村Ⅶ

 燈子さんと別れた後、僕はLEDライトで足元を確かめながら社へと向かった。今日は少し雲が出ていたから月明りに乏しく、山間部の夜の闇の深さが際立った。闇に響く虫たちの求愛の呼び声を聴いていると、ふわりと遊離感を覚えることがあったが、その度に僕は自分の呼吸を意識して足を前に踏み出し続けた。闇というものは人間の根源的な恐怖心を刺激する。そこに潜む何らか未知のもの、悪意、それらに対する想像がじわじわと精神を蝕む。しかし、この村の夜の闇は僕を魅了した。それは僕の心を鎮めてくれさえした。柔らかく、生温い闇。それでも闇は闇だ。気を許し過ぎれば、僕は畦道を踏み外して真っ逆さまだろう。闇は友人ではない。

 そんな風にして歩くうち、灯篭の灯りに浮かび上がった石の鳥居と階段が見えてくる。ここから先は神域だ。夏の夜の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、一段ずつ確かめるように歩を進めていく。心構えがある分、前回よりはマシだったが、やはり中盤に差し掛かる手前あたりだろうか、僕は一度腰を下ろして休んだ。見下ろすと、上ってきた軌跡を淡い光たちが指し示していた。僕はふと、故郷の夏の夜の光の祭典を思い出していた。燈花会と呼ばれるものがちょうどいま頃、八月の初旬からお盆の時期にかけて行われる。奈良公園を中心に、東大寺、春日大社、興福寺などの歴史遺産を囲むように、まち全体が蝋燭の灯りでライトアップされる。僕は中高生の頃、その灯火の中をいつか大切な人と手を繋いで歩むのだと憧れを募らせていた。だが紗季と結婚してからは、忙しさにかまけて結局そんな機会は訪れなかった。そもそも燈花会のこと自体、忘れていた。僕はまた感傷的になっている。感傷というのは贅沢品だ。学生の頃は分からなかったが、働くようになってから痛感した。もっとも、学生時代からバイトを詰め込んでいたようなタイプの友人たちからすれば、その頃から既に感傷などというものに浸る暇はなかったのかもしれない。あとは趣味趣向の問題もあるだろう。当時の僕はラヴェルやドビュッシーのような印象主義の鍵盤や弦によるソロを特に好んだが、ロマン派が好きな人もオーケストラが好きな人もいれば、そもそもクラシックなんて聴かない人だって大勢いる。そういうことだ。

「知らんけど」

 若菜を真似て口に出してみると、多少気が紛れた。独り言なら無責任だと責める人もいないだろう。千種にしろ、若菜にしろ、その影響力には感服する。

(巫女の血筋か……)

 そうだ、僕はいまから巫女としての千種に会いに行くのだ。遅くならないうちに続きを上らなければ。そうしてまた一段、一段と、足を動かす。闇の中では、相変わらず灯篭の灯りだけが囁き合うかのように揺らめいていた。虫の声に混じって、時々木々の向こうからガサガサと音が聞こえると、僕はつい身構えた。鹿か、猪か。そうして頂上に着くころには僕の精神はすっかりすり減らされていたが、そのせいか道中はあまり疲れを感じなかった。しかし最後の一段を上り切った途端、それは一気にやってきた。膝に手をついて体を支えながら、息を整える。一回、二回、何度も深呼吸して、ようやく前を向いた際には立ち眩みがした。と同時に光の道が現出する。社へと続く参道の両脇には和紙の筒で覆われた蝋燭が灯されていた。手水舎でお清めを済ませると、ひやりとした水の冷たさに身が引き締まる。正面に拝殿を捉えるようにして社を眺めると、その背景の雲と隙間から見える星空が、昼間とは異なる荘厳な雰囲気を醸していた。まるでここが、空に浮いているような錯覚に陥った。見ると、社務所の脇あたりに簡易的な受付のようなものが設置されていた。待ち構えていた神職の男性が頭を下げたので、僕も合わせて会釈した。

「こんばんは」

「夜分遅くに、ありがとうございます」

 壮年の男性の落ち着いた声が返ってくる。笑顔ではないが、かといってこちらを邪険にするような雰囲気もない。至って中立的な表情だった。僕は鞄から同意書を取り出すと、彼に手渡した。内容を検め、名簿と突き合わせる。

「月城結人さんですね。容器のようなものはご持参されていませんよね?」

「はい、持ってないですね」

 特にそういった説明は受けていなかったので、当然持っていなかった。

「では、こちらを」

 男性は小さな枡を僕に渡してくれた。容量的には三勺ほどだろうか。檜の良い香りがした。

「そちらを内侍の巫女にお渡しください」

「わかりました。あと僕は作法のようなものは全く把握できていないんですが、気をつけるようなことはあるでしょうか?」

「そこは他の皆さまと同じようにしていただければ大丈夫ですよ。月城さんの順番は最後ですし、見様見真似で。そんな堅苦しいものでもないので」

 彼は終始落ち着いた調子で、そのように説明してくれた。

「わかりました」

 会話の終わりを告げるように彼が会釈したのに合わせて僕も頭を下げると、以前は開放されていなかった扉を通じて、幣殿の奥へと進んでいった。

 木の階段を下り進んでいくと、最初に見えてきた部屋に十四人くらいの村民が既に控えていた。そこが斎場のようだ。八人ずつ横に並んでいる。宴会の時に見た顔もあり、僕に声をかけてくれた。『これで立派な村の一員だ』そんな声も聞こえて来る。前方には巫女装束の女性が立っており、僕に向けて恭しく頭を下げるので、僕も深めに頭を下げた。年齢的には僕と同じくらいに見えたが、もはやよく分からない。僕は最後尾と思しき座布団の上に腰を下ろした。どこかで香が焚かれているのか、緊張でやや高鳴っていた鼓動が徐々に落ち着いてくる。気持ちが落ち着く、しかし複雑な香りだった。知っている範囲の香りで言えば、白檀と沈香に、更に何か加えているようにも思える。やがて、奥の部屋から千種が出て来る。赤い袴に白衣という伝統的な巫女装束姿に、後ろには同じく巫女姿の、こちらは千種より歳若い少女を伴っていた。

 千種は美しかった。落ち着いてやや細められたその双眸は、普段の柔らかな印象の上に凛として艶やかな色を重ね、神々しさを纏っている。千種以外の二人の女性が内侍の巫女なのだろう。その二人は向かって左後方に並んで座ると、千種は僕らの正面にたおやかに座した。それから深く座礼をすると、氏子も皆一斉に座礼をしたので僕もそれに倣った。顔を上げると、特に口上のようなものはなく、千種は再び立ち上がるとそのまま奥の部屋へと入って行った。と同時に、年長の内侍の巫女が一人目の氏子の前に置かれた器を預かり、持ち去った。今からそこに神秘が注がれるのだろう。ここからは、しばらく待つことになる。

 長時間の正座を強いられる状況は、僕にまた剣道部時代を思い出させた。コツを掴むと痺れにくくなるのだが、久々なのでやや不安だった。改めて幣殿内を見回すと、木材の質感などから比較的新しい建物のように見えた。奥の方にはまだまだ社殿は続いており、奥に行くほど古そうだ。闇を見つめていると、すーっと意識が吸い寄せられるような心地がして、なぜか、ぞくりとした。

 しばらくして奥から再び内侍の女性が姿を現す。器を両手で持ち、零さぬよう滑るように畳の上を往く。何気ない所作だが、それだけでも長年の積み重ねが感じられた。一人目の男性の元まで運ばれると、彼は座礼をしたのち、器を一息に呷った。起一さんの時と同じく、彼もまたしばし天を仰いでいた。

「たいへん清らかなお味でございました」

 再度の座礼とともにそう感謝を述べると、彼は腰を上げ、静かに斎場を去った。起一さんは確か『甘美な』と表現していた気がする。特に口上に決まりはないのかもしれない。僕は自分の番が回ってきた際になんと言おうか適当な言葉を考えた。自然に湧き上がるものがあれば良いが、アドリブは苦手な方だ。一人、また一人とお神乳を飲み、思い思いの感想と感謝の言葉を告げ、しかし一様に満ち足りた様子で斎場を去って行った。

 待つ時間が長引くにつれ、ついつい余計なことを考えてしまう。僕に渡された枡が三勺だとすると、容量的には約50ml。今会場にいるのが十五人だから、奉習が終わる頃には単純計算で約750ml程が振る舞われることになる。並々と注がれる訳ではないとしても、500mlペットボトル一本分くらいにはなるだろう。それが千種の体から生成される。そう考えるとなかなか凄い。出かける前に意識的に水分補給していたのも分かる気がした。

 見ていると、心なしかお神乳の提供ペースが上がってきた。そうしていよいよその場には僕を残すのみとなった。目の前に置いた枡を内侍の女性が回収し、やがてあの夜に見たものと同じ白くとろりとした液体が枡に注がれ、目の前に置かれた。僕は自然、腰に力を入れて姿勢を正した。左右四本ずつの指で枡の下を支え、縁に親指を添えて口元まで運ぶ。鼻で深く息を吸うと、仄かに甘く、頭が痺れるような、どこか官能的な香りが体の中を吹き抜けた。目を瞑り、枡を傾けてゆっくりと口に含む。舌と喉を伝い、命が流れ込むような心地がした。勢い、上手く飲めずに溢れたお神乳が口元を伝い、僕の襟元を濡らす。一度口を離してそれを拭い、気を落ち着けるために深呼吸すると、体の芯がじんわりと熱を帯び、それは全身へと波及して火照りを伴った。僕はほとんど夢中で、枡に残った分も今度は零さぬように角から飲んだ。起一さんの恍惚とした表情や、老人が涙した理由を、僕は本能的に理解した。しかしその時、光が、音が、遠くなり、僕の眼前に突如として淫靡な光景が広がった。そこにいたのは千種と、幾人かの老人だった。千種の装束は大きくはだけ、老人らはそんな彼女に群がり、啄んでいる。彼女はそれを拒むでもなく、蕩けた表情で受け入れ、押し殺した、しかし甘い声をあげながら愉悦に浸っているように見えた。おかしい。間違っている。

「はぁ……はぁ……」

 次の瞬間、僕は元の斎場にいた。危うく手にした枡を落としそうになり、そちらに意識を奪われる。周囲を見回すと、内侍の女性が幾分心配そうにこちらを見ていた。

(幻覚……?)

 妙にリアルだった。僕は汗で背中に張り付いた下着に不快感を覚えながら、呼吸を整えた。ともかく、一度外に出て気持ちを落ち着けたかった。

「芳醇で、ありがたいお味でございました」

 僕はそのように口上を述べ、立ち上がろうとした。足の痺れは許容範囲だ。ただ、違和感があった。なるほど、僕はあの夜の起一さんが去り際、ポケットに手を入れていた理由を理解した。それはお神乳の効能によるものだったのだろう。僕は屈むような姿勢のまま、半ば逃げるようにしてその場を後にした。


(ギィーッ……ギィーッ……)

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