第8話

 舞島さんは良い人だった。優しかったし、仕事もできた。それに何より、誰に対しても公正だった。

 僕は人から「変わっている」と言われる。子どもの頃からずっと。中学に入る前に、担任から薦められて医者に診てもらったこともある。それで後から正式な(?)病名も付いた。カタカナと「性」の字が並ぶ長ったらしいやつ。僕はそんなもの欲しくもなんともなかったが、それ以来周りの僕を見る目が変わってきた。親が言うには「時代が変わったせい」もあるらしい。でも僕自身は昔からおんなじだ。何も変わったりはしていない。

 それを云えば、舞島さんの方がよほど変わった人だったとも思う。普段はにこにこした顔で、まるでプールで水遊びするように職場を駆け回っているが、自分の信義(?)に違(たが)うことがあると一変、猛然と怒り出した。人目も憚らず。もちろん相手を傷つける意図はなかったろうが、それでも舞島さんの、そんな独特の言動を密かに面白く思っていない人はあったようだ。

 僕も一度、舞島さんからひどく叱られたことがある。受付に年配の客が来た時のことだ。いつもは係の者が対応するのだが、たまたま社長に呼ばれてその人がいなかった。僕は寄る辺ない客の視線を感じて仕方なく窓口に出た。幸い客の用事は理解できたが、ウチでは扱っていない案件だったので、自分としては丁寧に断ったつもりだった。すると後でその話を聞いた舞島さんから呼び出しを受けた。

「藤井くん。君はとんでもないことをしてくれたな」

 舞島さんは開口一番そう言った。僕は訳が分からず首をかしげた。

「あのな、君の対応は確かに間違ってはおらん。正しい。しかし私から見たら糊しろのないやり方や」

 舞島さんは怒ると関西弁になった。「分かるか?」

「いえ、ちょっと」僕は正直に応えた。「客への応対に糊しろは関係ないと思います」

 それが舞島さんの逆鱗に触れた(らしい)。

「ものの譬えや!」

 舞島さんはそう一喝すると、それから延々一時間僕に説教した。途中で受付係の人が間(あいだ)に入って取り成そうとしたが、舞島さんの勢いは衰えることがなく、むしろその主張は微に入り細を穿(うが)っていった。僕もそのうち舞島さんの言わんとすることが何となく分かってきたので、周りが促すようにとりあえず頭を下げて事は済んだ。でもどうして舞島さんが、あそこまでテンション高く僕に説明を繰り返したかは、今となってもよく分からない。ただ本当にその時の舞島さんは怖かった。そして真剣だった。そのことだけは一生忘れないと思う。


 そんな舞島さんが急に仕事を辞め、その後で突然自殺したのは、他でもない会社の藤堂専務のせいだ。みんなも表には出さないが、裏ではそうと踏んでいる。だったらそう専務に詰め寄ればいいのにと僕は思うが、誰もそうする者はいない。それはきっと、専務が「冷たい人間」だからだ。「舞島さんが糊しろを大事にする人なら、専務は糊自体を凍(い)てつかせてしまう人だ」。誰かが給湯室で言っていたのを聞いて、それは僕にも納得できた。つまり二人は、お互い全く別種の人間だったと云うこと。多分周りが、僕のことを「変わった人」と遠巻きにするのと同じように。

 ここからは僕の憶測だが、おそらく専務は舞島さんのことをずっと以前から狙っていたのだと思う。そして舞島さんの性格を見計らって罠を仕掛けていたんだと思う。専務は自分では直接手を下さない代わりに、相手がそうせざるを得ないように時間と手間暇を懸けてその方向に仕向ける。そしてその事に或る意味全執念を傾ける。一度だけ舞島さんが専務のことをこう評していたことがある。「藤井は大丈夫だと思うが、専務にはくれぐれも気をつけろ。外目では分からんが、あの人には人間として決定的に欠落している部分がある。ところがそれを悟られたくないばっかりに、彼は時として巧妙かつ非情としか云いようのない手段を取るんだ。その時の彼は怖いぞ。一通り事が済んだ後でも、周りはおろか嵌(は)められた本人すら気づかんほどだ」

 その言葉通り、まさに舞島さんは専務の罠にかかり、それと知らずに自分の命までも擲(なげう)ってしまったんだと思う。


 その専務を僕は亡きものにしようと思う。舞島さんの訃報を聞いて以来、なんとなく心の無意識(おくそこ)で考えていた事なのかも知れないが、いざ表の意識(あたま)で思い付いた時、僕は「一刻も早くそうしなければならない」と思った。そしてそれまで自分がそのことに思い至らなかったことが不思議でしようがなかった。理由を問われても上手く答えられる自信はない。ただ、彼はこの世に存在してはいけない人だと思う。多分それは、専務が自分自身を心底嫌っているせいだ。ところが生き物としてそれを肯定できない分、他人を自分の身代わりにしようとするのだ。つまり専務が死なない限り、犠牲者は無制限に増えていく。そして何より怖いのは、専務が生き続けることで専務のような人間がこれまた無限に増えていくような気が僕にはするのだ。それは何としても食い止めなければならない。僕は強くそう思う。


 要点はすでに押さえてある。第一は、専務にはこれまで自分が相手に味あわせたのと同等の苦しみを甘受してもらう。第二に、それは秘密裏に行われなければならない(誰一人として罪悪感を感じる者が出ないように)。第三、これが或る意味一番大事なポイントなのだが、専務には事前にこの計画の意図を理解してもらう。もちろん殺害のことには触れない。ただ「あなたは自分自身を嫌っている。そしてこれまでその自分を亡きものにする代わりに他人を不幸に陥れてきた。しかし今度こそあなた自身の番だ」、そう告げるのだ。そうすればおそらく彼は、死の瞬間自分の因果を受け入れることができるだろう。それが自然かつ、公正な成り行きだと僕は信じるのだ。


 次に手段を検討する。最初に考えたのは毒殺(シアン化合物とか塩素ガス…etc.)。しかし途中で断念した。僕に化学の素養がないのは勿論のこと、専務の殺害に関してはいささか生ぬるい気がした。つまり呆気なさ過ぎる。それにこちらとしては証拠が残りやすく危険だ。費用対効果的に合わない。

 家に火を付けると云うのも考えた。どうやら専務は現在一人暮らし。夜中に出火して、朝にはニュースになっていると云うのが理想だが、これにも決定的な難点があった。彼の家は高層マンションの5階。つまり延焼で他人に迷惑をかける可能性が高い。それでは本末転倒だ。だったらいっそ殺し屋に頼むと云うのはどうだろう。だがそんな知り合いはいないし、ましてや僕の給料で高額(おそらく)のギャラを支払うのは到底無理だ(奨学金の返済もまだ半分以上残っている)。

 そんな時、僕は或る事を思い出した。最近巷で噂になっていると云う「青いチケット」の話。僕の妹の話ではどうやら一種の「呪い札」らしい。それも誰かが仕掛けるのではなく、生きていく中で人生の岐路に立ち、そこで世を儚んだり、人を恨んだり、とにかく目の前の現実に足踏みしている人の前に突如差し出されると云うもの。正直僕には全く訳が分からないが、それでも或る瞬間「これならいける」、そう直感的啓示が僕に降りてきた。

 計画はこうだ。噂に云う『二十日(はつか)、水曜日』の日付に合わせて、専務の自宅に偽の青入場券(チケット)を送りつける。そして僕自身にもそれが現れたことにして職場でそれとなく話題にするのだ(後の盛り上げは他の社員が勝手にやってくれるだろう)。そうすることで潜在的に自分を苛んできた専務はそのことを意識せざるを得なくなる。時間を懸け、そして本質的に。それはきっと専務にこれ以上ないほどの動揺をもたらすに違いない。恐怖と云ってもいいだろう。可哀想と思えなくもないが、舞島さんの最期を思えば仕方がない。だって僕らは、碌に舞島さんの死に顔すら拝むことができなかったのだから。


 舞島さんは轢死だった。地下鉄に飛び込んだのだ。たまたま同じ電車に乗っていた人の話では、よほど遺体の損壊が激しかったのか、いつもより長く車輛内に閉じ込められていたと云う。僕には舞島さんがそんな死に方を選んだことがどうしても腑に落ちなかった。もちろん職場の皆と葬儀には出掛けたが、棺の蓋は閉じられたまま、奥さん・子どもをはじめ、親族の人達も固く表情を閉ざしていた。それはまるで、全く舞島さんに相応しくない、冷たく凍りついたような悲宴だった。そして何より、その中で僕が違和感を覚えたのは、専務が弔辞の際涙を流し喉を詰まらせていたと云うこと。外見(そとみ)的にはそれはごく自然な所作で、同じ職場の者たちもそれに合わせるかのように嗚咽を漏らしていたが、僕は逆に途中で吐き気を催し、やむなく退席せざるを得なかった。駆け込んだ斎場のトイレの中、遠くから聞こえてくる読経の音が、僕には「呪い」そのものに聞こえて仕方がなかった。多分その時、僕の心も粉々に崩れてしまったのだと思う。


 僕は家で青い入場券(チケット)の製作に入った。まずネットで噂の細部の確認をし、それに合わせて使用する紙も買ってきた(しかし結局それは使われなかったが)。パソコンを立ち上げ、何パターンかのデザインを考え、実際印刷してみてその全体像を確かめた。すると僕の中で、何か自分自身がそれを待ち焦がれていたような不思議な心持ちになった。或る意味懐かしさすら感じるような。

 僕は怪談やオカルト話を一切受け付けない。職場の同僚たちのようにその面白さとやらにノルことができない。しかし今自分が感じているこの不思議な違和感は本物だと思う。僕は自分が作った青いチケットを電灯に向けてかざしてみる。何の変哲もない紙。ただ日付だけがうっすらと印刷されただけのもの。それも時間が経てば徐々に溶けていくような紙質に変えてある。僕は確信する。計画はきっと上手くいく。専務は身の回りで時折現れる青い呪符の存在に、そのうち自ら心を奪われる。そして最期は…。

 僕の心は不可思議な高揚感に満たされている。


 夢を見た。僕は草原に立っている。だいぶ標高のあるところらしく、丘陵からは遥か下方に町が広がっているのが分かる。ふと横を見ると、そこに二人の子どもが立っている。男の子と、女の子。女の子の方が少し年上らしい。もしかして姉弟(きょうだい)か?そう問おうとして、僕は思いがけずこう言ってしまう。

「君たちは死神?それとも天使?」

 しかし二人はにこにこ笑っているだけで僕の質問には応えてくれない。僕はだんだんあの時斎場で味わったような吐き気を覚え始め、思わず叫び声を上げる。そして気づくとベッドの上で目を覚ましていた。それは僕にとって(悪夢はもちろん)生まれて初めての夢、だった。


 これまで語ってきた僕の一連の計画は、或る意味完璧に、或る意味無意味にその結末を迎えた。と云うのも、計画の実行前に藤堂専務が通り魔事件を起こしたからだ。現場は夕刻の地下鉄ホーム。専務は刃物を持ち、無差別に行き交う人々を襲ったと云う。十数人が大怪我をし、一時地下鉄構内・外はサリン事件以来の恐慌状態となったらしい。後から事件の検証が行われ、職場にも度々警察・マスコミ等が現れたりしたが、幸い僕の計画が露見することはなかった(もともと誰がそんな顛末を想像できよう)。

 しかしそれから半年が過ぎようとした頃、「青いチケット」とは別の噂が巷で囁かれるようになった。それは地下鉄構内に設置された防犯カメラに、事件当日不審なものが映っていたと云う内容だ。ネットには既にそれらしき画像さえアップされていた。僕はそれを見て驚いた。ホーム内をうろつきながら刃物を振り上げ叫び続ける専務らしき男の近くに、突然幼い子ども二人が現れる。そしてそれに気づいた専務は彼らに向かって突進していく。しかし二人は手を繋いで立ったまま動かない。あわや二人が切られると思った瞬間、そこにもう一つの黒い影が現れ、専務と掴み合ったままホームから線路に向かって落ちていくのだ。そしてそこに何も知らない別の車輛が滑り込んでくる。画像はそれで終わり。専務と影、そして幼い二人がその後どうなったかは分からない。


 僕は自分の部屋で、使われることのなかったチケットを探す。しかしそこにあるはずの青い紙片はない。すでに母親がゴミとして棄ててしまったのか、それとも部屋の湿気で溶けてしまったのか。そして僕は、不意に先の画像を思い出す。最後に突然現れてホームから落ちていった黒い影が、一瞬カメラの方を向いた時の顔を。その表情を。


 僕は人から「変わっている」とよく言われる。最近「そうなのかな」と自分でも思うことがある。しかしそんなことより、この世界には人智では分からないこと、解明できない「変わった」ことがやはり存在しているのだと思う。僕らはそれを単純に割り切るべきではない。そう。舞島さんの言葉に頼るわけではないが、やはり糊しろぐらいは残しておくべきだと思う。それさえあれば、普段は擦れ違うだけの人や物事にも、何かのきっかけで繋がることができるかも知れないから…。

ああ、そうか。舞島さんが僕に伝えたかったのは、そう云うことなのかも知れない。

 僕は今頃になって、そう思っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る