若菜に予告されていた金曜の前日の木曜、彼女からSNSでメッセージが届いた。

(『明朝十時、バス停に集合!遅刻厳禁!(結人さんは禊の時間だよ)』)

 何やら不吉なことが書いてある。もちろん例のカエルのスタンプもセットだ。僕は不幸の手紙をもらったような気分になって、顔をしかめた。でも次の瞬間、僕は笑っていた。これも若菜なりの配慮だ。ありがたく受け取ることにした。だがその後、追加で一通のメッセージが若菜から届いた。

(『朝九時半くらいにウチまで迎えに来てもらうことって出来る?お母さんが挨拶したいんだってー』)

 僕は端的に『分かった』とだけ返した。確か、若菜の母親は文乃さんといったはずだ。役場前で会った時の若菜の話では、大学で講師をしているということだった。そしてまた、燈子さんからは、僕に似た部分があるとも言われた。そんな風に言われたら否が応にも気になってしまう。だがよく考えると、僕は若菜の家を知らない。SNSで訊いてみると、村の東側の向日葵畑の近く、広い庭のある家だという。思い当たる場所があった。初日に村を回っている際に目に留まった、趣味の良い庭のことだろう。『多分わかる』と若菜に伝え、僕はその日は早めに寝ることにした。


 翌日、緊張のせいか早く目覚めた僕は、黎明の頃に外に出て竹刀を振った。ざらついた薄闇が徐々にアパートの裏手へと去っていく。朝日なんて記憶の限りでは初日の出の折、それも一度くらいしかじっくりと見たことはなかったが、悪くなかった。朝日と言うのはその日の心持ち次第で全く印象が異なる。遠くから長い影を伸ばしてやってくるのが、幸運を告げる知己である時もあれば、昏い暗示を携えた審問官であることもある。今日はなんとなく前者のような気がした。

 部屋に戻るとシャワーを浴びて汗を流し、冷たい水で顔を洗う。そして鏡の前で自分の裸を眺めた。僕は元々は痩せ型だったが、仕事をするようになって十キロ近く体重が増えていた。だがそれもこの二年余りで五キロくらいは自然に減量されていた。まだ素振りの習慣の効果が出るところまでは達していないが、これを機に脂肪を筋肉に代えて健康体を目指したい。


 支度をして部屋を出た僕は、若菜の家へと向かった。夏の朝の空気を吸い込みながら、池の南を通り、途中千種の家の前を通過して、やがて心当たりの家が見えてくる。改めて眺めると、羽衣石家と同様、見ごたえがあった。それは極めてモダンな和風建築だった。濃い木目調の外壁にガラスの大きな窓がいくつもあり、屋上もあるようだった。開け放たれた門の前まで来て中の様子を伺うと、女性が一人、庭の植物に水やりをしていた。刺繡の美しい白のシフリーブラウスに、シルエットのすっきりとしたネイビーのクロップドパンツ。髪は上品にアップで纏められ、耳の前に無造作に垂れた髪が、リラックスした雰囲気を共存させていた。彼女が振り向く。僕に気づく。少し驚いたように目を見開いた後、すぐに和やかに微笑んだ。雨の匂いがした。少女が一人、雨に濡れている。その姿が、彼女に重なる。雨雲らしきものはない。変わらぬ夏の陽光が降り注ぎ、雫を纏った庭の草木がきらきらと輝いている。

「おはよう」

「おはよう、ございます」

 長い睫毛が印象的だった。やや細められたその眼差しからは、繊細さと知性が滲んでいた。柔らかく滑らかなベールの奥に、精巧なガラス細工のような、容易には触れられない、そんな何かの気配があった。

「月城結人さんね?」

 そう言うと彼女は如雨露じょうろを足元に置き、腰の前でそっと手を合わせた。

「はじめまして、小鳥遊文乃といいます。娘が、お世話になっています」

 文乃さんが軽く頭を下げる。

「月城結人です。ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ありません。こちらこそ、若菜さんにはいつも助けていただいています」

 彼女が微笑む。温かい笑顔だった。親しみやすく、近くて、そして遠い。

 ガチャリと音がして、玄関から若菜が飛び出してくる。普段は制服姿だったが、今日はいわゆるお出かけスタイルのようだ。ピンクのオフショルダーのシャーリングブラウスにネイビーのミニスカートを履き、レザーの小さなリュックを背負っていた。ガーリーな雰囲気が強いが、白いスニーカーを合わせているところは若菜らしい。

「お?もうファーストコンタクトは済んだ感じ?てかおはよ、結人さん」

「うん、いま、正にね。おはよう、若菜ちゃん」

 彼女は夏の妖精のようだった。美しく停滞していた世界に、流れを生み出す。

「ど?可愛くない?」

 彼女は僕の前で体を傾けたりしながら、くるくると全身のスタイルを披露してくれた。

「マブイね」

 僕がそう言うと、文乃さんが小さく吹き出していた。

「それ、どういう意味?結人さんの時代の流行語?」

「可愛いってことだよ。僕の世代にとってもまぁ、死語だけどね」

 若菜は訝し気に口の端を歪めたが、すぐにいつものようにニヤリと笑った。

「なるほど、照れ隠しってわけだ?よのう」

「こら、若菜」

 文乃さんがそんな若菜をたしなめていた。それが日常なのだろう。

「じゃ、のんびり行こっか。行ってきまーす!」

 若菜が文乃さんに手を振る。

「よろしくお願いします」

 文乃さんが少し困ったように笑いながら会釈したので、僕もそれに返し、二人の家を後にした。

 その後、僕らは二人で並んでのんびりとバス停に向かって歩いていたが、途中で僕は忘れ物をしていることに気がついた。昨日の夜、財布を整理していた際に出したカードの何枚かが、財布の中になかった。呆れる若菜に先に目的地に向かってもらい、僕は走ってアパートまで戻ると、カードを回収してまた急いで部屋を出た。そうしてバス停へと続く緩やかな山道を小走りに登っていた時、ちょうどあの分岐のあたりで千種と琴音が話しているのが見えた。昨日、若菜にSNSで確認して、当日二人も一緒であることは把握していたが、僕は思わず身を低くして隠れてしまった。様子を伺っていると、やがて遠くから二人を呼ぶ若菜の声がして、千種が琴音の手を引いて走っていった。僕はぼんやりと口を開けてその光景を眺めていた。意外だった。どちらかと言えば、琴音の方が手を引きそうなイメージがあったからだ。でも改めて考えると、そう意外なことではないのかもしれない。時折、千種から感じる芯の強さ。それが苦境に立たされた際に力を発揮するのかもしれない。僕は少し、遠野さんの気持ちが分かったような気がした。その保護的な姿勢の裏にある感情。二人はもう、大丈夫なように見えた。


「おっそ~い!」

 バス停に着くと若菜が腰に手をあてて仁王立ちしていた。一応まだ約束の時間の五分ほど前ではあるが、十分前行動が基本だったかもしれない。そもそも不注意で時間をロスしたのがよろしくない。

「ごめん」

「今日が禊だっていう自覚、足りないんじゃないですかぁ?」

 彼女は目を眇めるようにして僕をなじった。相変わらず芝居がかっている。

「原因と再発防止策を報告書にまとめて送るよ」

「なにそれ。つまんなそ。そんなのいいから、今日の働きで誠意を示してよね」

「承知いたしました」

 そんな風に話しているうちにバスが来た。若菜が我先にと乗り込んでいく。千種は僕を憐れむような笑みを浮かべて続き、遠野さんも気まずそうながら会釈してくれたので、僕は中立的な笑みで返した。謝るのは禊が終わってからにしよう。そう言われれば何をするのか全く聞かされていない。訊いても教えてくれなかった。それも含めて罰だと思うことにした。

「おっ、にいちゃん三人も相手じゃ両手で足りねぇなぁ!三本目が必要になっちまうってか!……大丈夫け?半魚人でも見たような顔してっけど」

「いえ、発想が斬新で感動しただけです。街までの道中、よろしくお願いします」

 運転手の彼には申し訳ないが、ここで合わせて笑いでもして、遠野さんにさらに軽蔑されてしまうわけにはいかなかった。仮に遠野さんに意味は分からなくとも、ニュアンスだけは伝わったりするものだ。

 三人がバスの最後列に並んで座ったので、僕は逆に最前列に座った。座席が高くなっていて眺めが良いし、少女達の邪魔をするのも野暮だ。そう言えば、彼女らの今日の姿はいつにも増して眩しかった。千種は普段からお洒落だったが、今日のラベンダーのシックなワンピースは彼女に大人びた風合いを加え、燈子さんに近い印象があった。つばの広い麦わら帽子にサンダルを合わせた姿は深窓の令嬢と言っても大げさではないかもしれない。一方の琴音はクールなスタイルだ。シンプルな白いTシャツにデニムのショートパンツ、黒のキャップを被っていた。黒のナイロンのリュックにスニーカーも白と黒のツートンで、トータルコーディネート感がある。三人それぞれにカラーが違うのが面白い。ある一定以上の年齢になると、友達同士で出かけるとどうしても趣味趣向が近くなり、似通ったファッションになる印象があったが、この村の三人はコミュニティの小ささもあってか各々の個性を発揮しながらも良い友情関係を築いているように見えた。それは僕に可能性のようなものを感じさせた。だがそんな彼女たちを見ていると、自分の着くたびれた服装がなお一層貧相に映り、居心地が悪くなった。今日も変わり映えのしないネイビーのポロシャツに淡いグレーのデニム姿だ。ポロシャツの方は袖の折り返しと襟に赤いラインが入っていて、デニムもステッチにピンクの糸が使われている。元々ファッションは好きな方だし、それなりに拘りがあるが、いかんせん年季が入り過ぎている。ポロシャツの襟にはピンホールが空いていたが、ピンはどこかに行ってしまった。

 そんな風に考えていると、いつの間にかバスは発車して、ディーゼル車特有の重厚な音を立てながら緑のカーテンの中を進んでいた。木漏れ日とバスの揺れが心地よく、気づくと僕はうとうとしていた。朝早く起き過ぎたかもしれない。禊に向けて体力を温存するためにも、僕は睡魔に抗わず、目を閉じた。


 目を覚ました時には、もうすぐ目的のバス停に着こうかというところまで来ていた。途中何度か目を覚ました気がするが、記憶は判然としない。地方都市特有の巨大ショッピングモールに隣接したバスターミナルに着くと僕らは順に降車し、伸びをしたりして体をほぐした。帰りのバスは午後四時だから、その頃にはまたここに戻る必要がある。運転手に手を振ってしばしの別れを告げると、僕らは目的地である眼前の商業施設に向けて歩き出した。僕は都内の会社に勤めていたが、住んでいたのは北関東だったから、こういうスケールの大きい商業施設には馴染みがあった。

(なんだか懐かしいな)

 東京住まいの人間には理解されないことも多かったが、これがなかなかに居心地がよく楽しいのだ。都内には常に最先端のモノが溢れ、イベント事の多くも東京周辺で催される。もちろん、刺激的で楽しい。一方で広い公園など自然やも整備されていて、経済力さえあれば良いバランスの上に暮らせるだろう。だが僕個人としては、あらゆる事物が極限まで洗練されている必要はないとも考えている。それは見方によってはただの嫉妬かもしれないし、馬鹿にするならすればいい。都内のある種の洗練さに対して、僕はしばしば血や汚物の臭いを感じることがあった。こうした地方のショッピングモールにはそれがない。平和で草の匂いがする。それはそれで良いものだ。

 並んで歩く三人を後ろから見ていて気づいたが、千種が一番背が高く、若菜が一番小柄だった。性格のせいか逆の印象があったが、実際には違ったようだ。施設内に入ると、彼女らはまず昼食をとるということだったので、僕は遠慮して別途食事をし、一階のインフォメーションカウンターの前で待ち合わせることにした。こういうところには、だいたいフードコートと専門店がある。気楽にフードコートで済ませるのもいいし、専門店に入ってゆったりするのもいい。だが昼時とあってか、どこも混んでいた。こうなると、ついつい空いている店で済ませてしまいたくもなる。そして結局僕はタリーズコーヒーに入って、パスタのセットとコーヒーをオーダーした。

 出来上がりを待つ間、僕はぼんやりと店内を眺めていた。パソコンで作業をするサラリーマン風の男性、大学生と思しき男女のグループ、若いカップル……たくさんの若い人間がいるのが、なんだか不思議だった。霞巫峰村はもちろんだったが、それまでの旅先でもこうした商業施設を訪れることは少なかったから、目にするのは年配の人間が多く、僕はなんだか酔いそうになった。地方都市ですらこの調子なら、新宿や渋谷にでも足を運ぼうものなら卒倒するかもしれない。だがいずれはまた、馴染んでいかなければならない。生き続ける限りは。

 

 昼食後、彼女らに合流してから、僕は切り出した。

「さて、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?その禊の内容とやらを」

「ま、平たく言えば荷物持ちだね。あと、魔除け」

 若菜は案内図を見ながらこっちを見もしないで答えた。

「魔除け?」

 怪訝な顔をする僕には構わず、若菜たちは時間を惜しむようにずんずん歩いて行った。仕方なく僕は彼女らの少し後をついていった。

 雑貨にインテリア、洋服と、彼女らは目についた店に入りながら、歳相応にはしゃいでいるようだった。若菜が遠野さんにガーリーな服を勧めては、気が進まなそうな彼女を千種が試着に促したり、若菜が遠野さんに猫耳カチューシャをさせようとしては、押し付けられた千種の姿に二人で興奮したり、小腹が空いたと言ってフードコートに行けば、遠野さんが運動部らしい健啖ぶりを披露したりと、遠目に見ているだけでも飽きなかった。よく考えれば彼女たちが一緒に過ごしているところを、今までほとんど見たことがなかった。初日に千種と遠野さんが一緒にいたのを見たくらいだ。若菜がムードメーカーで、千種が二人を気遣い、琴音はイジられつつも良いストッパー役になっているように見えた。バランスが良い。そしてもう一つ気づいたことがあった。彼女らは女子高生だということだ。街中で三人でいることによって生まれるエネルギーのようなものが、改めてそのことを僕に認めさせた。眩暈がする。

 禊の方はと言えば、何か買い物をすると若菜が僕にそれを持たせた。そこまで大量の買い物ではなくとも、三人分となればそれなりになる。千種が時折そんな若菜に抗議したが、『これは結人さんのために必要なことなの』と言って何かを強いられているかのような表情を浮かべて譲らず、ただそれについては僕も異論はなかった。『気にせず楽しんでおいで』と言うと、千種は困った顔をしたまま走っていく若菜を追いかけていった。二人ともそれぞれに優しいのだ。

 そんな風にして時間が過ぎていく中、ふと三人に近づく大学生風の二人組の男性の姿が目に付いた。やがて彼女らに話しかけ、何やら遊びに誘っているような雰囲気だ。若菜が僕の方に視線を向ける。なるほど、僕は若菜の意図を理解した。そして大量の荷物を抱えて悠然と彼ら彼女らに近づいた。

「結人さん!」

「え、あ、お兄さんですか?」

 兄だとして誰の兄に見えるのだろうか。相手も深く考えて言葉を発したわけでもないだろう。なんだっていい。

「まぁ、保護者みたいなもんです」

 それだけ伝えて中間的な笑みを浮かべているだけで、二人は頭を掻きながら去っていった。もっとイカツイ感じの相手だったら剣呑なムードになったかもしれないが、ここは平和な日本のショッピングモールの中だ。そこは常識的な相手のようで良かった。

「ふぅ」

「あ、ありがとうございます!」

 千種が真っ先に頭を下げた。遠野さんも合わせて下げるものだから、なんだか申し訳ない気持ちになる。若菜はチェシャ猫みたいにニヤニヤしている。

「気にしないで、僕は『お兄さん』らしいから。魔除けってこういうこと?」

「結人さんてば、頼りになる~。ありがとね」

「メイウェザーとパッキャオが相手だったら散らせなかったけどね」

 若菜は僕の冗談を無視して、もう次の興味に向けて動き出していた。確かにネタが古かったかもしれない。それにきっと格闘技になんて興味はないのだ。僕だってそうだ。サラリーマン時代についた無駄な知識だ。


 三人が書店を見ているのを近くの長椅子で待ちながら、僕はぼんやりとさっきの一件を思い返していた。確かにあの三人は目立つ。魅力がある。村にいる時からそう思っていたが、街に出てもそれは変わらないどころか、際立っていた。僕みたいなのでも、いないよりはマシなんだろう。

「あの、月城結人さん、ですよね?」

 そんな僕に語り掛ける妙齢の女性がいた。

「あなたは、確か社で……」

 それは千種の奉習に参加した際、斎場にいた内侍の巫女の女性だった。

「申し遅れました、藤堂綾乃と申します。以後、お見知りおきを」

 そうやって頭を下げる彼女に僕も急いで立ち上がって頭を下げると、椅子の上に置いていた荷物の一つが転げ落ちた。

「あー、ごめんなさい!」

「いえいえ」

 僕はそれを拾い上げると、彼女が座れるように荷物を詰めて、席を勧めた。

「大変……ですね」

「いいんです、禊なので」

 藤堂さんは可笑しそうに笑った。

「今日は、お買い物か何かですか?」

「いえ、月城さんと同じ。お目付け役です」

 自然、少女らの方を二人して見やる。

「こうして見てると、普通の女子高校生なんですけどね。でも、目立つでしょ?みんな可愛いから」

「ですね」

「だから、さっきみたいなこともあるし、なるべくバレないように見守るようにしてるんです。過保護なのは分かってるんですけどね」

 三人を見つめる彼女の眼差しには母性的なニュアンスがあった。

「私、元々は燈子さんについてたんです。でも、ちーちゃんが伝統を継ぐかもしれないってことで、今は彼女に」

 脈々と受け継がれている。バトンは渡っているのだ。

「あ。そろそろまた動くみたいですよ。それじゃあ、また。ご挨拶できて良かったです」

 上品な笑顔を浮かべる藤堂さんに僕は会釈すると、大量の荷物を抱えながら移動した。

 やがてあっという間に帰りのバスの時間が迫り、三人と僕は帰途へ着く。はしゃぎ過ぎたのか、互いに寄りかかるようにして舟を漕いでいる三人を眺めていると、微笑ましい気持ちになった。

(こうしていると本当に、年頃の普通の女の子達なんだけどな)

 バスのライトと月灯りだけが行く先を照らしている。それはなんだか潜水艦みたいだった。深い水の底を通って、あるべき水底へと帰っていく。


 村に着くと、小鳥遊家で文乃さんと燈子さんが料理を準備しながら待っていてくれた。

「お祭りの頃には私達は手伝いとかで色々と忙しくなっちゃうから、いつもお盆前にホームパーティーを開くのが恒例になっているの。夏を満喫ってね」

 燈子さんが僕にそう説明してくれた。その日はバーベキューだった。といっても、学生時代によくやったような、安くて薄い肉をとにかく大量に買ってきてひたすらに焼いていく殺伐としたものではなく、塊肉をスモークしたりするような本格的なアメリカンスタイルだった。ハイソサイエティだ。

「あの、なにかお手伝いします」

「いいのよ、結人さんこそお疲れでしょ?あんなに荷物持たされちゃって。どうぞ休んでて。それに女同士、のんびりお喋りしながらやってるから、気にしないで」

 そう言われると無理に何かするのも野暮に思われた。何か手伝えそうなことがあれば、さり気なく動こう、そう思って自分を納得させた。

 少しして、さらに女性が一人小鳥遊邸の庭に顔を出した。

「あらあら」

 彼女は笑顔を湛えて、僕に近寄って来た。ボブカットにサマーカーディガンの爽やかなオフィスカジュアルスタイル。

「はじめまして。琴音の母のすみれです。月城さんですよね?」

「はい、ご挨拶が遅れましてしまってすみません、月城結人と申します」

「そんなそんな、こちらこそ。普段は村の役場で窓口なんかもやったりしてるので、そっちでまたお会いする機会もあるかもですね。あ、わたし、着替えて来ちゃうので、また後でゆっくりお話させてください」

 今日は一日で色んな人物と出会う。目が回りそうだ。燈子さんに会った際には菖蒲を連想したが、彼女は朝顔のようだった。アスリートみたいなサバサバした人が出てくるかと思っていたら、琴音さんとは一見対照的な、ややおっとりとして柔らかい印象の女性だった。村の役場に勤めているとのことだったが、こんな女性が窓口対応をしてくれたら、多少面倒な事務手続きも我慢強く進められそうな気がした。

 彼女ら三人の母達はとても仲が良さそうに見えた。燈子さんの話から三人はともに孤児のようだったから、ここにも特別な絆があるのだろう。僕らがそんな風に準備を進めている間、少女ら三人は中で着替えているようだった。時々燈子さんが様子を見に行っていて、三人が庭に出てきた時、彼女らは艶やかな浴衣姿だった。なるほど、祭りの日に巫女装束で手伝いをするとすれば、その分、今日のような日に着る機会を設けようということかもしれない。

 千種の浴衣は、淡い藤色の生地に大きな牡丹が咲き、蝶が舞っていた。薄い黄緑色の帯が夏の爽やかさを演出している。そういえば、紗季も蝶のモチーフが好きだった。遠野さんの浴衣はこれも彼女によく似合っていた。紺色の生地に白い朝顔と流水のような模様が入っていて、涼し気だ。情熱的な赤い帯がコントラストを成していた。若菜の浴衣は明るい黄色に、ピンクと白の細かな花びらが儚さをも演出している。帯は鮮やかな青で、一筋縄ではいかない彼女らしい組み合わせだった。彼女らはいつだって絵になる。互いの浴衣姿を褒め合っているのが微笑ましかった。

 その後の食事はつつがなく進んだ。村にいると野菜には不自由しなかったが、タンパク質はついつい豆腐など植物性のもので済ませがちだ。僕は肉に飢えていた。それから僕らはそれぞれの仕事の話や、僕の学生時代の話、少女らの幼い頃の話などに花を咲かせた。燈子さんは服飾デザイナーとして活躍し、文乃さんは特任講師として大学で教鞭をとる以外に、書評を執筆するなどの文筆業にも従事しているということだった。時間は過ぎていき、途中からは僕は洗い物を買って出た。正直、女性陣の中で男一人というは気後れしたし、招待を受けた身とはいえ親密な彼女らの中に混じっているのは落ち着かない気持ちにもなった。皿を洗っている時間、僕は穏やかな気持ちでいられた。もちろん、彼女らから、あからさまに僕を気遣っているような態度は感じられず、あくまでも自然に見えた。でも、僕はそういった感情の機微に対して疎いかもしれなかった。だから、自分の感覚を信用していない。気を遣っていないわけはないのだ。だが彼女らの母親世代は先代の巫女だ。僕はその威厳のようなものを薄っすらと感じ取っていた。ちょっとやそっとのことでは、動じないのかもしれない。

 僕が洗い物を一通り終えて庭に出て行った時、水の入ったバケツが目についた。花火の時間というわけだ。案の定というか、若菜は両手に花火を持って回ったり駆けたりしていた。闇の中に描かれる光の残像と火花が、彼女の屈託のない笑顔といっしょになって、庭を彩っていた。

「危ないわよ~。もう、なんでうちの娘はああなのかしら。少しは二人を見習ってほしいわ」

「若菜ちゃん見てると元気になるわ」

「文乃ちゃんの娘さんらしいし、わたしは若菜ちゃんのああいうところ、大好きだけど」

 三人は庭のテーブルの上で酒類を手に、愛娘たちを見守っていた。平和な光景だった。そうして僕も同じようにぼんやりと庭を眺めていると、端の方で千種と琴音さんが線香花火を始めているのが見えた。二人は身を寄せ合うようにして、その儚く美しい光を見つめていた。淡い光が二人の端整な顔を照らしている。二人で何かを話しながら、やがて遠野さんの肩が震え始めた。そんな彼女を千種が抱きしめる。微かに、琴音の嗚咽が聴こえてきた。涙ながらに、互いに大切な何かを、打ち明け合っているようだった。会話の内容は気になるが、彼女たちの繊細で美しい世界に水を差すわけにはいかない。そこにゆっくりと若菜が歩み寄り、振り返った二人の顔は、もう既に笑顔だった。むしろ若菜の方が、いくらか憂いを帯びた笑みを浮かべていた。若菜に向かって二人が飛び込むように抱きつく。そうして三人、笑い合う。今日のこの日の記憶は、この先何年か経っても、夏の日の残光の様に僕の中に残り続ける、そんな気がした。

「わたしたちも、あんな風だったのかしら」

 隣のテーブルから、燈子さんの声が聴こえた。

「さあ、もう覚えてないわ」

 文乃さんが答える。

「文乃ちゃんは、武闘派だったもんねぇ」

「武闘派って……」

 燈子さんの言葉に複雑な表情を浮かべる文乃さんはしかし、また若菜達の方に視線を戻すと、どこかを遠くを見つめるような、そんな眼差しをしていた。

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