図書館
雪が降っていた。雪深い地域ではない。いま積もっているのも、せいぜい3センチ程度だ。それでも、雪は心を落ち着けてくれる。僕は座っている噴水の縁に積もった雪に人差し指を挿し入れてみる。ひんやりとした感触はやがて痛みになり、感覚を根こそぎ奪おうとする。僕はそれでも指を入れたままにした。それは僕の存在を知らせてくれた。ちなみに噴水から水は出ていない。当たり前だ。今は冬なのだから。
目の前のロータリーにひっきりなしに車が入ってきては停車し、子どもたちを乗せて去っていく。車の去っていく先をよく見ると、そこは黒い霧に包まれ、雨が降っていた。激しい雨だ。地面は浸水し、車は黒い水をじゃばじゃばかき分けながら、闇の向こうに吸い込まれていった。乗り込む子どもたちは僕よりだいたい二つか三つくらい年下だろうか。
「AーBー2、JーBー4」
「SーBー1……AーWー3」
子どもたちの前に停車した黒光りする車のドアがひとりでに開くと、彼ら彼女らは何かの呪文か合言葉のようなものを唱えてから車に乗り込んでいった。しばしば、にゅっと車から伸びた手に引きずり込まれるように。しばしば、その手に抱えられるように。
子どもたちは列をなしている。みな、コートやダウンに身を包み、車を待っている。ふと、僕の前に一台の車が停まり、扉が開く。
「……」
僕が無視していると、いつまで経っても車は出発しなかった。僕は乗りたくなんかなかった。さっさと出てくれればいいのに。やがて中から手が伸びる。女性の手だ。僕はそれを避けた。しびれを切らした後続車がしきりにクラクションを鳴らす。それでも車は動かない。僕はそこから逃げ出した。
脇目もふらずに走っていると、やがて雪深くなってきた。30センチ以上は積もっているだろうか。そして目の前に煌々とオレンジ色の温かな光を放つガラス張りでドーム状の大きな建物が見えてきた。ガラス越しに、無数のダークウッドの本棚が整然と並んでいるのが見えた。それは図書館のようだった。僕は図書館に通じる橋を駆けた。両脇に建つ街灯の光の下をひたすらに走る。やがて、その大きな黒光りする扉が目の前に現れる。重い。少し押した程度ではびくともしない。それでも僕はその中に入りたかった。体全体を押し付けるようにして、扉を押す。そうするうちに僅かに生まれた間隙に僕はするりと体をねじ込んだ。すっと、音もなく扉は閉まった。見上げると高い位置まで、どこまでも本棚は続いているようだった。こんなガラス張りでは本が日焼けしてしまうのではないかと思ったが、少なくとも雪が降っている間はそんな心配はなさそうだった。
一歩ずつ、おそるおそる足を踏み出す度に、僕の体にまとわりついた雪がぱらぱらと落ちる。本に良くないだろうと思い、僕は着ていたダッフルコートを脱いだ。周りを見回すと、入り口付近に洋服掛けがあったので、そこに掛けさせてもらった。室内は特別に温かいというわけでもなかったが、それでもコートを着るほどではなかった。僕の革靴の底が、歩く度に木製のタイルの上でコツコツと音を立て、響いていた。
(誰も、いないのかな)
そうして図書館の中を彷徨ううち、僕は奥の方のとある一角になぜか吸い寄せられるような感覚がした。そこだけは、ランプの灯りがなく、薄闇に覆われていた。そして、その奥に人の気配がした。
「誰?」
ガラスを引っ掻くような、軋んで、歪な、女の子の声だった。
「……」
僕は誰だろう。わからない。伝えるべき名前を持ち合わせていない。忘れてしまったのか、最初から持ち合わせていないのか。それすら分からない。
「わからない」
「……」
コツコツと音を立てて人影が歩み出た。それは僕と同じくらいの年頃の女の子だった。僕の知っている女の子に少し似ている気がした。でも違う。僕の知っている女の子は、もう少し色黒で、笑顔が印象的だった。目の前の女の子の肌は、透き通るように白かった。そして、虚ろな目をしていた。
「あなた、ふざけてるの?」
「なにが?」
「『わからない』ってどういうことよ」
それはもっともな疑問だった。僕だってそう思う。
「わからないものはわからない。なぜわからないのかもわからない。申し訳ないとは思うけど」
僕はこんなにも率直だったろうか。でも、彼女は動じなかった。やがて興味を失ったように、元いた薄闇の奥へと戻っていった。
「あの……」
「……」
「ここはどこなの?」
「図書館よ」
彼女は怒ったように言った。僕が勝手に入ってきたことに怒ってるのだろうか。あるいは、さっきの僕の返答が気に入らなかったのだろうか。でも言われてみればここは図書館だ。それ以上でも、それ以下でもない。そんな当たり前のことを訊くな、ということかもしれない。彼女がなぜ怒っているのか、そんなことは分かるはずもない。
「……僕も、ここにいていい?」
「……」
少し考えこむような、そんな雰囲気が闇を通して伝わってきた。闇は雄弁だった。
「好きにしたら」
「どうも、ありがとう」
『どうも、ありがとう』そんな台詞、初めて口にした。『どうも』だけでも、『ありがとう』だけでもない。『どうも、ありがとう』だ。
それから僕は建物全体から見て、彼女がいたのとちょうど線対象のあたりに、ソファーがあるのを見つけた。ガラスのパネルで覆われた装飾的な木のテーブルを囲むように四つ、配してあった。革張りのキャメルのソファー。年季が入っていたが、破れたりはしていなかった。僕は誘われるように、それに腰を下ろした。程よい反発が心地よかった。壁際にはオーディオラックと大理石のマントルピースがあり、その下には暖炉の代わりにストーブが収まっていた。オーディオラックにはアンプやチューナー、テープやCDのプレイヤーが積まれ、マントルピースの上にはレコードプレイヤーがあった。そしてその脇には、洗濯機くらいの大きさの大きなスピーカーが二つあった。ちょうど僕が座っているソファーの位置で音楽を聴くと、リスニングポジションとしては最適になりそうだった。でも僕はとにかく眠かった。ソファーの上に畳んであった、誰かが誰かのために用意していたであろうベージュのタオルケットに包まると、胎児のように身を丸くして横になった。やがてどこからともなく、ドヴォルザークの『新世界より』が聴こえてきた。きちんと、第一楽章から。あまり五月蠅くすると彼女に文句を言われるのではないかと心配だった。でも、もはや僕は自分の意思で指先一つ動かすことは出来なくなっていた。闇の帳が降りる。意識がこの図書館に溶けていくような気がした。それは久々の幸福な感覚だった。
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