になってからなの。それとも、普通はそのくらい分かるものなのかしら」
僕は慎重に言葉を選びつつ、しかしお為ごかしの嘘などはすぐに見破られるだろうとも思った。
「正直、わかりません。でも、男性の方が存外気づき易かったりするのかもしれません」
汗をかいたIPAの缶が僕の指先を濡らした。
「それから僕は、妻を亡くしてからの二年間で、直感のようなものは随分と鋭くなってきたような気がします。霞を食べて過ごして来ましたから」
文乃さんの瞳が揺らぐ。若菜たちのはしゃぐ声が聴こえてくる。
「ありがとう……そういう言い方、好きよ」
文乃さんの淡く艶美な微笑みに、僕は覚悟を決めた。これは壺では済まない、マンションコースだ。
「あまり遅くまで若い男が居座っているというのも体裁が良くないですし、僕はそろそろお暇します。楽しい時間をありがとうございました。……旦那さんにも、よろしくお伝えください」
僕はひとときの夢に別れを告げる。文乃さんの目が泳いだ。
「あ……その……これね?」
彼女は左の薬指に光る輪を美しい指で弄びながら、言葉を続けた。
「ただの男避けなの。たまに、逆にそれで寄ってくる変な人もいるのだけれど」
文乃さんは取り繕うように笑った。これまでのいくらか作られた笑顔に比べて、その表情は無防備に見えた。
「だから、気にしないで?こんな所で良ければ好きなだけ、ゆっくりしていってくれて良いから」
そして去り際、彼女は最後にこう言った。
「あの、勘違いしないでね?こういう態度、誰にでもとってるわけじゃないのよ?若菜の信頼する相手っていうのは、わたしにとっても一番の信頼材料だから」
多少、酔いが回っているのか、頬を染めていた。
「あと……弟みたいって言ったこと、気分を悪くしていたら、ごめんなさいね。わたしがいつの間にか歳をとってたなぁって思って、自虐に巻き込んでしまったの。あなたに男性として魅力がないとか、そういうニュアンスはなかったのよ?」
僕はそんなに惨めな顔をしていたのだろうか。気を使わせてしまったかもしれない。その時の文乃さんには、少女のような趣きがあった。
「……少し飲み過ぎたみたい。また、時々遊びに来て頂戴ね」
文乃さんが去った後、僕はしばし呆然としていた。
「プライベートジェットか……」
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