志保

 次の朝目が覚めると、僕は全身にじっとりを汗をかいていた。夏場なのである程度は仕方ないが、それにしてもその日は異常だった。覚えていないが、なにか嫌な夢を見たのかもしれない。ベーコンエッグとトーストの簡単な朝食をとり、洗濯を終えた紺のデニムと水色のシャツにアイロンをかけた。アイロンをかけて心を落ち着けるのは、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公だったろうか。確かにアイロンをかけるというのは心が落ち着く。働いている時は億劫でしかなく、そもそも紗季に甘えていたが。午前中は部屋を簡単に掃除をしたり、手持ちの本を読み返したりして過ごした。その日は村の古書店で見つけたドストエフスキーの『悪霊』を読んだ。やがて時計の針が十二に差し掛かろうとしたところで、僕はアイロンをかけた服を着て袖をロールアップすると、診療所へと向かった。かねてから名前を聞いていた女医の志保さんと話がしたかった。予約も何もしていなかったが、とりあえずは足を運ぶことにした。そもそも診療所の位置を把握していないので、一度訪れてみたかったということもある。話によれば、この村に降り立ったバス停のすぐ近くということだったが、当時は全く気がつかなかった。


 山道を上り、バス停に近くまで着くと僕は周囲を見渡したが、やはり何もない。

(ひょっとして……)

 あの時、バスがUターンしていった待機所の方向に向かって歩いてみた。そしてやはり、それはそこにあった。バス停の北西側の斜面の下に、待機所と向かい合う広い空間にゆったりとその診療所は建っていた。昔はもっと村の北東の山深くにあったらしいが、二年ほど前、つまり志保さんが赴任してきた頃にここに新設されたらしい。まだまだ新しいその診療所は、村近くで採れたものと思しき石材や木材をふんだんに用いたモダンなもので、ちょっとしたカフェのようにも見えた。実際、カフェスペースが併設されていて、村の老若男女がしている姿がガラス越しに見えた。

(それも狙いの一つなのかもしれないな。交流の場としては合理的だ)

 斜面を下り、診療所に入ると、案の定というか視線を感じた。今は僕も和夫さんのお墨付きがある。動じることはない。午後の診療まではまだ時間があったので、カフェでアイスコーヒーを注文して、適当な席に腰を下ろした。千種達よりも少し年下と思しき学生らが、僕の方を時々見ながら、何かを話していた。あのくらいの年齢は遠慮がない。コーヒーは美味しかった。浅煎りの甘く爽やかな酸味が心地いい。そして安い。言うことなしだ。

「あの……」

 気づくと若い白衣の女性が僕の前に立っていた。

「もしかして、月城結人さんですか?」

 実は僕はこの展開を少し期待していた。キーマンを捕まえるのには手段を選んではいられない。彼女は髪をアップにまとめ、ボタンダウンの紺のブラウスに黒のパンツというスタイルをベルトでアクセントをつけて纏めていた。

「あ、はい、そうです」

 僕は驚いたような雰囲気を出しつつ返事をした。

「はじめまして、医師の英志保(はなぶさしほ)といいます。今少し、お時間大丈夫ですか?」

「はい、もちろん。英さんこそ、いいんですか?ご休憩の時間かと思いましたが」

 僕は自分の白々しさに自嘲的な気分になりつつ、若干の罪悪感を覚えた。

「大丈夫です、どうせいつもここでぼんやり過ごしているだけなので」

 おかしな話だが、彼女は僕が村で出会ってきた人物の中では、ある種一番「リアル」だった。何がそう感じさせるのだろう。他人との距離感のようなものだろうか。ソトから来て比較的浅いという点と、世代的な近さがそう感じさせるのかもしれない。彼女からは、初対面の年上の人物に会った際の演出された脆弱性のようなものが感じられた。

「白木村長さんからあなたのことは伺っていて、歳が近いだろうから機会があれば一度話してみると良いって、言われてたんです。ご迷惑じゃなかったですか?」

「とんでもないです、僕としても一度ご挨拶できればと思っていたので。実はお見掛けできるんじゃないかって、ここで様子を伺っていたところもあります。ああ、そういえば長らく健康診断を受けてないから、それを口実にすれば良かったな」

「ダメですよ。何をするにしても体が資本なんですから。年齢的にもそろそろ気をつけていただかないと」

「はい。今度予約させていただきます」

 僕はたしなめられたことに素直に応じつつ、本題に移った。

「それで、あの……守秘義務の関係で話せることには限りがあることを承知でお伺いするんですが――」

 僕は言葉を切ると、彼女の目を見据えながら続けた。

「奉習やお神乳について、お訊きしたいことがあるんです」

 そう言うと、目の前にはより濃密に医師としての仮面を被った彼女の表情があった。

「場所を、変えましょうか」

 彼女に促されて席を立ち、彼女の背について行くようにして診療所の中を歩く。ブラインドの隙間から日が差す白い廊下を、一定のリズムでスタスタと鳴る志保さんのスリッパの音が僕を導く。そうしてカウンセリングルームに通された。

「どうぞ、お座りになってください」

 事務的な笑顔で彼女が僕に席を勧めてくれた。

「それで、どのような点が気になっているんですか?」

 僕は呼吸を意識して気持ちを落ち着け、早口にならないように話し始めた。

「お伺いしたいことは二点あって、実は昨日、千種さんの紹介で奉習に参加させていただいたんです。あ、英さんなら、ご存じですよね」

 彼女の怜悧な睫毛が照明を反射して光を放っていた。

「はい、千種さんからそのようにご希望をいただいて、医師として承認しました」

「その際に、初めてお神乳を口にしたんですが、幻覚のようなものを見たんです」

 志保さんの表情に緊張が走ったのが分かった。

「そういった症例というのは、これまであるものなのでしょうか」

 彼女は記憶を漁りつつ、考えているようだった。

「いえ、そのような症例は聞いたことがありませんが、興味深いです。お神乳については分からないことも多いので。それについては後ほど改めて問診票を書いていただいて、きちんと診断を行いたいんですが、今はもう大丈夫ですか?」

 彼女は医師として僕を案じてくれているようだ。

「はい、今は何ともありません。その時も、ほんの数秒、妙にリアルなビジョンを見ただけだったんですが」

「ちなみに、どういった内容でしたか?」

 僕は少し言い淀んでしまった。だが相手は医師だ。

「性的な内容でした。それは、もうひとつの相談にも関連するんですが」

「ちなみに、月城さんは統合失調症などの精神疾患の既往歴は?」

 思わぬ質問に僕はドキリとしてしまった。

「……二十段前半の頃に、適応障害の診断を受けたことはあります」

 志保さんの変わらぬプロフェッショナルな眼差しは僕を安心させてくれた。

「詳しく診断してみないとなんともですが、レビー小体型認知症による幻覚症状に似ているかもしれません。これはドーパミンの異常放出が原因となって引き起こされるんですが、お神乳を摂取した際に強い幸福感を得られるといった報告は受けているので、関連があるかもしれません。もしかすると受診による報告がないだけで、これまでも他の方で幻覚を見ていたケースはあるのかもしれませんね」

 僕は千種が言っていたお爺さんの話を思い出していた。

「結人さんの場合は、そこにさらに精神状態が影響している可能性もあります。でも、そんなに重くとらえないでくださいね。しっかりサポートさせていただきますので」

「ありがとうございます」

 さすがだ。僕は感心しきりだった。だが、対等な友人関係を築けるかもしれないとどこかで期待していただけに、いきなりの過去の病歴の開示は、僕の頭の片隅に小さな染みを作っていた。

「あと、もう一つというのは?」

 志保さんが椅子を引いて姿勢を正した。

「はじめて参加してみて、なんというか、僕が心配していたような微妙なことは何もなかったんですが……今後も千種さんの身の安全の面で問題がないものなのか、少し気になったんです。変な幻覚のせいで、過敏になっているのかもしれませんが」

 志保さんは僕の要領を得ない話を我慢強く聞いてくれていた。

「なるほど」

 志保さんはテーブルの上に重ねた手を微かに動かした。

「ご心配されていることは、なんとなく分かりました。白木村長さんのご紹介でもありますし、あなたが何とも言えないお立場であることも鑑みて、守秘義務に触れない範囲でどういう風に奉習の内容が決められるのか、ざっくりしたフローをお伝えしようと思いますが、それでいいですか?」

 彼女は医師としての領分をわきまえた上で、かといって事務的でもない、こんな僕にも配慮した対応を心がけてくれている。門前払いされたって、こちらとしては文句は言えないのだ。

「はい、是非お願いします」

 志保さんは小さく頷くと、語り始めた。

「まず、当たり前のことですが、奉習の内容の最終的な決定権は千種さん自身にあります。その上で、私は医師として、彼女のフィジカルとメンタル両面でのサポートをします。現場でのアフターケア含めた対応の部分は、内侍の巫女のお二人にもご協力いただいています」

 同意書にサインした際にも感じたが、想像以上に構造化されていることに改めて感嘆した。

「奉習の具体的内容は、あらかじめこちらで用意したチェックリストを元に決めています。ただその際は、彼女の年齢も考慮して、全てを彼女自身に決めさせるというよりは、ある程度こちらからの提案もさせていただいています」

 真摯な目だった。僕もそれに合わせ、彼女をまっすぐに見つめながら、言葉に耳を傾けた。

「最初のうちは奉習ごとに毎回、慣れてきたら数回に一回のペースで、彼女の状態を確認するためのカウンセリングも設定しています。ここまでで何かご質問はありますか?」

 僕は今までの内容を軽く頭で振り返ってから、返事をした。

「いえ、大丈夫だと思います。思っていた以上にシステム化されていて、驚きはしましたが」

 彼女の表情が少しだけ緩む。

「このあたりは白木村長さんのご手腕によるところが大きいですね」

 そして志保さんを包む空気が少し変わった。

「ここからは私の個人的な見方によるお話になりますけど、あなたが心配されているように、奉習、延いてはその先の巫女のお勤めには歴史的に見るとやや危ういところもあります……ハードリミットやソフトリミットといった概念はご存じですか?」

 ソフトウェア制御に関する概念しかぱっと出てこなかったが、恐らく文脈的にはもっと別のことだろう。

「いいえ」

 志保さんは僕が知らないことを予想していたのだろう。流れるように続きを語った。

「ハードリミットは絶対に受け入れられない行為、ソフトリミットは通常は避けられるが、状況や条件次第では検討する行為、ということです。それをチェックリストで決めてるんです」

 僕は緊張をほぐすために、また少し呼吸を意識した。つまりはそういった概念の導入が必要なほど、繊細な問題だということだ。

「その他にもセーフワードというものを設定する場合もあります。レッドワードとイエローワードというものがあって、前者は行為の即時中止、後者は一時停止や注意喚起を行う際に用いられるワードとして、参加者間で誤解なく認識できるものを予め設定しておくんです」

 知らない事ばかりだった。そして『設定する場合もある』ということは、今の千種の場合には設定されていないと考えてよいのだろう。

「正直、現状の千種さんにはセーフワードの導入までは必要ないとは思います。ただ、備えておくに越したことないので」

 僕はやや安堵した。

「ご説明いただき、ありがとうございました。僕が言うのもおかしな話かもしれませんが、安心しました」

 それから僕は少し提案をしてみることにした。

「あの、質問はないんですが、もし差し支えなければ、もう少しフランクにお話しいただいてもいいですからね。この村においては同世代みたいなものですし。お立場もあると思いますので、もちろん、そこはお任せしますが」

 僕がそう告げると彼女は拳を口元に当て、わずかな時間、逡巡した様子だったが、やがてこちらを見た。

「そう、ですね。今後も何か彼女たちのことで私からも相談させていただくこともあるかもしれませんし、お言葉に甘えて――」

 そこで言葉を切ると、目を瞑り、小さく息を吐いた。そして机の上で手の平を組みながら等身大の笑みを浮かべた。

「よかった、あなたがフツウの人で」

 普通というのは最も難しい。彼女にとっての普通のというのはなんだろうか。

「普通じゃない人が、多いんですか?」

 とりあえず僕は尋ねてみた。

「正直に言うと、あなたがソトから来た人だって聞いて、ちょっと警戒してたんです。もちろん、白木村長さんが認められた方だってところで、大丈夫だろうとは思ってたんですけどね。職業病なのか、やっぱり自分の目で見てみないと確信が持てなくて」

 僕は頷きながら、視線で彼女に続きを促した。

「二パターンあると思ってたんです。私の話を聞いて、すごく拒絶反応を示すか、あるいは変に好奇心を出してくるか」

 確かにそういう懸念はなんとなく分かる気がした。

「あ、あともう一つありましたね。なんだかすごく失礼な反応をするパターン。たとえば、え、そんなの大げさじゃないですか、みたいな?」

 徐々に彼女の言葉が砕け、本来の気さくな一面が顔を見せ始めたので、僕もリラックスすることができた。なんだか学生の頃に戻ったみたいだった。

「確かに、そういうのはありそうですね。僕はむしろ、感心しましたけど」

 彼女はいつしか前のめりになっていた体を戻し、椅子の背にやや持たれると、小さく嘆息した。

「そう、だからフツウの人でよかったって思ったんです。私たち医療の世界も、妙に古臭いところがあって、特に男の先生とかは女性蔑視的な考えの人とか多いんですよ。あ、これあくまで私の周りがそうってだけだし、ここだけの話ですよ?」

「はい」

 僕は志保さんの毒舌な物言いに、少し笑ってしまった。

「さっきお伝えしたセーフワードの概念とかも、結構自分で勉強したんですよ。ていうか、今も正に勉強中です。情報が得にくくて。あまり大きい声じゃ言えないんですけど、どういう界隈で用いられてる概念か、わかります?」

 それについてはおおよそ察しがついていた。

「恐らくは、セックスワーカーの間で用いられているような概念なのかな、と思って聞いてはいました。衝撃はありましたが、でも必要なことだと、確かに僕もそう思います。タブー視されがちですが、それ故にスティグマ化を許してしまう。だからこそ、あなたのような医療従事者の方が患者の健康や安全を第一に考え、脱領域的なアプローチをしてくださっているというのは、心強く感じます」

「そう!」

 志保さんは身を乗り出していた。

「ごめんなさい、でも本当に、ちょっと感動しちゃって」

 彼女も色々と苦労しているのだろう。

「変な話、医師の先生の中にはパパ活とかして逆にこの辺の概念に詳しい人もいそうだったんですけど、絶対にその人達からは教わりたくないと思って。や、好きにすればいいと思うんですよ?再分配だーみたいな理屈も分からなくはないし、需要と供給がマッチしてるならご自由に、とも思う。でも、女性の体への配慮に欠けてる人が多い実態も、医師として私は見てきたから。男性医師のパパ活なんて、なまじ知識がある分、それを悪用されることだってあるし……」

「女好きの半分はミソジニー、みたいな話もありますしね。確かに知人にもそういう人はいました。女性を求めながら、同時に酷く蔑んでいるような……同性としても全く理解できませんでしたが」

 その彼はモテるらしく、女性を夢中にさせておいて別れを告げる際に自分をすがるのが溜まらなく興奮するのだと言っていた。当時は屑だと思っていたが、今考えると憐れみを覚える。何が彼にそうさせるのだろうか。

「本当に、嫌になっちゃう……あ、ごめんなさい、私そろそろ次が」

 気づけば話し始めてから随分時間が経っていた。

「こちらこそすみません、せっかくのお休みの時間だったのに」

「ぜんぜん!むしろ話せて私の方がすごくスッキリしました。よかったらまた今度、ゆっくりお話させてください。ひとまずは健康診断、予約して帰ってくださいね。幻覚の件はその時にも改めて」

 その時の彼女の表情は、学友に向けるようなリラックスしたものに見えた。多少は信頼を得られただろうか。志保さんは受付まで僕を送ってくれ、そのままそこで別れた。

(僕は僕の仕事をしないとな……)

 僕は彼女の指示通り、健康診断の予約をして診療所を後にした。

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