村Ⅳ

 麦畑を後にし、僕は約束通り白木さんのお宅へと向かった。役場を通り過ぎ、北に向かって歩く。日没まではまだ少し猶予があるが、空を見上げると星が瞬き始めていた。西の空の低い位置に見えるのは金星だ。それよりも高い位置にぼんやりと見えるのが、アルクトゥールスだろう。僕は小学生の頃、この星が好きだった。なんといっても響きが格好いい。少年心をくすぐる名前だ。夏の大三角も一部が姿を現し始めている。反対の東の空の高くに見える、まだ淡い光。ベガだ。彼女はまだ独りだった。

 やがて道の先に立派な門構えが見えてきた。左右には長い壁が続く。こうした古き良き日本の巨大邸宅は、似たような様式のものであれば地方でしばしば目にするが、ここまで大規模なものは、フィクションでもないと中々お目にかかれない。周囲が開けているせいで、余計にその大きさが際立っていた。門は開け放たれている。『白木』と記された表札を検めると、僕は中へと踏み出した。

 庭の砂利を踏み締めながら、一定の間隔で配された敷石を頼りに、玄関へと向かう。綺麗に刈り込まれた庭木は、白木さんの厳格さを象徴しているようだ。いや、僕は彼のことをまだほとんど知らないじゃないか。

 やがて、格子状の引き戸の玄関が現れた。左手には藤の花、右手には巨大な陶器の鉢があり、中には鮮やかな金魚が泳いでいた。表の門と同様に開け放たれた戸を意を決してくぐると、どこか懐かしい香の匂いと、白熱電球の温かみのある空間が僕を迎えてくれた。

「ご、ごめんくださーい」

 しばし間を置くものの、反応はない。奥から笑い声がする。既に酒宴は始まっているようだ。僕は嘆息した。自慢ではないが、僕の声はあまり通る方ではない。飲食店などでも大きな声で店員を呼ぶのは非常に苦手だ。意を決して大きな声を出しても、振り向いてもらえる確率は体感三割程度。なお、打率での例えはしない。皆が皆、野球好きではないのだ。誰に言うでもなく、僕は心の中でうそぶいた。そして僕はすこし自棄になった。

「ごめんくださぁーい!」

「はぁーいー」

 良かった、僕は透明人間ではないようだ。奥から、人の良さそうな初老の女性の声が返ってくる。やがて声の通りの人物が姿を現した。

「あらあら」

 女性は最初僕の顔を見て驚いた顔をしていたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。

「あんた、月城さんかね?よう来てくれたねぇ!和夫の妻の、房枝と申します。まぁ、あがってくなんせ」

 そう言って房枝さんは、快く僕を中に通してくれた。

 

 時折ギッと軋む木板の廊下を何度か曲がり、畳敷きの広間に入ると、そこには十人くらいの村民達が既に酒を酌み交わし、盛り上がりを見せていた。玄関と同様、天井に吊るされた白熱電球の柔らかな光が、宴席を温かく照らし出している。

「おお、来なすったな」

 一番奥の席に座っていた和夫さんが僕の姿を認め、対する僕は軽く会釈をした。僕の背中で緊張がとぐろを巻き始める。彼はよっこいせと立ち上がると、迎えに来てくれた。そして隣に立つと、皆の方を向いて僕を紹介する。

「彼は月城結人さん。故あってこの村にやってきた、旅のお方じゃ。しばらくこの村に滞在されるご予定じゃから、みな仲良くしてやっておくれ」

「ご紹介に与りました、月城結人と申します。よろしくお願いいたします」

 そうして頭を深く下げる間にも、僕は彼らの不信感や警戒心が矢のように刺さる思いがした。やがて顔を上げると、案の定、彼らの顔には引きつった笑みや、無表情、訝しみなど、およそ友好的とは言えないニュアンスが貼りついていた。

(『この村は、あんまりソトの人、歓迎してないんだよ』)

 若菜という少女の言葉が頭をよぎる。やはり警戒されている。僕は情に訴えることにした。酒の席では悲劇も肴になるだろう。

「実は、二年前に事故で妻を亡くしまして……傷心のまま彷徨っていたところ、偶然にこの村のことを知ったんです。ご迷惑かとも思い、すぐにでも去るつもりだったんですが、白木村長さんのご厚意で今日お招きいただきました。皆さんのお愉しみのところ、水を差してしまって申し訳ありません」

 僕は再び頭を下げた。彼らのどよめきを感じる。

「そらぁ、お気の毒になぁ」

「どうぞ、座って座って」

 勧められるままに座布団に腰を下ろしながら、僕は内心ひどく苛立っていた。何に対して?自分自身に対してだ。僕は今、妻の死による傷心を政治的に利用したのだ。そうしていると、僕の傷心なんて所詮ポーズであるような気がしてくる。傷心を偽る弱さへの苛立ち、妻の死を利用する不道徳さへの苛立ち、そしてそんな風に己を疑う内在化された「悪意」への苛立ち。僕ら人間は常に社会の目を内在化し、社会化しながら生きている。自分の中にたくさんの元他人のがある。そして、僕の妻への愛についての本質主義者と構築主義者の諍いも生じる。もはや何も信じられなくなる。自分が信じられない。だからこそ、さっきの村の人たちへの説明は、芝居がかっていた。僕がそうした。それは自分自身への当てつけであり、言い訳なのだ。これが妻のことでなければ、いくらでも割り切れる。人はいくつもの顔を持っている。それを使いこなすのが成熟だ。しかし、それがより自身のに近い事柄に関してとなると、冷静さを欠いてしまう。僕は過去の仕事上であれだけ嫌悪していた本質主義者達の在り方に、あるいは嫉妬しているのかもしれない。妻への愛の証明というただ一点においては。


 僕が通されたのは、白木さんの近く。木目の美しい座卓の上座、特に賑やかな一角だった。そこには二人の比較的男性がいた。落ち着いて真面目そうな男性は僕より少し上、もう一人の元気がよく調子のよさそうな男性は同じか少し下だろうか。正直、二十代後半から三十代にかけてになると、見た目ではあまり判断がつかなくなってくる。

「はじめまして、中野起一といいます。年の近い男性は貴重なんで、嬉しいです。起一と呼んでください」

 綺麗な標準語だった。白木さんも立場上の問題か、かなり標準語に寄っていたが、それでも多少の訛りは感じる。起一さんにはそれがない。ひょっとすると村のソトの人なのだろうか?席の位置的に主賓級と思われる。

「どうも、中野巧二いいます。よろしく結人さん。義兄さんとは、義理の兄弟なんですわ」

 巧二と名乗った男性が起一さんと自身を交互に指さした。

「改めまして、月城結人です。こちらこそです。お二人が今日の主賓とお見受けしましたが、合ってますか?」

 すると巧二さんが破顔した。

「かたいかたい、もっと気楽にしてくださいよ」

 起一さんは巧二さんの様子にやや困ったような笑顔を浮かべつつも、頷いていた。

「そうですよね、少しお酒の力を借りようかな」

 僕はちょうど房枝さんが持ってきてくれたグラスを受け取り、礼を告げると、起一さんが瓶ビールを注いでくれた。僕は最初グラスを傾け、泡立ちを抑えながら徐々に縦にしていった。こういうのは学生時代のアルバイトで覚えた技術だ。

「乾杯」

「乾杯!」

「カンパーイ!」

 呼応するように離れた席でも声が挙がる。皆、気の良い方達なのだ。

 黄金色の液体を呷ると、爽快感が体を駆け抜けるとともに、早くも頭がふわりと軽くなった気がした。酒は随分と久しぶりだ。刺激に対して体が過敏に反応しているのかもしれない。

「今日は僕が墓参りで村に帰ってきてたんですけど、そしたら白木さんが宴会だというので。でも結局着くのが遅くなっちゃったんで、墓参りは明日かな」

 久々の酒についペースが速くなり、今度は巧二さんがビールを注いでくれた。これは訪問初日から粗相のないように気を付けなければ。僕は気を引き締めた。しかし七月末のこのタイミングでの墓参りとは妙だ。旧盆だとしてももっと早い。

「お仕事がお忙しいんですか?」

 起一さんはグイとビールを呷ると、やりきれなさを強調するかのようにグラスをテーブルに置いた。

「そうなんですよ、もうほんとに。お盆の時期に休みがとれなさそうなんで。しかも明日にはもう帰るんです」

(仕事か……)

 僕は妻が死んですぐに仕事を辞めた。仕事にもう幾ばくかでも愛着でもあれば、僕はそれを心の頼りに過ごすような選択肢もあったのかもしれない。でも僕にとっての仕事はただの生活の糧だった。僕独りがただ死んだように生きていくためにはコスパが悪い代物。我儘なクライアントや横暴な同僚のために感情労働することに辟易していた。耐えていられたのは妻がいたからだ。そして会社が象徴するビジネス世界というものが、妻を奪った何かのグルであるかのような、そんな感情が僕の中にあったのかもしれない。

 玄関の方から、聞き覚えのある声がした。そうしてしばらくした頃――

「おっ」

 村民の一人が、二人の少女の登場に気づくと、一気に皆の視線がそちらに集まる。

「ちーちゃんに琴音ちゃんやないか!久しぶりらねぇ」

 巧二が二人に声をかけ、起一も微笑みながら手を振っている。その他方々からも歓声があがる。若く美しい少女の登場に興奮するのは分かるが、やや過剰な反応にも思えた。

「あ……」

 少女の一人と目が合う。麦畑で出会った少女だった。ワンピースから着替えたのか、袴を伴う和装が良く似合っていた。少女が微笑む。僕も軽く会釈した。

「お、なんねなんね、もうちーちゃんと顔見知りなんね?これだからソトモンは油断なんね」

 巧二さんが早速僕をイジリにかかる。こういう場ではむしろ有難いかもしれない。

 やがて房枝さんが二人を僕らの席の近くに連れてきた。

「ごめんねぇ、二人とも、おじさんの隣なんかで。あんたら、ちったぁ退屈しねぇように面白い話してやんなよ!ちーちゃんと琴音ちゃんは、あんまし遅くならねぇうちに帰ってねぇ」

 さすが房枝さんは若い二人をよく気にかけているようだ。

「起一さん、巧二さん、ご無沙汰してます」

「二人とも久しぶり」

「いやぁ、二人とも見る度に別嬪さんになるねぇ」

 そして斜向かいに座った『ちーちゃん』と呼ばれた少女の視線が僕の方を向く。

「さっきはどうも。月城結人といいます。改めまして、よろしくね……ええと」

 少女は柔和な笑みを浮かべると、察して言葉を継いでくれた。

「羽衣石千種(ういしちぐさ)です。みんなは『ういちゃん』とか、『ちーちゃん』って呼ぶんですけど、どうぞお好きなように呼んでください」

 珍しい苗字だったが、その透明感のある幻想的な響きは彼女に似つかわしく感じられた。僕は笑顔で返すと、隣の少女にも目を向ける。

「はじめまして、遠野琴音(とおのことね)と言います。よろしくお願いします」

 気さくな笑顔を浮かべているが、端的な物言い。いや、多分これが普通なのだろう。羽衣石さんや若菜という少女が特に人当たりが良いのだ。

(ポニーテール……)

 飛沫を上げるポニーテールが脳裏に甦る。そうか、彼女は朝プールで見かけた凛とした雰囲気の少女だ。あの時とは印象が違うような気がしたが、年配の男の多いこうした場と同級生に対してとで様子が変わるのは自然なことだ。さすがにプールで見かけたとは言えず、僕は黙っていた。

「月城さんは、起一さん達のお知り合いなんですか?」

「いや、僕らも今初めてお会いしたんだよ」

 起一さんがフォローを入れてくれる。

「僕はなんていうか……旅人なんだ。村長さんのご厚意で、ここに呼んでいただいて」

 羽衣石さんは驚いたような表情をした。多分本当に驚いている。

「わたし、旅人さんにお会いするのって、初めてかもしれないです」

 起一さんや、巧二さん、みなニコニコと笑っている。遠野さんの表情も和らいだ気がする。羽衣石さんには場を和ます才能があるようだ。

(でも……ちょっと危うい感じもするな)

 もし彼女が今後村を出るとしたら、誰か大人が心構えを説いてあげるべきだ。こういう娘は搾取されやすい。僕はほぼ初対面にも関わらずそんなお節介な感想を持っていた。

「はーいこちら、羽衣石さんと小鳥遊さんからの差し入れだよ」

 房枝さんの手により、テーブルの上に握り飯と、これは赤カブだろうか?漬物が並べられた。だが、『小鳥遊さんから』と言っていた。確か若菜という少女の苗字が小鳥遊だったはずだ。さっき玄関から聞こえた声は若菜の声のような気がしたが、差入れだけ置いて帰ったのかもしれない。そういうさっぱりしたところは、イメージと違わない。

「おおーっ、燈子さんの握り飯と文乃さんの漬物じゃねーかや」

 みなが鼻息を荒くして、次々に握り飯に手を伸ばす。

「遠野さんからはいつもの冷やし甘酒だ。飲みたい人ら、手ぇ挙げんかね」

 勢い、僕も手を挙げてしまう。図々しかったろうか。皿に盛られた赤カブの漬物にも箸を伸ばしてみる。甘酸っぱさと適度な歯ごたえが、ビールにもよく合った。

「赤カブの漬物にはこれでしょう」

 和夫さんがどこからか八海山を持ってきた。

「結人さん、いかがですかな?」

「いただきます」

 僕はどんどんと遠慮がなくなっていった。お猪口に継がれた辛口の純米酒を口に含むと、すっきりとした味わいが体に染みわたった。

「最高ですね、これは」

「いける口ですな」

 和夫さんがニヤリと笑った。

「月城さん、良かったらおにぎりも食べてくださいね。母のおにぎり、結構人気なんですよ」

 羽衣石さんが勧めてくれたのを後押しに、僕もその争奪戦に参戦した。綺麗にラップで包まれた三角のおにぎりを剥き、頬張る。

(これは……)

 僕が手にしたおにぎりの具は梅干しだった。まだほんのりと温かいご飯の甘味と、大粒の梅干しの鮮烈な塩味、酸味のハーモニーが僕をほっとさせてくれる。ご飯の密度も程よく、握った人の温和な人柄が想われた。

「本当だ、これは正に無類だね」

 そう羽衣石さんに賛辞を伝えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 そんな彼女の元に、ひとりの酔っぱらった熟年男性が酒瓶を持ってふらふらと近寄ってきた。

「あれれ、ちーちゃん、お酒は?ビール?日本酒?」

 すかさず、遠野さんが間に入る。

「もぉー、知念さん酔っぱらいすぎ!私らまだ十八になったばっかりだっての!」

「え、十八ってもう成人でしょ?お酒飲めないの?」

「の・め・な・い!」

 そう言いながら、遠野さんは男性を元の席へと押し返していった。どこにでも同じような酔っぱらいはいるものだ。遠野さんが戻ってくる。

「ごめんね、ことちゃん、ありがとう」

 笑顔で感謝を告げる羽衣石さんに対し、遠野さんはその表情以上に嬉しそうに見えた。

「気にしないで。でも、私がいなくてもちゃんと断るんだよ?」

「うん」

 僕は少女たちの、そんな何気ないやりとりをぼんやりと眺めていた。畳に片手をついて、改めて周囲を見渡した。柔らかな灯り、皆の笑顔と笑い声、酒肴の香しい匂い、縁側から響く虫の音、それら全てが溶け合っている。気づけば僕は、すっかりその場に馴染んでしまっていた。

(……いい村だな)

 

 やがて夜も更けぱらぱらと帰途につく村人も出始める。遠野さんが羽衣石さんの耳元で何かを囁いている。帰るタイミングを計っているのだろう。やがて、『ごめん』というように遠野さんは顔の前で手を合わせていた。

「二人とも、帰る人の多いうちに、一緒に帰った方がいいんじゃないか?」

 そんな二人の空気を察してか、起一さんが助け舟を出した。僕はそんな彼の自然な気遣いに感心した。

「あ、すみません、それじゃあお言葉に甘えて私はそろそろ……」

 遠野さんが、申し訳なさそうに愛想笑いを浮かべながら席を立った。

「わたしは村長さんに送っていただくことになってるので」

 羽衣石さんの方はまだ残るようだ。付き合いの良い性分なのだろう。遠野さんは一礼すると、帰る人の流れの中に消えていった。

 

 そして宴席もついに僕と起一さんらだけになった頃、コトリと音を立てて僕たち四人の前に冷えた麦茶のグラスが置かれる。

「奥の方にいるから、帰るときに声かけてな」

 房枝さんはそう告げると、和やかな笑顔を見せながら、奥の方に下がっていった。和夫さんはいつの間にかどこかに姿を消していた。人の引いた広間に、カランっというグラスと氷のぶつかる音と、虫の声がひときわ大きく響いていた。

「ふぅ……」

 起一さんが小さく息を吐く。

「起一さん、巧二さん、お疲れさま。月城さんも」

 羽衣石さんが労うように声をかけてくれる。

「あ、いやいや、千種さんの方こそ。つき合わせてしまって、ごめんね。こんな若い女の子に気を遣わせるなんて、情けないな……」

 起一さんは酔っているのか、自嘲的な笑みを浮かべていた。

「起一さん、違ったら失礼なんですけど……何か元気ないですか?」

 そんな起一さんのことを羽衣石さんが案じる。麦茶のグラスが早くも汗をかき始めていた。

「義兄さん、聞いてもらったら?菩薩様のようなちーちゃんがこう言ってくれてんだから、ちょっとは気ぃ紛れるかもよ?」

 菩薩か。言い得て妙だ。起一さんは、『ははは』と乾いた笑みを浮かべると、おずおずと話し始めた。

「十代の女の子と初対面の方の前で話すようなことじゃないし、こんなこと聞かされてもリアクションに困ると思うんだけど……」

 起一さんはそこで一度言葉を切り、僕らの表情を一瞥した。彼の表情が揺れている。膝を一撫ですると、話を再開した。

「平たく言うと離婚の危機でね……子どもが出来ないんだ」

 氷が溶け、薄い玻璃のグラスとぶつかり、宿命的な音を立てる。遠くの街で迷子の子どもが泣いている。僕は居住まいを正した。それは羽衣石さんも同じようだった。

「原因は僕の方にあって、結婚した時から決めていたことなんだけど……期限を決めて、それまでに子供ができなかったら別れるって」

 起一さんはじっとグラスを見つめていた。あるいはその奥の虚ろを。

「その期限が、今年なんだ」

 そこまで言うと、間を埋めるように、起一さんは麦茶で唇を湿らせる。

「不妊治療も続けてきたし、妻も協力してくれてがんばったんだけど、あれって規定の回数を超えると保険適用外になったりしてね」

 ステージの装飾は剥され、剝き出しの骨組みが姿を現し始める。

 「金銭的な問題もあるし、これ以上妻の人生を無駄にはできないから……」

 (『無駄』……)

 急に周囲の温度が下がったような気がした。何者かがその凍てついた指先で僕の背をなぞったような錯覚に襲われる。起一さんは再びグイと麦茶をあおると、グラスを座卓に置く。

「まぁ、残りまだ少しだけ猶予はあるから、ラストスパートなんとかやってみるよ」

 その笑顔は張り子だった。羽衣石さんもかけるべき言葉が見つからないのか、半ば開いた唇は、やがて硬く結ばれた。僕のかつての知人にも同じような悩みを持つ者がいた。ただでさえ経済的な問題から、三十年ほど前には当たり前だと思われていた子どもを持つという選択が、今や贅沢なことになってしまっている。仮に経済的な問題をクリア出来たとしても、パートナーとの出会いの問題、ライフワークバランス、そしてこうした生殖に関わる生々しい問題が立ち塞がることもある。

(『今やこの国全体が限界集落寸前のようなものじゃがの』)

 和夫さんと出会った際の、彼の言葉が思い起こされる。僕もまた、今やとてもじゃないが将来的に子どもを持つようなイメージを抱くことは出来なかった。妻は子どもを欲していたが、僕自身はそこまで執着はなく、妻が望むのであれば……というスタンスだった。水たまりに落ちた鬼灯は腐って悪臭を放ち始めていた。

「義兄さん、ちーちゃんにお願いして『オミチ』飲ませてもらえばいいんじゃねぇか?」

 停滞した雰囲気を破るように話し始めた巧二さんの口から、耳慣れない言葉が飛び出した。

(オミチ……?)

 飲むということは液体なのだろう。音からすぐに想起されるのは『血』だが、血を飲むというのは穏やかではない。見やると、突然の話題に虚を突かれた様子の羽衣石さんは反応に窮し、やがて俯いてみるみるうちに顔を紅潮させていた。巧二さんの表情を見れば、それが場を和ませようと出た咄嗟の冗談であることは分かった。しかし気になるのは、羽衣石さんの反応だ。村の事情など何も知らない部外者の僕には、成り行きを見守ることしか出来ない。

「オミチ……って、おい、お前やめろよ、千種さん困ってるだろ。月城さんもいるんだ」

 穏やかな起一さんが声を荒げた。酒が入っているとはいえ、らしくない。僕と羽衣石さんに向ける目には焦りの色が垣間見えた。

「じょ、冗談だよ義兄さん。そんなコワイ顔せんでよ」

 巧二さんは両手を前にかざして謝った。表情にはやるせなさが滲んでいた。

「ちーちゃんも、ごめんね」

 そして羽衣石さんに向け、手を合わせて詫びる。

「い、いえいえ……」

 千種さんは言葉を詰まらせ、目を泳がせながら小さく頷いた。

「大丈夫ですよ」

 どうにか照れ笑いのような表情を浮かべるが――

「そもそも、オミチの通いもまだだもんなぁ、無茶言うなってな、はは……そういう話でもねぇか」

 その瞬間、羽衣石さんの表情が変わったのが分かった。澄み渡った地底湖に一滴の露がしたたり落ち、静かにゆっくりと波紋を拡げていくように、その表情は揺らいでいた。

「あの……」

 羽衣石さんが口を開く。絞り出すような声だった。

「ん?どうしたちーちゃん、神妙な顔して」

 羽衣石さんは顔を伏せたまま、膝の上の手を固く握りしめ、酸素を求める金魚のように口をパクパクと開けたり閉じたりしていた。

「わ、わたし……通いがあるんです」

「うん?」

 夜鷹が一声、キィと鋭く鳴いた。

「わたし……もう……オミチの通いがあるんです」

「お……」

 起一さんと巧二さんは顔を見合わせながら、羽衣石さんを凝視していた。その視線は、着物の上からでも大きさの分かる彼女の胸元へと向かっているように見えた。

(『オミチ』……まさか『チ』は『乳』と書くのか?)

「だから、その……もしわたしなんかのでお役に立てそうだったら……えと、どうしようかな……あっ」

 羽衣石さんは勢いよく麦茶のグラスを掴むと、急いで残りを飲み干す。僕らはみな同様に唖然とした様子で、彼女の一挙一動を固唾を呑んで見守った。そして彼女は、空いたグラスを座卓の上に置くと、決然と言い放った。

「ここに、隣のお台所をお借りして、いま搾ってきちゃうんで……どう……でしょうか……」

 彼女は『搾る』と言った。僕の想像が現実味を帯び始める。起一さんは眉をひそめ、言葉を探すように口を開いたり閉じたりしていた。

「ち、千種さん、気持ちはすごく有難いんだけど……」

 彼は言葉を切り、困惑した表情で羽衣石さんを見つめた。

「ちーちゃんはもう、巫女さんになることを決めてんけ?」

(巫女……)

 昼間訪れた、あの懸崖造りの神社のことを思い出す。

「そのなんだ、なんてったっけな、?巫女になるための修行中的な?」

 恐らくは村の伝統に関わっているであろう言葉が飛び交う。

「いえ、そういうわけじゃないんですけど……体質的に……もう通い自体はあるので……」

 羽衣石さんは目を伏せたままだ。見ると、耳まで紅くしていた。

「けど、ホウシュウでもねぇのに、正式な巫女の儀式前にオミチをもらうのは一応禁止されてっから……なぁ?」

 巧二さんは助けを求めるように、起一さんに水を向ける。

「でも、起一さん、明日にはもう帰ってしまわれるんですよね?」

「それはそう……だね」

 彼女の声には切実さをも感じさせる悲痛な響きがあった。そして姿勢を正すと、ひとつひとつ言葉を区切るようにして語り始めた。

「出産経験のない巫女のオミチは、特に効能が強いと、そう聞いています。当然、子授けの力も、強いはずなんです」

 話し終えると、羽衣石さんはそれまで伏せていた顔を上げる。そして、まっすぐに起一さんを見つめると、迷いを振り払うように言葉を紡いだ。

「だから……よかったら、わたしにお手伝いさせてもらえませんか?」

 彼女は着物の襟元を握りしめ、前のめりになっていた。見開かれた瞼に収まる瞳は、深く澄んでいる。その純粋な善意と気迫に、起一さんはそれ以上抗うことを諦めたようだった。

「わかった、ありがとう千種さん」

 起一さんもまた、その瞳に羽衣石さんを捉えた。

「じゃあその……お願いしてもいいかな」

 彼女は小さく微笑むと、すっくと立ち上がる。

「少し……時間がかかると思うので……待っていてください」

 彼女はそれだけ告げると、隣接する宴会用の台所へと足早に去っていった。沈黙がその場を支配する。世界中の皆が、声の発し方を忘れてしまったようだった。

「大丈夫かな……」

 やがてぽつりと巧二さんが呟き、心配そうに台所の方を見つめた。

「うん?うん……どうかな。なんだか、一気に酔いが醒めてきた」

 起一さんは俯いたまま、何か考えているようだった。

「俺も……」

 巧二さんまでもがすっかり調子を狂わされている。変わらぬ虫の声が再び訪れた静寂を伝えてくる。

「あの……」

 僕の声に対して、起一さんと巧二さんは思い出したように一斉にこちらを振り向いた。

「あ、月城さん……その、何が何やらですよね」

 起一さんが弱り切った表情で僕の方を見た。

「そう、ですね。村の伝統に関わる何かだろうとは、想像しながら聞いていましたが」

「おっしゃる通りです。ただ巫女やオミチについてはどこまであなたに話していいのか僕では判断がつきません。なので、気になるようでしたら後で村長さんに訊いていただくのが一番かと思います。そういう意味ではそもそも話題に上げるべきではなかったんですが……」

 起一さんは複雑な表情を巧二さんに向けた。

「ごめんって。反省しとるけ……」

 そして再び沈黙が支配しかけた折、今度は起一さんが立ち上がる。僕は胸騒ぎを覚えた。

「どうか、したんですか?」

 彼は今にも走り出しそうな勢いだ。

「やっぱり止めてくる。千種さんの善意に甘えてこんなお願いするのは、やはりどうかと思う」

 そう言って台所に向かおうとする起一さんの服を、僕は無意識に握りしめ、引き留めていた。

「月城さん……?」

 自分でもなぜそんな行動に出たのか判然としなかったが、虫の知らせとでも呼ぶべき何かを感じた。

「待ちませんか?羽衣石さんの気持ちを信じて。集中しているかもしれないし……その、間が悪いと良くないことも」

 いま台所で行われているのは、恐らくは極めて繊細な何かだ。儀礼的に、あるいは性的に微妙な何らかのこと。それに途中で割り込むというのは、いかにも無粋で危うい気がした。例えば羽化している最中の蝉というのは極めて繊細で、触れたりすることで羽の形成が阻害されると、まともに飛べなくなる。やがて蟻などの捕食者に群がられ、文字通り喰い物にされる。だから今行くのはまずい、そんな気がした。やがて、起一さんが僕の方に向き直る。

「そう……ですね。月城さんのおっしゃる通りです。今は千種さんを信じて待ちましょう」

 僕はべったりと背中に貼りつくシャツの不快感に、今更のように気がついた。

「ごめんなさい、村に来たばかりの新参の身で、差し出がましかったとは思うんですが……」

 伝統というのはこれまた極めて繊細なものだ。それまで積み上げてきたものが絶妙なバランスの上に成立していたりする。ソトから来た人間が手前勝手な倫理観や道徳心でそのバランスを崩すと、結果不幸なことが起きる、という場合も少なからずある。もちろん外部の目が入ることで初めて現代化がなされ、好転する場合もあるだろう。しかしそれは慎重に行われるべきなのだ。でなければ、仮にそれが伝統の中にある何らかの搾取構造を解消したとしても、新たな、より一筋縄ではいかない搾取構造が出来上がりかねない。それは植民地支配をはじめとした歴史が証明している。

 起一さんは僕に座布団を勧めると、自分もまた腰を下ろした。そして小さくかぶりを振った。

「とんでもないです、僕の方こそ冷静さを欠いていたと思います。そもそも、僕も伝統については和夫さんや妻から軽く説明を受けた程度で、詳しいことは知らないんです」

 起一さんの寛容さに僕は救われたが、そのいくらか疲れた表情を見て、さらに申し訳ない気持ちになった。

「そうなんですね……そういえば和夫さんはどこに行れたんでしょうね」

 周囲を見回しても見当たらなかった。房枝さんに後のことを任せて、自室で休んでいるのかもしれない。

 

 やがて広間に戻ってきた羽衣石さんは、心なしかやつれて見えた。何か、過酷なことが行われていたのだろうか。

「千種さん、大丈夫?」

 起一さんが声をかける。すると羽衣石さんは、怯えたような表情で答えた。

「あ、ごめんなさい……オミチを搾るの自体は問題なかったんですけど、その、ゴキ……黒いのがいて」

 なるほど、古い家だし、水場であれば尚更、そういったこともあるだろう。彼女には悪いが、少々ほっとしている自分がいた。

 羽衣石さんは小さく深呼吸をすると、着物の袖で隠していたグラスを起一の目の前に置いた。そこには、グラスの半分程度まで白い液体が入っていた。それは確かに何かの乳のように見えたが、やや透明感があり、独特のテクスチャーだった。

「その……どうぞ」

 虫の音が妙に騒がしく感じる。起一さんは時折、羽衣石さんの方をちらと見やりながらも、じっと目の前のグラスを見つめながら動かない。しかし、それまで顔を紅くして俯いていた羽衣石さんが、そんな起一さんに対して促すような強い視線を向けた。起一さんが小さく震えたように見えた。彼は深く息を吸い込むと、しっかりとグラス握り、一息に呷った。ふわりと、微かに香しい匂いがこちらまで漂ってきたような気がした。静謐な空間に、起一の嚥下する音が響く。

 起一はしばし空になったグラスを見つめながら、目を見開いていた。

「……どう、ですか……?」

 頬を染めた羽衣石さんが、おずおずと起一さんに感想を求める。すると、起一さんはゆっくりと天を仰ぎながら、溜息混じりに口を開く。虫の音が急に静かになったような気がした。

「なんて表現したらいいか……こんなに、味わいが深いなんて。葛のような、甘酒のような、でもそのどれとも違う……」

 僕は起一さんの恍惚とした表情から目が離せなかった。酒が抜けかけていたはずの頬は上気し、瞳孔が開かれている。それは単に羽衣石さんを気遣っての大げさなリアクションには見えなかった。そこには真実味があった。

 羽衣石さんの方を見やると、起一さんの感想に安堵したのか、恥ずかしそうに淡い笑みを浮かべていた。

「よかったです……それで、足りますか?」

 起一さんは夢から醒めたように答えた。

「も、もちろん!ありがとう、なんだか本当に上手くいきそうな気がしてきたよ」

 僕はそんな二人の様子に、いつの間にか強張っていた全身の筋肉が弛緩していくのを感じた。何やら妖しい雰囲気を感じていたが、どうだろう、今のこの和やかさは。羽衣石さんが語っていたような効能については正直なところ眉唾ものだと感じているが、偽薬的な効果でもあれば、それだけでも違うかもしれない。何より、起一さんが励まされている。

(よかった……のかな)

 巧二さんが起一さんに何やら耳打ちしている。すると、起一さんは姿勢を正し、羽衣石さんに対して深く座礼をしながら口上を述べた。

「甘美な、お味でございました」

 その口調には儀礼的な厳かさの片鱗があった。突然のことに羽衣石さんは小鳥のように右往左往するが、すぐに自分も同様に座礼をして応じた。そんな中、どこからともなく和夫さんが現れた。

「やれやれ、見ているこっちがヒヤヒヤしたわい」

 皆が一様に息を吞んだのが分かった。

「和夫さん、今までどこに……っていうか、ずっと見てらっしゃったんですか?」

 起一さんは、和夫さんに問いかけた。

「縁側で休んでいたんじゃが、出ていくタイミングを逸してしもうてのう……さて、千種ちゃんと結人さんにはちょいと話がある。悪いが起一さんと巧二は先に帰っとってくれんかね?」

 和夫さんの有無を言わさぬ言圧に、二人は頷く。

「月城さん、またお会いしましょう」

「結人さん、またねぇ」

 去り際、起一さんがポケットに手を入れていたのがふと気になった。二人の背中を見送ると、僕は小さく息を吐き、和夫さんに向き直った。

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