千種
月明りでそれなりに道は明るかったが、街灯や防犯灯はまばらだ。僕は普段使っている携帯型のLEDライトで道を照らしながら、羽衣石さんと肩を並べて霞巫峰村の夜道を歩いた。スイーッというウマオイやコオロギの鳴き声が、先ほどまでの会話で火照った心を鎮めてくれる。そして僕がぐずぐずと十八歳の女の子に対する適切な話題を考えているうちに、羽衣石さんに先を越された。
「今日はありがとうございました」
月明りに照らされた彼女の横顔を見やる。その表情は、リラックスして見えた。長い睫毛が艶やかに光り、彼女の存在を証明していた。
「え……?」
僕はややぼんやりとしながら、間抜けな声で返事をした。
「起一さんのことや、さっきのお話のことや、色々と」
皆と話している時、彼女からは包容力と些かの受動性を感じた。しかし今は――
「びっくりしましよね?オミチとか、奉習とか……変わってますよね、うちの村」
確かに驚いた。なんだか夢を見ているような気すらする。思えばその感覚はあの雑貨屋に入った時から続いているかもしれない。
「知らないものが、世の中にはたくさんあるだなって……実感してるよ」
羽衣石さんはくすくすと笑った。
「わたし、巫女の血筋なんです」
夜風に、結われた彼女の髪がふわりと舞った。
「志と素質のある血筋の女子は、十八になる年の祭祀にて媛の巫女となることができる……」
凛とした表情とまなざしが僕の心の中に小石を投げ、波紋を広げた。
「その祭祀が行われるのが、八月の最終日曜日なんです」
流れる雲が彼女の顔に影を落とす。
「でもわたしは、まだ、決められてなくて……」
羽衣石さんの歩みが止まる。彼女は今人生の岐路に立っている。ちょうど初めて出会った麦畑の前で、彼女の表情も麦と同じに頼りなく揺れていた。
「羽衣石さんは、すごいな」
僕は思わず呟いた。
「……え?」
それは心からの言葉だった。彼女は未来を選び取ろうとしている。苦悩し、立ち向かっている。
「すごくなんか、ないです」
澄んだ水に、墨を流し込むような声。
「みんなはもう、とっくに決めてるのに……」
「みんな?」
彼女の他にも、血筋の娘がいるということだろうか。確かに、和夫さんもそんなことを言っていた気がする。羽衣石さんの顔の影が濃くなる。
「わたし以外にも二人、巫女の血筋の娘がいるんです」
なんとなく、若菜と遠野さんの顔が浮かんだ。
「でもその二人は、ずっと前から、村のソトに出ることを決めていて……」
段々と羽衣石さんの声が小さくなる。風に吹かれる蝋燭の火のように。
「わたしだけが、まだぐずぐずと、決めきれずにいるんです」
風が強く拭いた。僕は止まっていた歩みを再開すべく、ゆっくりと一歩踏み出した。羽衣石さんはそれに気づくと、小走りに追い付いてくる。
「その二人は、どうして継がないと決めたんだろう」
彼女の瞳が僕を映す。そして視線を落として、再び話し始めた。
「たぶん、ひとりの娘は、巫女の風習のこと好きじゃないんです。……嫌い、なのかも」
道端の草を踏む音がその日はどこか優しかった。
「もうひとりの娘は、あんまり興味がないみたいで……きっとこの村は狭すぎるんだと思います」
彼女が話し終えたことを認めると、今度は僕が話す番だった。
「なら、羽衣石さんは巫女の風習に、興味があるんだね」
彼女のリズムが変わる。
「そう、なんでしょうか」
一音一音の間隔が長くなる。
「……そう……なのかな」
やがて長く後を引く全音符の後、鍵盤から見えない指がすっと引いていった。再び彼女の足は歩みを止めていた。
「嫌いなものや、興味のないものを見ないようにすることは、基本的に簡単だ」
羽衣石さんは心細げな瞳で僕を見つめていた。彼女は十八歳の少女だ。間違いなく。
「でもそうでないなら、迷うものだよ。それが自然だ」
僕は彼女を倣って、なるべく優しく、彼女を見つめた。
「何かに興味を持てるというのは、才能なんだと、この歳になると痛感する」
僕は目を伏せた。そこには玩具のように散らかされた好奇心の屍たちが転がっていた。
「だからという訳じゃないけど、羽衣石さんの悩みには価値があると思うし……悩んでいる自分を、大事にしてあげて欲しい。そこには正しく理由があるはずなんだ」
上手く伝わったかは分からなかったが、それでも僕は彼女に言葉をかけずにはいられなかった。ここで、彼女が僕に声をかけてくれたから。ザァと優しく慰撫するような音が波の様に押し寄せ、自然、意識を取られる。月に照らされた麦畑は、本物の海のようだった。彼女を見やる。そこには笑顔が戻っていた。
「ありがとう、ございます……」
羽衣石さんが追い付くのを待って、再び二人並んで家路を辿る。
「わたしの母は、先代の巫女なんです」
麦畑を抜け、まばらな民家の間を歩いていた時、羽衣石さんが話し始める。その口調はこれまでで一番やさしかった。
「あの、美味しいおにぎりを作ってくれたお母さんだね?」
「ふふっ、そうです」
控えめな彼女にしては珍しく自慢げな表情だった。
「わたし、母が好きなんです。尊敬、してるんだと思います」
自分の家族に対して、素直にそんな風に思えるというのは、貴重なことだと思った。
「年始に、巫女のお役目については母から説明があったんですけど……でも、もう一度話してみようと思います」
羽衣石さんが僕の方を見る。
「巫女の先輩として」
いくらか、雲は晴れたように見えた。
ふと、羽衣石さんが立ち止まる。
「ここまでで、大丈夫です」
彼女の方を見やると、背後にはお洒落な一軒家が立っていた。和洋折衷の建築様式。木と石を組み合わせた上品なファサード。日本庭園風の庭には……あれは茶室だろうか。駐車場には白いボルボが停まっていた。
(なるほど、育ちが良いわけだ)
僕は思わず口の端で笑ってしまった。
「今日は本当に、ありがとうございました。また改めて、お礼をさせてください」
羽衣石さんは少し改まった表情でそう言った。
「お礼なんていいのに」
そもそもお礼をされるようなことはしていないのだ。
「いいえ、母に叱られます」
きっぱりとした物言いに、羽衣石さんはこう見えて意外と頑固なのかもしれないな、と僕は思った。
「それじゃあ羽衣石さん、おやすみなさい」
僕はそう言って手を振ろうとした。
「千種」
「……え?」
羽衣石さんは照れくさそうに微笑んでいた。
「好きに呼んでくださいって言いましたけど……『羽衣石さん』だと、先生みたいで緊張しちゃうので……」
やはり彼女には才能がある。
「千種さん」
「はい」
彼女が嬉しそうに目を細めた。
「おやすみなさい」
「月城さんも――」
「結人」
千種さんが目を丸くしている。
「僕のことも、結人でいいよ。『月城さん』だと、病院みたいで緊張しちゃうから」
彼女が吹き出した。そしてまた笑ってくれた。
「おやすみなさい、結人さん」
美しい月を道しるべにして白木邸へと戻ると、縁側に立って同じく月を眺めている和夫さんの姿が目に入った。それは虚栄心のない画家が町はずれのアトリエにひっそりと飾っている絵画から切り抜かれたようだった。僕はゆっくりと近づいていった。積み重ねられた厚みを感じさせる姿に、僕もこんな風に歳をとりたいものだと感じた。それは並大抵のことではないだろう。
「おお、お戻りですな」
和夫さんが僕を見下ろす。
「お待たせしました」
歴史のお勉強の時間だ。
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