村Ⅴ
羽衣石さんと並んで改めて和夫さんと向かい合う。肩が隣り合う形となった羽衣石さんからは仄かに甘い匂いがして、僕は拳一つ分ばかり身をずらした。
房枝さんが僕らの前に湯呑みを置き、急須で熱い玉露を淹れてくれた。
「……ありがとうございます」
僕はつい『すみません』と口をついて出そうになったのを押し留め、感謝の言葉を告げる。悪い癖だ。
「ありがとうございます」
羽衣石さんの方がずっと自然で淀みがない。小さな村社会で育ってきた彼女の方が、僕などよりよほどコミュニケーションには長けているのかもしれない。
「さて、まずは結人さんに礼を言わねばならん」
和夫さんは正面から僕を見つめている。
「礼、ですか?」
意外な言葉だった。
「左様。そこな千種の身を案じ、あのそそっかしい起一をよくぞ止めてくださった」
(なるほど、そのことか)
羽衣石さんは困惑した表情で和夫さんと僕を交互に見ていた。
「そしてまた、謝罪もせねばならん。あの時、儂は自ら出ていかんことによって、ある種あなたを試していたとも言えよう」
そこまで言うと、和夫さんは両手を膝の上につき、頭を下げた。
「ありがとう、そして失礼なことをして申し訳ない」
「よしてください、大袈裟ですよ」
僕は頭を下げる彼をどう制したものか分からず、腰を上げ、半ば立ち上がりかけていた。
「虫の知らせのようなものを感じただけで、そもそも僕の杞憂に過ぎないことだったかもしれませんし」
僕は言葉に詰まりながら、次に続けるべき言葉を見失っていた。
「あの……」
それまで黙っていた羽衣石さんが口を開く。
「村長さん、どういうことか、説明していただけますか?」
状況を把握できない羽衣石さんの良く通る声が、場を整えようとしていた。そして和夫さんは顔を上げ、ゆっくりと語り始めた。
「千種ちゃんが台所へ向かった後、起一は良心の呵責にかられ、お前さんを止めに行こうとしたんじゃよ」
そう、あれはあくまで羽衣石さんを思っての行動だった。
「しかし結人さんは、今行くのは危うい、千種ちゃんを信じて待とうと、そう起一を制してくださった」
羽衣石さんの瞳が僕を捉える。
「そうだったんですね……あの、わたしからもお礼を言わせてください」
やや改まった声色でそう言うと、羽衣石さんまでもが僕の方に頭を下げた。
「ありがとうございます」
二人して次々に頭を下げるものだから、僕としては堪ったものではない。
「あの、どうか頭を上げてください。そんな風にされると、僕の方が恐縮してしまいます」
すると、羽衣石さんが頭を上げ、ほんのりと頬を紅潮させながら話し始める。
「わたしあの時、大きな虫が出てきて、すごい格好のまま取り乱してたんです。だから、もしその時に起一さんが来てたら、恥ずかしいところ、見られてたかもしれなくて……」
彼女は無意識なのか、襟元を握りしめていた。
「似たようなことは昔もよくあったんじゃよ」
和夫さんの声に僕と羽衣石さんは共に彼の方を見た。
「起一の場合は少なくとも自覚的な好奇心などはなく、
和夫さんの眼には、どこか遠くを見ているような趣きがあった。僕は、その時の行動を改めて振り返ってみた。
「僕は……」
今度は僕が、二人の視線を感じる。
「もしそれが羽衣石さんでなければ、同じような行動を取れていたのか、自信がありません。そのくらい微妙でした」
羽衣石さんが小さく声を上げた。言葉の意味を計りかねたのだろう、長い睫毛で飾られた彼女の眼が、僕を捉えていた。ただそこには、僕が危惧していたような不快の芽はなかった。
「羽衣石さんがもつ亡き妻の面影が、僕にそうさせたのかもしれません。守らなければいけないと」
羽衣石さんの表情が緩む。しかし再び不安の色が差したことで、僕は自分がいつの間にか眉間にしわを寄せていることに気づいた。表情を整え、そして和夫さんに向き直る。
「和夫さんは、池でお会いした時に、想像力についてのお話をしてくださいましたよね?」
「もちろん、覚えておるよ」
「今回は、それが役立ったのかもしれません。小さなことかもしれませんが、それは僕に想像力を積み重ねていくことの大切さを再認識させてくれました。しかし、そこには想いがなければならないんです」
自分でそう語りながら、僕の頭の中で小さなピースが嵌るような音がした。
「想いのないところに、想像力は働きません。実際、仕事では僕の想像力はからっきしでした。それを動かしたのは、妻への想いもありますが、今日僕をもてなして下さった和夫さんや羽衣石さん、村の皆さんだと感じます」
僕は喉の渇きを感じ、玉露に手を伸ばして口をつけた。湯呑みから手のひらに伝わる熱が、僕の中の小さな熱と混じり合う。
「一方で、想像力はしばしば判断を鈍らせます。冷徹な判断が必要な場合には、足枷となることも……」
それまで身動きひとつしなかった和夫さんの目が、僅かに細められた気がした。
「好きな創作で、『可能性に殺される』というフレーズが出てくるんですが、その可能性という言葉は想像力に置き換えても同じく意味を成します。それでも、想像力を諦めて何かを踏みつけて生きていくことを、僕はしたくない」
話が脱線しかかっていることを自覚し、僕は結論に向かうべく、頭で話を整理する。
「ごめんなさい、話が長くなりましたが、つまり何が言いたいかといえば、想像力が機能するには前提として良い環境が必要ですし、仮に働いたとして、良い結果をもたらすかは運みたいなところがあります。だから、そんな風に頭を下げていただくことは、僕には分不相応だということです」
リーリーと、庭の虫の声がその場の静寂を雄弁に語る。僕は急に恥ずかしくなってきた。勢い、自分語りのようなことまでしてしまった。羽衣石さんなどは呆気にとられている気がする。和夫さんは『ふむ』と相槌をうつと、庭の外、月に照らされた遠くの山を眺めながら言葉をつづけた。
「結人さん、やはりあなたは儂が思い描いていた通りのお人のようじゃ。これからも、その心の声を大切にしてくだされ」
柔和な笑みを浮かべる和夫さんに、僕もつい表情が緩む。
「そして千種、お前さんにも同じように感謝と……あとはちょいと小言じゃ」
『小言』の部分が強調され、隣の羽衣石さんの背筋が伸びたのが分かった。彼女のこめかみを伝った汗は、暑さのせいばかりではないかもしれない。
「まずは、起一のことを思いやり、恥ずかしかったろうに一肌脱いでくれたことには、村を代表して感謝を述べさせてもらおう」
「お、おおげさです、そんな……」
しかし言葉とは裏腹に、羽衣石さんの口元は僅かに緩み、膝の上で手をもじもじと揉んでいた。
「じゃが……」
弛緩していた彼女の唇が硬く結ばれ、ゆっくりと和夫さんと目が合う。今僕の前で説教が始まろうとしている。こういう時、ある種の共感性の反応なのか、こちらまで緊張してくる。
「些か、無防備にすぎるの」
羽衣石さんが瞼を閉じ、小さく深呼吸したのが分かった。一方で僕は不思議な安堵感から、息を吐いた。彼女を案じているのは、自分だけではないのだ。僕の目は節穴という訳でもなかったようだ。
「以前から何度か言うとるがの?千種ちゃんはもう少し自分の魅力を自覚すべきじゃ」
彼女の方を見ると、眉が下がり、その瞳はやや虚だった。和夫さんの言葉は届いていないように見える。
「どうじゃ、結人さん?」
「えっ」
意識外から話を振られ、意図せず僕の瞬きの回数が増えた気がした。
「若いあなたから見て、千種ちゃんは魅力的じゃとは思わんか?」
なんとも答えにくい問いだ。曲者だとは思っていたが、やはり油断ならない。舌の根も乾かぬうちにまた僕を試そうとしているのではないか。
「村長さん、月城さん困ってるじゃないですか!」
彼女は和夫さんに抗議しながらも、僕の反応を視界の端で気にしているようだった。そんな反応をされては、僕としても無碍には出来ない。さて、と僕は考えてみた。僕と彼女の年齢差は十四。特に彼女の若さを考えれば、過小評価できない差だ。和夫さんからすれば僕は『若い』だろうが、羽衣石さんからすれば『オジサン』に近い部類だと思う。かといって、僕から彼女への評価が絶対に性的なニュアンスを持ち得ないかと言えば、それは無自覚に過ぎる気もする。社会通念上
「客観的に見て、羽衣石さんは素敵な女性だと思います」
彼女の方を見やると、恥ずかしいのか俯いていた。
「そもそもこの村には、今日出会っただけでも、素敵な女性が多いと感じました」
僕の頭に三人の少女達の姿が思い起こされる。
「でも、羽衣石さんには、他にはない魅力を感じます。無意識かもしれませんが、人の感情の機微に敏感で、それでいて押しつけがましくない、包容力があります。そこにいるだけで場の空気が柔らかくなる。これは得ようとして得られるものではありません。才能と言ってもいいかもしれません。今日お会いしたばかりの僕の浅見ですが、逆に言えば、短い期間でも強い印象を受けました。面接では有利かもしれませんね」
再び羽衣石さんの方を見やると、耳まで赤くしていた。
「夕方に見たワンピースも、今の和装も、とてもよく似合っていると思います」
一言余計かとも思ったが、彼女の口元が緩む。お洒落が好きなのだろう。ポチャン、と庭の池に何かが飛び込んだような音がした。
「ありがとう、結人さん。話を振っておいてなんじゃが、これ以上は千種ちゃんが耐えられんじゃろうから、そのくらいで」
和夫さんは満足そうに頷きながら、老獪な笑みを浮かべていた。ほぼ初対面の相手に一方的な評価を押し付けるというのは全く僕の主義ではなかったが、和夫さんに担がれて調子に乗ってしまったかもしれない。とはいえここで謝ってしまえば、これまでの言葉が世辞か嘘のように映るかもしれない。僕は喉元までせり上がってきていたモヤモヤとした塊を呑み込んだ。それで腹を壊すことはないだろうが、既に胃が痛い。今はもう羽衣石さんの顔を見る勇気がない。
「さて、ここからは千種ちゃんの今後に関わる少々真面目な話じゃ。結人さんにも同席してもらうが、構わんかの?」
生温い風が広間を通り抜ける。
「はい……大丈夫です」
羽衣石さんは姿勢を正し、こちらを見ると微笑んだ。僕はややドキリとしながらも、微笑み返した。僕は、和夫さんが僕を『利用する』といった意味をなんとなく理解し始めていた。
「こういうことがあると、狭い村じゃ、噂はすぐに広まる。千種はオミチの通いがあるらしい、既に一度奉仕をしたらしい……事実かどうかに関わらず、噂にはしばしば尾ひれがついて、川の魚のように自由に泳いでいきおる」
僕ら二人はじっと固唾をのんで、彼の話に耳を傾ける。夜でもじめじめとした夏の空気がまとわりつき、汗が耳の裏から首筋へと流れる。
「しばらく様子を見る手もあるが、もし先んじて手を打つのであれば、選択肢は二つじゃ」
和夫さんが告げる。それはまるで預言のようだった。
「千種ちゃんは巫女にはならん、今後一切、期待の眼差しを向けるようなことはあってはならん……と、儂が早々に御触れを出して皆を抑えること。その上で、村の中で別の役割を見つけるなり、ソトに出るなり、それは千種ちゃんの自由じゃ」
「もう一つは、なんですか?」
羽衣石さんの声が微かに震えている。
「正式にエンの巫女になるかどうかはともかくとして、まずは適性を見る意味でも、ケンとして祭りの日までホウシュウをやってもらう、それが二つ目の選択肢じゃ」
和夫さんは胸ポケットからメモ帳とペンを出すと、『媛(エン)』、『妍(ケン)』、そして『奉習(ホウシュウ)』の文字を書いて、僕に示してくれた。
「そうすれば、正式な形で巫女と奉仕のお勤めを管理することができる。成り行きに任せてしまうと暴走するかもしれん村の者を、適度にガス抜きしつつ、抑えることもできるじゃろう。あの二人と違うてお前さんはまだ決めかねておるのじゃろ?巫女を継ぐかどうか」
まだほとんど事情を知らないとはいえ、十八歳になったばかりの少女には荷が重い決断のように思えた。彼女を守るための措置でもあるというのは分かる。
(でも――)
と、そこまで考えたところで、僕の頭の中ではまた別の考えも過っていた。一般的なキャリア形成もまた、メリトクラシーだのハイパーメリトクラシーだのと称される社会の中で、結局は雇用サイドのしばしば不条理な都合に左右される。そこに違いがあるのか、僕にはよく分からなくなってきた。
「念のため言っておくが、妍になったからと言うて媛になれということではない。インターンのようなものじゃな」
羽衣石さんの瞳が揺らいでいる。伏し目がちにじっと考え込んでいるように見えた。
「あとは奉習といっても、千種ちゃんの場合は既にオミチの通いはあるようじゃし、最初の方の段階は既に終えておるがの」
彼女が顔を赤らめる。そして恨めし気に和夫さんの方を見つめていたが、やがて小さく溜息した。
「さて、千種ちゃんはどうしたいかね?」
羽衣石さんの瞼が閉じられる。その端正な横顔に僕の意識は吸い寄せられ、世界から音が消えていった。
「……少しだけ、考える時間をいただけますか?」
僕の頭の中で、
「もちろんじゃ、少しと言わず、じっくり考えれば良い」
そう言葉をかける和夫さんからは、村の長というよりは、父親か、祖父のような雰囲気が感じ取れた。
「やってみたい気持ちはあります……わたしにも、できることがあるか、確かめてみたい」
和夫さんの目が細められる。
「千種ちゃん、それが前向きな決定ならば、儂が言うべきことは何もない。じゃが一つだけ、もし巫女になるとしても、それを代償行為のようにはせんと、そのことは約束しておくれ」
「だいしょうこうい……」
羽衣石さんがその言葉を反芻している。
「何らかの満たされない欲求を、別の行動で埋めようとすること、とでも言えばいいのかな」
僕も少しは会話に参加した方がいいかと思って、補足した。視界の端で和夫さんが頷いていた。
「もちろん、儂らとしては千種ちゃんが媛となって村の伝統を継いでくれるのであれば、それは嬉しく思う。じゃが、繰り返しになるがそれは前向きな決断であって欲しいんじゃ」
和夫さんの目に仄暗い光が灯り、表情が険しくなる。
「昔は巫女本人の意思を無視して、奉仕を強いていたような暗い時代があった。それを儂や、燈子さんや、皆で協力して変えてきた……」
急激にあたりの空気が質量を増したような気がした。和夫さんがさり気なく語ったそれは、村の暗部に関わることだ。彼の顔の皴はあんなにも深かっただろうか。
そこへ房枝さんが新たに冷やした玉露を運んできた。和夫さんは笑顔で礼を告げると、ずずと啜った。二人の間の絆が感じられた。
「伝統がこのまま廃れるなら、それも時の流れじゃろうて。一度はそうなるはずじゃったしの……。じゃが、こんな村でも、巫女になれば千種ちゃんには何ら不自由のない暮らしは提供できる」
巫女としての禍福。どんな物事にも良い面と悪い面がある。もっとも、そのどちらも、今の僕にはまだよく分かっていない。
「それを目当てに打算的に巫女をやるというのならそれでもええ。業に貴賎なしじゃ」
違和感があった。彼があくまで行政の立場ということはあるかもしれないが、それでも巫女の役目を語るのであれば、その神聖性を前面に押し出しても良さそうなものだ。
ふと隣を見ると、羽衣石さんは和夫さんの方を向いて目を見開いていたが、やがて唇を嚙むようにしていた。そこからは驚きが読み取れたが、彼女が元々どこまで知っていたのか、何に驚いているのか、僕には見当もつかない。
「もし悩むようであれば、明日、志保さんと一緒に具体的な奉習の進め方も相談した上で決断するという手もあるが、どうじゃろう?」
羽衣石さんは意外そうな表情をしていた。
「それでも、いいんですか?」
和夫さんは力強く頷いた。
「もちろんじゃ。昔はわしら政の側の人間や社の方で方針を決めとったり、そもそも奉習自体なかった時代もあるがの?巫女の大事な体が関わることじゃ、説明を受けるにしても、決断にあたっての相談をするにしても、同性のスペシャリストの方が適任じゃろうて」
話からするに『志保さん』というのはベテランの巫女か、あるいは医師か何かだろうか。
「その上で、やはり奉習をやってみるというのであれば、止めはせん。儂としても、是非とも千種ちゃんのオミチは飲んでみたいしのぉ」
「…………」
羽衣石さんの表情からは、色が失われ、塩砂漠のごとき乾ききった気配がした。和夫さんのユーモアには現代化の余地がありそうだ。
「それでは明日の午前中、十時頃がいいかのう、迎えを遣るから、まずは内侍の巫女と一緒に志保さんのところへ行っておいで」
「はい、色々と、ありがとうございます」
羽衣石さんは深々と頭を下げた。
「あと、燈子さんにも儂から話は通しておく」
彼女の表情に僅かに影が落ちたように見えた。
「結人さん、すまんが千種ちゃんを家まで送って行ってくれんかの」
含みのある表情だ。これはまた僕を試そうとしているのだろう。
「はい、僕で良ければ喜んで」
そう言いながら羽衣石さんの方を見ると、穏やかに微笑んでいた。
「送り狼になってくれるなよ」
和夫さんが意地の悪い笑みを浮かべる。
「そんなことをすれば、僕の儚い人生は今日明日にでも幕を下ろすでしょうね。彼女にはファンが多そうだ」
羽衣石さんはまたも赤面している。僕が脳裏に浮かんだ『キュートアグレッション』というワードを手で振り払うようにしていると、彼女はそんな僕を怪訝な表情で見つめていた。
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