第10話

 少年はバスに乗っている。今朝いつものように家を出て最初のバスに乗り、いざセンターターミナルから乗り換える時になって、不意にいつものと違う路線のバスに乗り込んだ。「まあ、たまにはいいかな」と云うくらいの軽い気持ちだった。

 少年が乗ったのは市営の周遊バスだ。時間が早かったせいもあって最初は運転手も怪訝そうな顔をしたが、特に声を掛けられることもなく既に三周目(一周所要、四十分)に入って運転手も二人目に交代している。その頃になって少年もようやく今日の自分がいつもの自分と何かが違うことに思い至った。しかしそのことより今少年が気になっているのは、手元にあるバスの整理券の色だ。それは乗り込む時から気づいていた。少年が普段乗るバスの整理券は白地に赤の数字が印字されたごく当たり前のもの。ところが今日初めて乗り込んだバスのは違った。青地の細長い紙片のみ。少年が一周巡ってもう一周する気になったのは、もしかしたら二周目からは紙の色が変わるかも知れない、そう密かに予測を立てたせいもある。しかし残念ながら少年の期待は裏切られ、紙の色は青そのままだった。考えてみればそれは当然の事。乗ってくる乗客の数は不特定なはずだし、いちいち整理券の色を変えてみても特に乗客の興味をそそる類のものではなかろうから。それにこの周遊バスはどこから乗ってもどこまで乗っても料金は同じ。つまり整理券そのものの意味が前もって失われているのだ。その不可解さ故(ゆえ)少年は俄かに不安になる。もし降りる段になって、これまでの乗車時間からものすごい金額の運賃を請求されたらどうしようかと(今日の持ち合わせは千円を切っている)。それこそ学校と家に連絡されたら大ごとになりかねない。そしてそれだけは避けたい。少年は流れゆく風景に目をやりながら一人そう思った。


 それでなくても大人たちは揉め事を嫌う。そう云う生き物だと思う。そしてそれ以上に自分たちの拒否反応を僕ら子どもに押しつけてくる(正義とか美徳とか、他、モラル・マナー・社会的ルール等々、名目は様々)。実際の問題はそんな大した事じゃない。もっと他にも大切な事はいっぱいあるのにな。少年は時々そう思う。しかしそう云う事に限って大人は気づこうとも、理解しようともしない(もちろん対処も)。多分関わると面倒なのが分かっているせいだろう。そして子どもの側もいつの間にかそれを了解している(サワらぬカミにタタリなし:ことわざ)。学校の成績が良く、品のあるタイプの子ほど大人顔負けの距離感を持って。

 学校(国立大学の付属小)での少年の成績は真ん中からやや下がる程度の位置。自分でも六年になってから低迷してるなと思うが、それをどうこうしようとは今のところ考えていない。考えても仕方のないことだと思っている。世の中には努力や勢いだけではどうしようもない事がたくさんあることを少年は知っている。そして大人がそんな一見冷めた自分に折々で熱く説得・アドバイスを試みるのは、多分彼ら自身が希望を見失っているせいだ。その現実を子どもに態良く投影させているのだと思う。

 このバスも僕の毎日の生活と同じだな。少年はいささか見飽きてきた外の景色に思う。少年は握りしめたままの青い整理券を見る。鮮やかな青(むしろ藍色に近いかも)。こうして無為に眺めていると、逆にそこには特別の意味が込められている気さえしてくる。少年は一度こめかみを押さえ頭を左右に振る。そんな訳ないだろう。馬鹿なんじゃないの、お前。いい加減現実を見ろよ。競争は始まってんだぜ…。留めどもなく湧き上がってくる自分への嘲笑(あざけり)と煽動(あおり)のメッセージにそうやって必死に耐える。そして抗弁する。だって僕は現に違うバスに乗ってるじゃないか。少年は顔を上げる。そうさ。この意味のない紙片が、もしかしたら今日僕をどこかへと連れて行ってくれるかも知れないじゃないか。


 僕はクラスでなんとなくいじめられている。いつもじゃない。時々だ。多分そう云う役割と云うか立場(?)がいつの間にか与えられたかして、折にふれて番が巡ってくるのだろう(クラスが基本持ち上がりなせいもある)。やり口も目に見えてと云う類のものじゃないから当然先生は気づいていないし、僕自身「ああ、先週はそうだったんだ」と後になって思い当たることがあるほど。そして、それならそうと言ってくれたらこっちも積極的にゲームに参加してあげたのに。内心そう思っている自分に驚く。ヤバいなあ、大丈夫かなあと気持ちがゾワゾワしてしまう。それでいて反面慣らされ組み込まれていく安堵感。多分それって学校での序列と同じだと思う(人生ってそんな不思議なリンクがままある)。与えられた役割と演技、そして必要最低限の忍耐とそれに見合うはずの役得。上手くできているのだ、世の中ってものは。

 でもさ、正直時々居た堪れなくなるんだよね。少年は心の中で囁く。不意に、急に、どうしようもなく、全てが嫌になる。今朝もきっとそう云う発作が襲ってきたんだと思う。発作…そう、僕はいつの頃からかそう呼んでいる。あれは多分同じクラスにいたワカメ君(男子:冗談じゃなく、本名)が休み時間に急に叫び出して窓から外目掛けてジャンプした時以来だ。担当の先生はもちろん、同じクラスの子たちも「あれは発作だ」と言い合っていた。事実ワカメ君は二週間ほどして教室に戻ってきて、前よりもむしろ大人しくなって、六年に上がる時他所の学校へと転校していった(或る時僕らは、彼の母親からすごい目で睨みつけられたことがある)。その頃には僕の中でも発作は既に始まっていたのだ。そして気味が悪いことにその回数は徐々に、段々と数を増している。自分でもそれがいつ起きるか分からない。予測がつかない。そんな時僕は自分の部屋に閉じこもるか、学校だったらじっと身を固くしてさも勉強に集中している振りをするしかない(今日はたまたま外だっただけ)。

 バスが停まった。あれ、ここはどこだっけ?ちょっと考え事をしてるうちにまたもう何周目かに入ってしまったようだ。でもこんな田舎道通ってたっけ?僕は運転手の方を見る。なんだか妙に四角い頭だ。それにゴツそうな身体。昔テレビで見た『男はつらいよ』って変な題名の映画に出てくる主役の人みたい。さっきまで何人か乗っていた客もターミナルで皆降りてしまったらしい。ドアが開く。乗ってきたのは二人。それも小さな子どもだ。女の子と男の子。多分姉弟(きょうだい)だろう。一緒に手を繋いで前の席に腰を落ち着けた。その瞬間僕はこのバスがもうさっきまでのバスと違ったものになってしまったことに気づく。理由は分からない。ただそう感じるのだ。そして不思議とさっきまでの胸のざわつきが収まっている。バスは今、いつの間にか現れた田んぼの中の田舎道を走り出している。


「辛かったら学校なんて行かなくてもいい。他所を探したって良いんだ。生きる場所なんてどこにだってあるんだぞ」

 パパは…、いや、元父親(パパ)の「舞島さん」は、それを「新しい世界」と呼んだ。僕はその時大して真面目に受け止めてはいなかった。まだほんの子どもだったし、後になってあんな事件が起きることも想像していなかった。代わりにその頃クラスで描いていた大きな壁絵の下書きに、僕はその新世界を想像して描いた。それを見た担任の片桐先生は、いつもは怒りん坊なのにその時だけは随分僕を褒めてくれた。それで、もうちょっと先を生きてみようかなって気になった。

「サツキさん」(母親:離婚してからそう呼ぶことになった)の妹、ヤヨイさんが子どもを産んで初めて見に行った時、ヤヨイさんが僕を見て言った。「マー君も昔はこうだったんだよ」と。僕は赤ん坊のしわくちゃの顔を覗きながら、本当はかなり動揺していた。赤ん坊は大きな声で、それこそ身体全体で泣いていた。何が哀しいのか、何が嬉しいのか、見分けも理由も分からないくらいに。僕はただ言葉もなくそれに見入るしかなかった。ふと横を見ると「サツキさん」が赤ん坊と同じくらい泣いていた(声を殺しながら)。「サツキさん」はそれからしばらくして今のパパと結婚した。

 違う世界に入っていくってどんな気持ちなんだろう。その頃から時々そう思うことがあった。学校からの帰り道。交番前で、商店街で、市役所・病院近くで、いろんな街の風景を歩きながら、眺めながら、僕はうつせみタウンの中にある自分家(じぶんち)へと戻っていく。毎日。そして自分の部屋でスマホをいじりながら、砲弾が飛び交い、少年兵が無理矢理敵陣に特攻させられる世界ニュースを見てツィートする。「これって、マジ?」。僕はそうつぶやくことで新世界に入っていくことを留保し続けている。それはそれでネガティブな日常、そう自分でも思う。

 だからこのバスみたいに、時々路線を外れて誰も知らない田舎道を走るのもたまにはいい。多分、元パパもそう云う事を言いたかったのだろう。でも、それだけ大人になるのはつらいんだろうな。やり切れないことばかりが多くて。僕は更に思いを巡らせる。それに、気になるのは最近僕の住む街全体が何か様子がおかしいと云うことだ。まだ誰も、誰とも話をしたことはないが、何だかそれは確実に始まっている気がする。そしてそれは怖いと云うより、むしろ虚しい予感と云った感じで溢れている。どうしてかは勿論分からないけれど。


 だんだん日が傾いていく。もう僕はどれくらいこのバスに揺られてるんだろう。そしてこのバスは、そもそもどこまで行くのだろう。何だか眠くなってきた。不思議とお腹は空かないのに、何故か眠気だけはいつも以上に、猛烈に襲ってくる。運転手はずっと前を向いたままだ。今気がついたことだが、この運転手は元パパに似ている。もちろん後ろ姿だけだが、見れば見るほどそうに違いないと思えてくる。だとしたらこのバスは一体何なのだろう?この眠たさ、そして心地良さ。僕の他たった二人しか(それも子ども)客がいない路線バス。もしかしたら、このバスそのものが「新しい世界」なのかも知れない(冗談抜きで)。僕はそれに偶然、あるいは発作的に乗り込んでしまったのだ。もしそれが本当なら、それこそ「これって、マジ?」の状況ではないか。

 僕は咄嗟に立ち上がる。その途端バスが大きく揺れ、僕は危うく引っくり返りそうになる。

「走行中ですので、席を立たれるのはご遠慮下さい」

 運転手が抑揚のない声で言う。やはり元パパの声だ。感情がこもっていないので判断は難しいが、おそらく間違いないと思う。前を見ると幼い姉弟が席からこちらを窺っている。少し笑っているかのような顔で。僕はバツが悪くて、思わず二人を睨んでしまう。だって、仕方ないじゃないか…。

 僕は子どもが苦手だ(と云うより嫌いなのかも知れない)。勿論自分もまだその範疇にいることは分かっているが、あの年頃の子どもを見ていると自分の中で不穏なものがわざつき、うごめき始めるのが分かる。それは今に始まったことではない。まるで元々脳内にインプットされていたかのように、或る日、或る時から突然始まったのだ。


 思い浮かぶのは、古いアパートの前に停まったたくさんの車、そしてごった返す人の群れ。小雨が降っている。その中をかき分けるように担架に乗せられて出てくる二つの青い覆いのもの。そして今よりずっと幼かった僕と「サツキさん」から見える場所で、その覆いの隅から何かが音を立てて落ち、地面に転がった。確かそれは乗り物の玩具だったと思う。すると横にいたお巡りさんらしき人がそれを拾い、またその覆いの中に戻そうとした時、僕の目にほんの一瞬それが映った。遠くからだったが、色を失くしたそれはやけに鮮明に、そしてその場の光景から浮き立って見えた。


 ああ。また僕はボーッとしていた。時々自分でもよく分からないうちにこうなる。もう前の二人は僕の方を見ていない。さて、そろそろ僕も降りる用意をしなければ。さすがに学校でもちょっとした騒ぎになっているかも知れない。「サツキさん」は元パパがああなってからそれでなくても少しのことで不安定になる。泣き出す。僕はもう慣れたが、正直母親のそう云う姿を見るのは気持ちの良いものではない。今からなら「乗るバスを間違えて、遠くの町まで行って道に迷っていた」と言えば言い訳にはなるだろう。僕は腕を伸ばし停車ボタンを押す。しかしボタンはいつもの反応をしない。ランプが点かない。あれ?僕はもう一度、今度は強くボタンを押す。ピンポーン。ようやく明快な音を立てて朱色のランプが点灯する。ああ、良かった。するとまた前の二人が一斉に僕の方を見て、今度はやけににっこりと微笑む。そして弟の方が言う。

「お兄ちゃん、ここで降りるの?」

 僕はいささか驚きながらも首を縦に振る。「学校が、あるからね」

「学校…」すると姉の方がポツリと言う。「私も、まだ行きたかったな」そしてまた笑顔を見せる。

「?」僕はその、大人びた表情に戸惑う。その時バスはブレーキが掛かり、徐々に速度を緩め、やがてその動きを止める。

「ご乗車、有難うございました」

 その運転手の声に僕は立ち上がり、こちらを見続ける二人の横を通って運賃箱の前まで進む。僕はそこで運転手の顔を覗こうとするが、どうしても、何故か顔を上げることができない。仕方なく料金を運賃箱に放り込む。入り口の扉が軋んだ音を立てて開いた。「お気をつけてお降り下さい」

 僕はまるで逃げるかのようにタラップを降りる。そして扉が閉まり切る前にぎこちなく振り返る。運転手の顔が見えた。僕を見ている。その顔は穏やかに、いつか一緒にテレビで『男はつらいよ』を見た時と同じように、僕を真っ直ぐに見下ろしていた。

 やがてバスは動き出す。幼い二人もそのまま去っていく。僕は途端に激しい淋しさを感じる。久し振りに、いや、これまで感じたことがないくらいに。もしかしたら僕はバスを降りるべきではなかったのかも知れない。僕は今すぐにでも駆け出したい衝動に駆られる。しかしバスはもう遥か先を走っている。僕の足ではとても追いつけない。その時だ。その遥か遠くのバスからクラクションが聞こえてくる。とても暢気に、そして懐かしい響きで。まるで「またな」って言ってるみたいに。僕はそれに手を上げて返事をする。そして何度かその手を大きく振る。

 やがてバスは山の向こうに消えていった。その姿が見えなくなると全ては最初から無かったかのように僕の中で熱を失っていく。仕方なく僕はバス停の周りを見渡す。全然知らない場所。おまけに人っ子一人いない。ただ草原と野道が延びているだけ。僕は途方に暮れるしかない。これじゃ、本当に迷子じゃないか。

 ここは…どこだ?


 そして少年は一人立つ。その手には使われなかった青い整理券だけが残されている。

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『 チケット 』  桂英太郎 @0348

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