村Ⅲ
白木さんと約束した夜までの時間、僕はひとまず社を目指すことにした。村の中央を横切る際、件の役場の前を通った。この役場も先ほど見た図書館と同様に、木造の外観を生かしつつ、ガラスや石を取り入れた現代化が成されていた。観光に力を入れていないのは間違いないが、その他に目立った産業もなさそうに見える。何らかの財源があるのだろうが、謎めいていた。正直、これらの建築を見るだけでも、訪れる価値はありそうなものだ。それらは僕に隈研吾氏や平田晃久氏による一連の美しい美術館や図書館を想起させた。立ち止まって建物に見入っていたが、さすがに村の中心とあって、人の往来はこれまでよりは多い。白木さんに滞在の許可をいただいたとはいえ、やはり視線が気になり、またも僕は足早にその場を後にした。
畦道を抜け、社に向け体のバネを使ってひたすら歩く。近づくにつれ、僕はいよいよその石段の長さに圧倒された。最初せいぜい三百段程度かと思われたそれは、五百段くらいはありそうだった。この二年、いや、実質一年程度の間で旅慣れては来たが、だらだらと歩くのと、こうした過酷な道のりに挑戦をするのとではわけが違う。
一の鳥居は石材で出来た大きなものだった。決してピカピカという感じではなかったが、それでも手入れが行き届いていることは見て取れ、風雨に耐えてきた歴史を感じさせる佇まいは僕を魅了した。僕は喉を伝う汗を拭うと、意を決して石段に最初の一歩を踏み出した。だが次に僕の足が止まった時、恐らくはまだ半分にも到達していなかったろうと思う。一息に上りきってやろうと思ったが、とんでもない。僕は既に、息も絶え絶えだった。だらしがない。しかしこれが現在の僕だ。石段の縁にもたれ掛かると、石のひんやりとした冷たさが心地よかった。参道を取り囲む背の高い木々のおかげで、日差しが遮られていたのは幸いだった。僕は雑貨屋でラムネを買っていたのを思い出し、バッグから取り出した。包装を剥し、玉押しのキャップに手の平で力を込めると、炭酸の抜ける鋭く爽快な音を立てて瓶が開封される。ひんやりとした瓶を頬に当て、しばし堪能すると、ビー玉が瓶の口を塞がないように向きと角度に気を付けながら、一気に飲み干した。
「……」
瓶を空にかざすと、木漏れ日が瓶とビー玉に反射してきらきらと光った。僕はその様子をしばしぼんやりと眺めた。思えば飲み方からして繊細な逸品だ。こういうものは残していきたい。
ラムネで気力が回復した僕は、巻き上げていたシャツの袖をもう一つ折り、苦行を再開した。これは帰りに膝が笑って転げ落ちないようにしないといけない。
やっとの思いで登頂し、二の鳥居を潜ると、僕は大きな灯篭の陰でしばらく休んだ。世界が揺れていた。水筒の水を呷り、塩飴を舐めると、じんわりと滋味が体に広がった。
呼吸が落ち着いてきたところで立ち上がり、改めて正面から奥の拝殿を眺める。木々に囲まれたそこは聖域と呼ぶに相応しく、夏の暑さにも関わらずひやりとした清廉な空気に満ちていた。そしてふと、夜の光景が浮かんだ。二の鳥居から拝殿へと続く道の両脇には屋台が並び、浴衣姿の老若男女が艶やかな姿を見せる。少女がひとり、りんご飴を片手に走っていった。祭りの折りには、実際にそんな賑わいを見せるのかもしれない。
僕は右手にあった手水舎で簡単に手と口を清めると、拝殿まで歩いた。そして前まで来ると、年季の入った賽銭箱に財布から出した五円玉を投げ入れた。それはカラコロと雅な音を立て、昏い箱の中に吸い込まれていった。
垂れ下がった鈴緒を掴んで鈴をガラガラと鳴らし、二礼、二拍手、一礼と心の中で唱えつつ手順を踏む。ある時期から僕は徐々に神頼みをしなくなった。だからこういうのはあくまで作法に則っているだけだ。それが定型的な成長の一側面なのか、志の低さの顕れなのかはよく分からない。願いを伝えるべき時間を使って、僕は己の中の空虚を
拝殿を去ろうとしたその時、一人の熟年男性の接近に気づく。熟年男性第二弾だ。この村では若い男性をほとんど見かけない。出稼ぎにでも出ているのかもしれない。
「あれま、こらまた珍しいお客さんですな」
僕は姿勢を正すと、その男性に頭を下げた。歳の頃は白木さんよりもさらにもう幾ばくか上のように見える。
「驚かせてしまって、申し訳ありません。村長の白木さんには先程お会いして、滞在の許可はいただきました。月城結人と申します」
どこか言い訳がましい己の物言いに対し、僕は勝手に居心地の悪い気持ちになった。
「それはそれは……こないなとこですけど、どうぞごゆっくり見て行ってください。そいで、申し遅れました、宮司の稲葉義経いいます」
稲葉と名乗ったその宮司の話し方は、明らかに関西弁の特徴を映していた。
「関西のご出身なんですか?」
「左様でございます。どうも地元の言葉はなかなか抜けへんもんでしてな」
(抜けない……)
「実は僕も奈良の出身なんです」
「ほほぅ、それはまた奇遇ですな。全然訛ってはらへんから、分かりませんでしたわ」
関西人というのは僕の知る限り二通りのパターンに分かれる。関西人という属性がアイデンティティに強く結びついていて、どこに行こうと一貫して関西弁で話すタイプと、郷に入りては郷に従うタイプだ。偏見かもしれないが、両者の間にはいささか分かり合えない部分がある。もちろん、TPOと方言の使用というのは難しい問題ではある。僕個人としては、基本的には標準語の理知的な響きを愛しつつ、シチュエーション次第で関西弁を出すことで場を和ませようと儚い努力をすることもあるし、相手が関西弁を話すなら合わせたいとも思う。
「別言語ですからね。状況に応じて、使い分けてます」
僕はイントネーションを関西風にチューンした。折角の機会だ、気になっていたことを訊いてみよう。
「こちらの神社では、どのような祭神が祀られてるんですか?」
「当社の祭神は、この地の子孫繁栄と長寿を司ってはります」
「福禄寿様、とかですか?」
確か七福神にそうした性質の神がいたはずだ。これも寺社を巡るうちに詳しくなってきたことの一つだった。しかし、稲葉はその人差し指を乾いた唇に当ててみせた。
「神様の御名は口伝で一部の者にのみ明かされておりましてな、口外は控えさせてもろてます。月城さんも、奈良のお人やったら、分からはるんとちゃいますか?」
確かに、奈良の春日大社が祀る祭神の中にはその正体が秘された「秘神(ひがみ)」というものが存在する。これ以上追求するのは失礼にあたるだろう。
「ただ、皆は『霞様(かすみさま)』、と呼んどります」
恐らくは村の名前にあやかった呼称なのだろう。あるいはその逆か。村の名前同様、そこには神秘的で謎めいた風合いがあった。
「霞様、ですか」
「左様でございます」
僕はその響きを反芻した。ふと、一羽の白い蝶がひらひらと僕らの目の前を舞い、手水舎の方へ飛んで行った。それを合図のようにして、稲葉さんは会釈をすると、社務所の方へと去っていった。僕はその背中を見送ると、もう少し敷地の奥の方まで足を伸ばそうと歩を進めた。だが、そこで僕は、愕然とした。本殿があると思っていた場所に、本殿がなかった。てっきり、拝殿のすぐ裏にあるものだと思っていたが、そこには幾重にも並ぶ幣殿と思しき建造物があった。そして何より重要なのは、それが立っている地形だ。峻険な山の斜面に、時に食い込み、時に削り取るようにして、それらの建築は存在していた。『懸崖造り(けがけづくり)』である。僕は寺社の中でも特に懸崖造り、または懸造りと呼ばれる建造物が好きだった。多くの懸崖造りは、広い範囲に渡って散発的に社殿が建っているイメージだったが、ここは一連の大きな急斜面にかなり集中的にものが建っている。下手をすれば地滑りを誘発しそうなものだが、そこには目に見えない高い技術が下支えをしていることが伺われた。しかし入り口がない。周囲をざっと見まわしたが、それらの建物にアクセスできそうなところはなかった。恐らく、社務所か拝殿の奥から幣殿の中を通っていく以外にアクセス方法がない。つまり一般の参拝者はおいそれとは入っていけないということだ。
(秘神、霞様か)
村の深淵の一端を垣間見たような心持ちのまま、僕は長い長い石段を下り始めた。
途中、少し休みを入れつつ、ゆっくりと石段を下り切った頃には、ミンミンゼミの声にキキキというヒグラシの物悲しい音が混ざり始めていた。そんなに長く滞在したつもりはなかったのだが、なんだか時空が歪んでいるような錯覚に陥った。僕は村の南東の斜面にそって、更にぐるっと村を見て回った。東側には畑が多く、村の中でも特にのどかな雰囲気が漂っていた。ちょろちょろと耳心地の良い小川のせせらぎを聴きながら小さな石の橋を渡り、向日葵の間を抜ける。向日葵には心惹かれるところがある。鮮やかな黄色い花弁は、自分にないものを持っている、そんな雰囲気がある。憧れさえ、今の僕には無縁に想える。
ふと、西側の斜面から村を見ていた時に目にしたモダンな家屋が目に入る。広い庭には様々な植物が植えられ、よく手入れがされていた。華美にすぎない、素朴で上品な空間がそこにはあった。きっとガーデナーの主人は素敵な人なのだろう。
(そろそろ白木さんのお宅に向かうか)
日が暮れ始め、トンボが飛び、辺り一面がこんがりと茜色に染まり始めていた。逢魔が時。日本にはそういう表現がある。なぜだかそれを思い出した。この村に霞のように漂う神秘的で妖しい雰囲気が、僕の思考を震わせた。逢魔が時には不吉なことが起きるという。だとすれば、視線の先に広がる黄金色の地平線も、僕を黄泉へと連れ去るための眩惑なのかもしれない。僕は
ザァという魂を
「……」
そこには少女が立っていた。麦畑越しに夕日を眺めている。白いワンピースが風に吹かれて舞っていた。それは画になった。一瞬で脳に焼き付く光景というものがあるのなら、今目の前にしているものは正にそういう類にものだった。僕は指でフレームを作ると、その中に彼女を収めた。その横顔が、夕日に照らし出され、僕の瞳に飛び込んでくる。
(……紗季?)
ひときわ強く風が吹いた。在りし日の妻の笑顔がよみがえる。不満げな顔、泣き顔、熱に浮かされた表情、僕の名を呼ぶ声、胸に染みる匂い、温もり。それらが一瞬のうちにフラッシュバックする。耳鳴りがする。焦点がぼやけ、世界の輪郭が曖昧になる。いつものように妻が玄関を出ていく。行ってきます、と彼女は言った。眠たげで、気だるげな、何も変わらない朝のトーン。逆光で表情は見えない。行ってはダメだ、僕はそう叫ぼうとした。でも声は出ない。どこかで小鳥が鳴いている。バタンと、扉が閉まる。断定的に。そこに一切の譲歩はない。行かないでくれ、僕はもう一度叫ぼうとした。同じだ。想いが喉を震わせることない。行き場を失い、僕という容れ物の底に沈殿していくだけだ。
「あのっ!」
鈴の鳴るような声が、向き合うべき現実へと僕を引き戻す。
「だいじょうぶ……ですか?」
いつの間にか、目の前にはさっきの少女がいた。妻とは違う。妻はもう少し声が低かった。当たり前だ。しかしその心配そうな表情には、妻の面影があった。姿形がすごく似ているというわけではない。雰囲気だろうか。通ずるものを感じた。少女の後ろには、やや胡散臭そうに僕を見る小学生くらいの男の子が二人いた。一人は手に何かを抱えている。
(……カエル?)
ウシガエルと思しき茶色い巨体のそれは突如『ヴッ』と一鳴きすると、その少年の手を逃れ、麦畑の中へと姿をくらませた。
「あっ、こら!」
二人はこちらを気にしつつも、カエルの方が魅力的なのだろう、そのままどこかに消えてしまった。少女は彼らのことをしばし目で追っていたが、すぐにこちらに向き直り、微笑んだ。僕もそれにぎこちなく笑みを返したが、ちゃんと笑顔になっていたかは疑問だ。
「すみません、ご心配をおかけしたようで。僕、その……変、でしたよね?」
しばしばフィクションで『怪しい者ではありません』というフレーズがある。様式美のようなものなのだろうが、僕はその言葉の説得力のなさとチョイスの不自然さに辟易していた。そんなわけで、まずは自分の怪しさを認めることにした。とはいえ、今日の僕は謝ってばかりだ。
「い、いえ!変とかっていうわけじゃ……確かにその、様子はちょっと変でしたけど……わたしの方を見て、何かすごく驚かれていたようだったので」
礼儀正しい娘だった。そして内省的な雰囲気がある。それは僕も同じだ。さらに言うなら、妻も。
「よく知っている人に面影が似ていて、それで少しびっくりしてしまったんです。驚かせてしまって、すみません」
少女はまだ心配そうだったが、多少は納得したのか、徐々に落ち着きを取り戻してきたようだった。小さく、深呼吸したように見えた。そして等身大の笑みがこぼれる。
「そうなんですね……そんなに、似ていましたか?」
年の頃は十七八だろうか。警戒心の強い年頃にも思えるが、村の平穏な環境が彼女のような人懐っこい人格を育てるのか、あるいはそれが彼女の個性なのかもしれない。風上に立つ彼女の淡い香りが運ばれてくる。長い髪は肩のあたりで左右に結われ、髪を縛るシュシュと白いワンピースが彼女の可憐で上品な雰囲気を引き立てていた。
「姿形がすごく似ているというわけじゃないんだ。ただ、その人はもうこの世にいないから」
「あ……」
少女の表情が曇る。まずい、こんな一回り以上も年下であろう女の子に気を遣わせてどうする。どうもこの村に来てからというもの、僕は気が抜けている気がする。
「ごめん!なんていうか、そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだ。ダメだな……」
瞼が重くなり、頭の中に濁った煙が満ちていくような感覚に陥る。
「それより、こんなところで足止めを食わせてしまってごめんね。もうすぐ日も落ちるし、家に帰った方がいい。……話せて、嬉しかった」
僕はなぜ咄嗟にそんな言葉が出たのか、自分でもよく分からなかった。場を取り繕いたかったということはあるにせよ、話というほどの話もしていないのだ。これではナンパだ。
「よかったです」
そう言って、その少女は微笑んだ。目の奥に光が差したような気がした。頭の中の煙が晴れていく。彼女の純粋さはどこにも存在しない図書館の本から出てきたみたいだった。僕はそんな彼女の無垢な表情に、自然と頬が綻んだ。
「それじゃあ、また」
「はい、また」
僕はその少女とすれ違うように進むと、白木さんの家へと向かった。途中振り返りたい衝動に駆られたが、再び彼女の姿を見るのがなんだか怖くて、ひたすら前を向いて歩いた。
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