若菜
千種と別れた後、部屋に戻って遅めの昼食をとり、シャワーを浴びた。そして、なんとなく人通りのあるところで考え事がしたくなり、役場の前の広場でぼんやりとしていた。火曜の夜、千種の自宅での夕食会に招待された。それはそれでなんだか気後れのする提案だったが、それ以上に僕を戸惑わせたのは、その後に行われる奉習に参加してくれないかという提案だった。それはつまり彼女のお神乳を口にすることを意味していた。奉習への参加者は、和夫さん、稲葉さん、志保さんらが選定した後、千種が最終確認をして決定するとのことだったが、その際に千種の方から提案することも可能なのだという。予め話は通しておくので、夕食会までに決めておいて欲しいと千種は僕に言った。正直、僕は混乱していた。どう判断していいか分からなかったからだ。
「……」
僕はそのことについては夜に湯舟にでも浸かりながら考えることにして、千種と遠野さんのことを考えることにした。しかし千種に対して伝えるべきことは一旦伝えたつもりだ。現状ほぼ接点のない遠野さんへアプローチするのは難しそうだし、思春期の少女同士の関係に対してこれ以上できることは無いような気がした。俯きがちになっていた顔を上げると、友達と思しき同年代くらいの少女らと連れ立って歩いている若菜を見かけた。西の雑貨屋で出会って以来だ。少女らが若菜に何かを謝っているような様子に対して、『いいって、いいって、気にしないでって言ってるじゃん』――遠目だがそんな風なニュアンスを感じた。青春だ。あまりじろじろ見るのも良くないと思い、視線を地面の石材のパネルに落として再び二人のことを当てもなく考えていると――
「たそがれてる人、発見」
背後からの突然の声に、僕は声も上げられずにびくりと身を震わせた。
「っ……」
振り向くとそこには顔を背け、声を押し殺しながら腹を抱えて笑う若菜の姿があった。僕は表情で抗議の意を示すことにした。
「ひっ、ふっ、はぁぁ……ごめんね、そんなに驚くなんて思わなかったから」
目尻に涙まで浮かべている。
「そんなに?」
「その顔……くっ、ダメだ、はぁーっ……」
若菜はたしたしと両手で自分の頬をはたいて表情を整えると、隣の石の球体に腰を下ろした。
「結人さんって面白いって言われない?」
僕は口に指をあてて考えてみた。
「『ユニークだね』みたいなことはたまに言われる気がするけど、たぶん褒められてないよね」
若菜がまた笑っている。随分と楽しそうで何よりだ。いけない、気づくと彼女のペースだ。僕は流れを変えることにした。
「今は遊びの帰り?」
「そ!友達と公園行って、プール行って……まぁこの村でできる遊びって言えばそのくらいだしね。楽しいんだけどさ」
そういえば鏡渕池の西には新しそうな公園があった。子ども向けの前衛的なデザインのお洒落な遊具や大人でも楽しめそうなトランポリンなどもあり、気になってはいたのだ。つくづくこの村は、交通アクセスの問題さえなければ、自然豊かで住み良さそうだった。しかしここに来てさすがに分かってきた。それは意図してそうなっているのだと。ソトから入りづらく、ナカに居れば居心地がいい。そうできている。人口流出はあるのだろうが、今はリモートで出来る仕事も増えている。この村の状況も変わっていくかもしれない。
「なんか、悩みごと?」
若菜が懐に飛び込んでくる。心理的な意味で。こういう率直さは彼女の魅力だが、僕は話すべきか迷った。彼女と千種や遠野さんの関係性も分からない。同じ巫女の血筋と考えれば交流はありそうだが、なんとも言えない。
「ひょっとして、千種と琴音のこと?」
僕は思わず目を見開いて彼女を見た。
「エスパー?」
彼女は目を細め、指をわきわきと動かして魔術的な雰囲気を演出した。
「だとしたら生きるの楽だろうけどさ……いや逆にしんどいか」
出会った時もそうだったが、
「若菜ちゃんって、大人っぽいよね」
言われ慣れているのだろう、彼女は僕を一瞥すると、つまらなそうに言葉を続けた。
「そ?まぁ、お母さんの影響かもね。大学で講師とかしてるから、それでボクも頭でっかちなのかもねー」
(ボク……)
彼女はいわゆるボクっ娘というやつらしい。学生バイトで塾講師をしていた時に、生徒に一人だけそういう娘がいたが、リアルで遭遇するのはそれ以来だ。最近では芸能人でもそういったキャラ付けを見かけるし、もしかすると今やありふれていて、ボクっ娘なんて表現は死語なのかもしれない。ただ彼女がそういう一人称を使うことに特に違和感は覚えなかった。むしろ似合っている気がした。そんな若菜は自分の爪を眺めていた。健康的でよく手入れされている。
「それで、千種さんと遠野さんのことだけど――」
彼女の視線がさっと僕の方を向く。
「なんで千種だけ名前呼びなの?」
別に後ろめたいことはないはずなのだが、妙に居心地が悪くなる。職務質問と同じだ。
「いや、それでいうとボクに対しても名前呼びか」
彼女は僕の返答を待たずに一人で続ける。確かに言われてみればそうだった。
「まぁでもそれはボクが最初に結人さんを名前呼びしたから、自然なのかも?でも千種は自分から結人さんのこと名前で呼ぶとは思えないし――」
彼女はわざとらしく眉根を寄せ、僕の顔を覗き込む。
「ねぇー、なんでなんでぇ?」
彼女の顔が近かったので、僕はそっぽを向いた。そしてふと、職場の同僚に似たようなキャラクターがいたことを思い出す。その彼は僕よりいくらか年上の髭面の男性だったので可愛くもなんともなかったが。確か、インコを飼っていた。
「村に来た日の夜の宴会で、ちょっと親しくなったんだよ。帰り道を送った時に、色々話したりして……」
「ふぅーん」
彼女を見ると、首を水平に傾げるようにして、僕の方をまっすぐ見つめていた。深く、心の中まで見通すような、そんな眼差しだった。
「たぶん、千種は結人さんくらいの年上の男の人とか好きだからさ……なんていうか、その……」
どうやら彼女は友人想いらしい。僕は思わず頬が緩んだ。
「大丈夫。若菜ちゃんが心配するようなことは、絶対にないよ」
彼女は僕から視線を外し、正面を向いた。
「絶対なんて、ないじゃん」
それはもっともな指摘だった。僕は自分の言葉の軽薄さを恥じた。
「それは、そうかもしれない」
ジェット機の甲高い音が聴こえたような気がした。見上げるが、特にそれらしきものは見えなかった。幻聴だろうか。
「でも僕は、もうそういうのは嫌なんだよ」
空の青さに目の奥が痛くなって、僕は目を閉じた。それからゆっくり瞼を開き、若菜の方を見た。彼女の表情からは何も読み取れなかった。ただ、僕のことをじっと見つめてくれてはいた。それだけで今は十分な気がした。
「ちゃんと見張ってるからね?」
「望むところだよ」
今度は彼女が空を仰いだ。足をぷらぷらと遊ばせている。そろそろ話の続きをしよう。
「それで、どうして僕が二人のことを考えてるって分かったの?」
エスパーでないなら、何か情報源があるはずだった。
「お母さんにね、和夫さんから連絡が来てたんだよ。結人さんにオブザーバーをお願いしたから、よろしく的な感じでええ゙ぇぇ」
若菜は石材のボールをバランスボールのようにして背を預け、全身を弓なりに反らして呻くような声を上げていた。反らされた胸が強調され、お臍が見えそうになっていたのを見かねて僕は再び視線を逸らした。千種も無防備な雰囲気があったが、若菜にはまた種類の異なる無防備さがあった。
連絡があった、というのはよく考えれば自然なことだ。和夫さんは僕に対して、特に巫女の血筋の三人のことをよろしく頼みたいようなことを言っていた。どこの馬の骨とも分からない怪しい男にそんな頼みをするのだ、親御さんにも話を通すのは当然と言えばその通りだ。
彼女が体をバネのようにして元の姿勢に戻る。そういえば出会った時も彼女はこうしてむくりと起き上がった。癖なのかもしれない。
「それとね、あの二人が喧嘩をはじめた時、ボクもその場にいたから」
そう話す若菜の目はぼんやりとしていた。溌剌として社交的で大人びた殻の中に、少女らしい不安定さが垣間見えたような気がした。
「そうなの?」
「うちでみんなで宿題やってたんだけど、なんか来た時から琴音の様子がちょっとおかしくてさー……ボクがお花摘みから戻ってきたらもう、ね」
気落ちしているように見える彼女を、僕は少しでも励ませないかと思った。ちょうど、役場前の広場にジューススタンドのようなものがある。そのくらいなら問題ないだろうか。
「何か飲む?よかったら買ってくるけど。奢るよ」
彼女の眼に煌めきが宿る。現金なものだが、僕はなんだかほっとした。
「え、なになに、ひょっとしてボクのこと励まそうとしてくれてるのー?」
彼女はニヤニヤしながらこちらを見ている。
「そうだね、若菜ちゃんまで元気がないのはよくない」
若菜は意外そうな顔をした。
「ボク、元気なかった?」
「そう見えたけど」
僕は正直に伝えた。励まそうとしている可能性に気づいたのだから自覚があるものと思ったが、違うのだろうか。
彼女の要望に応えて、桃のストレートジュースと自分にはアイスカフェラテを買ってきた。
「やったー!ありがとう、結人さん」
「どういたしまして」
素直な感情の表出。仮に演技だとしても、全てが嘘というわけではないだろう。そこには本物の果汁がいくらか含まれているはずだ。それだけでも僕には眩しかった。彼女は僕にないものを持っているタイプの女性なのだと、改めて感じた。
彼女はストローを吸っていた口をパッと離すと、ため息混じりに端的な感想を口にした。
「ウマー」
その簡素さはむしろ虚飾がなくて好感が持てた。僕もカフェラテを一口飲んでみた。まだ完全に混ざりきっていないそれは、とろりとした白いミルクの甘さと、粒子を感じるエスプレッソの香ばしい酸味、苦味がそれぞれ互いに主張し合いながら、僕の口の中で出会い、溶け合った。東京にも当然ながらコーヒーの美味しい店は沢山あるが、もっと値が張る。そもそも高いばかりで美味しくないケースも多い。地方都市やこうした辺境の方が、数は少ないがこだわりが感じられる店は多い印象がある。何をもって洗練とするかは難しいところだ。
「うまー」
彼女の訝しげな視線が刺さる。僕のミラーリングは功を奏さなかったようだ。
「ボクはさ、千種が決めたことなら良いと思うんだよ」
やがてまた若菜が話し始める。
「そりゃ、プレッシャーもあると思うし、千種は押しに弱いところもあるから琴音が心配するのも分かるよ?でも、大事なことはちゃんと決められると思うんだよね」
その判断が彼女の千種への信頼に基づくのか、ある種の無関心によるものか、僕には判断しかねた。
「琴音はさ、千種のことになると、ちょっと冷静でいられなくなることがあるんだよ」
「それは、なぜ?」
確かに宴会の場では少し保護的な雰囲気があったが、冷静さを欠くというほどではなかった。
「うーん、それは正直ボクにもよく分かんない」
一瞬、若菜の口の端に滲んだ笑みには、自嘲的な雰囲気があった。
「でも、琴音の中には、千種にはこうあって欲しいって、何かそういうのがあるんだと思う」
それから若菜は、ずずずと音を立ててジュースを飲み切った。
「しらんけどー」
そう言って彼女は、そこに絵でも描かれているかのように、じっと空を仰ぎ見ていた。そうして彼女を見つめるうち、彼女もまた巫女の血筋であることを思い出した。僕は彼女についても、もっと知るべきだ。もちろん、義務感だけではない。彼女は僕のくたびれた好奇心をくすぐるには十分すぎるほど刺激的だった。今回は好奇心を言い訳に義務感を抑えたが、今後は逆に義務的な側面を言い訳にして好奇心を抑えなければならないこともあるだろう。大人というのは御しがたいものだ。
「そういえばさっき、何か謝られてるみたいだったけど」
彼女は僕の方を二秒ほど見つめた後、今度こそ自嘲的に笑った。
「あー……、ね」
その横顔はどこか寂しげだった。
「ボクってさ、恋バナとかよく分かんないんだよね」
十八というとそういう話題には興味津々な年頃に思えるが、個人差はあるだろうし、村の現状を考えると恋愛を意識する機会自体が乏しく、『分からない』となるのも不思議はないような気がした。
「芸能人で誰がカッコイイとか、カワイイみたいなのもピンとこなくて、あ、カワイイ女の子は好きだよ?」
理想が高い、ストライクゾーンが狭い、他に夢中なものがある、あるいは……。
「おっぱい大きい女の子とか好きだし。でもそれで女の子と付き合いたいとか、そういうことしたいとか、そういうわけでもないんだなこれが」
アセクシュアル・アロマンティック傾向。
「別にみんなが恋バナとかエッチな話とかする分には、全然聞いてて楽しいんだけどさ」
若菜の瞳が道行く人々の流れを映す。
「やっぱりキョーカン?できないからさ……みんな勝手に気を遣っちゃうんだよね」
その瞳が徐々に色を失っていくような気がした。彼女の今の状態を既存の言葉で類型化して説明することは簡単だ。それで彼女の孤独感が紛れるなら、あるいはそれでも良いのかもしれない。しかし聡い彼女に対して、それはあまり意味がないような気もした。性に関するそのような捉え方は固定的なものではないし、彼女が悩んでいるとすればそれは友達との関係性に纏わることだ。下手をすれば孤立感を深めさせる結果になるかもしれない。
(手強いな)
この村の多感な十代の少女たちの悩みは常に僕に内省を促した。三十代にもなると、もはや周囲の人間でそんな素直な悩みを吐露するような人間はいなくなる。都市部であれば、もしかすると十代であっても既存の概念に染められて、もっと斜に構えてしまうかもしれない。いや、SNS全盛の今となっては、もはやその差もなくなりつつあるのか。その意味では、彼女たちが新鮮な感性を保ち続けていられるのは、周りの大人たちの影響かもしれなかった。
「なにか言わないの?まだ分からないだけダヨー、とか、今はそういうの全然フツー、そのままでイイヨー、とか」
僕は残っていたカフェラテをずっ、と飲み切った。
「僕はね、若菜ちゃん。元々そういう性に纏わる議論はすごく大事だと思ってたんだ」
脳裏にイメージが降りてくる。ガラスのレールの上に、そっとビー玉が乗せられ、ゆっくりと転がり始める。そんなイメージだ。
「でも最近じゃ議論が盛んになる一方で政治的な文脈に絡めとられて、本来こうやってカフェラテでも飲みながら落ち着いて話すべき身近なことなのに、なんだか厳めしく胡散くさいもののようになってることに、僕はたぶんちょっと苛立ってる」
高低差の激しいレールが連続し、ガラスが甲高い音を立て続ける。レールを外れ、アスファルトに落ちたビー玉がひび割れる。
「若菜ちゃんみたいな在り方が否定されるべきじゃないのはもちろんだけど、一方で当事者が悩んでるのに自然なこととしてただ無批判に放置されるのも違う気がしてる」
僕はなるべく語気を和らげながら、不器用な笑みを作ってみる。
「一番大事なのは若菜ちゃんの気持ちだからさ。君を取り巻いてる環境や、目指したい方向を確かめながら、ゆっくり向き合っていくしかないんだよ。そうやって一番自分に似合う色を見つければいい。それは君だけの『GIFT』だ。他人を変えることはできないけど、見てくれる人はちゃんと見てくれてると思うから」
気障だったろうか。彼女は僕のことを見つめていた。意思の強そうなカーブを描くまつ毛に彩られた美しい瞳からは、相変わらず感情を読み取ることが難しかった。
「結人さんってさ」
「うん」
「ちょっとお母さんに似てるかも。リクツっぽいところとか」
大人びた雰囲気につい騙されてしまうが彼女は十八なのだ。確かにもう幾らか噛み砕いた話し方ができたかもしれない。
「でも……ありがと」
ややはにかんだような笑みを浮かべ、若菜は言った。理屈の部分は正直伝わらなくてもいい。僕はあなたの味方だよ。それが少しでも伝われば僕としては良かった。陳腐化した概念を今は後景化して、彼女だけの感情を大事にして欲しい。
「千種と琴音のことはさ、なるようになるよ。二人とも、もう子どもじゃないんだから」
別れ際、若菜はそう言った。確かにそうかもしれない。一度はこれ以上できることはないと結論づけかけたのだ。彼女の言うように過干渉になる前に手を引くべきかもしれない。
「……そうだね」
ありがとう、そう言いかけようとして、その前に若菜が口を開いた。
「結人さんってさ」
「うん?」
「笑うの下手だよね」
「……知ってる」
それは僕の昔からの悩みでもある。中学や高校の時はたまに馬鹿にされた。社会人になると指摘する人もいなくなるので忘れていたが、僕の笑顔は出来の悪いお土産の人形みたいなものなのだ。だからこそ、歯を見せて屈託なく笑う若菜は眩しかった。しかし若菜はニヤニヤとしていた。
「いいと思うよ。またね、結人さん!」
何が『いい』のか全く分からなかったが、若菜はそのまま走り去って行った。
帰る道すがら、若菜は茜色の空を仰いだ。ヒグラシの声が空に染みるように響く。その瞳に流れる雲を映しながら、彼女は何かを考えていた。
「ボク、冷たいなぁ……」
足元の小石をローファーで蹴飛ばすと、とぷんという音とともに畦道の脇に落ちていった。
「……」
そして小さく嘆息した。
「しょーがないなぁー」
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