村Ⅵ

 その夜、アパートの狭い浴槽で僕はぼんやりと千種の奉習のことを考えていた。この村に来てから僕はぼんやりとしてばかりだ。もちろん、これまでの旅においても大差はなかったが、これまではとしているという自覚すらなかった。そこにはただ茫漠とした砂砂漠すなさばくのごとき空白が広がっていた。風が表面の砂を気まぐれにさらさらと舞わせるのみで、そこに流れのようなものはなかった。そして砂漠が境界を拡げ、全てを呑み込もうとすることに対する誰かの焦燥感だけが募っていた。そうした日々に比べれば、今の僕の心象風景は随分と様相を異にしていた。そこには水が流れていた。雲が流れ、雨の予感すらあった。僕は石に腰掛けて、その流れを見つめながら、より善いなにかに向けて想いを馳せることができた。

 ピチョン、と蛇口から垂れた雫が風呂に張った水に波紋を広げ、僕は首の裏から全身に駆け抜けるような寒気を感じた。一度浴槽から出ると熱いシャワーを浴び、再び水風呂に身を浸した。僕は夏場になると、水風呂に入る癖があった。銭湯に行っても、水風呂が好きだった。サウナはスパイスに過ぎない。頭の中に詰まった綿がいくらか押し出され、思考がクリアになる。

(お神乳……)

 村の伝統というコンテクストはあれど、十八の少女の体液を摂取するという事実をどう捉えるべきか僕は悩み続けていた。ぱっと思いつく限りで意図的に人の体液の摂取が行われるようなシーンというのは、輸血のような医療の文脈と、あとは性交時くらいのものだ。前者の理由は明確として、後者の理由はなんだろう、ある種の同一化願望のようなものなのだろうか。自覚的には単なる性衝動で行っていたことに理由をつけようとすると難しいところがあった。だが改めて考えると、その対象が神か、共同体か、性的なパートナーなのかという違いはあるものの、一体化したいという点では共通している気がした。明確に宗教的文脈で類似のケースとしては、口噛み酒といったものもある。唾液を通じて人間の生命力や巫女の神聖な力が宿るという信仰は、お神乳にも通ずる。そもそも千種はどういうつもりなのだろう。ソトの人間である僕の参加によって行為の正当性を確かめたいのか、承認欲求の顕れか……あまり自覚的な何らかの理由があるわけではないのかもしれないが、考えは尽きない。ただ間違いなく言えることは、僕が参加を辞退することで、せっかく奉習を通じて自信につながる何かを掴もうとしている千種に対して、ネガティブな影響を及ぼしたくはないということだ。その意味では僕に辞退の選択肢は最初からないように思われた。

「……」

 僕は口まで水に浸けて鼻で深呼吸をすると、ざぶりと水風呂から出た。そして心を決めた。参加しよう、そして自分も彼女と共に伝統の当事者になろうと。そうなって初めて見えてくるモノもあるはずだ。


 翌日、僕は和夫さんの頼みで蔵の荷物の整理を手伝いに再び白木邸へと足を運んでいた。蔵は合計で四棟あり、二階建ての比較的新しそうなものが二棟と、平屋の古そうなものが二棟。今回は長らく手を付けていない平屋のうちの一棟について整理したいということだった。そこには思い出の品や使用頻度の低いものが収蔵されているという。蔵に足を踏み入れると、床板の軋む音とともに古い木の匂いと黴臭さが鼻を突いた。今はもう取り壊されたが、僕の実家にも蔵が二棟あった。元々地主の家系だった。だから僕は『鼠』なのだ。入口のあたりの床が雨漏りで腐っていて、危ないから近づくなということで、結局最後までほとんど中には入らずじまいだった。

 まずは清掃からということで、マスクに頭巾をして雑巾で埃を拭いていった。年月を感じさせる埃は層を成し、一拭きで雑巾が真っ黒になるため、バケツの水を交換するだけでも結構な時間を取られた。そうするうち、僕はそこで幾振りかの古ぼけた竹刀を見つけた。付けたままの唾の部分にはやはり埃が積り、柄革は擦り切れていた。僕は手にしていた雑巾をバケツにかけると、そのうちの一本を手に取った。ずしりと重い。サイズ的には三九というやつだろうか。柄に近い部分にはよく見ると刻印がされており、『洗心』と彫られていた。そこには和夫さんの想いが籠っているように見えた。

(懐かしいな)

 チリリと、胸の奥が痛んだ。僕は中学高校と剣道部だった。ただ高校になる頃には幽霊部員と化していた。書道部や美術部と兼部していたという事情もあるが、端的に言って僕は逃げたのだ。僕は最初の一年くらいは一番熱心な部員だと言われていた。ただそれも基礎練習までだった。僕は試合で全く勝てなかった。そもそもどう立ち回っていいのか分からなかったのだ。剣道というのは読み合いである。咄嗟の判断で相手の動きを誘い、隙を作ってそこに打ち込む。だが恐らく僕はそうした操作的な振舞いが本来的に苦手なのだと思う。躊躇いがある。そこを突かれる。親からはそもそも争い事に向いていないという慰めともつかないコメントをもらっていたが、逃げたという事実は変わらず僕の心の小さな傷となっていた。それでも、素振りをするのは変わらず好きだった。日が暮れた後、家の屋上で素振りをし、夜の澄んだ空気を吸い込むと、頭の中の淀みがふるい落とされた。今振り返ってみると、それはマインドフルネスとして機能していた気がする。深呼吸に、素振り……手段は色々とある。ただ一人暮らしをするようになってからは素振りをするような場所の確保がそもそも難しく、竹刀はずっと持っていたが、いまや貸倉庫の奥に眠っている。

「剣の心得がおありですかな」

 いつの間にか蔵の入り口に立っていた和夫さんが僕に声をかけた。サボっているのがバレたことで僕はバツの悪そうな顔をしていたと思う。しかしよく考えると今日は彼も仕事のはずだ。わざわざ休息の時間を使って足を運んでくれたのだとしたら、頭が下がる。

「良ければ少し振ってみますか?」

 逆光の中でこちらを振り返るようにして僕を誘う彼の姿は、何か物語の始まりのようなものを感じさせた。蔵の前に出ると、僕は和夫さんの促すような視線を感じながら、覚悟を決めた。久々の感触だった。僕は竹刀を握り込み、ゆっくりと中段に構え、目を瞑って深呼吸した。そして正面に向かって打つ。自然、足が前に出る。普段使っていない肩回りの筋肉がぎしぎしと呻き、思ったようにピタリと打ち止めることができなかったが、二度三度と繰り返すうちに徐々に感覚を思い出し、十回目でブンという空を切る鈍い音がした。理想としてはヒュッという高い音をさせたい。暑さのせいもあるが、それだけのことで一気に汗をかいてしまった。僕は無意識に反応を伺うかのように和夫さんの方を向いていた。

「いくらか憑き物が落ちましたかな。そんな表情をされておる」

「ありがとうございます」

 僕は汗をぬぐいながら、彼に礼を告げた。

「あそこにあるものはもう使わんでしょうから、好きに持って行ってくれて構いません」

「和夫さんは、元々剣道をされていたんですか?」

 彼は懐かしむような笑みを浮かべた。

「そうさな、村長に就任して忙しさにかまけるうち、気づいたら辞めてしまっておったが、それまでは集会所や体育館で剣道教室をやったりして、若い者らに教えたりもしておった。蔵の中の竹刀は、その頃に使っていたものじゃ」

 和夫さんは僕に近寄ると、愛おしそうにその竹の刀身を撫でた。

「それは、かなり熱心にされていたんですね」

「結人さんは、部活動か何かで?」

 彼は自身の過去についてはそれ以上触れず、僕に水を向けてきた。

「そうですね、といっても試合には全然勝てなくて、途中からは幽霊部員状態でしたけど。……僕は逃げたんです」

 この村に来てから僕は変だった。自分は逃げたなどと、そんな反応に困るような自己開示を、普通はしない。相手にも迷惑だし、受け入れられなかった時を考えると怖い。だが、この村の人間の温かさや、ある種『これが最後だ』という捨て鉢な気分がそうさせているのかもしれない。特に和夫さんの場合は、その父性的な側面が、僕にそう働きかけているような気もした。僕は彼に自分の迂闊さと甘えを謝罪しようとしたが、その前に和夫さんが口を開いた。

「それは、あなたの慎重さや思慮深さがそうさせたのやもしれませんな」

 僕は水に打たれたような気がした。

「あなたは繊細だ。剣の道は元を正せば命の取り合い。相手の隙をついてやりこめるようなやり方が、あなたには向かんかったんでしょう」

 見抜かれていた。少なくとも、僕自身が感じていた課題感は、彼の言う通りだった。だがそれは僕にとっては言い訳でもあった。素直に肯定するわけにはいかない。

「それでも、それを本来は乗り越えていくべきだったと、そう、今も思ってるんだと……だから『逃げた』のだと、そう感じてるんだと思います」

 僕は訥々と、なんとか思っていることを吐き出した。和夫さんは手を後ろに組み、どこか遠くを見ていた。

「結人さん、時間は有限じゃ。それに皆が宮本武蔵である必要はないし、そんなことは誰も望んでおらん。人生には様々な『戦い』がある。お前さんが弱さと思っとるものが、強みになることもある」

 それから和夫さんは僕の方に向き直り、穏やかな、しかし同時に挑むような笑顔で僕を見つめた。

「もっと物事の良い面に目を向けなされ。あなたが、既に周囲の人間にそうされているように」

 僕は改めて和夫さんの厚みを感じずにはいられなかった。声が震えそうになるのをなんとか抑えると、返事をした。

「はい、ありがとうございます」

 僕の表情に満足げな笑みを浮かべると、またいつものように泰然自若とした背中を見せながら、その場を去っていった。


 夕方、譲ってもらった竹刀を手に、僕はアパートの前に立っていた。昼間と同様に竹刀を握り、中段に構え、目を瞑り深呼吸をする。そして前後に足を捌きながら、大きく上下に繰り返し振った。上下素振り。地面に着くかつかないかのところまで振り下ろし、全身のバネを使うこと、三十回。久々なので回数としてはそんなものだろう。そして今度は正面打ち。下まで振り下ろさず、面を打つ要領で中段でしっかりと止める。これもまた三十回。そして上下素振りと正面打ちを左右に斜めから打つやり方でそれぞれ三十回。この時点で既に僕はかなり息が上がっていたが、かつては各五十回は最低でも行っていたのだ。気合を入れなおして蹲踞(そんきょ)素振り。そして跳躍素振りも同数こなした。やはり跳躍素振りは全身にくる。僕はふらふらと錆びた階段の手すりに寄りかかり、上がった息が治まるまで体を預けていた。手の平がヒリヒリと痛んだ。二、三日するとマメのようになって皮が破ける。テーピングが必要になるだろう。しかしそれを繰り返すうちに皮は厚くなる。

 呼吸が落ち着いてきた頃、空を見上げると、うっすらと星が見え始めていた。そしてふと、視界の端に人影が映った。ポニーテールを弾ませながら、視界を横切っていく。

(あれは……)

 遠野さんだった。Tシャツとランニングパンツに身を包んだ彼女はトレーニングの最中のようだった。池の周りの道は彼女のランニングコースなのかもしれない。そういえば、宴会の夜も彼女はパーカー姿だった。普段からスポーティでシンプルな装いを好みそうなところは、千種とは対照的な雰囲気がある。

(仲直りできたんだろうか)

 そんなことを思いながら彼女を見ていたが、真っ直ぐに前を見据えて駆けて行き、やがて見えなくなった。僕らの軌道はまだ交わらない。もしかすると今後も交わることはないのかもしれない。そういうこともある。

 

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