第9話

 僕らはみんな『壁』に蔽われている。その厚さ薄さは人それぞれだろうが、ややもすると日夜、更にそれを塗り重ねる日々を送っている。

 僕は市役所に勤めて十五年になる(総合水道課)。気づけば四十も目前だ。仕事上の役職は課長補佐、問い合わせ・相談窓口担当。それなりに小馴れてはいるが、女性同僚からは「融通が利かない」と云うのが定評らしい。それについては今のところ別にどうも思わない。自分は自分。僕は僕の仕事をする。そう思うしかないから。

 離れて暮らす田舎の母親からは、思い出したかのように「結婚はしないのか?」と尋ねられる。「別に避けてるわけじゃないよ。チャンスがないだけでさ」。そう応えるようにしているが、本当は最近面倒になってきている。知り合いから婚活パーティーに誘われたり、仕事繋がりで見合いを勧められることもあるが、正直その先に今の生活以上のものがあるかどうか、それを考えると意欲は湧いてこない。むしろその新しさの中で翻弄され、擦り減っていく自分しか想像できないのが実情だ。

「結婚なんて勢いだよ。やったらやったで、なんとか慣れるものさ」

 同僚の一人はそう言ったが、子どもが出来て3年目で離婚した。原因は夫婦それぞれの浮気だった。彼らの結婚が何を意味したのかは、残された子どものことを考えるとあまり深く追求したくはない。ただ僕らに過去を更新する力がない以上、事実が事実として積み重なっていくのを見届けるしかない。

 そんな次第で、今のところ僕にこの日常に代わるこれと云った代替案はない。しかしそれでも、僕の中で「これはこれでマズいだろう」、そう云う焦りにも似た思いがあるのも事実。これまで母子家庭で育った僕は、自分なりにもよくぞここまでやってこれたと思う。高校はもちろん、大学もバイトに明け暮れながらなんとか公務員採用にまで漕ぎ着けたのは、自分の努力と才能を最後まで信じてやってきた結果だと自負している。しかしこのところ、自分の年齢を意識するにつれて、段々とそれにも自信が持てなくなってきた。

「いつまでも独りじゃ、この先やっていけないよ」

 母親の苦笑交じりの小事が折々に甦ってくる。分かってはいる。自分でも漠とした、それでいて根源的な不安は自覚している。しかしそれはあくまで自分の都合じゃないか。その為だけに誰かと知り合って一緒になるなんて、発想そのものが貧乏臭いと云うか、端的に間違っている。僕はそう思っている。


 その苦情申立人が来たのは、午後のひと際忙しい時間帯だった。話の中身は(かいつまむと)上水道の臭いがおかしいと云うもの。

「おかしいって、どんな具合にですか?例えば金属臭いとか」

 僕は時折持ち込まれる、その手の相談に見合った定型の質問をする。

「いえ。私は別に、そうとも思わないのですが」

 女はそう言った。「知り合いと云いますか、私がボランティアでお世話しているシンショウの方がそう仰るんです。『水の味がおかしい』って。それで」

 シンショウ?ああ、身体障害者か。僕は彼女の顔を改めて見た。まだ二十代半ばと思われる、丸顔のぱっちり目。およそボランティアと云うより、街角でメイド喫茶の宣伝ティッシュを配っているのが似合いそうな今時の雰囲気。一瞬僕の中に胡散臭い連想が走る。これは新手の悪質クレームか?

「一応調べてみますが、周囲からは今のところそのような相談は入っていないんですよね」

 僕はそう言って相手の反応を見る。

「ええ」

 予想外に相手は素直に頷いた。「多分…」

「?」

「センセイの感じ方だと思うんです」

「センセイって、その身障の人ですか?」

「はい。センセイは普通の人とは少し違う感じ方をする人なので」

 女は言った。「あの、ちょっとお聞きしたいのですが」

「はい」

「『青いチケット』ってご存知ですか?」

「は、いえ」

 聞いたこともない。

「そうですか」女は一度目を伏せてからまた僕の方を向いた。「センセイは全盲の方なんですが、最近『青いチケット』が見えるって仰るんです。私も初めは夢の話かと思ってたんですが、そう云う訳でもなさそうですし、だんだん気になってきて」

「なるほど」

「それに、同じ頃から『もうここには来なくて良いから』って仰るようになって。『どうしてです?』って訊いたら『ボクももう長くはないからね』って、それだけしか」

「そのセンセイとあなたは?」

「センセイは元々大学で心理学を教えていた方で、私がボランティアでお世話をする頃には、退職されて自宅でカウンセリングをしたり、時々学生に教育分析をされていました。私は今、その助手も兼ねているんです」

 僕は何と言っていいか分からなかった。あまりに住む世界が違う感じがした。気づくと相談は小一時間を過ぎようとしていた。

「分かりました。それでは一度、その方のお宅にお伺いしてみます。来週の二十日でよろしいですか?」

「結構です」

 そう応えると女は席を立った。僕がその小さな背中を見送ろうと腰を上げかけると、今度は初老の男が忙しなく席に座り、いかにも不機嫌そうに僕の顔を直視し、言った。「うつせみ神社の井戸水、なんとかせい」


 僕がその家(集合住宅の一棟)の前まで来た時、中から小さな叫び声のような音がして、それから続けてあの女の声も聞こえた。僕はそこに尋常ではないものを感じそのまま職場に戻ることも考えたが、何故か気づくとその家の呼び鈴を押していた。玄関の脇には白い小振りのポリ容器が置いてあった。

「すみません。市の水道課の者ですが」

 一瞬中の様子が止まったかのようだった。やがて玄関の戸が開き、中から女が顔を覗かせた。「あ、どうも。ご苦労様です」

「こんにちは。先日のご相談の件で来ました」

 僕は女の様子を観察する。やはり幾分取り乱した感じが窺える。

「何か、ありましたか?」

「センセイが…」

 女がそう言いかけた時、中で物が落ちて割れる音がした。「センセイ!」

 咄嗟に女は奥に戻り、僕はそこで二人がなにやら小競り合う様子を窺っていた。しばらくして女が戻ってきた。

「あの、わざわざお呼び出しして済みませんが、今日はこのままお帰り頂けませんでしょうか?」

「どう云うことです?」

 僕は一応尋ねる。

「はい。センセイが『もうその必要はない』と」

「?」

「今日が、世界にとって最後の日だからって」

 女はそう言って僕の方を見た。「このところセンセイはずっと具合が悪くて。それで今から病院に連れていこうと思うんです」

「でも、さっきの様子では…」

 僕は感じたままを言葉にした。その瞬間、自分が既に普通ではない状況に呑み込まれている、そんな息苦しさが胸に迫った。

「君…」

 奥で声がしたので見ると、そこに白髪の背の高い男が壁に片手をつき立っていた。男は虚ろな目をこちらに向けている。「君は何をしに…」

「市の水道課の者です。ご相談のあった水質検査を…」

 僕が咄嗟にそう言いかけると、

「違う。君は…」男は急に何かすがるような口調で訊いた。「私を連れに来たのか?」

 僕は一瞬女と視線を合わせる。

「そうなんだな。今日は二十日、水曜日。私を彼(か)の地へと連れて行ってくれるのだな」

 男はそう言うと、そのまま事切れたかのようにその場に崩れ落ちた。


「センセイはきっと疲労が溜まってらっしゃるんです。それで多分味覚が変わってしまわれたんだと思います。でも本人は…」

「何か…の前兆だと?」

「はい」

 女は頷いた。「センセイは二十年ほど前に事故で息子さんを、そして五年前には奥さんを病気で亡くされています。でもこれまでは気丈にそれらの事に耐えてきておられました。それが最近になって急に不安定になられることが多くなって。そして例の『青いチケット』、それから水の話を」

「センセイの仰る『見える』って、どう云う風になんでしょう?」

 僕はここ数日考えていたことを口にする。

「センセイは小さい頃の病気で目を悪くされたので、色とか形のイメージはお持ちなんです。でも今回は特別だと思います」

「と云うと?」

「センセイは元々信心深い方ですが、オカルトものには一切興味があられないんです。おそらくセンセイはカウンセリングを通じてその噂の存在を知られたんだと思います。直接学生個人の相談事にも乗ってらっしゃいますので」

 そして彼女は大きなため息をついた。「普段のセンセイなら、直接自分がカウンセリングした内容はすぐに忘れてしまわれます。センセイはそれを『蔵の中』と仰いますが、そこに仕舞い込むことで日常との境界を保持されてるんだと思います」

「なるほど」分かる気がする。「じゃないと、いつまでも自分が引き摺ってしまう?」

「そうなんです。ところがこの『青いチケット』に関しては…」

 僕らは近くにある病院の待合席で二人きりだ。ここはセンセイのかかりつけの病院らしく、昼間でもひっそりと、空気は冷たく澄んでいる。ここに座っていると、まるで僕らだけが既存の世界から取り残されてしまったかのような、そんな心許ない気持ちになってくる。考えてみればこの辺り一帯が同じような佇(たたず)まいだ。静かで、そして落ち着いている。何かと騒がしく移ろう世の中とは一線を画しているようだ。

「すみません。こんな事に付き合わせてしまって」

「ああ、それはいいんですが」僕は慣れない気を遣い、声が裏返る。「センセイの言う『水の味が変わった』と云うのは、本当に体調のせいなんでしょうか?」

「どう云うことですか?」

 彼女の顔が僕の方を向く。

「確かに病気で味覚が変わると云うのは、私も何かで読んで知っています。ですがセンセイの場合『青いチケット』との繋がりの方が大きいような、そんな気が私にはするんですが」

「…」

「『青いチケット』の話、自分なりに調べてみたんです。そしたら今流行(はや)りの都市伝説の一種みたいです。生きることに疲れてしまった者の前に突然差し出され、二十日、水曜の日に見慣れない訪問者が現れる」

「そしてその正体は死神で、その人を二度と戻れない、それでいて美しい常世(とこよ)へと誘(いざな)っていく…。私も噂に聞いたことはあります。でもそれがあのセンセイと関係があるとは思えなくて」

「僕は門外漢ですが、目を患いながらも長年カウンセリングに携わってこられたセンセイには、私たちとは違った、また独特の知覚の仕方があるのではないでしょうか」

「独特の知覚?」

「ええ。例えるなら、相手の体験とその感覚を、まるで自分のもののように感じてしまう想像力」

「確かに。それはそうだと思います」

 女の顔が一瞬上気したようだった。「ですから、余計に気懸かりで」

「すみません。これはあくまで私の推測ですから」僕は再び不安に駆られた様子の女に弁明する。「とにかく、まずは体の精密検査ですね。今までは?」

「ええ。センセイは毎年、定期健診はちゃんと」

 すると、僕の中で何か小さなさざめきが生まれる。

 何だ、この感じ…。それでも僕はその微細な違和感の正体を掴みかねて、その場は一人退散するしかなかった。


 職場でいつもの業務に戻りながらも、僕はどこかでセンセイとその女のことを考えている。女には一応連絡先(職場直通)を伝えておいた。あの日の段階ではどうやら精神的ストレスから来る睡眠障害以外、異常は見受けられなかったとのこと。僕は想像する。センセイの中で見えている『青いチケット』の存在を。そしてふと、何故こんなにも一個人の問題が気になっているのか、不思議に思えてくる。

 周囲に聞いてみると、『青いチケット』の話はまだ知る人ぞ知る噂話の程度らしい。出所もはっきりとはしておらず(この街であることだけは確からしい)、またこれと云った定説があるわけでもない。まだ噂が噂を呼び、その落ち着く場所を求めて彷徨っているような、それ自体が霧か霞のような幽玄譚。それでも僕は、次第に自分がその中に囚われていくような、甘美な不安感に包まれながら、そのまま噂の輪郭を探り続けるしかない。


「一度、会ってみるだけでいいから」

 課長から呼び出されて見合いの話を告げられたのは、それから間もなくのことだった。「向こうもさ、既成事実を作るのが目的なんだそうだ」

「既成事実…。どう云うことです?」

 僕は尋ねた。

「どうやらこのお嬢さん、編集者だかカメラマンだか、東京で親の気に入らない男と付き合っててさ。両親としては見合い話を作って、娘に諦めのきっかけを拵(こしら)えたいらしい」

 上司は僕以上に面倒そうな様子で説明すると、その相手の写真を差し出した。「その家がいろいろと繋がりがあるところでさ、私としても断る理由が無くてね」

「はあ」僕は応える。

「やっぱりダメかな?」

 上司は小さな声で念を押した。その響きには彼なりのせめぎ合いが窺えた。僕は少し考えてから返事をする。

「いいですよ、週末はいつも暇してますから。それで何かのお役に立てれば」

 その場で、僕の初めての見合い話がまとまった。


 その女性は僕が想像していたより、ごく普通の気さくな感じのする人だった。場所は市郊外にある瀟洒な料亭の一室(元は旧藩主の別邸跡らしい)。少なからず自分の場違いな状況に戸惑いながらも、何故こう云う人が東京で得体の知れない男と訳ありになっているのか、僕としてはそのことの方が気になった。

「水道のお仕事は長いんですか?」

 仲人(?)を介した一通りの通例的やり取りの後、女性はさらりと聞いてきた。まるで育ちの良さがほのかに香り立つかのように。

「はい。もう十五年になります。他の部所にいたこともありますが、結局は今のところがほとんどです」

 僕は応えながら自分でも驚く。そうか。僕はもう人生の半分近くを、市役所のあまりぱっとしない課の、それも気苦労の多い問い合わせ窓口で過ごしているのか。そしておそらく、これから先もずっと。

「人間にとって水はなくてはならないものですからね、」

 女性は続けた。瞬間、何故か僕の頭にセンセイの姿が浮かぶ。「大事なお仕事です」

「はあ」

 僕は思いがけなく励まされている気がして、思わず苦笑する。「あの…」

「はい?」

「何か、御趣味は?」

 それでも僕には、自分でも嫌になるくらい決まり切った話題しか出てこない。

「そうですね。私、こちらにいる時はタウン誌の編集をやってたんです。ですから今でも、各地方のローカルネタを集めるのが楽しいですね。何気ない記事とかでも、その場所の空気感みたいなものが伝わってくるようで。実際旅行にも出掛けたりします」

「東京はどうですか?」

「ああ、そうですね。もちろん東京にもそれはありますよ。でも圧倒的に土が少ないですから」

「なるほど。こちらもだんだんそうなっていきます。駅前の再開発の話も動き出しましたし」

「そうみたいですね」その時、女性の顔が気のせいか翳った。

 自分は一体何を喋ってるんだろう。今、再開発の話なんてどうでもいい。

「そう云えば、最近ネットで『青いチケット』の話を見ました。本浦(もとうら)さんはご存知ですか?」

 女性の方がまた切り出した。

「ええ、噂だけは」

 僕が思わず応えると、今度は先方の母親が娘の袖を引いた。娘はそれを軽く往(い)なす。「私、それで今回帰ってきたんです。自分の地元で起こった話でしょう。是非自分で調べてみたくて。もし何かご存知なら話を聞かせて頂けませんか?」

「はあ…」

 また妙なことになってきたなあ。僕は外から時折聞こえる、池で鯉が跳ねる音に耳を傾けた。


 結果的に女性は、根掘り葉掘り僕からあらん限りの(とは云ってもそのほとんどはネットから引っ張ってきた)『青いチケット』ネタを聞き出していった。しかし(と云うか勿論)僕は、あの女とセンセイのことには一切触れなかった。

「本当に面白いですね。私、しばらく東京に戻るのを延ばしたくなってきました」

 僕らは曇り空の下、庭園の遊歩道を歩いている。心なし肌寒い。

「そうですか」

 僕は何と答えようもなくそう返した。

「あの…」

「はい?」

「ご迷惑でしたか、こんな話」

「え、いや。そんなことありませんよ。僕は普段人から話を聞く事の方が多いので、今日はかえって新鮮でした」

「そうですか。なら良かった。実を云えば私もなんです」

「?」

「今回は親に言われて半ば無理矢理帰省させられたんですけど、でももう随分前から東京の家を引き払おうかなって思ってたんです。最近特に向こうでの暮らしが水に合わなくなってきたと云うか…、あ」急に女性は僕の顔をまじまじと見る。「これって洒落で言ってるんじゃないですよ」

「分かってますよ」

 僕はそう言って、無邪気に笑う女性に向かって応える。そして次に彼女が口にした言葉で、自分の中の何かが急に解(ほど)けていくのを感じる。

「でも噂に云う『二十日、水曜』って、意外と少ないんですよね」

 池の鯉が、また大きく跳ねた。


「センセイはあれ以来、病院に入院したままです」

「水の方はどうですか?」

「ええ。何もおかしいところはないと思います。多分」

「そうですか」

 僕は応える。「やっぱりセンセイの精神的なものでしたか…」

 二週間ぶりに外で会った女は、それでもどこかほっとしたような落ち着きがあった。駅東口から続く、うつせみ神社までの参道筋を僕らは陽光を背に歩いている。

「どうかされましたか?」

「いえ。あれからセンセイも大人しく病室で安静にしてくれていますので」

 女は応えた。

「元大学の先生ともなると、いろいろ気難しいところもあられるんでしょうね?」

「そうですね。でもセンセイは公私の区別ははっきり付けられる方なので、こちらが手(て)古(こ)摺(ず)らされると云うことはないんです。むしろ…」

「むしろ?」

 女はしばらく黙るとそっと僕の顔を見据えた。

「センセイにはどうしても踏み込めない壁のようなものがあるんです。私が何とかセンセイのお役に立ちたいと思っても、それを乗り越えることはできない。それが時々悔しくて」

「壁、ですか?」

 女は頷く。「分かってはいるんです。それは仕方のない、当然の事ですから」

「一つ聞いてもいいですか?」

 僕も女の顔を見る。「あなたも、センセイのカウンセリングを受けておられたんですか?」

「ええ、そうです。以前は学生でしたし、いろいろ悩み事も聞いてもらっていました。それが?」

「いえ。私はいまだに例のチケットの事が気になっていまして」

「それは…」

「センセイはどうしてそんなに、『青いチケット』に魅入られてしまわれたのか」

「それはやっぱり噂のせいかと」

「『世界の終わりの日』ですか?」

「ええ」女は曖昧に微笑む。

「こんな事を言うと叱られそうですが」

 僕は前置きする。「ふと思ったんです。『青いチケット』の話をセンセイにしたのは…、つまり相談者はあなた自身ではなかったのかと」

「…どうしてですか?」

「きっかけは些細なことです」

 僕は笑顔が宙に浮いたままの女の顔を見る。「先日の二十日は火曜でした。それをセンセイは水曜だと勘違いされていた。そのことが僕の中でずっと引っ掛かっていたんです。偶然間違われたのか、それとも…」

「私がわざと?」女は意外そうな顔をして問い返す。「何の為にです?」

「さあ」僕は頭を振る。「それからもう一つ、水の味は実際変わっていたのかも知れない」

「変わっていた?」

 女の声が心なしか大きくなる。

「わざと変えられていた、と言った方が良いのかも知れません」

「…つまり」

「あなたがそうした」

「何故?」

「立ち退きです。この前お邪魔した時には気がつきませんでした。センセイの家を含めて、この周辺は再開発の対象地域になってるんですね。市も県や業者と連携して、すでに住民に対して広報・説明を始めています。もちろんあなたもそのことは知っていたはず」

 僕らはそこで車道脇から大きな石鳥居を曲がり、神社に向かって参道に入る。やはりそこはひっそりと、森に被われた空気は穏やかに澄んでいる。

「センセイはどう仰ったんです?」

「『死んでも自分は動かない。もしここが再開発されるのなら、世界は終わりだ』と」

 なるほど。「センセイはどうしてそこまで?」

「あの家と、このうつせみ神社界隈をセンセイはこよなく愛していらっしゃるんです」

「この鎮守の森ですね。それにこの先には古い清めの井戸もある。あそこの水は山の水源と地下深く繋がっているんだそうです」

「ええ。だからこそセンセイは動きたくなかった。ここから動くことはもはや自分にとって『死』そのものとまで」

「それであなたは水の味を変えた。そこまでして…」

「そうですね。そうかも知れません」

 女は顔を伏せた。僕は言葉を継げず、しばしその美しい横顔を見る。

「あなたはそれを立ち退きに利用したんですね。それから例の噂。『青いチケット』を手にした者は、死神から別の常世(とこよ)へと誘(いざな)われる。その話を使ってセンセイをあの家から移らせようと。何故です?後見人でもないあなたには実際上の利害関係はないはず」

「私はただ、センセイに長く元気でいてもらいたいだけです」

 女は言った。「できれば私も、ずっとセンセイのお傍で」

「でも再開発はまだまだ先ですよ」

「分かっています。時間がないのは、私の方なんです」

 女はそう言うと、近くにあったベンチに腰を落とした。

「どう云うことですか?」

「故郷の親が病気で倒れて、私が面倒を見なければならなくなったんです。センセイにそれを話したら、『私の事は構わないから、早く親元に戻ってあげなさい』って」

「それで?」

「私の本心は違うんです。私はずっと、センセイとそのお仕事のお手伝いをしたいだけなんです。今まで通りに」

僕は彼女の隣りに座る。「じゃあ、全てはその為に?」

 すると女は僕の方を一度見て、そして頷いた。「以前からセンセイには、知り合いの病院から有料老人ホームの専属カウンセラーの誘いが来てたのですが、センセイはそれをずっと断っておられました。でも立ち退きが本格化してからでは遅いんです。センセイも御高齢ですし、それにこんな条件の良い話はありません。今後の事についてもずっと安心ですし、私にはあの家にセンセイ一人を置き去りにするなんてとてもできません」

「だったら、そうセンセイに仰ったら良かったのに」僕は言う。

「ダメでした。センセイにはご家族の思い出が詰まったあの家が全てなんです。それは私にもよく分かりますから」

「違いますよ」

「何がです?」

「私が言ったのは、あなたがセンセイを好きだと云うことをちゃんと伝えたかと云うことです」


 僕らはみんな『壁』に蔽われている。それを日夜更に塗り重ねている。他人とはなるべく関わらないようにして、そのくせ一方では、相手を自分の思惑に合わせようと小細工する、そんな賢(さか)しさも持っている。

『壁』自体は僕らがそれぞれ個人である以上自然なこと。しかしそれは本来、もう少し寛容であって然(しか)るべきかも。空から降った雨が山肌に沁み込み、やがて清水となり川となって流れ出るように、もっとたおやかで、大らかであって良い。最近僕はふとそう思うことがある。

「あなた、地元は?」ひとしきり会話が途切れてから、僕は女に問いかける。

「S県の水穂町と云うところです。ただの田舎。多分私がやりたい仕事もそうはないと思います」

「…」今度は僕が曖昧な笑みを返す番。すると彼女は改めて僕の方に向き直った。

「この度は本当にご迷惑をお掛けしました。悪気はなかったんです。ただ、市役所のあの窓口の前を通り掛かったら不意に」

「ええ、それは構いませんよ。この仕事にもいろいろありますから」

 僕はベンチから立ち上がり、言った。そして思う。

 むしろ『壁』は女の方にあった。そして確かに『水』の味を変えたのは彼女自身だったのだろう。密かにあの家の水道水に此処(ここ)の持ち出し不可の井戸水を混ぜる、ずっと以前から。

鎮守の森から随分冷たくなった風が一陣吹き抜けた。僕は思った。これでもう、この女と会うこともないだろう。そしてセンセイは、この女の『壁』と『水』についてどう見えていたのだろうか、と。


「おい、本浦くん。ちょっと」

 課長が呼んだ。「お前、気に入られたみたいだぞ」

「何がですか?」

「見合いだよ。先方が『是非に』って言ってきた」

「冗談でしょう。僕はこの通りの風采ですし、家は片親ですよ」

「違うよ。乗り気なのは当の本人の方なんだと」

 上司は少し意味ありげに笑った。「どうする?」

 どうするたって、相手の意図は分かっている。どうせ僕を巻き込んで、『青いチケット』の話を調べ上げたいのだろう。

「お断りします」

「良いのか?上手くいったら逆玉だぞ」

「遠慮します。僕は今の生活で充分なんです。それ以上は望みません」

 それだけを言うと僕はまた自分の席に戻り、相談の客が来るのを待つ。延々と、ひたすらに。

『壁』か。そして『水』。僕はふと自分の手元を見る。一瞬そこに青い紙片を見たような気がする。

 もしかしたら、またあの女が現れそうな、そんな気がした。

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