クジラの死から

星見守灯也

クジラの死から

 一頭のクジラが死んだ。

 つまり、呼吸と拍動が止まり、生きているものではなくなった。

 だからもう、わたしを攻撃するものはいなくなった。


 クジラの死体は海を、深い深い海を沈んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。太陽の光の届かないところまで。ゆうらりと流れのままに沈んでいく。暗いなんて、目を持つものの言葉では言い表せないくらい暗くて静かな海の内側へ入っていく。


 すうっと大きなイカが通り過ぎていった。クジラは一瞬揺らぎ、しかし大きな変化にはならなかった。サメがやってきて、クジラの身を砕いた。クジラはいくつかの部位に分かれ、また冷たい海を降りていく。


 クジラが死に、わたしたちはまたたくまに増えた。クジラの血に肉に。それでも、クジラはもう、何も言わなかった。脂肪がじわりじわりと分解される音がする。そのうちメタンや硫黄のガスが生まれ、こぽりと泡になって昇っていった。


 わたしは。いや、わたしたちはクジラを食らう。クジラは腐敗していく。ゆっくりと、ゆっくりと。本当に沈んでいるのかさえわからなくなる海の中層で、たしかにクジラはわたしたちに食われていった。


「やあ、おいしそうだね」

「そうだね」


 そいつは深い海に、ただ広い海に、よりどころを探していた。そして、わたしたちとともにクジラを食べ始めた。わたしたちもそいつもとても小さなものだ。それがこの大きなクジラいっぱいに広がり、クジラをクジラだったものにしようとしている。


 そのクジラがどう生きたのかは「わたし」の記憶にある。しかしそれは透き通る闇の静寂に圧縮され、この地球ほしの過去へと押し流されていく。


 そしてあるとき、ようやく地に着いた。砂を巻き上げるようにして、クジラだったものは海底に横たわった。


 エビがやってきてクジラだったものの身をむしった。そしてまた、どこかへいってしまった。肉はサメなどに食われていき、骨がむき出しになっていった。


 今度は貝がやってきて、わたしたちのうちの誰かに「一緒になろう」と言ってきた。誰かが「いいよ」と答えてクジラだったものの骨に食らいついた。ナメクジウオもやってきて、骨の周りをつついている。


 長い時間をかけ、つまり「わたし」が分裂して何百、何千世代も後に、クジラだったものは骨になっていく。




 時間だけが雪のように音もなく降り積もる。肉は崩れ、食われて、少しずつ形を失っていく。

 かつてクジラを構成していた骨だけが残るころ、そこは「彼ら」の楽園になるだろう。

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クジラの死から 星見守灯也 @hoshimi_motoya

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