第7話
彼(おじさん)の手が私の胸元にそっと置かれる。大きくて無骨で、そして温かい手。私は背中越しに彼に抱かれた格好で、そっと目を瞑(つぶ)りこの現実が夢かも知れないと想像する。
「どうした?」しばらくして彼は私に訊く。私は応える。「なんでもない。ただこうしてると安心する」それは半分本当で、半分は嘘だ。
私が…私の存在が、彼の日常を少しずつ脅かしているのは事実。歳の差、ほぼ二十。妻子持ち(らしい)。まるで親子みたいな私たちが恋に落ちるのに、でもそれはあまり関係なかった。
「いつまでもこうしていたい」私がふざけてそう言うと、瞬間彼の手が強く私の躯(からだ)を抱き寄せた。「ちょっと苦しいよ、おじさん」
私が振り向くと、彼はいつものはにかんだ笑顔を見せ、それから一度私の頬にキスをした。
「今、ここが天国みたいだな」
その言葉に私は不意を突かれる。天国?
「ものの譬(たと)えだよ」私の表情が変だったのか、彼は苦笑しながら応える。そして私たちは向かい合ってしばらくキスの続きをする。無言で。まるで外のさざ波の音が聞こえてくるみたい。とっても静か。
私たちは今、海沿いのホテルの一室、大きなガラス窓の前に籐椅子を置き座っている。そこから眺める景色は無作為に切り取られた西洋の風景画みたいで、私たちはいつまでも黙ってその細部に気を取られている。そして彼は私の左手を自分の右手でしっかりと掴まえている。私は指を動かしてその彼の掌から脱出を試みる。やがて「くすぐったいよ」、彼は応える。今のところ私が彼の愛に抗うにはこの手段(て)しかない。
それから私たちはどちらからともなくベッドに行き、そしてこの世の被(おお)いを一つ一つ脱ぎ棄てる。
人が人と出会い、顔見知り以上の関係になるのを、私は単なる偶然の結果とは思わない。たとえきっかけはどうであれ、多分お互いがそう云う成り行きをずっと以前から望んでいたのだ。それがやがて磁石となって、各々(おのおの)それを頼りに相手を手繰り寄せたに違いない。私はそう思う。私は彼の身体に触れながら、彼の磁石を探す。腕、胸、唇、首筋、ジョニー、お尻…至るところ。
「おい、こそばゆいったら」状況は私の攻勢。彼は私の探検に思わずそう呟くと、今後は私の身体を調べ始める。テクニカルに、そして繊細に。
彼は私のおっぱいが好きだと云う。大して大きくはないし、乳首だってすぐに鳥肌立つのに、彼は時間を懸けて私の一つしかないおっぱいを愛してくれる。そしてもう片方の掌は肉を切られ平たくなった胸にそっと置かれる。
私はいつも彼にすまないと思う。ごめんね。せっかくなのに、片っぽしかなくて。いつか私がそう言うと、彼は本気で怒った。
「そんなこと、二度と口にするな」彼は珍しく声を荒げた。私は彼のその目を見て、訳もなく涙が溢れて仕方がなかった。そして子どものように声を出して、そのあと一時間は泣いた。
私はよく泣く。自分でも泣き虫だと思う。でもそのお陰でこれまで生きてこられたとも思う。そして私は泣き止むと、今度はどうしようもなくバカな話を延々したくなる。人から聞いた話もあれば、口から出まかせもある。救いようもない下世話な話から、何の根拠もない与太話まで。彼はそんな私の無駄話に辛抱強く付き合ってくれる。そんな彼を見ていると私は段々意地になってくる。彼に「おい、もう止めろよ。そんな愚にも付かない話は」、そう突っ込まれるまで喋り尽くしたくなる。でも実際彼はなかなか折れない。大抵先に音を上げるのは私の方だ。
「ねえ、人の話ばっかり聴いてて嫌になったりしない?」
「それが半分、僕の商売みたいなものだからね」
彼の仕事は外科医だ。癌患者と医師との交流会で知り合った。周りの評判は上々。腕も良いらしい。でも、それについては少しだけ疑問がある。小さい頃から病気がちで、二十歳過ぎで乳がんになった私にとって、彼はいささか素朴過ぎると思う。医者なんてもっと高飛車で、ええかっこしいで、いかにも上昇志向ぐらいの方が子どもっぽくて良い。どちらかと云うと彼は、動物園の飼育係とかが似合っていると思う。そうだ、あまり客の来ないマントヒヒ担当なんかがぴったりだ。年老いたマントヒヒの際限ない愚痴を聞き流しながら、飼育係の彼は毎日小屋の掃除に精を出す。明るく朗らかに、いつ訪れるかも知れない見物客の為に。でもそのうち、どちらがオリにいるのか分からなくなるだろうな、きっと。
「しかし君は、よく色々とそんな話を思いつくよな」
彼は呆れ半分に言う。「それはそれで才能だよ」
「入院生活がほとんどだからね。誰だって、学校より病室のベッドにいる時間が長かったらそうなるわ。自由なのは頭の中だけだから」
「君の話、面白いから文章に起こしたらいい。ほら、あの青いチケットの話とか」
「そう思ったこともあるけど、でもダメよ。やっぱり目の前に聞いてくれる相手(ひと)がいないと。それに紙に書いて残しちゃうと、あとでたまらなく後悔しそうな気がするの」
「どうして?」
「だって、自分でも胡散臭い話ばっかりなんだもん」
すると彼はとてもキョトンとした顔をする。その顔を見るのが私はとても好きだ。そして決まって、後から二人して声を出して笑う。
私たちはこれまで、まるで二人だけの遠足を楽しむかのように無邪気にこの交際を続けてきた。彼はもう長く単身赴任との話だったし、私の両親は長年にわたる娘への看護に疲れ果て、大概のことは好きにさせてくれていた(放し飼いの山羊みたいに)。そこに変化が現れたのは、私の体調の悪化と、二人の交際が彼の上司(私の主治医)から奥さんへと知れてしまってからだ。もっとも今のところ、外見的には小康状態が続いてはいるけれど。
私は思う。多分、この小旅行が彼との最後の思い出になる。
「ねえ、どうして医者になろうと思ったの?」
何者でもない私は訊く。
「…そうだな」彼は少し考える。「人助けしたかったから、かな」
「人助け?」
私はその答えにびっくりする。他人の為に自分の人生を左右させる人がこの世にはいる。そのことが私には上手く飲み込めない。私の人生は自分の痛みとの格闘でしかなかった。小さい頃から両親によく言われた。「それは誰のせいでもないの。あなた自身が背負っていくしかないのよ」そして私は、むしろその痛みのために他の人を巻き込むことしかできなかった。
「ねえ、おじさん。私、いつまで生きられるかな?」
彼が私の質問に反応する。「どうして?」
「再発。もしかしたら転移の可能性もあるって」
私は応えながら考えてみる。自分の痛みの元が少しずつ私の身体を移動していく。そしてそこでまた病巣を形作っていく。あれ、なんかこれってアリの巣作りみたい。「私ね、もう死ぬのは怖くないよ。これまで私なりに一生懸命痛みに耐えてきたし、おじさんみたいな奇特な人にも会えた。これまで随分私の我儘に付き合わせちゃったね。それは感謝してるんだ、本当に」
「もう言うな」
彼は外を見やりながら言う。「まだ、方法がないわけじゃない」
「うん、分かってる。でもね、おじさん」私も海を眺める。「おじさんとこうして時間を過ごしていると、私つくづく思うの。こんな普通の生活もあるんだなあって。おじさんの奥さんには悪いけど、私多分ここにこうしているために今までの人生があったんだと思う。ほら」
私は自分の小物入れの中からそれを取り出す。
「これ、私のベッドの枕元に置かれてた。それからすぐにおじさんがこの旅行の話をしてきたから、てっきりおじさんのイタズラかって」
「青い入場券(チケット)…。君の夢の話じゃなかったのか?」
「どうなんだろう」私は微笑む。「私にも分からなくなってきちゃった。ほら見て、日付が『二十日、水曜日』になってる」
そして私は考える。今日は一体何日だろう。思えば一時退院してから私は、まるで夢の中にいるようにずっと軽いまどろみに抱(いだ)かれている。
「さっきおじさんが言ってたことが分かった。そうだよ。ここが、私にとっての天国なんだ」
「天国…」
「そう。天国って、案外地獄と近いのかも」
私はその青いチケットを彼の顔の前でヒラヒラさせてみせる。そして彼はその手をぎゅっと掴まえる。
「馬鹿なこと言うな。君にはまだやりたいこと、行きたいところだってあるだろう」
彼の声は少し震えている。私はそんな彼の胸にそっと身を預ける。「そうだね。いつかおじさんが言ってた、ボクシングの試合とか観てみたいな。何だったっけ、おじさんの好きなマンガ」
「『あしたのジョー』」
「人が観客の前で殴り合うってどんな気持ちなんだろう。痛いだけなのに。それをまた周りも見て楽しむだなんて」
私は彼の顔を見上げる。
「自分の目で確かめたらいい。世の中にはお前の話と同じくらい奇妙で、おかしなことがいっぱいあるんだ」
「そっか。楽しみだね。おじさん、連れて行ってくれる?」
「ああ、きっとだ。お前が行きたいところならどこへでも」
「でも、奥さんが…」
そう言いかけた時、彼の唇が私のお喋りを止める。私たちはその青いチケットを握りしめながらまた黙って、それからそれを海に向かってかざしてみる。光の波がその上をきらきらと走っていくのが分かった。
私は今、この世の磁石を感じている。
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