琴音

 夕方、志保さんとの会話を振り返りながらいつものように素振りをしていると、また視界の端に遠野さんが現れた。あれから何度か同じようにランニング中の彼女と素振り中の僕は遭遇していた。といっても、たまに目が合うと互いに軽く会釈をし合う程度だ。やがてそれも気まずくて目を合わせないように意識するようになる。よくある距離感だ。しかしその日は違った。彼女は僕のアパートの正面に差し掛かる少し前からスピードを落としはじめ、やがて歩みを止めると息を整えながらしばし俯いていた。そしておもむろに僕の方に向かって歩いていた。僕は何事かと思って、歩み寄ってくる遠野さんを呆然と見つめた。

「こんにちは、月城さん」

 彼女は笑顔だったが、そこには緊張感があった。

「こんにちは、遠野さん。今日も精が出るね」

 彼女に当てられて僕も表情が硬くなりそうになるのをなんとか抑え、なるべく気さくな『おにぃさん』を演じた。

「月城さんこそ、毎日ですか?すごいですね、元々されてたんですか?剣道」

 遠野さんの瞬きが多い。

「部活動でね。やめて久しかったけど、素振りをすると落ち着くから、なるべくは。遠野さんは、運動部なの?」

 恐らく彼女は水泳部だと思うが、知っているのを不審に思われるのもまずいので、知らない風を装った。そろそろ本人の口から真相を聞きたかった。

「はい、水泳やってて。走るのも嫌いじゃないですし……でもやっぱり私も泳ぐのが一番落ち着くんですけどね」

 彼女はそう言ってぎこちなく笑った。

「そうなんだね」

「……」

 僕らの周りを目に見えないコーギーがぐるぐると駆け回っていた。僕と遠野さんはともにそのコーギーに気を取られていた。

「今日は、なにかあった?」

 僕はそのコーギーを追い払いながら彼女に尋ねてみた。遠野さんの目が泳ぐ。

「いえ、時々目が合うのに、きちんとお話できてなかったなぁと思って」

 彼女は取り繕うように笑う。

「そうだよね、こっちこそごめんね、なんか、気を遣わせたみたいで……座る?」

 僕は申し訳程度に段になったコンクリートや錆びついた階段のステップに目をやった。

「い、いえ!ここで大丈夫です」

 却下された。無理もない。今度ちゃんとした椅子でも用意しておこうか。

「若菜や千種とも、よくお話されるんですよね?」

 彼女たちから僕の話を聞いたのだろうか。千種はともかく若菜からどう伝わっているかは些か不安だ。

「よくっていうか、まだほんの一、二回だけどね。何か言ってた?」

 逸らされがちだった彼女の目が僕を捉える。多分その話がしたかったのだろう。

「イイヒトだって。まぁ、若菜は面白がってるだけかもですけど……って失礼ですよね、ごめんなさい」

 僕はつい笑ってしまった。

「いや、いいよ。なんとなく分かるから。ネタにでもしてもらえるだけ、ありがたいよ」

「二人ともかわいいですよね」

 生ぬるい風が僕らの間を流れた。

「そうだね、この村で僕が出会った人はみんな魅力的だと思ったよ。二人も例外なくね」

 僕は言葉を選んだ。「三人」と言おうか迷ったが、敢えて彼女の文脈に合わせた。

「千種なんかおっとりしてて、巨乳だし、押しに弱そうで、男の人ってああいうタイプ好きですよねー」

 違和感があった。僕に対して友人をそんな風に表現するだろうか。宴会の夜の保護的な立ち振る舞いや千種から聞いていた彼女のイメージと矛盾する。

「確かにちょっと危なっかしいところはあると思ったよ。だからこそ、彼女には自信をつけて欲しいんだけどね。余計なお世話だとは分かってるんだけど」

「だから、奉習を勧めたんですか?」

 そう告げる彼女の目からは強い感情が感じ取れた。

「勧めてはいないよ。僕はそもそもまだこの村の習俗のことをよく知らないからね。ただ、千種さんが迷っているなら、その迷いには意味があるはずだ、とは伝えたよ」

 遠野さんが拳を握りしめるのがわかった。ぎりぎりと音が聴こえて来そうだった。

「無責任じゃないですか?」

 重い言葉だ。こんな風に誰かに責められるのはいつぶりだろう。僕は動揺を見せないように意識しながら、何と返すべきか慎重に考えを巡らせた。

「どうしてそう思うの?」

 遠野さんが短く息を吸い込む。

「だって、千種のこと何も知らないのに、どうしてそんなこと言えるんですか?」

 僕の頭の中で何者かが脳みそをじゃりじゃりと砂に擦りつけていた。口の中に削られた脳みその苦い汁の味が広がる。

「僕はなにも強いていないし、誘導してもいない。そのつもりだ。もしも責任というのであれば、僕の言葉による報いは自ずと受けることになる。いま、君から受けている糾弾もそのひとつかもしれない。だから、もし僕の言葉が間違っていたと思うなら……彼女の迷いに意味がないと思うなら、それは僕よりずっと彼女を理解している遠野さんから千種さんに伝えてあげるべきことだ」

 彼女は何かを言いかけて、しかし噛まれた唇によってその言葉は押し止められた様だった。

「別に、そういうわけじゃ……」

 少し、言い過ぎただろうか。

「でも、じゃあなんで、そんなに千種のこと気にかけるんですか」

 論点が変わった。

「それは、和夫さんに頼まれているからね」

 それ以上の言葉は、かえって彼女を刺激するだけだろうと思われた。

「それがそもそもおかしいのよ……」

 彼女は半ば独り言のように零す。

「やさしくすれば、ワンチャンなびいて、美味しい思いできるかもって、思ってるんじゃないですか?」

 僕は間髪入れずに返した。

「それは違う。そんな風に考えたことはないよ」

 彼女の乾いた眼が僕を捉える。宴会の夜に千種を眼差していた瞳との落差を感じて、人はこんなにも相手によって目の色を変えられるものなのかと愕然とした。

「でも、千種のこと褒めたって聞きましたよ。魅力的だって。可愛いって思ってるんですよね?」

「それは、客観的に見ての話だよ。さっきも言った通り、彼女には自信を――」

「そんなの嘘。みんなそう。最初はやさしくして、そうやって油断させて、でもいつか豹変するに決まってる」

 僕は寒気がした。彼女は傷ついているんだ。それだけは分かった。僕を責める言葉の奥に、彼女の悲痛な叫びのようなものを感じた。でも何に?残念だが今の僕らの関係性では、とてもそんなことは訊けない。

「千種に変な事したら、絶対に許しませんから」

 低く響く声でそう言うと、彼女は走り去っていった。僕は間違っていたのだろうか。主人公気取りだったろうか。嫌な記憶が蘇り、僕はその場に立ちすくんだまま、しばらく身動きができなかった。

 

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