若菜Ⅲ

 少女らがまた家の中に戻ろうとしていた時、今を逃すと琴音さんに謝ることのできるタイミングを逸しそうな気がして僕は立ち上がり、彼女に向かって歩き出した。だがそんな僕に気づくと、琴音さんの方から僕に駆け寄ってきた。

「月城さん」

「遠野さんごめん、この間は――」

「ごめんなさい!」

 そう言って彼女は深く頭を下げた。

「いや、全然、遠野さんが謝ることなんてないんだ。顔を上げて欲しい」

 遠野さんは頭を上げると、伏し目がちに話し始めた。

「千種とはさっき、ちゃんと仲直りできました。月城さんと話して、あの後いろいろ考えて……私、自分の気持ち、千種に押し付けちゃってるなって」

 彼女はまだ僅かに赤い目元でそう言った。彼女が僕に謝る必要なんてまるでなかったが、それはともかくとして、彼女は自分が間違ったと思うことを、きちんと謝ることができるのだ。

「そのことに、気づけました。私がなりたかったのは、こんな自分じゃないって。だから……ありがとうございます」

 彼女の傍に、今日もコーギーはいた。でも眠っていた。まだ緊張感の残滓のようなものはあれど、あの日のような強い警戒心はもはや感じられなかった。そしてそれは、千種や若菜の力だと思った。

「とんでもない。それは遠野さんが自分で気づいたことだよ。それを後押ししたのは、千種さんや若菜ちゃんの力だ。僕はいたずらに君を傷つけただけだ。遠野さんの、千種さんへの気持ちを試すような物言いだった。本当にごめん。僕はいつだって、想像力が足りない」

 遠野さんは、少し驚いたような顔をしていた。

「……正直、まだ完全にあなたのこと、信用できてないと思います。でも、そんなのお互い様だし。だから、また私が何か突っ走っちゃってたら、教えてください。また、言い返しちゃうかもしれないですけど。私、ガキだから」

 そう言っていくらか晴れやかに、笑ってくれた。

「あ。私のことも、『琴音』でいいですよ。村だとみんなそう呼ぶし、別に友達になったとかじゃないですけど、なんか私だけ仲間外れみたいで逆に変な感じだし……」

 良い距離感な気がした。

「分かった。ありがとう、琴音さん」


 僕はさっきまで座っていた庭のテーブルに戻って、ほっと一息ついた。まず一歩、前進した気がした。謝ることができた。これでようやく、振り出しだ。

「禊、おつかれさま」

 若菜だった。一緒に家の中に戻ったかと思っていたが、わざわざ引き返してきたのだろうか。

「なにか、忘れ物?」

「ちがうよ、結人さんと話しに来たの!」

 相変わらずのポーカーフェイスで若菜は続けた。

「今日はね、ありがと」

「禊のこと?僕の方こそ、ありがとう。自己満足みたいものかもしれないけど、琴音さんや、みんなの役に立てたなら良かった」

「いや、違くてさ、なんていうか……」

 珍しく、要領を得なかった。しばし、首を傾げたりして何かを考えながら、やがて小さく嘆息した。

「ごめんね、なんか上手く伝えられそうになくて」

 彼女の瞳が僕を捉える。

「あのね?ボクが今日の企画立てて、さっき三人であったかい気持ちになれたのは、きっと結人さんのおかげなんだよ」

「というと?」

「役場の前の広場で、前に会ったじゃん?あの時、千種と琴音の心配してる結人さんのこと見て最初は、ヘンなのって、思った。もう二人ともオトナなんだから、なんとでも勝手にするよ、って」

 確かに、別れ際に彼女は言っていた。二人とも、もう子どもじゃないんだから、大丈夫だと。そう言われると、役割を意識するあまり、過保護になっているのかもしれない。

「でも、結人さんはボクの話も聞いてくれたでしょ?適当にあしらうでも、説教するでもなくさ。話を聞いて、色々考えて、言葉をかけてくれた……ちょっとリクツっぽかったけどね」

 僕は口の端で笑った。

「でもその時に思ったんだ。なんか、安心するなって。そういうの、良いなぁって」

 若菜が訥々と言葉を紡ぐのに、僕はただじっと耳を傾けていた。

「だから、ボクももっと関わっていこうって、そう思った結果が、今日なわけ。せめて、千種と琴音にくらいは、ね」

 そこまで話すと、彼女は大きく息を吸い込んで、それからまた同じように吐いた。藁の家くらいなら吹き飛ばせそうな勢いだった。

「ボク、多分どっかで諦めちゃってたんだよ。どうせ分かり合えないって」

 以前役場前で話した時、若菜は気丈に振舞っていた。内心、傷ついているのかもしれないとも思った。でも、僕が思っている以上に何かあるのかもしれない。

「友達の女の子がね、泣いてたんだ」

 彼女は何かを開示しようとしている。虫の声が少し小さくなった気がした。

「どうしたのかなーって思って、ボク、近づいて行ったのね。そしたら、付き添ってる子に言われたんだ。『ごめん、若菜には分かんないことだから』って」

 十代における少女たちの関係性というのは、僕などの想像も及ばないほど繊細なのかもしれない。男子校出身の僕には、尚のこと。

「あの眼……忘れられないんだぁ。すごく冷めてて、めんどくさそうな……もちろん本人は隠そうとしてたんだと思うよ?でもきっと、その時は泣いてる女の子のことで精一杯だったんだろうね。あとで、なんか告白してフラれたんだって聞いた。仕方ない……よねって。ボクがいたところで何も共感してあげられないし、無神経なこと言って傷つけちゃうかもしれないもんね?それはさ、分かるんだよ。あとで謝りにも来てくれた。その時はもちろん『いいよいいよ』って言ってボクも笑って、ちゃんちゃんって。でも、それ以来なんか、怖くなっちゃって……」

 大人なら、割り切れるかもしれない。でも、僕らもそんな風にして傷つき、諦めてきただけかもしれない。あるいは、そこで怒ることの出来る人の方が正しいのだろうか。わからない。

「でも、ちゃんと伝わるんだなって、今日はそう思った。分かってたことなのかもしれないけどね。あの二人は、ボクのことちゃんと見てくれるって」

 そんな風に語る若菜は、やはり眩しかった。若菜とは違う理由だが、僕も人に歩み寄ることを恐れていた。もちろんそこには普通の大人としての自衛の側面もあったが、僕の場合は自己嫌悪であったり罪悪感が大きい。でも、この村に来てからの僕は、少し違った。懐かしい感覚だった。自分の善意を無邪気に信じていた頃みたいだ。一方で、かつての僕は、もっと人の悪意に敏感だった気もする。だから、僕は進学等をきっかけにして居場所が変わる度、それまでの人間関係を切り捨てるところがあった。でも自分に失望してから、僕は人の繋がりを大切にするように、徐々に自分を変えてきた。もし若菜に対して僕が何か良い影響を与えられたのだとしたら、そうした僕の成長が多少なりと反映されたか、あるいは和夫さんや彼女らの善意が僕の中の良い部分を引き出した結果なのかもしれなかった。良くも悪くも、人間は適応していくものだ。もちろん、適応による単純な変化とは別に、仮面を使い分けていくようなことも必要だ。でも、やはり朱に交われば赤くなる側面もある。この村の人達は僕を受け入れ、色を差してくれた。それは美しい色だ。

「僕たちはいつだって想像力が足りない。それによって、誰かを傷つけたり、勝手に自分が傷ついたりする。だから知ろうと手を伸ばす……でも正直、僕なんかがいなくても若菜ちゃんは二人を遊びに誘ってた気がするけどね」

「んー、どうだろうね。昔なら何も考えずにそうしてたかも。でも今は、もうちょっと様子見てた気がする。で、なんか落ち着いてそうだったら、仲直りの印に~って声はかけてたかもね。やっぱりこういうのって、きっかけを作るのが一番ハードル高いからさ。誘った時点でどっちかから既読無視されたり、断られてたら、あーやっぱり無駄なことするんじゃなかったー、ってなってたと思う」

 でもそうはならなかった。それは三人のこれまで築いてきた信頼関係あればこそなのだろう。

「二人のことは信じてるけど、だからこそ、怖かったのかもね」

「そうか……確かに、それで合点がいったよ」

「ガテン?」

「あの時、君が会ったばかりの僕に悩みを話してくれたのは、なんでだろうって、ちょっと不思議だったんだ。そもそもオープンな性格なのかもと思った。でも、そうやって聞くと、いつ村からいなくなるか分からないような僕だからこそ、話しやすかったのかもね」

「……なるほど……そうか……そうなのかもね……」

 そのまま若菜はしばらく、庭のどこかにある穴を探すような目をして何かを考えているようだった。そして何かに気づいたような表情の後、視線を落とした。

「あとはたぶん……結人さんが弱ってそうだったから……かも……」

 彼女の目がこちらの様子を伺う。

「いいよ、続けて?」

 しばしの沈黙。それは、午前六時の保育園のおもちゃ箱みたいな静謐だった。

「ああいう悩みとかってさ、強い人には見せられないんだよ。肯定されるにせよ、否定されるにせよ、強い言葉が返ってくるから。ボクってさ、意外と繊細なんだよ?でも、結人さんなら、無害な気がしたんだと思う。ズルイよね……」

 僕はふと、和夫さんの言葉を思い出していた。弱さと思っているものが、強さになることもあるのだと。これは強さとは違うかもしれないが、それが彼女の助けになったのなら、その弱さには価値がある気がした。

「それで普通だよ。それに、狡くたっていいんだ。そう捉えるのが嫌なら、僕を助けてくれたと思えばいい。僕の弱みが良い結果を生んだなら、それは僕の励みになる」

 若菜はやや苦々しげに口元を歪めていた。

「オトナって、もっとみんなサバサバしてるもんだと思ってたよ」

 そういう意味では僕は単に子どもなのかもしれない。でも、そういう風に返すのは何か違うような気がした。それは何故だろう。彼女が僕の方を見る。何か、言葉を返すべきだろう。

「そうだね、ドライな場合もあるし、逆にもっとウェットな時もある。後者の場合は、何か下心があることもあるから、注意した方がいいけどね」

 彼女は笑わなかった。

「だから、若菜ちゃんや琴音さんが僕を警戒したのは、正しい。でも今回はなんだろう、和夫さんからオブザーバーとしての役目をもらったこともあるし、千種さんから相談を受けたこともある。その上で、自分の善意を慎重に信じてみようと思った。それは僕の救いになるはずだと思ったから。どこにも行けない僕の、救いにね」

 屋外の照明の周りを、蛾が舞っていた。

「でも、うまく寄り添えないことだって多い。若い頃の悩みというのはいつの間にか薄らいで、若い人が同じように悩んでいても、それに対して想像力がうまく働かなくなることもある。でも、千種さんが悩んでいたような進路や人間関係に関することっていうのは、大人になってもずっとついて回る。無論、それにどう対処するかは人それぞれだけど。正直、働くようになってからは、僕も諦めてたところがある。でも、元々は結構ウジウジと悩む方だ。だから、寄り添えたのかもね。つまり、たまたまだ。相性が良かった」

 僕も今回は無理に笑わなかった。夜に見る若菜の瞳は、より一層色が深かった。

「なるほどね」

 そこでようやく、若菜が微笑む。

「なんとなく、伝わった?」

「結人さんが、不器用なオトナだってことは、よく分かった」

 それはその通りだ。そして不器用な大人なんて、ビジネスの世界では何の価値もない。ただの欠陥品だ。

「でも、ボクはそういうヒトの方が好き……ボクがコドモだからかな?」

 僕はしばし考えた。

「そうかもしれない。でも、焦って大人になることなんてないんだ。大事なことも、何が大人で何が子どもかも、時代によって移ろっていく。だから、感じたものを大事にしていいんだ。僕は、そういう風に君に言うことしかできない」

「……やっぱりお母さんみたい。『何が大切かは、時代や環境によってどんどん変わってく。その新しさの前では、誰もが子どものようなもの』……いつか忘れたけど、そんなこと言ってたよ」

 彼女が去った後も、元は文乃さんのものだというその言葉が、僕の頭から離れなかった。新しさの前では、皆が子ども同然である。誰しもがそんな風に謙虚であれたら、この世界はもういくらか、住みやすかっただろう。

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