若菜Ⅱ

(『無責任じゃないですか?』)

 遠野さんの強い言葉と表情が甦る。僕はその日も水風呂に身を浸しながら、分かりやすく自己嫌悪に陥っていた。

(善意はエゴの隣人……自分のことじゃないか)

 僕は善意で千種を励ましてきたつもりだった。千種が笑ってくれて、それできっといい気になっていたんだ。でもよく考えれば、遠野さんの言う通り、僕は村のことも彼女らのこともまだ断片的にしか知らない。遠野さんの言い分をもっと聞くべきだったし、彼女の感情にももっと配慮すべきだった。自分の善意や、感情移入していた千種の葛藤を否定されたような気がして、つい感情的になってしまった。相手は十八の女の子だぞ。何をムキになっているんだ。あのくらいの糾弾、今までだって散々――

 そこまで考えて、僕は溢れそうになった感情を、鼻まで水風呂に浸けて何とか鎮めた。僕は学生時代に傷つけてしまった女性達のことを思い出していた。彼女らの友人や有象無象が僕を一方的に糾弾する。僕に返すべき言葉なんてあるはずもない。でも本人や親しい友人から糾弾されるならまだしも、なぜ君たちにそんなことを言われないといけないんだ。そんな思いが、心の片隅にあった。そのことがまた僕の自己嫌悪を深めた。僕は結局、何も成長していないのかもしれない。

(なにが想像力だ……)

 そうするうち、僕は紗季のことを思い出した。彼女は我慢強く包容力があった。知らず知らずのうちに、言葉足らずで傷つけたり、呆れさせたりしていただろうと思う。僕はもっと彼女を幸せにするべきだったのに。そうすると今度は鼻の奥がツンとして、また顔を水に浸けた。何かの苦行みたいだ。でも苦行だとすれば、似つかわしい。僕はつい後ろ向きになりそうな自分の心に鞭を打った。今の僕には向き合うべき現実がある。幸いなことに。そして僕は選ばなければならないのかもしれない。慎重な姿勢はそのままに、あくまで傍観者として距離をおいて彼女らを眺めるのか、より伝統や彼女らのことを深く理解し、踏み込んでいくのか。

(和夫さんにも、相談すべきだ)

 結局和夫さんに聞いたところでは、少女たちのことについては定まった会議体などはなく、適宜和夫さんや稲葉さんら社の人達の間で話がされているのみとのことだった。だから、週に二回程度を目安に僕と和夫さんは彼の家で状況を報告し合うことになっていた。

(でも結局それも、僕次第と言われるかもな)

 答えなどない。ここからは、人間と人間の問題なのだ。踏み込んでいくのなら相応のリスクが伴う。そこも含めて、僕に背負う覚悟があるかどうか、そういう問題なのかもしれない。

(『それは僕よりずっと彼女を理解している遠野さんから千種さんに伝えてあげるべきことだ』)

 あの言い方はなかった。遠回しに遠野さんの千種への想いを軽んじているみたいじゃないか。それに……責任転嫁だ。

 僕が自分の頭を浴室のタイルの壁に打ち付けると鈍い音が浴室に反響した。遠野さんの苦しそうな表情が思い出される。僕は彼女にも、あんな表情をして欲しくなかった。今回は僕がそうさせたところもある。だから、まずはそのことを彼女に謝るべきだ。そして、彼女にそうさせているより根本的な何かを解決するために出来ることがあるなら、なんだってしたい。これは何かの下心あってのことだろうか?いや、違うはずだ。僕はもう一度己の善意を信じて動くべきだ。罪の意識を感じればこそ、何度でも。僕は過干渉な主人公が嫌いだ。むやみやたらと自己犠牲をして、周囲に心配をかけ、しばしば操作的な、そんな主人公が嫌いだ。でもそうしないことで中途半端な事態になるのなら、嫌いな主人公像の汚名を被るリスクを負いつつ、前に踏み出すべきだ。己に酔うな。俯瞰して悟れ。間違ったら省みろ。そして前に進め。

「……」

 僕は大きく深呼吸した。勢いあまって鼻から冷水を吸い込んでしまい、鼻の奥がツンと痛くなる。そしてむせた。格好がつかないものだ。


 僕は雑貨屋で簡単な椅子を買って、その後も毎日素振りをしながら、彼女に謝る機会を伺った。しかしそもそも琴音を見かけなくなってしまった。時間をずらしても現れず、そもそもコースを変えてしまったのかもしれなかった。つまり、避けられている。彼女の性格なら、あるいは頑として自分のルーティーンを崩さないかとも思われたが、そこは歳相応に繊細なのだろう。僕は何も分かっていない。そうして数日経った日の朝、僕はバス停のベンチに座って項垂れていた。彼女に会おうにもどうすればいいか見当がつかない。もしかすると街に出ることがあるかもしれない。そんな仄かな期待と、そしてまた自分の心を落ち着けるため、この村での出発点となった場所で日の光に焼かれていた。端に寄れば多少日陰はあったが、僕は敢えてそうしなかった。

「そこ、ボクの場所なんですケド」

 声のした方を見上げると、若菜がいかにも不満げな顔をして立っていた。彼女はいつも僕が行き詰っている時に姿を現す。彼女が日陰のある端にストンと腰を下ろしたので、僕は少し距離を離した。

「わかりやすくまぁ落ち込んじゃって……なんかあったの?」

 彼女が踏み込んでくる。でも不快じゃない。それはすごいスキルだ。

「遠野さんと、ちょっとね。酷いことを言ってしまったから、謝りたくて……でも避けられてるのか中々会えなくて」

「あらら……で?なんて言ったのさ」

 僕は記憶を辿る。どう説明したものだろうか。

「なんて言えばいいかな、端的に言うと……僕のやり方に文句があるなら自分で千種さんに思ってることを言ってあげなよ、みたいな?」

 改めて考えると随分酷いことを言っている。僕はなお一層、自己嫌悪に陥った。

「ふむ……ま、細かいことは分かんないけどさ、琴音も結構キツイ言い方したんでしょ?」

 耳を疑った。その時、てっきり責められるものとばかり思っていた僕は、かなり驚いた顔をして彼女を見ていたと思う。

「無責任じゃないかって言われて、それで僕も感情的になってしまったんだ。でも僕は年長者だ。彼女の気持ちにもっと配慮すべきだったし――」

「あー、もう!大人とか関係ないじゃん!反省してるんでしょ?それ以上自分のこと責めてどうすんのさ?」

 若菜はどうしてこうも成熟しているのだろう。彼女はこんな僕の感情に寄り添ってくれている。同年代でもここまで成熟した女性に会ったことがあるだろうか。僕は眩暈がした。

「ありがとう」

「ぜんぜん『ありがとう』って顔じゃない。もう、ちょっと待ってて!」

 そう言うと、彼女はどこかに駆けて行った。そういえばバスが来るとすればそろそろのはずだが、その気配がない。ここのバスは予約制だから、僕は予約していないにせよ、若菜は予約していたわけではなかったのだろうか?しばらくすると、若菜が戻ってきた。手にはアイスが握られていた。封を切ると、二本の棒が刺さったアイスキャンディーを中央で半分に割り、片方を僕の方に差し出した。最近は見かけなくなったが、こういうタイプのアイスが昔はあった気がする。

「はい」

 彼女は珍しく照れくさそうな顔をしていた。

「どうも」

 僕はそれを素直に受け取った。深い緑の藻のような色をしたアイスだった。最初メロンソーダかと思ったが、それにしては色が濃い。抹茶?

「こないだのジュースのお礼。それ食べて、ちょっとは元気出してよ」

 再び隣に腰を下ろした若菜はそう言うとすぐに正面を向いてアイスを舐め始めた。僕はそんな彼女の気遣いに癒されている自分に気づいた。そして僕もそのアイスに口をつける。甘く爽やかな味の奥から独特のエグみが遅れてやってきた。

「……これ、何味?」

 若菜がこちらを一瞥し、アイスを頬張ったまま答える。

「ぐいーんふむーずぃー」

 グリーンスムージー?馴染みのないフレーバーだが、健康志向の高まりの影響なのだろうか。しかし確かに、そう言われるとその味はそうとしか表現できなかった。彼女は一度口からアイスを出すと、続けた。

「罰ゲームでよく食べるんだよ。今の結人さんにはちょうどいいでしょ?慣れると美味しいよ」

 彼女の表情を見る限り、美味しいという感じの横顔ではなかった。しかし、美味しくないとすれば、若菜は僕につきあって一緒に苦行を負ってくれているということになる。

「若菜ちゃん」

「んー?」

「ありがとう」

 二秒ほど横目に僕の顔を見つめていた若菜が微笑む。

「その笑顔は合格」

 合格点を貰えた。そしてアイスの方も、なるほど慣れてくるとじわじわと美味しく感じた。些か味わいが本格的に過ぎるのと、口の中に繊維が残るのが気になったが、体には良さそうだ。

「そういえば、バスを予約してたわけじゃないの?来ないみたいだけど」

 僕は気になっていたことを訊いてみた。

「言ったでしょ。ここ、ボクの場所だって。ボクもなんとなーくモヤモヤした時、たまにここに来るんだよ」

 確かにバスの停留所というのは、思索にふけるには象徴的でいい場所なのかもしれない。この村のように利用者が少ないのであれば、邪魔にもなりにくいだろう。

「さて、さっきの笑顔に免じて、カワイイ若菜ちゃんが一肌脱いであげますかね」

 アイスを食べ終えた彼女が、いつものニヤニヤした顔でこちらを見ながら言った。

「はい、スマホ出して」

 僕はわけも分からぬまま、ロックを解除して彼女に端末を見せた。

「SNSなにやってる?あ、いいの入ってるじゃん」

 僕は言われた通り、SNSを開いた。彼女は僕の端末を操作すると自分のスマートフォンのカメラで僕の友人登録用のQRコードを読ませているようだった。

「ほい、これで連絡取れるようになったね」

 見ると、『wakana*』というアカウントからお辞儀をしているピンク色のカエルのスタンプが送られてきていた。

「可愛いスタンプだね」

「いいでしょ、それ。好きなんだ、ザ・キャビンカンパニー」

 このキャラクターをデザインしたアーティストの名前だろうか。確かに、そのデザインからは若菜と同様に瑞々しい活力が溢れていた。

「いいね」

 僕も気に入った。今度調べてみよう。お返しにハンバーガーチェーンが配信していたオニオンリングのフライのスタンプを返しておいた。オニオンリングがその形状や衣の厚さだけで様々なニュアンスを表現していて、味がある。

「そのうち連絡するね。たぶん、次の金曜くらいになるから、空けといて……ってなにこれ?」

「ん?」

「いや、スタンプ」

「かわいいでしょ?」

 若菜はちょっと引いた顔をしていた。

「金曜日に、何かあるの?」

 話が進まなくなる前に僕は訊いた。

「まぁまぁ、いいからいいから」

 彼女なりの思惑があるのだろう。僕はひとまず流れに身を委ねることにした。

 

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