第10話

翌朝、いつも通り屋敷を出ようと準備をしていると、エリオットが静かな足取りで私の前に現れた。彼は落ち着いた笑みを浮かべながら、軽く頭を下げる。


「おはよう、セリア。今日は少し静かな場所に行きませんか?」


その提案に、私は思わず眉をひそめた。静かな場所――この男の提案に静かさ以外の何かを期待するのは無理だろう。


「どうせまた地味なところなんだろ?」


軽口を叩いてみると、エリオットは微笑みを崩さないまま答えた。


「地味かどうかは、君次第だと思うけれど……きっと気に入るはずだよ」


彼の妙に自信ありげな言葉に、少し興味を引かれた私は、仕方なく提案を受け入れることにした。


「まあ、暇つぶしにはなるかもな。いいだろ、付き合ってやるよ」


エリオットは満足そうに頷くと、「ありがとう」と一言だけ言い、私を先導するように歩き出した。


街中の喧騒を抜け、次第に人通りが少なくなっていく。道端に咲く花々が増え、風に乗って柔らかな香りが漂ってくる。自然に囲まれるにつれ、私の中の緊張感が少しずつほぐれていった。


やがて視界が開け、静寂に包まれた湖が目の前に広がった。澄み切った水面が太陽の光を受けてきらめき、周囲の木々が風にそよぐ音が心地よい。


「……おい、こんな場所があったのかよ」


思わず呟くと、エリオットが静かに頷いた。


「この街外れには、人目を避けたい人が訪れる場所がいくつかあるんだ。ここはその一つさ」


「人目を避けるって、俺がそんなに落ち着きがないと思われてるのか?」


軽い調子で尋ねると、エリオットは少し笑って答えた。


「そういう意味じゃないよ。ただ、君がここならリラックスできると思ったんだ」


その言葉に、私は思わず沈黙してしまった。落ち着ける場所――確かに、ここなら誰の視線も気にせずいられる。


エリオットに促されるまま、湖のほとりに腰を下ろす。風が吹き抜け、水面が揺れる音が心地よい。街の喧騒とはまるで別世界のようだ。


「こんなところに連れてくるなんて、やっぱりお前らしいな」


私は苦笑しながら言った。エリオットは軽く肩をすくめながら答える。


「静かな場所は、心を落ち着かせるには最適だからね。君にとっても、悪くない選択だと思ったんだけど」


「まあ、悪くないってのは認めてやるよ」


言いながら、視線を湖の向こうに向けた。澄んだ水面に映る青空と木々の緑が美しく、自然と肩の力が抜ける。この風景を目にすると、少しだけ現実から解放された気分になる。


ふと、エリオットが立ち上がり、湖のそばで何かを始めた。彼が杖を取り出し、魔法を使い始めるのを見て、私は不思議そうに尋ねた。


「何やってんだ?」


エリオットは微笑みながら答える。


「少しだけ、ここをさらに特別な場所にしようと思ってね。見ていてくれ」


彼の言葉通り、私はじっとその様子を見守ることにした。エリオットが静かに呪文を唱えると、湖面がほんの少し光り輝き、そこに美しい花びらが舞い降りるような幻影が現れた。


「おい……これ、何だよ?」


私は驚きの声を上げた。エリオットは杖を下ろしながらこちらを見て、淡々とした口調で答える。


「ただの小技さ。湖の水を魔力で反射させて、花びらのように見せただけだよ。そんなに驚くほどじゃないさ」


「いや、十分驚くけどな。意外と器用なんだな、お前」


私は感心しながら、舞い散る花びらのような光景を見つめ続けた。エリオットはその様子を見て、満足そうに微笑む。


「君が喜んでくれたのなら、それで十分だよ」


そのさらりとした一言に、私はつい顔をそむけてしまった。


「そういうことをさらっと言うのが、また厄介なんだよな……」


小声で漏らした言葉が、聞こえていないことを祈りながら。


エリオットは私の言葉に気づいたのか気づかなかったのか、微笑みを浮かべたままだった。その穏やかな表情が、かえって私を困惑させる。


「厄介かな? でも、僕にとって君が特別な存在だというのは、本当のことだからね」


「――っ!」


その直球すぎる言葉に、私は固まってしまった。特別? 冗談で言っているのか、それとも本気なのか?


「おい……それ、本気で言ってんのかよ?」


声を絞り出すように問いかけると、エリオットは少し驚いたように目を見開き、次の瞬間、柔らかな笑みを浮かべた。


「もちろんだよ。君は僕にとって、とても大切な存在だ」


真剣な瞳がまっすぐにこちらを見つめている。その視線を受け止めきれず、私は思わず視線を逸らした。


「……お前、冗談とか、そういう軽いのが全然できないタイプだよな」


「そうだね。僕は嘘をつくのが得意じゃないし、君に対しては特にね」


エリオットの言葉は静かで、それでいて芯がある。冗談のひとつでも言ってくれれば、適当に笑い飛ばせるのに、彼は絶対にそんなことはしない。


湖のそばで、揺れる水面を見ながら言葉を失っている私を、エリオットはじっと見守っていた。


「どうしたんだい、セリア?」


「どうしたもこうしたもないだろ……お前がそんなこと言うからだよ!」


思わず声を荒げたが、エリオットは動じることなく微笑みを浮かべている。


「ごめんね。でも、君に伝えたいことを言わないままでいるのは、もっと失礼だと思って」


そんな彼の姿を見ていると、言い返す気力も失われていく。ただでさえアレンの押しの強さで疲れたばかりだというのに、今度はエリオットの誠実さに振り回されている自分が情けない。


「お前、本気で俺のことを……特別とか、そんな風に思ってんのか?」


「そうだよ」


即答され、私はまたしても言葉を失った。


「セリア、僕は君がこの世界に来てから、どれだけ戸惑い、困惑しているか、少しだけ理解しているつもりだよ。だけど……君がその全てを乗り越えて笑顔でいられるように、僕は力になりたいんだ。それだけなんだ」


彼の真剣な表情に、私は目をそらすこともできなくなった。


「こいつ……本気で言ってるのかよ……」


心の中で呟きながら、どう応えていいのか分からず、ただ視線を泳がせるしかなかった。


湖畔に漂う静けさと、エリオットの真剣な瞳。その二つが私をどうしようもなく追い詰めていた。


「ちょっと待て……お前、急にそんなこと言われても、俺だってどう反応していいか分かんないだろ!」


思わず吐き出した言葉に、エリオットは少しだけ微笑みを深めた。


「分かっているよ。でも、反応を急かすつもりはない。ただ、君にはちゃんと伝えたいことがあったんだ。それだけさ」


その言葉に嘘は感じられなかった。それがむしろ厄介だ。彼の誠実さが、私をさらに困惑させる。


「……お前、本当に面倒くさいやつだよな」


ため息交じりにそう言うと、エリオットは少し首を傾げて尋ねてきた。


「そうかな? 面倒に思わせてしまったのなら申し訳ないけれど……それでも僕は、君に正直でいたいんだ」


「そういうところがまた面倒なんだよ!」


私は思わず声を上げてしまったが、エリオットは少しも動じない。むしろその穏やかな微笑みは、私をさらに追い詰めているように感じられた。


視線を湖に戻し、少しでも気を紛らわせようとしたが、エリオットがそばにいるだけで、どうにも心が落ち着かない。


(なんだよ……この妙な感じは……)


不意に吹いた風が、湖面を揺らし、周囲の木々をざわめかせる。エリオットの影が私の隣に伸びているのを見ていると、どうしてかその影がやけに大きく感じられた。


「セリア」


エリオットが低い声で名前を呼ぶ。その一言で私は思わず振り返る。


「君が何を考えているのか、すべてを知ることはできないけれど……僕は君のそばにいたいと思っている。それだけは、どうか信じてほしい」


彼の言葉は穏やかで、どこか儚げですらあった。何度も軽い言葉で受け流そうとしたが、どうしてもこの場の雰囲気がそれを許さない。


「……お前、本当にずるいよな」


そう呟くと、エリオットは少しだけ笑いを浮かべた。


「ずるいかな? 君には僕の全てを伝えたいだけなんだけどね」


彼の目に映る自分が、まるで特別な存在であるかのように思えて、胸が苦しくなる。


「……なんでお前は、そうやってまっすぐなんだよ」


「それが僕の性格だからだろうね」


真面目すぎるくらい真面目な言葉に、私はまたしても目をそらすしかなかった。


エリオットの誠実すぎる態度に、私は完全に押されていた。息苦しいわけじゃない。でも、どうしていいのかわからない妙な感覚が胸を支配していた。


「なあ、エリオット……」


言いかけて、言葉が詰まる。結局、何を伝えたいのか自分でも整理がついていないのだ。


「何だい?」


彼は相変わらず穏やかな声で答える。その声が、かえって私を困惑させる。


「……いや、何でもない」


私は結局、逃げるように言葉を濁してしまった。そんな私を見て、エリオットは少しだけ笑みを浮かべた。


「君が何を言おうとしたのか、気になるけれど……無理に聞き出すつもりはないよ。いつか話したいと思った時に話してくれれば、それで十分さ」


またそれだ。こういうふうに、余計なプレッシャーをかけないところがずるい。強引でもなく、放っておくわけでもない。その絶妙なバランスが、私にはどうしようもなく厄介だ。


「だからさ、お前、そういうところが――」


「厄介かな?」


私が言葉を言い終える前に、エリオットが先回りして笑みを深めた。まるで、すべてを見透かしているようなその笑顔に、私は顔が熱くなるのを感じた。


「お前、ほんとにどういうつもりなんだよ」


「どういうつもり、というのは?」


「……だから、その、俺にそんなに構ってさ。普通、ここまでしないだろ?」


エリオットは少しだけ首をかしげ、静かに答えた。


「僕にとって君は、普通の人じゃないからね」


その言葉に、心臓が跳ねる。


「――はぁ!?」


私の声が裏返りそうになるのをこらえるが、動揺は隠しきれない。


「君が僕にとってどれほど特別か、これ以上は言葉では伝えられないかもしれない。でも、君には分かってほしいんだ」


エリオットの真っ直ぐな視線に、私は完全に目をそらした。


(こいつ、本気だ……)


胸がざわつく。これが何の感情なのか、自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、エリオットが本気で私に向き合っているということだ。


「……もう、帰るぞ」


私は立ち上がり、歩き出した。


「分かったよ。僕もついていく」


エリオットは少しだけ笑みを浮かべたまま、私の後ろを静かについてくる。その穏やかな歩調が、どこか心を落ち着けるのが不思議だった。


――こうして、エリオットの誠実すぎるアプローチは、私にまた一つ新たな動揺を与えたのだった。

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